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2010年4月19日 (月)

男・柳生宗厳~68歳でつかんだ大きな一歩

 

慶長十一年(1606年)4月19日、柳生新陰流の開祖として知られる柳生宗厳が80歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)・・・先日の3月26日に書かせていただいた柳生宗矩(むねのり)のお父さんです。

その宗矩さんのページで、お父さんの事や兄弟(つまり宗厳さんの子供)の皆さんの事を少し書いてしまったので、内容が重なる部分があると思いますが、ご了承くださいませ。

・‥…━━━☆

柳生美作守家厳(みまさかのかみいえよし)の嫡男として生まれた宗厳・・・通称を新介または新左衛門と言い、晩年に石舟斎と号します。

嫡男として順調に一家の主となった宗厳ですが、この頃の柳生家は、かなりの弱小豪族・・・そのために、戦国の世では、その時々で、次々と主君を変え、生き抜いていかねばなりませんでした。

しかも、なかなか良い主君にも恵まれず、長い時間不遇の日々を味わうのですが、そんな中でも剣術の修行にはげみ、その腕だけは磨き続けます。

新当流戸田(冨田)などの極意を次々と身につけ、やがて剣豪として、その名は知られていく事になるのですが、やはり、武将として活躍する場はありませんでした。

そして宗厳:35歳・・・永禄六年(1563年)夏、奈良に済む宝蔵院胤栄(ほうぞういんいんえい)なる人物から、
「今、ウチの宝蔵院に、上泉信綱(かみいずみのぶつな)っちゅーカリスマ剣豪が滞在中やよって、ちょいと指導してもろたらどうや?」
との知らせが届きます。

上泉信綱とは、あの天下の武田信玄に落とされた上野(こうずけ・群馬県)箕輪城を、主君・長野業盛(なりもり)を補佐して、最後まで抵抗した人物(9月3日参照>>)・・・

その後、信玄からの「家臣にならないか?」誘いを断って武者修行の旅に出、途中途中で念流蔭流神道流などの流派を習得し、それらを統合した独自の流派=新陰流を起し、いまや剣聖の名をほしいままにする有名人だったのです。

早速、宝蔵院へと向かう宗厳・・・

しかし、「相手をしてほしい」と願い出る宗厳を、信綱は、まったく取り合ってくれません。

何度も食い下がるうち、
「ならば、疋田がお相手をする」
と・・・

この疋田とは、疋田景兼(ひきたかげかね)(9月30日参照>>)と言って、彼もまた箕輪城で信玄と戦った仲間・・・やはり、落城後に信綱とともに武者修行に出て、現在はその高弟という立場だったのです。

「俺かて、近畿一の腕前やねんゾ!ナメやがって(#`皿´)
と、少々おかんむりの宗厳・・・

信綱の態度に腹わたが煮え繰り返りながらも、木刀の剣先に意識を集中し、景兼を真正面に見据えて構えます。

「柳生君!その構えで、ええんか?」
景兼がポツリ・・・

宗厳、静かにうなづいて、立会いは始まりました。

・・・と言うが早いか、アッと言う間に1本取られ、ナニクソと向かっていって、あっさり2本目・・・ものの見事にヤラれてしまいます

しかし、宗厳にも、自称・近畿一のプライドがあります。

トップの信綱との立ち合いなしに、おめおめと帰れません。

さらに、何度も何度も、信綱との立ち合いを懇願する宗厳・・・「ならば、ひと勝負するか~」と、信綱が重い腰をあげ、やっと相手をしてくれる事に・・・

ところが、なんと、今度は素手で、なんなく木刀を奪い取られ、あっさりと目の前に突きつけられてしまいました。

新陰流・秘剣=無刀取りでした。

このワザに感動した宗厳・・・その場で、信綱に弟子入り、彼らを柳生の里に招いて、本格的に新陰流を学びはじめたのです。

それは、もう、休む事なく毎日・・・

やがて、新陰流のすべてを伝授された宗厳は、信綱から印可状(いんかじょう)を授与され、「今後は、おのれ独自の無刀取りを編み出すように」
との課題を与えられ、それを最後に信綱らは、柳生を去りました。

