武田信玄・最後で最大の失策~勝頼への遺言
天正四年(1576年)4月16日、武田勝頼が父信玄の葬儀を甲斐恵林寺にて行いました。
・・・・・・・・・・
去る元亀四年(1573年)4月12日、三河野田城での戦い(1月11日参照>>)を最後に、この世を去った武田信玄・・・
「三年間は、この死を隠し、内政に努めよ」
との有名な遺言に反して、領地拡大に没頭した後継者=武田勝頼も、さすがに、盛大な本葬ばかりは、その遺言通り、三年間待ったようですね。
そもそも・・・
天文十一年(1542年)、隣国・諏訪(すわ・長野県中部)を治める諏訪頼重(すわよりしげ)を攻め滅ぼした信玄は、その娘を側室に娶ります(6月24日参照>>)。
諏訪御寮人(すわごりょうにん)と呼ばれた彼女が、結婚から四年後に生んだ男の子が勝頼です。
信玄が力づくで征服した諏訪地方に残る怨念を納め、武田の傘下として安定した領国運営を行う事・・・それが、二人の間に生まれた勝頼の生まれながらの使命だったわけです。
そのため、信玄の息子の中で、ただ1人だけ、武田家の通字(男子の名前に代々使用する文字)である「信」の文字を使わずに、諏訪家が名乗る「頼」の文字を持つ名前=勝頼だったのです。
永禄五年(1562年)には、高遠城主となり、その名も諏訪勝頼・・・つまり、彼は、完全に諏訪家の跡取りだったのです。
ところが、永禄八年(1565年)、後継者の座が約束されていたはずの長男・義信(よしのぶ)が、父・信玄への謀反をくわだてたとして幽閉され、その2年後に自刃してしまいます(10月19日参照>>)。
次男・信親は生まれつき目が不自由で海野氏を継いだ後に出家の身、三男・信之も早く(定説では11歳頃)に亡くなってしまっていた信玄の息子たち・・・よって、四男の勝頼に後継者の座が回って来る事になります。
元亀二年(1571年)、父・信玄から指名された諏訪勝頼は武田勝頼となり、高遠城から、武田家の本拠地である躑躅ヶ崎(つつじがさき)館に移ります。
しかし、信玄がそう思っていたように、多くの家臣が、これまで「後継者は義信」という認識であり、勝頼は、あくまで諏訪の人というイメージが、どうしても拭いきれなかったのです。
しかも、それらの思いが払拭されないうちのわずか2年後に、信玄の死が訪れてしまうのです。
実は、この死の間際、冒頭に書かせていただいた有名な遺言のほかに、信玄は、もう一つ遺言を残していました。
それは・・・
「勝頼は信勝(勝頼の長男)が16歳になりしだい家督を信勝に譲り、以後は後見人になる事・・・それと、『風林火山』の旗は使用せず、『諏訪法性(すわほっしょう)の兜』のみの着用を認める」
というものでした。
では、やっぱり、勝頼は、単なる中継ぎ・・・幼い信勝が成人するまでの仮の当主という事だったのでしょうか?
いえいえ、信玄には、意外と勝頼がデキル息子だという事はわかっていたようなのです。
なんなら、今すぐにでも、自分は第一線から退いて、勝頼を前面に押し出してもかまわないくらい・・・
しかし、家臣たちがそうではない事も充分理解していたのです。
つまり、これは、未だ反対意見を持つ家臣たちへのポーズなのでは?・・・
もちろん、真相はご本人に聞くしかないのですが・・・
もはや、自分自身が、そう長くはない事を悟った信玄は、とりあえず家臣たちを納得させるために、上記のような遺言を・・・
そして、「幼い義勝が16歳になるまでには、きっと勝頼がうまくやってくれて、家臣たちも認める武田の当主となるであろう」という考えだったのではないか?と思います。
その事は、勝頼自身もわかっていたようで、だからこそ、父の遺言を破ってまで、領地の拡大に奔走したのでしょうし、結果、父も落とせなかった高天神城を落とし(5月12日参照>>)、武田の領地は、この勝頼の時代に最大となったわけですし・・・。
しかし、信玄の読みは完全に裏目に出ました。
信玄が、あたかも勝頼を中継ぎ投手のような発言をした事によって、古くからの重臣たちは、かえって勝頼を軽く見るようになってしまったのです。
現在、京都大学総合博物館には、この頃の様子がうかがえる勝頼の起請文なる文書が残ります。
信玄以来の重臣・内藤昌豊宛てに書かれた書状には、
「君の悪口を言うてる者を探し出して、ちゃんと処分するし・・・」
「君の意見は、今後も聞くよって・・・」
などと、おおよそ、主君が家臣に対して誓うような内容でない事が書かれ、しかも、そこには勝頼の血判まで・・・
父の代からの重臣たちと、何とかわかり合えるようになろうとする、勝頼の涙ぐましい努力が伝わって来るようです。
しかし、残念ながら、勝頼と家臣の間に空いた大きな溝が、未だ埋まる事ない状態で、かの長篠の合戦に突入してしまったのです(5月16日参照>>)。
「(自分が)生きているように偽装しろ」
「勝頼は孫が成人するまでの中継ぎ」
果たして、この遺言は名将・信玄としては、どうだったのでしょうか?
