九鬼嘉隆と長久手の戦い~もう一つのシナリオ
天正十二年(1584年)4月17日、志摩の九鬼嘉隆が羽柴秀吉の配下となり、渥美郡和地に放火しました。
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九鬼嘉隆(くきよしたか)率いる九鬼一族は、南北朝の時代より伊勢志摩から熊野灘一帯を制する海賊・・・織田信長の長島一向一揆攻め(9月29日参照>>)で頭角を現し、石山本願寺戦では、あの鉄甲船を完成させて(9月30日参照>>)、毛利の水軍を撃破しました(11月6日参照>>)。
しかし、その後、信長が本能寺で倒れ、その信長の死とともに、嘉隆全盛の時代にも陰りが出始めます。
事実上の信長の後継者争いとなった神戸信孝(信長の三男)+柴田勝家VS羽柴(豊臣)秀吉の戦い(3月11日参照>>)では、勝家に味方したようではありますが、ご存知のように信孝&勝家は敗北・・・勝家は居城・北ノ庄城にて自刃し(4月24日参照>>)、信孝も自刃に追い込まれます(5月2日参照>>)。
しかし、秀吉がその後も九鬼水軍を必要とした事で所領は安堵され、なんとか生き残り、秀吉の配下となったわけです。
そう・・・天正十二年(1584年)4月と言えば、再びの後継者争い=小牧長久手の戦いの真っ只中という事になります。
先の信孝&勝家との戦いの時には、秀吉に協力して弟の信孝を攻めた織田信雄(のぶお・のぶかつ・信長の次男)が、秀吉の対抗馬である徳川家康に協力を求めて、ともに秀吉に挑んだ、一連の戦い・・・
まずは、3月13日の【犬山城攻防戦】>>で信雄方の最前線・犬山城を奪取した秀吉軍でしたが、3月17日の【羽黒の戦い】>>で、手痛い敗北・・・その後、しばらくのにらみ合い【小牧の陣】>>が続いた後、三河へと奇襲したのが4月 9日の【長久手の戦い】>>・・・
その後、後半戦の6月15日【蟹江城攻防戦】>>と続くのですが、嘉隆が秀吉の傘下となった事が明らかとなった天正十二年(1584年)4月17日は、まさに、この長久手の戦いの直後という事になります。
その4月9日のページにも書かせていただいたように、この長久手の戦いは、先の羽黒の戦いで命からがらの敗北を喰らった森長可(ながよし)が、汚名返上とばかりに秀吉に自ら提案したもの・・・この一連の戦いに出てきた家康が留守にしている本拠地=三河に奇襲をかけるという作戦でした。
奇襲攻撃なのですから、当然、敵にはバレないように秘密裏に行軍していたところを、すでにこの作戦に気づいていた家康方に、逆に、その隊列を奇襲され、その長可も、事実上の大将として指揮をとっていた池田恒興(つねおき)も命を落す結果となってしまったのです。
・・・というのが定説なのですが・・・。
もちろん、今も、一般的にはそのように考えられていますが、最近では、また別の見方が出てきているようです。
・・・と言いますのも、秀吉が、この4月8日付けで、あの丹羽長秀に送った手紙というのがありまして、そこには、この長可らの三河侵攻は、かなり用意周到なる準備のもとに行われた事が書かれているのだそうです。
つまり、奇襲作戦なので秘密裏に・・・というのではなく、道中では砦などの普請も行いつつ、いくつかの戦闘もくりかえしつつ、堂々と三河へ侵攻していた可能性がうかがえるのです。
さらに、この時、侵攻する彼らの行動に合わせて、海から三河を攻める計画もあったとか・・・もちろん、この海からの攻撃の準備をしていたのが、九鬼嘉隆だというのです。
だと、すれば、今回の嘉隆による渥美郡和地への放火も、長久手の戦いに連動したものという事なのでしょう。
後半戦となった蟹江城攻防戦では、滝川一益とともに尾張から上陸した嘉隆らが、城を一旦占領し、小牧山の家康と長島の信雄の連絡路を断ちますが、家康もすぐに配下の水軍を派遣・・・
嘉隆は、敵水軍の提督・間宮信高を討ち取りますが、戦況自体はおもわしくなく、撤退を余儀なくされてしまい、最終的に蟹江城は奪回されてしまいます。
ただし、一連の小牧長久手の戦いで負け戦の多かったにも関わらず、ここで力技をやめて人たらし作戦に出た秀吉によって、家康は、その配下となる事になってしまうのですが・・・(10月17日参照>>)
もし、長可らの三河侵攻に連動した嘉隆の水軍の侵攻も計画されていたのだとしたら、この三河入りは、以前から言われているような、
「秀吉は、さほど乗り気ではなかったところを、池田恒興らに推されて、しぶしぶその作戦を取り入れた」
というのではなく、小牧の陣に見るような膠着状態を打開するための家康おびき出し作戦として、むしろ秀吉が積極的に行った可能性が高くなるわけですが・・・
果たして、その真相はいかに・・・
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