その後、大和(奈良)国内を二分しての戦いとなった松永久秀VS筒井順慶との合戦では久秀の配下として奮戦しますが、40歳の時には馬から落ちて宗厳自身が重傷を負ったり、さらに、その五年後には、長男とともに出陣した合戦で、息子が銃弾に倒れ、以後、不自由な暮らしを強いられるほどの重傷を負ってしまうという不幸続きの日々・・・さらに、主君としていた久秀は織田信長に滅ぼされてしまいます(10月10日参照>>)

久秀亡き後、大和の国は、その敵対の相手であった順慶のものとなりますが、それまでの経緯もあり、宗厳は、順慶の配下となる事はありませんでした。

そんなこんなの文禄三年(1594年)4月・・・宗厳は、やっと世に出る幸運に恵まれます。

誰かの家臣となって、合戦で武功を挙げる事はなくとも、さすがに数々の流派を身に着けて、その剣豪としての名声は高まっていましたから、「一度、その腕前を見たい」と、京都に滞在中の徳川家康からのお声がかかったのです。

長男は、上記の通り、もはや剣術は不可能・・・次男・三男は出家し、四男は浪々中であった宗厳は、手元にいた五男の又右衛門宗矩(またえもんむねのり)を従えて、家康に謁見します。

「自ら相手をする!」
と、張り切る家康・・・

『玉栄拾遺(ぎょくえいしゅうい)によれば、
「神君(家康)・・・木刀を持ちたまい
宗厳これを執るべしと上意あり
すなわち公
(宗厳) 無刀にて執ちたまう
そのとき神君 うしろへ倒れたまわんとし
上手なり 向後 師たるべしとの上意・・・」

あの日、宗厳自身が信綱にしてやられた無刀取り・・・それを見事にアレンジして、新たな無刀取りを完成させ、あの時の信綱同様、家康の刀を、あっという間に素手で取り上げ、家康をスッテンコロリンさせたわけです。

大喜びの家康は、すぐに宗厳と師弟の誓約書を交わします。

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柳生剣法許状「新陰流兵法目録事」(奈良女子大学蔵)

そして、当然、剣術指南役を命じるのですが、宗厳は、この時、すでに68歳・・・高齢を理由に指南役を辞退し、代わりに、ともに連れていた息子・宗矩を推薦したのです。

こうして、柳生一族は大きな一歩を踏み出したのでした。

続きのお話は、息子・柳生宗矩さんのページでどうぞ>>
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コメント

奈良の柳生の里に行った事あります。
「春の坂道」の舞台になっていました。
菩提寺も行ったけど。

投稿: やぶひび | 2010年4月19日 (月) 10時32分

茶々様 お久しぶりです!

今度は柳生新陰流の開祖石舟斎さん!!畿内を代表する剣聖ですね^^ 石舟斎という号は「石の舟の如く浮かばない、すなわち誰にも仕官しない」という意味がこめられているとか。主君を転々としたことや師の伊勢守さんも仕官を断り続けたたことが影響しているのでしょうか。
そういえば、本宮ひろし先生がビジネスジャンプで宗矩さんが主役の漫画をはじめました。柳生ブームですかね笑

投稿: ryou | 2010年4月19日 (月) 15時55分

やぶひびさん、お早うございます~

私も、ずいぶんと前に柳生の里へ行きましたが、なにやら心落ち着く感じの良い所でした。

今も、その風景は変わらないのでしょうか?
また、行ってみたいです。

投稿: 茶々 | 2010年4月20日 (火) 06時09分

ryouさん、お早うございます~

柳生ブームなんですか?
歴史好きとしては、龍馬だけでなく、いろんな人がブームになってほしです。

もちろん、柳生一族も・・・

投稿: 茶々 | 2010年4月20日 (火) 06時11分

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