松川合戦で活躍する岡左内~そのケチ的ポリシー
慶長六年(1601年)4月26日、白石城を出陣じた伊達政宗と、迎え撃つ上杉景勝配下の武将らがぶつかった松川の戦いがありました。
・・・・・・・・・
あの関ヶ原の合戦と同日に、西軍に属する上杉景勝(うえすぎかげかつ)の執政・直江兼続(なおえかねつぐ)が、東軍に属する最上義光(もがみよしあき)の領地へと侵攻した事で東北の関ヶ原とも呼ばれる長谷堂の戦い(9月16日参照>>)。
しかし、その天下分け目の関ヶ原が、わずか半日で決着がついてしまった事から、やむなく、長谷堂城を落せないまま、上杉軍は米沢へと帰還する事となります(10月1日参照>>)。
しかし、東北における東軍勢力は、最上だけではありません。
いや、最上なら、未だ単独で上杉を相手にできるほどの大国ではなかったかも知れませんので、むしろ上杉にとっては、コチラのほうが強敵・・・それが、あの伊達政宗(だてまさむね)です。
関ヶ原前後の一連の合戦において、徳川家康からの協力要請を受けた政宗は、すでに関ヶ原の2ヶ月前の7月に、上杉領の北の端にある白石城を落としたのを皮切りに、関ヶ原で大勢が決着した後も、福島城をはじめとする上杉領への侵攻をくりかえしていたのです(8月12日参照>>)。
なんせ、政宗にとっては、自らが合戦に勝利して拡大しつつあった領地を、豊臣秀吉政権時代の小田原征伐への参加の遅れ(6月5日参照>>)で大幅カットされてしまったわけで、ここは一つ、関ヶ原の東軍勝利の勢いに乗じて、旧領回復へと持ち込みたい気持ちもわからないではありません。
かくして慶長六年(1601年)4月16日、再び福島城を攻撃すべく白石城を出陣した政宗・・・これを迎え撃つべく福島城を出陣したのは、福島城代・本庄繁長(ほんじょうしげなが)をはじめとする諸将。
両者は、慶長六年(1601年)4月26日、松川でぶつかったのです。
・・・とは言え、この松川の戦いは、複数の文書に複数の記述があり、その日づけも内容も少しずつ違っていたりもします。
その中で、『改正三河後風土記』『東国太平記』『会津陣物語』の3者に、その日づけが4月26日と明記されていますので、本日、書かせていただいたわけです。
かなりの激戦となった後、結局は、政宗が兵を退く事になる、この松川合戦ですが、
その戦いぶりは2022年の4月26日のページ>>でご覧いただくとして、
本日は、その合戦で大将の政宗に斬りかかり、太刀を交えて大活躍する福島城兵の岡左内(おかさない=岡定俊・岡野佐内)という武将・・・
実は、今日は、この人物の事を書きたかったのです。
長い前置き、失礼しましたo(_ _)oペコッ
・‥…━━━☆
上杉の前には、あの蒲生氏郷(がもううじさと)(2月7日参照>>)に仕えていた岡左内・・・その優れた武勇から、数々の武功を挙げて、やがては1万石にまでのし上がります。
しかし、彼には変なクセがあったのです。
それは、座敷に大判・小判を敷き詰めて、その上に寝転び、一枚一枚を眺めたり、アチラの一つを手に取ってひっくり返しては、また、コチラの一つを手にとって・・・と、この状況をただひたすら繰り返しながら、うっとりと過ごす。
これが、彼の至福の時だったのです。
もちろん、これらの大判・小判は、一発で手に入れたものではありません。
まだ、その知行が150石に満たない頃から、草履などを作っては、同僚や家来・・・果ては配下の町人にまで売って、コツコツと貯めて、徐々に大きくしていった物なのです。
とりわけ、身分が低い武将にとっては、副業や内職も当然なのですが、ある程度出世すれば、普通は、そのような事はしなくなるもの・・・
しかし、上記の通り、そのお金を溜め込んで観賞するのが趣味の左内ですから、そのケチぶりは、いくら出世しても収まりはしないわけです。
「武功の誉れ高いのに、浅ましい趣味で恥ずかしくないんかいな!」
「こないだは、最近は誰も着んような着物着とったで!」
「しかも、それ、裾がすりきれとったで!みっともない」
