謎の彫刻師~左甚五郎
慶安四年(1651年)4月28日、江戸時代初期に活躍した彫刻師・左甚五郎が57歳でこの世を去りました。
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・・・と言っても、架空の人物説まである謎の人物です。
日光東照宮の「眠り猫」を代表に、江戸初期の神社仏閣などには、左甚五郎(ひだりじんごろう)の作品と称される物がいくつかあるものの、その経歴や人となりなどはまったくわからず、人物像が浮かんで来ないのです。
(写真→は、京都・知恩院にある「左甚五郎の忘れ傘」=甚五郎が魔よけのために置いていったと言われています)
現在確認される中では、延宝三年(1675年)に黒川道祐(どうゆう)なる人物が著した『遠碧軒(えんぺきけん)記』という文献が、比較的早くに書かれた物で、、
「左の甚五郎と云もの 栄徳が弟子にて細工を上手にす
今の北野の社のすかしほりもの
ならびに豊国の社頭のほりもの 竜は栄徳が下絵にて彫れり
それゆへに見事なり
左の手にて細工を上手にしたるものなり」
と・・・
「北野社や豊国社の彫刻をほどこした左ききの人」
という事しかわかりません。
・・・で、現在のところ、この左甚五郎に関して、最もくわしいのは、この甚五郎から数えて7代目の子孫にあたるという左光挙(こうきょ)さんの調査結果・・・
さすがに、ご本人のご先祖様という事だけあって、丹念に調べ上げておられます。
甚五郎は文禄三年(1594年)に播磨(兵庫県)の明石に生まれ、13歳の時に、京都は伏見の禁裏大工棟梁遊佐法橋(ゆさほっきょう)与平次という人物に弟子入りします。
その後、根来寺や東照宮・上野寛永寺の造営にたずさわり、寛永十一年(1634年)に、大工頭として讃岐(香川県)高松藩主・生駒高俊に仕えます。
当時の名を宗恵と号した甚五郎は、その後、いったん京都へ戻った後、再び高松藩に客人棟梁として迎え入れられ、慶安四年(1651年)の4月28日に亡くなったという事だそうで・・・。
しかし、これには異論もあります。
江戸時代の百科事典『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』には、
「飛騨の甚五郎と称せられたるを のちの左と誤りとなへしも知るべかざる」
とあり、甚五郎は飛騨の匠(たくみ)であり、讃岐の甚五郎とは別人であるという物です。
飛騨は、奈良・平安の頃の昔から木工技術者を多く輩出している場所で、言わば伝統産業・・・
そんな中で、当時は甚五郎と名乗る、飛騨出身の職人が複数おり、左甚五郎は、その中に1人ではないか?というのです。
また、そこから、彼ら飛騨の匠たちのそれぞれの逸話が統合され、いつしか左甚五郎という1人の人物のように語られるようになったとも言われます。
落語や講談では、それらの逸話を、さらにおもしろおかしく脚色するわけで、今となっては原型を見るのも難しい・・・って事に・・・。
しかし、芸術家や職人さんにとって、作り出した作品こそが命・・・自身が、どのような人物で、どのような人生を送ったかは、おそらく関係ないはずです。
思えば、その人物像は、まったく謎のまま、伝説だけが語られ、作品が見事に残る・・・
これなら、あの世の甚五郎さんも、きっと満足しておられる事でしょう。
写楽と同様に、謎に包まれたままのほうが、その魅力も増すというものですね。
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コメント
庶民のヒーロー
甚五郎さんかっこいい〜
投稿: | 2016年6月24日 (金) 18時33分
作品が生きた証ですね。
投稿: 茶々 | 2016年6月25日 (土) 02時17分