悠久の時を駆け巡る飛鳥大仏の謎
推古天皇十四年(606年)4月8日、現存する最古の仏像=飛鳥大仏が完成しました。
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先日・3月30日に書かせていただいた物部守屋(もののべのもりや)による仏像投げ捨て事件(3月30日参照>>)・・・しかし、仏像は投げ捨てられても仏教がなくなる事はありませんでした。
守屋に仏像を投げ捨てられたながらも後に物部氏を倒した蘇我馬子(そがのうまこ)は、その、翌・崇峻天皇元年(588年)、初めて本格的な寺院の建立に乗り出すのです。
それが、日本初の僧寺・法興寺・・・現在の飛鳥寺です。
『日本書紀』によれば、その「崇峻天皇元年に来日した百済(くだら)の寺工・露盤博士(ろばんはくし・屋根職人)・商工などによって明日香・真神原(まかみはら)に建立・・・次いで、崇峻天皇五年(592年)に仏堂と歩廊(ほろう)が建てられ、翌・六年に仏塔の柱が、そして推古天皇四年(596年)に建物のすべてが完成した」とされます。
そして、いよいよ推古天皇十四年(606年)4月8日、銅・繍(しゅう)の丈六(じょうろく・長さが六尺=約4.8m)の仏像が完成し、銅像を金堂に安置したという事です。
製作者は、鞍作鳥(くらつくりのとり)・・・後に法隆寺釈迦三尊像を手掛けた司馬鞍作首止利(しばくらつくりのおびととり)と同一人物と思われ、あの仏像投げ捨て事件の時に、娘・3人を日本初の尼とさせた渡来人・司馬達等(しばたつと)の孫とされる飛鳥時代の代表的仏師です。
先に、銅・繍の丈六の仏像と書かせていただきましたが、銅の仏像というのは、いわゆる銅像で、繍というのは、飛鳥時代~奈良時代にかけて大流行した刺繍で仏像をあしらった壁掛けのような物です。
この壁掛けは、とりあえず持って入ってから飾るとして、問題は銅像のほう・・・すでに完成していた金堂の入り口が、像の高さより小さかったため、工人たちは堂の扉を壊す相談をしていたと言います。
しかし、そこに現れた鳥の工夫によって、「戸を壊さすに堂内に入れる事ができた」という事ですが、単に横にしただけって気がしないでもない。
とにかく、スッタモンダして安置された、この仏像が、現在の飛鳥大仏だとされています。
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全長=2m70cm・・・特徴としては
●全身と比較して顔と手が大きい
●面長
●眼は杏仁形
●鼻が高い
●口は仰月形で不思議な笑みをうかべる
(いわゆるアルカイックスマイル)
●首が長い
●衣が全身を覆い胸に袴の紐が見える
●手の爪の先が鋭い
●右手の大指の間に縵網相がある
などなど・・・
ところで、とりあえす今回安置された仏像が飛鳥大仏だったとして、ここで一つ疑問・・・
建物が完成したのが推古天皇四年(596年)で、飛鳥大仏が推古天皇十四年(606年)・・・だとしたら、この9年間は、ご本尊が存在しなかったのでしょうか?
これは、かなり以前からの謎とされ、未だ結論の出ない事ではありますが、近年になって飛鳥寺の発掘調査が進み、当時の伽藍配置が、1つの塔を囲むように、3つの金堂が配置された形式だった事が判明すると、さらに、様々な憶測が飛び交います。
一説には、現在の飛鳥大仏は、『元興寺伽藍縁起』に出てくる、推古四年(596年)に鞍部加羅爾(くらつくりのからに)ら渡来工人たちが造ったとされる仏像で、最初から金堂に安置されており、今回完成した鳥が造った仏像は、遅れて完成した東西の金堂に、銅と繍のそれぞれが安置されたのではないか?というもの・・・
・・・で、現在では建物自体が失われてしまったので、「仏像の行方も知れず」という事なのだとか・・・
もちろん、別の説もあります。
本来の中金堂に安置されていたのは、敏達天皇十三年(584年)に鹿深臣(かふかのおみ)が百済からもたらした高さ二尺(約60cm)の弥勒石像であって、その後、東西の金堂が完成した時、銅と繍の2体の仏像を造らせ、以前の弥勒石像を東金堂に移して、銅像を中金堂に、繍像を西金堂に安置したのではないか?と・・・
さらに、推理が推理を呼んで、「現在の飛鳥大仏は、鎌倉時代頃に造りなおされた物で、鳥の造った飛鳥時代の物ではない」なんて話もありますが、私は真実を追究する歴史専門家ではないので、個人的には、やはり、今の飛鳥大仏は鳥の造ったもので、この日本書紀に書かれている最古の物だというロマンのほうを優先したいと思います。
