秀吉・賤ヶ岳の間に長宗我部元親・讃岐を平定
天正十一年(1583年)4月21日、長宗我部元親が讃岐引田表で、羽柴秀吉方の仙石秀久を破りました。
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天正十一年(1583年)4月21日と言えば、あの柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉の間で行われた賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦・・・(2011年4月21日参照>>)
事実上の織田信長の後継者争いとなった、この有名な合戦では、勝家とのこう着状態の中(3月11日参照>>)、美濃(岐阜県)・伊勢に兵を向けた秀吉と、その手薄になった所を攻めた勝家と勝家の動きを察知して、中国大返しさながらに、猛スピードで帰還する秀吉・・・と、そのお話はソチラのページで見ていただくとして
本日のところは、まさに、その同じ日に起こった別の合戦=引田表(ひけたおもて)の戦いと、その経緯について・・・
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そもそもは、天正三年八年(1575年)・・・
長年の夢だった土佐(高知県)全土を平定した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、当時、中国に勢力を伸ばしつつあった信長とよしみを通じます。
「土佐平定後は四国制覇だ!」とばかりに、阿波(あわ・徳島県)や讃岐(さぬき・香川県)への侵攻を開始する元親でしたが、そこに何かと敵方を支援するのが、あの中国の雄=毛利です。
・・・で、毛利の援軍もあって苦戦を強いられていた元親にとっては、その毛利と対抗すべく、中国に侵攻している信長と手を結ぶのは、ごくごく自然な事・・・
元親が、信長配下の明智光秀の家臣・斉藤利三(としみつ)の妹を妻にしていた事もあって、この時の信長は、あっさりと
「四国は切り取り次第」
つまり、「自分で戦って勝ち取った四国の領地は、勝手に自分の物にしてイイヨ」というお墨付きまで、元親に与えています。
しかし、そんな友好関係が、長く続く事はありませんでした。
元親の勢いにビビる伊予(愛媛県)の西園寺公広(さいおんじきんひろ)は、信長に援軍を求めると同時に、「アイツ(元親)は将来、信長はんの敵になるヤツでっせ」と、チクリ攻撃。
さらに、信長ベッタリの三好康長(みよしやすなが)や、十河存保(とごうまさやす)などの周辺の武将から救援を求められた信長は、天正九年(1581年)、元親に「土佐と阿波南部をやるさかいに、伊予と讃岐は、アイツらにやったってくれや」と、前言撤回の要求を突きつけます。
しかし、もはや勢いのある元親・・・しかも、四国の領地は、自らの力で取った物で、信長から与えられた領地でもないのですから、そんな要求を呑むはずもありません。
「そんなありえへん言い分・・・びっくりするワ!」
と、完全拒絶!
この時には、間に入ろうと努力した光秀からの使者もやってきて説得にあたりますが、元親の決意は固く、信長との一戦を覚悟で、要求を拒否しました。
かくなるうえは、信長も黙ってられませんから、翌・天正十年(1582年)5月、三男・神戸信孝(かんべのぶたか)と重臣・丹羽長秀(にわながひで)を中心に四国征伐軍を編成・・・今、まさに、長宗我部・討伐へと乗り出そうとします。
元親、絶体絶命のピンチ!
