日本初の写真家・上野彦馬の伝えたかった事
明治三十七年(1904年)5月22日、幕末から明治にかけて活躍した日本初の写真家・上野彦馬が67歳で亡くなりました。
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天保九年(1838年)、長崎の蘭学者・上野俊之丞(としのじょう)の四男として生まれた上野彦馬(うえのひこま)・・・
実は、この父の俊之丞さん・・・日本人による日本最古の写真とされる島津斉彬(なりあきら)の写真を撮った人物で、日本で初めて銀板写真を試みた人であります。
・・・って事は、父の後を継いで写真家に???
いえいえ、彦馬の写真家として人生は、そんなに単純ではありませんでした。
それは、16歳で大分の名門私塾に学んだ後、オランダ医師・ボンペの開いた医学伝習所で舎密学=化学を学ぶところから始まります。
そう、父が試みた銀板写真は撮影に20分もかかるうえ、鏡のように反転して写るため、着物の前合わせを逆に着込んだり、手足が動かないように器具で固定したりと、それはそれは大変な物だったのです。
そんなおり、イギリスで湿板写真が発明されました。
これなら露光時間は秒単位になるうえ、ガラス板なので反転を気にする事もありません。
しかし、この湿板写真は、数種類の薬品を微妙な調整で調合せねばならず、そこに化学の知識が必要だったのです。
そして、塾で知り合った堀江鍬次郎(くわじろう)らとともに、化学を学び、研究を重ね、弱冠20歳で、見事!湿板写真の撮影に成功しました。
ただ、薬品の原料自体が無い時代ですから、薬品を作るために牛の生き血を採取して青酸カリウムを取り出したり、生肉がついたままの牛の骨を腐らせてアンモニアを採取したりと、周囲には理解し難い行動をとるため、なかなか受け入れられませんでしたが・・・
・・・とは言え、そんな困難を乗り越えながらも、文久二年(1862年)、故郷の長崎にて上野撮影局という日本初の写真館を開業すると、これが大評判!!
現在の価格に換算すると、1枚:2万~3万円もするという高価格にも関わらず、いや、そんな価格だからこそ、「それだけの金額を出してでも撮影してみたい」と思うような人々・・・つまり、新し物好きの幕末の志士たちが、こぞって写真館にやって来たのです。
高杉新作・桂小五郎・伊藤博文・・・そして、あの有名な坂本龍馬の立ち姿の写真も・・・
まぁ、龍馬の場合は、厳密には彦馬本人ではなく、弟子の井上俊三という人が撮影したと言われていますが、この彦馬の写真館で撮った事は撮ったのですから・・・
湿板写真は、撮影したての湿っている間に薬品処理をせねばならないため、幕末のこの頃は、ほとんどが、スタジオでの肖像写真でしたが、そんな彦馬の写真家としての才能は、別の形で維新後にも発揮されます。
それは、従軍カメラマン・・・
長崎県令の北島秀朝(ひでとも)を通じて、政府軍の川村純義(すみよし)の依頼を受け、あの西南戦争に従軍して、数々の写真を残すのです。
もちろん、従軍カメラマンは、彼が初ではありません。
あの初の対外戦争となった征台の役(4月18日参照>>)や、萩の乱(10月28日参照>>)にも、その役目の人はいました。
しかし、彦馬の場合は、ただ撮影するのではなく、そのアングル・・・一枚一枚に報道性があり、現在の報道カメラマンに通じる「何かを訴える感」のある写真だったと言います。
今のような首から下げられるようなカメラではないのですよ!
あの近代の歴史ドラマで見るような布の覆われたヤツで厚板の一枚一枚・・・なんせ、その運搬には7~8名の係員が必要だったと言いますから、そんな状態での芸術的写真を撮影するのは、それはそれは大変な事だったでしょう。
激戦となったあの田原坂(3月20日参照>>)では、弾痕も生々しい民家や砲弾に倒れた木々・・・熊本では焦土と化した町並みを、最後の戦いとなった城山でも砦など撮影します。
ただ、これだけ多くの戦場の写真を撮ったにも関わらず、彦馬の写した写真には、兵士の死体の写った物は一枚も無かったと言います。
たとえ官軍である政府側に雇われた従軍カメラマンであっても、「戦争そのものに正義は無い」という事を彦馬は伝えたかったのかも知れません。
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コメント
明治初頭で日本人でカメラを使える人は、ごく限られていましたね。上野親子は日本人カメラマンのパイオニアですね。
「龍馬伝」が中盤に入りましたが、収録も下半期分に入りました。写真撮影の場面で上野彦馬が出る(場所を提供したので)かな?
投稿: えびすこ | 2010年5月22日 (土) 08時53分
えびすこさん、こんにちは~
今の写真館でも、スタジオでの撮影は息子さんや奥さんが担当ていうのがよくありますよね。
近所の写真屋さんも、七五三の時は、ダンナさんが神社に出張して、奥さんがスタジオで頑張ってはります。
ドラマだと彦馬さんが見守る中、弟子がスイッチオン・・・ていうのが絵になるかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2010年5月22日 (土) 17時35分