なにやら、デキる息子も、デキる家臣をもが、この遺言のために、その良い面を理解できないままとなってしまったような気がしてなりません。
かの長篠の敗戦から約1年後の天正四年(1576年)4月16日・・・その父の葬儀を盛大に行った勝頼の心は、いかばかりであった事でしょう。
追記:
武田の滅亡=勝頼の最期については…
●『甲陽軍鑑』ベースの最期(2008年3月11日参照>>)
●『常山紀談』ベースの最期(2012年3月11日参照>>)
でどうぞm(_ _)m
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コメント
こんんちわ、茶々様。
なるほど~w(゚o゚)w
今日の記事は戦国時代大好きの私の疑問を一つ 払拭してくれました。
以前の私のイメージは勝頼は愚将で長篠の戦もイケイケで重臣の意見も聞かない、信玄の偉大な影を追うあまりに焦って長篠の戦に突入していたと思い込んでいました。
しかしその裏には・・・信玄の遺言自体にも原因があったなんて・・・(゚0゚)
今日も茶々様に感謝です!
投稿: DAI | 2010年4月16日 (金) 13時40分
大河ドラマで今日の逸話を取り上げれば、武田家が何故パワーダウンしたのかがわかるんですが、なかなか取り上げないですね。
「武田信玄」は信玄の死で終わり、滅亡までを取り上げない。「風林火山」は川中島の戦いで終わり、信玄の死までは取り上げない。
いつかこの経緯を説明してもらえればいいですね。そうなると誰が主人公の作品でしょうか?う~ん。
投稿: えびすこ | 2010年4月16日 (金) 16時04分
DAIさん、こんにちは~
個人的には、勝頼さんは、世間一般に言われているような愚将ではなく、信玄のバトンの渡し方にかなりの問題アリと踏んでます。
もちろん、近隣諸国の情勢も、信玄の時代とは違ってきていましたし・・・
がんばる勝頼さんが、やる事なす事裏目に出るのがお気の毒でなりません。
投稿: 茶々 | 2010年4月16日 (金) 17時13分
えびすこさん、こんにちは~
私も、以前から勝頼さんを主役にしたドラマを造っていただきたいと願っております。
上杉謙信と武田信玄は、その名将ぶりを主体にしたドラマばかりで、ともに後継者の育成に失敗した風にはあまり描かれませんが、そこのところを推すドラマもあってもいいんじゃないかと・・・
投稿: 茶々 | 2010年4月16日 (金) 17時17分
義信さんが信玄公と仲違いせずに、順当に家督を継いでいたら、武田家の命運はどうなってたでしょう?そして勝頼さんの人生はどんな風に変わってたでしょうかね?