ところで、近年の発掘調査によって、明らかにされた法興寺(現・飛鳥寺)・・・その寺域は、約200m四方あり、先に書いたような塔を囲む形で金堂を配置する高句麗様式の伽藍配置で、あの法隆寺の約3倍はあったという大規模な物だったようです。
日本最初の本格的寺院として大いに栄えた法興寺は、またの名を元興寺と呼ばれていましたが、ご存知のように、都が奈良に遷るのと同時に、都に新たな元興寺が建てられます。
現在、ならまちと呼ばれる場所にある、あの元興寺です。
ここには、この飛鳥寺から運ばれた多くの瓦が再利用されています。
同じお寺が移転したのですから、再利用されるのは当然と言えば当然なのですが、そのぶん、もとの法興寺・・・つまり、現在の飛鳥寺は、その規模が小さくなってしまったわけです。
江戸時代には、門などもなく、かりそめのお堂に、かの釈迦如来が安置されるだけのお寺になってしまっていましたが、現在も参道入口に建つ寛政四年(1792年)の物とされる石碑には「飛鳥大仏」の文字がしっかりと書かれていますので、その頃には、すでに飛鳥大仏と呼ばれていた事がわかります。
ご覧になった方はおわかりのように、修復に修復が重ねられた大仏様のお顔は、痛々しい限りですが、顔の一部と左耳、右手の指3本だけ、造立当時のまま残ります。
しかし、そのお顔は痛々しさと同時に、遙かなる歴史の重さを感じさせてくれます。
先日、鶴岡八幡宮のあの銀杏の木が倒れたというニュース、そして、その後、その木から新たなる芽が確認されたというニュースがありました。
私・・・思うんです。
人間はいくら頑張っても100年ちょい・・・
それに比べて、樹木は何百年もの命を持ちます。
ひょっとしたら、あの銀杏の木は、源実朝の暗殺劇(1月27日参照>>)を間近で見ていたかも知れない・・・あの銀杏の木が話す事ができたなら、いったいどんな歴史を語ってくれるのだろうかと・・・
この飛鳥大仏も同じ・・・仏像は樹木よりも長い永遠の命を持っています。
飛鳥大仏は、この飛鳥寺が、法興寺と呼ばれた全盛時代も、そして平成の今も、その移り変わりを目の当たりにして来たはずです。
蘇我氏の権勢を見せつけつつ、その永遠の発展を願って馬子が建立した法興寺・・・皮肉にも、その法興寺で催された蹴鞠の会で、後に蘇我氏を倒す事になる(6月12日参照>>)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)が出会います。
その事は、大仏様にとって心痛める事件であったのか?
それとも、新しい時代への幕開けだったのか?
飛鳥大仏のお顔は、
右斜めから見ると厳しく見え、
左斜めから見るとやさしく見え、
極接近すると凄く、
座して仰ぐと荘厳さが増すと言います。
果たして、その質問は、どの位置からさせていただけばよろしいのでしょうか・・・
この先、飛鳥寺にお邪魔する度に、長時間の問答を繰り返す事になるのかもしれません。
飛鳥寺への行き方は
本家HP【古京・明日香を行く】をどうぞ>>
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コメント
読売新聞の「編集手帳」にも「樹木にも記憶があるなら倒れゆく刹那‘そういえばかの人もこのように・・’と思ったろうか」というようなことが書かれていていたく感動しました。そうか、仏像も木だから長い生命をもっているんだ。その時代ごと、数えきれない人たちに仰がれ、願いを託され、涙を見てきただろう仏像にはなにかこう「気」が宿っているようで、そんな仏さまの前に立つと自然身が引き締まります。いろんなこと見透かされてそうで。飛鳥仏は大好きなんですが、建立当時の部分はごくわずかなんですね。でも仏様も大切にしてきた人間の気持ちを嬉しく思って下さるんじゃないでしょうか
投稿: Hiromin | 2010年4月 8日 (木) 20時37分
Hirominさん、こんばんは~
>仏様も大切にしてきた人間の気持ちを嬉しく思って下さるんじゃないでしょうか
そうですね。
痛々しい修復の跡ですが、言い換えれば、それだけ人々が大切にしてきたという事・・・
きっと、喜んでくださってると思います。
投稿: 茶々 | 2010年4月 9日 (金) 00時46分
最後の一文が以下の通りで誤植と思われます。
この先、飛鳥寺にお邪魔する度に、長時間の問答を繰り返す事になるのかも[そ]れません。
投稿: さく | 2022年9月17日 (土) 10時55分
さくさん、ありがとうございます。
訂正させていただきました。
投稿: 茶々 | 2022年9月18日 (日) 02時43分