「もっと生きていて…」~死にぞこね原田左之助
慶応四年(明治元年・1868年)5月17日、新撰組・十番隊組長を務めた原田左之助が、上野戦争の傷がもとで、この世を去りました。
・・・・・・・・・・
伊予国(愛媛県)は松山藩の中間(ちゅうげん)・原田長次(ちょうじ)の長男として生まれた原田左之助(はらださのすけ)は、父と同じく、郷里で中間を務めておりましたが、20歳の時に出奔・・・
大坂にて谷万太郎(たにまんたろう)に種田流槍術(たねだりゅうそうじゅつ)を学んだ後に江戸に出て、文久二年(1862年)頃から、あの近藤勇の試衛館(しえいかん)に出入りしていたと言います。
その翌年にあったのが、あの浪士組の募集です。
清河八郎の提案で実施された、将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛警護のための人員を広く募集したアレです。
近藤が、門人の土方歳三(ひじかたとしぞう)や沖田総司(おきたそうじ)などを率いて、この浪士組に参加した事で、左之助も、ともに京都へ向かうわけです。
しかし、ご存知のように、京都についた直後に、清河が、180度の方針転換を言い出したために浪士組は空中分解(2月23日参照>>)・・・清河に従って江戸に帰る者と、京都に残る者に分かれます。
その時、京都に残ったのが、近藤の試衛館の仲間と、芹沢鴨(せりざわかも)とその仲間・・・彼らが、壬生浪士組となり、後に、新撰組と名を変え、ご存知の活躍をするわけですが、そんな中で、左之助は、副長助勤、小荷駄雑具の担当長、十番隊組長と幹部職を歴任する重要人物の1人となります。
その新撰組では、芹沢一派の暗殺(9月18日参照>>)の時には平山五郎を斬り、大坂西町奉行所・与力の内山彦次郎の暗殺にも加わり、果ては、残された鞘と、犯人が放った「こなくそ!」という伊予の方言から坂本龍馬・暗殺犯の容疑者の1人でもあり・・・(龍馬暗殺については、本家HPの【坂本龍馬・暗殺犯を推理する】をどうぞ>>)
ただ、上記の暗殺劇には、参加メンバーにも諸説あり、ご存知のように龍馬の暗殺も謎となっていますが、これらの数々の噂は、それだけ、左之助が血気盛んな暴れん坊だったという事で、あの池田屋騒動(6月5日参照>>)の時などは、あまりの奮戦ぶりに、一時は死亡説も流れるほどでした。
もちろん、新撰組・最後の粛清となったあの油小路の変(11月18日参照>>)にも参加してします。
そんな左之助についたあだ名は「死にぞこね左之助」・・・
それは、まだ、郷里の伊予にて、藩のご奉公時代に、つまらない意地の張り合いで切腹しようとし、その時の傷跡が腹に残っていたからだと言われていますが、それと同時に、いつ死んでもおかしくないような修羅場で、先頭に立って戦いながら、不思議と生き残っている・・・「悪運の強いヤツだ!」という意味も込められていたようです。
やがて慶応四年(明治元年・1868年)正月に勃発する鳥羽伏見の戦い・・・(1月3日参照>>)
そこで奮戦した後は、近藤らの本隊と合流して甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)(3月6日参照>>)として大暴れしますが、江戸に敗走した後は脱隊して、やはり脱隊した永倉新八らとともに靖共隊(せいきょうたい)を結成し、北上する戊辰戦争(2月10日参照>>)に、幕府側として参戦すべく会津へと向かいます。
ところが、何を思ったか左之助・・・下総(しもうさ・千葉県)山崎宿にて離隊し、ただ1人江戸へと戻ります。
もちろん、同志たちは引きとめ、説得しますが、左之助の決意は固く、その理由さえ告げずに去っていきました。
後に、大正四年(1915年)まで生きた永倉が、その理由について、「妻子の事が心配になったのでは?」と語っていますが・・・
そう、実は、「明日をも知れぬ」という事で、あっちこっちに彼女作りっぱなし状態だった新撰組隊士たちの中で、彼は珍しく、京都の商家の娘・まさと正式に結婚して男児をもうけ、在京中は、けっこうなマイホームパパをやってたんです。
彼が、同志たちとともに京都を離れたのは、まさに鳥羽伏見直前の慶応三年の12月・・・その時、まさは、二人めの子供を妊娠中でした。
あれから事情は急展開・・・今や、京都は官軍の支配下にあるわけで、その事を思えば、左之助が心配するのもムリはありません。
