承久の乱に翻弄された幸薄き帝~仲恭天皇
承久三年(1221年)4月20日、第85代・仲恭天皇が即位しました。
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仲恭(ちゅうきょう)天皇・・・何もわからないまま、まだ4歳で天皇となり、わずか70日余りで退位。
しかも、そのなりゆきから廃位となり、明治までは、歴代天皇系図からも排除されていた天皇です。
この仲恭天皇、その御名を懐成(かねなり)親王といい、第84代順徳天皇を父に、第82代後鳥羽天皇を祖父に持つおかた・・・
建仁二年(1202年)、すでに第1皇子の土御門(つちみかど)天皇に皇位を譲って、天皇から上皇となっていた後鳥羽上皇は、本格的に院政を開始し、朝廷の復権を願って、様々な政策に乗り出します。
その甲斐あって、八条女院領や長講堂領など、広大な皇室荘園領を得た後鳥羽上皇は、その経済力を武器に、西国の武士や御家人を「北面の武士」「西面の武士」(院の警護をする武士)などに組み込む事に成功します。
ここで強気の後鳥羽上皇・・・武力行使にあまり積極的でない土御門天皇を退位させて、積極的で気性の激しい第3皇子の第84代順徳天皇を即位させます。
そんなこんなしているうちに、建保七年(承久元年・1219年)には、第3代鎌倉幕府将軍・源実朝(さねとも)が暗殺される(1月27日参照>>)という事件が起こります。
これで、源氏の直系が耐えてしまった幕府の実権は、執権をこなしていた北条氏の北条義時が握る事になりますが、この時点での幕府御家人が敬愛するのは、あくまで源氏の将軍であって、北条氏の下にいる事をヨシとしない武士も大勢いたわけです。
これが、最大のチャンスと睨んだ後鳥羽上皇・・・乱の準備にとりかかります。(7月13日参照>>)
この父の幕府討伐計画に積極的に参加したい順徳天皇は、すでに皇太子に立っていた息子=懐成親王に天皇の座を譲り、自らは上皇となって、5月に予定されている挙兵に参加する事にしたのです。
かくして承久三年(1221年)4月20日、順徳天皇の第1皇子・懐成親王が、わずか4歳で、第85代・仲恭天皇として即位・・・翌5月の15日、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣(法皇や上皇の命令)を全国に下したのです(5月15日参照>>)。
しかし、ここで有名な、あの北条政子の涙の演説です(5月22日参照>>)。
朝廷から見下されつづけた武士の地位を高めた夫・源頼朝の功績を主張するとともに、将軍とその配下の武士の結束を誘発する見事な演説に、東国の武士たちは、逆に奮い立ち、19万もの大軍となって京に押し寄せます。
●【承久の乱~両軍木曽川に展開】>>
●【承久の乱~美濃の戦い】>>
●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
上皇の配下にいるのは、西国の少数の武士だけ・・・なのに、「朝廷の院宣に刃向かうヤツなどいるもんか!」とたかをくくっていた上皇側は、あっさりと敗北してしまいました。
負けた後鳥羽上皇は隠岐へ配流(2月22日参照>>)、順徳上皇も佐渡へ配流(12月28日参照>>)、直接関与しなかった土御門上皇は、自ら志願して土佐に退きました(10月11日参照>>)。
朝廷に味方した西国の武士の領地は、幕府配下の東国の武士の物となり、その支配はむしろ拡大・・・さらに幕府は、京都にて天皇の動向を見張る六波羅探題(ろくはらたんだい)(6月23日参照>>)なるものを設置、結果的に、ますます武士の力が強くなり、政治は完全に幕府の物となってしまったのです。
その最たるものが、仲恭天皇の廃位です。
上記の通り、仲恭天皇はわずか4歳ですから、乱に関わるもへったくれもない年齢ですし、実朝亡き後、幕府が公家から迎えていた第4代将軍は九条頼経(藤原・よりつね)という、仲恭天皇の従兄弟にあたる人物でしたから、ここに、幕府が口出しするとは・・・。