・・・というのも、5月という季節です。
ご存知のように、信長の持つ軍隊は、いつでも戦える正規軍・・・一方の元親の軍は、その多くが一領具足(いちりょうぐそく)と呼ばれる半農半士の軍団ですから、まもなく、いや、もう始まってるかも知れない田植えの季節に、とてもじゃないが全軍を借り出して戦う事などできなかったのですから、もう、完全に風前のともしびだったワケです。
そして、まさに、四国征伐軍が出陣する予定だった6月2日の早朝・・・あの大事件が起こります。
そうです、本能寺の変です(6月2日参照>>)。
このあまりのタイミングの良さに、「本能寺の影には、斉藤あり」なんて事も囁かれています。
そう、元親の奥さんの兄・斉藤利三による主君・光秀への働きかけによって、光秀が決意した(6月11日参照>>)・・・なんてね。
この説は、今になって囁かれ始めたものではなく、
『長宗我部譜』にも、
「四国違変によりて斎藤殃(わざわ)ひがその身に及ぶを思ひ 明智をして謀反せしめんと・・・」と、
『元親記』にも、
「斎藤内蔵助(利三)は四国の儀を気遣いに存ずるによつてなり 明智殿謀反のこといよいよ急がれ・・・」
などと記されています。
その真相は今以って藪の中ですが、とにもかくにも、信長の死によって、その四国征伐が露と消えたわけです。
ここで、この勢いのまま侵攻をつづけようとする長男・信親(のぶちか)に「待った!」をかけた父・元親は、再びの軍儀を重ねた末、信長の元へ馳せ参じた康長に代わって阿波勝瑞(しょうずい)城を守る存保を攻撃・・・存保は讃岐虎丸城へと逃走し、9月21日には阿波を平定します(9月21日参照>>)。
・・・で、ご存知のように、この間、一方の秀吉は、信長への謀反を起した光秀を山崎の合戦(6月13日参照>>)で破り、清洲会議にて主導権を握り(6月27日参照>>)、三男・信孝+織田家重臣・勝家と対立・・・って事になるのですが、秀吉が勝てば、信長と同様に四国に来襲する事は明白と感じた元親は、この時は、勝家側に立ちます。
やがて、虎丸城に入った存保の救援要請を受けた秀吉は、配下の仙石秀久(せんごくひでひさ)を四国へと派遣し、讃岐の防備を固めますが、すかさず、長宗我部軍が虎丸城に迫り、周辺の農地を破壊して、この先の食糧を確保できない作戦を展開・・・
一方の秀久は、2000余の兵を率いて、近くの引田城へと移動しますが、それを追撃すべく行動を開始する長宗我部軍・・・天正十一年(1583年)4月21日、両者は讃岐引田表で合戦となるのです。
しかし、冒頭に書いた通り、この日は、あの賤ヶ岳と同じ日・・・目の前の勝家との戦いに主力をすえる秀吉ですから、秀久の率いる軍は、わずか2000ほど、一方の元親は、当然コチラに全力投球ですから、この時の軍勢は約2万・・・
残念ながら、到底、秀久に勝ち目はなく、圧倒的な兵力差の前に多くの兵を失い、秀久は淡路へと逃げ帰る事に・・・
援助のなくなった虎丸城は、まもなく明け渡され、存保は畿内へと逃走・・・
こうして、元親は讃岐を手に入れたのです。
残る四国は、いよいよ伊予だけ・・・って事になるのですが、そのお話は、また、元親が伊予を押さえて四国統一を果たす10月19日のページでどうぞ>>
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コメント
最近戦国BASARAにハマっていて、長曽我部の兄貴大好きです
いつも判り易い解説で本当に勉強になります
続く限り、書いて下さいねっ
応援してます!
投稿: みか | 2010年4月21日 (水) 19時43分
みかさん、こんばんは~
ゲームのキャラは、イケメンばっかりですからね~
実際には××な方もおられるのでしょうが、私も文章を書く時は、イケメンを想像しながら書いてます(*^.^*)
投稿: 茶々 | 2010年4月21日 (水) 22時33分
BS番組でのアンケートでは、「戦国武将で大河ドラマの主人公候補第1位」です。
若い時は美男であった事は間違いないです。
性格的には「四国の信長」だそうです。
投稿: えびすこ | 2010年4月22日 (木) 09時05分
えびすこさん、こんにちは~
元親さんを大河の主役にすると、最後のほうが切なすぎて・・・ラストが信長のようにカッコよければいいんですけどね。
心配です。
投稿: 茶々 | 2010年4月22日 (木) 10時55分