世紀の祭典・大仏開眼と光明皇后
天平勝宝四年(752年)4月9日、東大寺盧舎那仏・・・いわゆる奈良の大仏の開眼供養が行われました。
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昨日が飛鳥大仏で、今日は奈良の大仏・開眼・・・遷都1300年に沸く奈良のお話です。
その幼さゆえ、成長するまでの期間に二人の女帝を中継ぎに、やっと誕生した藤原氏一色の天皇=第45代・聖武天皇・・・
その皇后には、やはり藤原氏の光明子がなり、まさに、二人は藤原氏の期待の星だったわけですが、にわかに流行しはじめた天然痘により、光明皇后の兄・4人が次々とこの世を去り、
「これは、藤原氏が死に追いやった反対勢力=長屋王の祟りではないか」(2月12日参照>>)
などと囁かれ、
ならば・・・と、反対勢力の人物を重用したなら、今度は、それに不満を持った身内の藤原広嗣(ひろつぐ)が九州で叛乱を起す(9月3日参照>>)・・・
・・・で、恐怖におののいた聖武天皇は、旅に出て、次々と都を移転しまくり、最後にたどりついたのが、世を鎮めるための大仏建立・・・この大仏の大きさは、きっと聖武天皇の恐怖の大きさなのでは?(10月15日参照>>)なんて事も、以前、書かせていただきました。
また、多額の費用を捻出するために、民衆から高い支持を受けている行基(ぎょうき)を大抜擢した事も(2月2日参照>>)・・・
さらに、まだブログに慣れていない初心者の頃の4月9日には大仏様の大きさデータ(2006年4月9日参照>>)や、
大仏様=毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)とは、どのような仏様なのか?(3月23日参照>>)
大仏に目を入れたインド出身の僧=菩提僊那(ぼだいせんな)(5月18日参照>>)の事・・・などなど、
大仏建立に関係する出来事をいくつか書かせていただいていますが、発掘調査が今もなお現在進行形で行われ、年を追うごとに、またまた新たなる謎が生まれてくるのも歴史のおもしろいところであります。
そんな中で、今では、あの聖武天皇の移転騒ぎも、「単なる恐怖ではなく、もう少し前向きな考えによるものであった」なんて見方も出ているようですが、そのお話は、また、いずれ関連するその日に書かせていただく事として、本日は、この大仏建立そして開眼に、妻である光明皇后が、どのように関わっていたのか?というお話をさせていただきます。
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上記のように、聖武天皇の逃避行が恐怖一色のものだったかどうかはともかく、その他も含めた様々な行動から、この天皇が、少々気の弱いところのあるお坊ちゃま的な性格であった事は想像できます。
それは、まさに、藤原氏の期待の星として、大事に大事に育てられた環境によるところも大きいのでしょうが、それに比べて臣下で初めて皇后に立った光明皇后は、そんな天皇にゲキを飛ばすくらいの、男勝りのしっかり女房だったような印象を受けます。
ただ、そんな彼女でさえ、気がめいってしまうほどのプレッシャーがあったのも確か・・・なんせ、天然痘の流行や不満分子の叛乱の中、期待の星同士の夫婦二人には、「さらに期待の星となる男の子を、一日も早くもうけなければ!」なんて催促も、毎日のようにあったでしょうからね。
そして、逃避行の果てに大仏建立を発案した夫を、おそらくは光明皇后も多いに後押ししたであろう事は想像できますが、それが、具体的にはっきりとしたのが、昭和六十三年(1988年)に東大寺境内から発掘された大仏建立当時の木簡と銅塊でした。
場所は大仏殿の西隣・・・出土したのは、銅を溶かした炉の断片、溶解途中の事故で固まってしまった銅の魂、さらに木炭、そして200点ほどの木簡・・・
銅の塊などは、それまで文献には残っているものの、細かな合金の具合などは想像するしかなかった事から、この発見は大発見として、当時の新聞の一面を飾ったわけですが、同時に発見された木簡にも、新発見がいくつも・・・
木簡の中には、「悲田」「悲□院」「薬院」などと書かれた物がいくつか見つかったのです。
これは、光明皇后が建てたと言われる福祉施設「悲田院(ひでんいん)」「施薬院」の事・・・すでにブログに登場していますが、悲田院が貧困者や孤児を収容する福祉施設で、施薬院が病院&療養所の役割をするものです(4月17日参照>>)。
・・・で、その木簡は、どうやら身分証明書のような物らしく、悲田院や施薬院の人々が、大仏鋳造の仕事に従事した時に使った物であろうとの事・・・
さらには、光明皇后の皇后宮に「上吹銅一万一千二百廿二斤(約7.6t)」を請求した記録らしい物も出土・・・
正倉院に残る文書などで、かの良弁(ろうべん・東大寺の初代別当)(3月14日参照>>)から、皇后付きの官職に様々な頼み事がされている事から、光明皇后が大仏建立に関わっていたであろう事は、以前から囁かれていましたが、それが、これらの出土品で証明された事になったわけです。
今では、迷走する夫に「何か打ち込めるものがあれば落ち着くかもしれない」と、むしろ、光明皇后こそが、大仏建立の発案者で、積極的に聖武天皇に勧めたのではないか?とさえ考える研究者も多いようですよ。
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コメント
ご無沙汰でした。
宮を移す ということとは違いますが、大正天皇は病を癒す為に、その多くは温泉地ですが、各地にご養邸を設けられ、専ら宮中のその座は空けておいででした。
近侍の者達は、でも、大正天皇のご健康を願って、良い所を一生懸命探し、それが、結局、現在の観光地事業の先駆けのようなものとなった、というようなことを、どこかで聞いたことがあります。
心身を病んだ天皇に寄り添う周りの者に、好意的な気遣いが生まれる、一時的なことにしろ、それは、人間的で素敵なことです。優しい国になる、というようなことでしょうか。
光明皇后、という名が表す通りに、大仏建立に直接関わったとしても、それは、きっと、弱い者 (天皇) を目の前にして、慈悲の心が強く沸き起こった、真の善人の行いだったように、私には感じられます。
投稿: 重用の節句を祝う | 2010年4月13日 (火) 10時16分
重用の節句を祝うさん、こんにちは~
やはり、ちょっとひ弱な坊ちゃん育ちの天皇に、世話好きで姉御肌の皇后という感じで、何かとお世話をして差し上げてたのではなかと・・・
投稿: 茶々 | 2010年4月13日 (火) 12時19分