なんせ、その時の仲恭天皇は、乱の難を逃れて、その母の実家である九条家に身を寄せていたのですから・・・
しかし、お察しの通り、その将軍も形ばかりのもの・・・従兄弟もへったくれも関係なく、仲恭天皇は、わずか70日余りで退位させられ、第80代高倉天皇の孫=つまり、あの源平の合戦で壇ノ浦に散った安徳天皇(3月24日参照>>)の弟の息子を第86代後堀河天皇として即位させたのです。
しかも、退位させただけでなく、廃位までさせてしまうとは、まさに朝廷も予想外・・・つまりは、彼の天皇はなかった事にされちゃったわけです。
そのため、当時は「半帝」「九条廃帝」などと呼ばれていた仲恭天皇・・・乱の後は、そのまま九条邸に住み、文歴元年(1234年)、わずか17歳でこの世を去ってしまうという、幸薄いにもほどがある涙涙のその生涯・・・
永らく、かの名前で呼ばれ、歴代天皇からも抹消されていた仲恭天皇ですが、その名誉は、明治三年(1870年)、第122代明治天皇によって回復されます。
あの壬申の乱で負けた弘文天皇(7月22日参照>>)
藤原仲麻呂の乱がらみで廃帝とされた淳仁天皇(10月23日参照>>)
とともに、やっと仲恭天皇という諡(おくりな)を得たのです。
名前の案としては、幼いという意味を持つ「冲」の文字を使った冲恭天皇という案もあったと言いますが、最終的に第85代仲恭天皇に決まったようです。
時代に翻弄された幸薄い天皇・・・明治になって少しは、お心が晴れたのでしょうか?
だと、いいですね。
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コメント
殆ど目にも耳にもすることのない人物を取り上げるとは、さすがですね。勉強させて頂きました。
武士の世界ならお家断絶なり、切腹なり、打ち首なりの処断がされるところなのかもしれませんが、お公家さんには、それが出来なかった、ということなのでしょうか。
あっさり命を取られるのも非情ですが、このように、生きながら、生きてないのと同じ存在とされるのも、かなり残酷なことですね。
庶民の私には、想像し難いことです。
投稿: 重用の節句を祝う | 2010年4月20日 (火) 11時21分
重用の節句を祝うさん、こんにちは~
>生きてないのと同じ存在とされるのも、かなり残酷なこと・・・
ホント、おっしゃる通りですね。
死ぬのもツライですが、このような状況で生きるのもツライです。
わずか70余日の在位ですし、その後、抹消された人生を送られたので、その記録はほとんど残っていませんが、せめて、歌など詠みながら、静かに暮らされた事を願うばかりです。
投稿: 茶々 | 2010年4月20日 (火) 13時57分
こんにちわ、茶々様(^ω^)
重用の節句を祝うさんと同じで聞いた事もない人物を掘り出すとは・・・今日も勉強になりました。
少しながら質問したいのですが。
後鳥羽上皇、後白河天皇など院政が目につきますがどうして天皇の時にはやらなくて天皇という地位を譲り上皇に退いて権勢をはっきするんですか?
よろしければ教えてください。
合掌垂頭
o(_ _)oペコッ
投稿: DAI | 2010年4月20日 (火) 14時04分
DAIさん、こんばんは~
>どうして天皇の時にはやらなくて天皇という地位を譲り上皇に退いて権勢をはっきするんですか?
そうですね。
ごくごく簡単に言わせていただきますと、天皇だと公務(宮中の儀式)などが目白押しで忙しく、かつ、様々な制約があって、なかなか自由に政務ができないので、その地位を退いて自由の身となってホンネの政治をしたかったという感じでしょうか。
今回の順徳天皇も乱に全面協力したいがために、4歳の仲恭天皇に皇位を譲ったわけですから、やっぱり、天皇の地位のままじゃ、何かと動きづらかったという事だと思います。
投稿: 茶々 | 2010年4月21日 (水) 01時14分