剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期
永禄八年(1565年)5月19日、室町幕府第13代将軍足利義輝が、松永久通と三好三人衆らによって暗殺されました。
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初代・足利尊氏(たかうじ)に始まった室町幕府将軍も、第3代・足利義満を頂点に、その権威は下降しはじめ、果ては応仁の乱に始まる戦国の世となります。
そうなれば、直属の武士団すらまともに待たない将軍は、その時々の実力者の動向に左右され、時には京の都を追われて近江(滋賀県)へ・・・さらに越中(富山県)にまで逃げる事もありました。
そんな中、将軍の復権を夢見て亡くなった父・足利義晴(よしはる・12代)の遺志を継いで、当時、京都を牛耳っていた三好長慶(ながよし)(5月9日参照>>)相手に奮闘するのは、第13代将軍・足利義輝(よしてる)・・・
幾度かの交戦の末、何とか長慶との和睦に持ち込んだ義輝は(6月9日参照>>)、永禄元年(1558年)11月、やっと京都に戻り、将軍としての職務を精力的にこなす事ができるようになりました(11月12日参照>>)。
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しかし、そんな有能かつ武勇優れた将軍が、見事に職務をこなせばこなすほど、それを警戒する者もチラホラ・・・
それでも、武士の上下関係を重んじる古きよき精神を持つ長慶が君臨していた頃は、三好家内に生まれつつあった叛逆分子もおとなしくしていましたが、弟の戦死や息子の病死が相次いだ上に、行き違いから、もう1人の弟も自害に追い込んでしまった事で、その長慶の生気が一気に衰え、そのまま亡くなってしまった事で事態は急変します。
もちろん、この長慶の死は、京都復帰を機に、各地の戦国大名との交流に力を注いでいた義輝のチャンスでもありました。
今こそ、三好に頼らず、自らが京都を制圧して、名実ともに幕府の権威を将軍の手に取り戻す・・・
しかし、長慶亡きあとに三好家の実権を握ったのは長慶の家臣・松永久通(松永久秀の長男)と三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)・・・彼らが、そんな将軍の存在を許すはずはありませんでした。
彼らは、義輝よりも扱いやすい阿波御所の足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を将軍に擁立しようとしますが、そうなると、当然、義輝は邪魔・・・亡き者にするしかありません。
当時、5月の中旬に清水寺へと参拝する風習が庶民の間で流行・・・久通らはそれを利用し、「清水への参拝」として人員を集めます。
かくして永禄八年(1565年)5月19日・深夜・・・そぼ降る雨の中、まずは、「将軍に訴えたい事がある」と称して訴状を渡し、それを義輝が読んでいるすきに、三好の手勢が二条御所(武衛陣御所)を囲みます。
義輝の住む二条御所は周囲に掘をはりめぐらし、高い土塁に囲まれた鉄壁の城郭ではありましたが、残念ながら、その日は、門の修理のために扉が取り外されており、容易に侵入できる状態・・・しかも、たまたま宿下がりしていた者も多く、人員も手薄だったと言います。
囲みを完了した兵は、一斉に鬨(とき)の声を挙げ、鉄砲を撃ちかけながら乱入・・・将軍のお伽衆(おとぎしゅう・話し相手)など十数人が防戦にあたる中、義輝のそばにいた細川隆是(たかよし)は、女房の小袖を借り、将軍の前で最期の舞いを演じた後、数十人の手勢とともに久通・三好軍の真っ只中に消えました。
残ったのは、わずかな近臣のみ・・・彼らと最期の酒を酌み交わす息子に、母・慶寿院(けいじゅいん・近衛尚通の娘)は、「逃げて・・・」と言いながら、篤く抱擁します。
そんな母に、義輝は
「たとえ相手がアホンダラで、国を治める器量もないヤツやとしても、俺は、逃げ隠れして死ぬなんて、いやなんや!
皆の前で公方らしく戦死する!」
と、言い放ち、近くにいた女官の着物の袖に句を書きあげます。
♪五月雨(さみだれ)は 露か涙か ほととぎす
わが名をあげよ 雲の上まで ♪
そして、屋敷にあった家伝の名刀をすべて取り出すと、鞘から抜き出し、一つ一つ畳に刺していきます。
そうこうしているうちに、その奥殿まで到達してきた敵兵・・・と、息つく間もなく、剣聖・塚原卜伝(ぼくでん)(2月11日参照>>)直伝の剣先が鋭くうなり、襲い掛かる敵兵を、次から次へと、確実に倒します。
刃がボロボロになれば、先ほどの畳に刺した刀と取替え、さらに奮戦・・・その気迫に圧倒される敵兵は、もはや、一歩も近づけなくなります。
まともに戦っては、ちょっとやそっとの腕では相手になりません。
「これでは、いかん!」
と、松永の家臣・池田丹後守(たんごのかみ)の息子が、密かに戸の後ろに隠れ、義輝の死角に入り、タイミングを見計らって、槍にて、その足を払いました。
不意の攻撃に転倒する義輝・・・そこを、周囲にあった何枚もの障子で、一斉にかぶせて押さえつけます。
身動きがとれなくなった義輝を、その障子の上から、何本もの槍が襲いました。
足利義輝・・・享年・30歳
下克上に立ち向かった反骨の将軍は、その望み通り修羅場の中で息絶えました。
この時、三好勢によって奈良の興福寺に監禁されていた義輝の弟は、この2ヵ月後に、細川藤孝らの手によって救い出されます(7月28日参照>>)。
その弟の名は足利義昭(よしあき)・・・
彼が、織田信長に接近し(10月4日参照>>)、ともに上洛するのは、この3年後=永禄十一年(1568年)の事になりますが、そのお話は9月6日のページ>>で。。。
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コメント
茶々様こんばんは!
かっこいいですよね剣聖将軍・義輝さん!まさに漢といった感じ笑
三成さんのような最期まであきらめないような生き方もすごく好きですが、義輝さんのような潔い生き方にも惹かれますね^^
北海道に来ていなかったら大学ではここら辺を専門にしていただろうな自分。それくらいここら辺の時代大好きです^^
投稿: ryou | 2010年5月19日 (水) 23時59分
ryouさん、こんばんは~
ホント、かっこいいですよね~
戦国と言えば、どうしても信長→秀吉→家康のあたりがピックアップされますが、群雄割拠するこの時代もイイです。
投稿: 茶々 | 2010年5月20日 (木) 00時47分
信長協奏曲を読む中で松永久秀に興味が湧き、茶々さんのサイトで人物検索してみれば、サーフィン状態で毎日読んでます(^-^)
で、三好一族や足利義輝や義政など、知っているようで知らない人物の話がとてもおもしろいです。
応援してまーす。と、感謝してまーす
投稿: ひろし | 2016年2月 3日 (水) 20時13分
ひろしさん、こんばんは~
信長協奏曲…イイですね。
私は、原作の漫画は読んでないんですが、アニメとドラマを見てオモシロかったので、今やってる映画を、いつ見に行くか思案中です。
元気の出るコメント、ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2016年2月 4日 (木) 01時31分
初めまして
いつも楽しませていただいています!
永禄11年は(1586年でなく)1568年かと。
投稿: 七号 | 2017年6月13日 (火) 14時24分
七号さん、こんにちは~
わぁ!ありがとうございますm(_ _)m
1586年だと、もう秀吉の天下です(笑)
見つけていただいて感謝!
今後ともよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2017年6月13日 (火) 14時57分