投稿: マー君 | 2010年4月16日 (金) 17時49分
>後継者の育成に失敗~
なるほど、そうなると「天地人」が「天と地と」の続編とも言えますよね。タイトルも似ていますし。
上杉謙信は指名しないまま、死んでいるので跡目争いが起きますね。
武田信玄の場合は指名しても、後継者の成長途中で死んだと言えますね。
織田信長も長男の「天下人への成長」を楽しみにしていた矢先に、親子ともに謀反に逢って死んでしまい、7割進んでいた天下統一が一旦、振り出しになりましたね。
投稿: えびすこ | 2010年4月16日 (金) 22時30分
マー君さん、こんばんは~
腹違いではあるものの、兄弟でタッグを組んで、更なる武田家の発展につながったかも・・・ですね。
投稿: 茶々 | 2010年4月17日 (土) 02時12分
えびすこさん、こんばんは~
戦国の世、後継者へのバトンタッチは難しいですね。
最後の最後に見事成功させたのが家康ってトコでしょうか。
投稿: 茶々 | 2010年4月17日 (土) 02時14分
茶々さん、こんにちわ~。
すみません、僭越ながら少々指摘(?)をさせてはいただけないでしょうか?
信勝は義信ではなく勝頼の子供だったと思うのですか(・・・横山光輝の「武田勝頼」など、マンガや小説の話なので信憑性にかけますが・・とりあえず、信勝で検索してみましたが、やはりどのサイトも勝頼の子供となっていました)。それゆえ、私は今まで信玄の遺言はどうにもどうしても腑に落ちませんでしたし、こんなわけのわからん遺言では勝頼が家臣を統制しようにもできるわけないので、明らかに信玄はどうかしていたと思っていました。
まあ、私が知らないだけで最近の説なのかなあ?とも思うのですが・・・信勝が義信の子供だった方がはるかに納得できますしね。
実際は勝頼は結構有能でしたよね。信玄が落とせなかった高天神を落としていますし。
ところで、この内藤への書状ははじめて知りました。苦労してますね。裏目裏目に出ることといい、涙を誘います。最後は小山田に裏切られて自刃していますし・・。信勝もここで自刃しています。悲劇ですよね。私も結構がんばっても裏目に出るほうなので、彼は人事とは思えません(苦笑)
投稿: おみ | 2010年4月18日 (日) 07時15分
おみさん、ありがとうございます。
確かに、私の読んだ本でも「勝頼の長男」になってました(汗)
その時はしっかり、読んだはずなんですけどねぇ~
遺言の内容から、記事を書く時は、すっかり義信の息子と勘違いしてしまっていました。
慌てて訂正させていただいときました。
感謝します。
投稿: 茶々 | 2010年4月18日 (日) 11時19分
武田信玄公長男義信公優秀説
父親に張り合えない勝頼公は、信玄公が頑張ったが、及ばず。徳川秀忠公は、家康公が成功。
義信公は、今川同盟を強みに、古参の話しを聴く、織田徳川を迎撃できた。甲州兵は、一騎当千!
義を信じる!
義信公は、盾なしの合気道技原型も出来る歴戦!
勝頼公は、勝ち頼り連勝のまま勢いで長篠。山県昌景公進言を聴けば▪▪▪
投稿: 赤岡龍男 | 2015年3月21日 (土) 00時48分
赤岡龍男さん、こんばんは~
コメントありがとうございます。
長篠の戦いについても、いくつか書いていますので、また読んでいただけるとウレシイです。
投稿: 茶々 | 2015年3月21日 (土) 01時04分
武田信玄(出家前は、晴信)が、四男である武田勝頼や山県昌景(以前の名前は、飯富源四郎昌景)らに対して告げた遺言が、武田家自体はもとより、昌景・真田昌幸ら家臣の運命を大きく狂わせたといっても過言ではないでしょう。信玄としては、3年の間に立て直しをすれば、どうにかなるかもしれないと思ったのでしょうが、天正10年(1582年)の2月~3月頃に、木曾義昌・穴山梅雪(出家前は、信君)・小山田信茂が裏切ったことを考えると、もしかしたら義昌らは、信玄に対して、恐怖心のみで仕えていたのかもしれません。詰まるところ、武田家を滅亡に追いやったのは、信玄自身だったのではないでしょうか。
投稿: トト | 2016年4月 4日 (月) 13時13分
トトさん、こんばんは~
信玄自身が、他人に自慢したいほどの息子だったのに、なざ?このような遺言を残してしまったんでしょうね…不思議です。
投稿: 茶々 | 2016年4月 5日 (火) 01時19分