「よっぽど、金を使うのが惜しいんやろなぁ」
と、周囲からも非難ゴウゴウでしたが、本人はいっこうに気にせず、やはり、毎日のように、大判・小判との戯れのひとときを味わい続けていたのです。
ところが、ある日、いつものごとく、よだれを流しながら(←これは想像( ̄ー+ ̄))至福の時を過ごしていたとき、自らの領地内で領民同士のモメ事があり、一触即発の流血騒ぎになりかねない状況というのを耳にした左内・・・その仲裁をすべく、慌てて館を飛び出します。
そして、そのまま、なんと昼夜ぶっ続けで2日間に渡って、両者の言い分を聞きつつ説得をして、ようやく収拾に向かった事を確認して、やっと家路につくのですが、実は、この間、屋敷のあの部屋に大判・小判を敷き詰めたままにしていた事を、まったく忘れていたのだとか・・・
一部始終を目撃していた者たちは、上に立つ者としてのその仲裁の見事さにも驚いたものの、あのケチの殿様が、お金の事を忘れていた事にも、大いに驚いたと言います。
そう、実は、彼は、ただのケチではなかったのです。
蒲生家に仕えていた時には、馬1頭=金1枚が相場のところを、金7枚の値段がついた名馬を揃えて見せたり、後に上杉に仕えていたこの関ヶ原の頃には、会津に引っ越したばかりで、資金がなかった主君のために1万貫をサッと差し出したと言います。
それが、左内のポリシーだったのです。
お金は、いざという時のために貯めるもの・・・
そして、いざという時には惜しみなく使うもの・・・
なんか、大判小判に転がってる姿を忘れてしまうくらいカッコイイ~(゚▽゚*)
ムダな金を使うなんて失敗は犯さないってか!
岡左内だけに・・・チャンチャン( ´艸`)
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コメント
こんにちわ~、茶々様!
良いわ~、左内さん(o^-^o)
私もウルトラケチなので左内さんの気持ちが分かります。
私は海外で仕事をしていますが『チップ』の感覚がいまだになじめないです。良いサービスにはチップを払いたくなりますが、サービスもないのにチップは・・・。チップをあげないと『ケチ』といわれますが、「ケチで結構!」(`ε´)
しかしクリスマスに頑張っている従業員にボーナスをあげたんですが「え~、こんなに」と驚いていました。
『お金は、いざという時のために貯めるもの』『いざという時には惜しみなく使うもの』
今日 従業員に説明します!
投稿: DAI | 2010年4月26日 (月) 13時19分
DAIさん、こんばんは~
ホント、左内さんイイですね~
ついつい、微笑みたくなるようなキャラです。
>今日 従業員に・・・
頑張ってくださいねo(*^▽^*)o
投稿: 茶々 | 2010年4月26日 (月) 22時38分
戦国武将で「節約家3傑」を挙げるなら、徳川家康、岡左内にあと1人は誰でしょうか?
最後のオチに座布団3枚。
ところで徳川家康のケチの巷間はいつから出たんでしょうか?
投稿: えびすこ | 2010年4月26日 (月) 22時44分
えびすこさん、こんばんは~
噂によれば、家康のケチは幼少の頃からだったそうですから、かなり前から言われていたんじゃないでしょうか???
まぁ、もう一人あげるとしたら、直江兼続じゃないですか?
投稿: 茶々 | 2010年4月27日 (火) 02時03分
「雨月物語」の一編で大判小判の精霊と語り合ったりしてますね。この人。
投稿: 黒燕 | 2010年4月27日 (火) 22時54分
黒燕さん、こんばんは~
>大判小判の精霊と語り合ったりしてますね
岡左内の至福の時・・・
うっとりしている姿を想像してしまいますね~。
アニメ好きがアニメのキャラクターと、歴史好きが歴史人物と語り合うのと同じなんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2010年4月28日 (水) 02時18分