しかし、京都に戻りたかったかも知れない左之助も、江戸に着いてみれば、あたりは官軍ばかり・・・東海道も中山道も官軍が押さえ、とてもじゃないが、京都へは向かえないし、かと言って、もはや離隊した靖共隊に戻る事もできない・・・
ちょうど、その頃、江戸では、あの彰義隊(しょうぎたい)が上野での決戦に挑もうとする頃・・・そう、左之助が、自らの生き場所として選んだのは、あの上野戦争でした。
ところが、慶応四年(明治元年・1868年)5月15日・・・その上野戦争は、官軍の持つアームストロング砲が火を吹き、わずか1日で決着がついてしまいます(5月15日参照>>)。
この戦いで被弾し、重傷を負った左之助・・・本所の神保山城守(じんぼやましろのかみ)邸にて治療を受けていましたが、2日後の5月17日、帰らぬ人となりました。
上記の通り、下総で別れた永倉が大正時代まで生きた事を思えば、ひょっとして引き返さなければ、もっと長く生きられたのかも知れません。
左之助と永倉は、ほぼ1歳違いですから、亡くなった年齢は30歳前後・・・永倉の言う通り、妻子に会いたい一心の後戻りだとすれば、さぞかし無念であった事でしょう。
しかし、さすがは「死にぞこね左之助」・・・上野戦争での彰義隊の名簿に、その名が無かった事から、やはりあります生存説・・・
日清戦争(1894年~1895年)の頃、伊予松山に、「ひょっとして原田さんでは?」と聞かれても肯定も否定もせずにいたやたら新撰組にくわしい老人がいたとか・・・
放浪生活の末、大陸に渡り馬賊の親玉になったとか・・・
明治時代には、新聞にまで報じられましたが、いずれも伝説の域を超えないもの・・・しかし、そんな伝説が語られるのも、やはり、「死にぞこね」と永倉の証言にあるのでしょう。
いくつもの修羅場をかいくぐりながら生き延びた男が最後に望んだ妻子との再会・・・
「今、一度、死にぞこなって、その願いを叶えさせてやりたい!」
そう思う人々にとっては、どうしても左之助を上野で死なせるわけにはいかなかった・・・
残された伝説は、そんな人々の思いが伝わって来るようです。
.
「 幕末・維新」カテゴリの記事
- 坂本龍馬とお龍が鹿児島へ~二人のハネムーン♥(2024.02.29)
- 榎本艦隊の蝦夷攻略~土方歳三の松前城攻撃(2023.11.05)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
- 維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ(2022.12.22)
- 日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』(2020.11.11)
コメント
新撰組で一番好きな人物です
これだけ大切にされて、奥様も亡くなられた時には大変なショックだったと思います。
あの時、引き返さなければ…
残念でなりませんが本心は佐之助自身のみが知るところですね…。
投稿: みか | 2010年5月17日 (月) 19時47分
みかさん、こんばんは~
そうですね~
左之助さん、魅力的です。
噂によれば、かなりのイケメンだったとか・・・
近藤さんが斬首となって、その生きる道を模索していたのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2010年5月18日 (火) 00時54分
新撰組隊士の中で一番亡くなられたことが悲しくなったのが、この原田さんです。初めて知った時
は、涙が止まらなかったです(;´д`)
投稿: Ikuya | 2011年7月 9日 (土) 22時27分
Ikuyaさん、こんばんは~
けっこう、本当に大陸で活躍してるかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2011年7月 9日 (土) 23時41分
「新撰組!」では山本太郎さんが演じて(かつらなしで出ていた)いましたね。あの時は新撰組隊士で唯一、享年を記載していなかったです。
投稿: えびすこ | 2011年7月10日 (日) 09時10分
えびすこさん、こんにちは~
山本太郎さん…もう、出ませんね~
投稿: 茶々 | 2011年7月10日 (日) 15時34分