宝暦治水事件~薩摩義士・平田靭負 男の決断
宝暦五年(1755年)5月25日、薩摩藩が行った宝暦の治水工事の責任をとって、家老の平田靭負が自殺しました。
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宝暦治水事件と呼ばれるこの事件・・・
そもそも、あの関ヶ原から大坂夏の陣にて天下を掌握した徳川家が、その幕藩体制を揺るぎない物にするための一石二鳥の方法として、諸大名に築城を手伝わせる事にはじまります。
天下普請、あるいはお手伝い普請とも呼ばれる物ですが、本来なら自分で築城しなければならない自分の城を、将軍命令として諸大名にやらせるわけです。
慶長十二年(1607年)には、将軍職を息子の徳川秀忠に譲った徳川家康が、自分の居城となる駿府城を(2月17日参照>>)・・・
元和六年(1620年)には豊臣亡きあとの大坂城も(1月23日参照>>)・・・本来なら幕府直轄=将軍の城ですが、諸大名にそれぞれ担当させています。
皆さんご存知の大阪城のあの大きな石垣や(12月11日参照>>)、誰の寄進かわかる刻印石も、各大名の天下普請での苦難の証しなのです。
なんせ築城には膨大な費用がかかります。
もちろん、それだけの人員もいります。
「いざ、幕府に刃向かう!」となる時に必要になる軍資金を吐き出させ、兵士となる人員の総動員させる・・・そのうえ、自分とこの城は新品に・・・徳川家にとって、こんなとくとくプランはありません。
・・・とは言え、徳川の時代も長く続くと、そうそう城を建てる事もなくなってきます。
かと言って、ここで手を緩めて諸藩が力と財力を蓄えてしまっては、元も子もないわけで・・・そこで、築城に代わって天下普請が行われたのが、今で言うところの公共工事です。
確かに、治水工事などは、川が数藩にまたがって流れている場合もあり、幕府が音頭をとって、関係する諸藩に行わせる場合もありますが、明らかに、まったく関係のない藩に命令する事もありました。
それは、まさに、あの築城の時と同じで、ただただ藩を弱らせるため・・・今回、そのターゲットとなったのが、西南の雄藩=薩摩(鹿児島県)でした。
宝暦三年(1753年)に開始されたこの宝暦の治水工事・・・正式には、「三川分流工事」と呼ぶそうですが、そこは、木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川が交わる場所で、大変水害の多い場所でありました。
なので、以前から美濃郡代などから「三川を分流させてほしい」と幕府に働きかけていたのですが、なにせ、難工事になる事うけあいなので、幕府も、なかなか手出しできなかったのです。
その工事を薩摩に・・・もちろん、断る事なんてできません。
幕府からの天下普請を命じられた薩摩藩主・島津重年(しげとし)によって、家老の平田靭負(ゆきえ)が総奉行に任命され、国元と江戸から、合わせて947名の人員を引き連れて現地に入ったのは、宝暦三年(1753年)12月の事でした。
まずは、長良川と揖斐川の合流地点に、約2kmの堤を築いて締切る工事・・・
しかし、実際に水が流れている場所での工事とあって、その水をさえぎるだけでも一苦労・・・さらに、工事用の石材や材木も思うように集まらず、工事も遅れがちです。
そこで遅れを取り戻そうと、雨の中での作業が続いたりすると、お金で雇った地元の百姓たちの反発も大きくなり、まさに靭負たちは板ばさみ・・・
そのうえ、幕府から派遣されてきた工事関係者はチャチャ入れまくり・・・なんせ、彼ら幕府の人間は、協力して工事をやろうなんて気はサラサラなく、薩摩藩士の動きを監視する、あるいは干渉するために来ているわけですから、文句ばっかり言って、あとは知らん顔・・・。
この工事の間に、52名(51名とも)もの薩摩藩士が切腹しているのも、いかにモメ事が多かったかを物語っています。
さらに、追い討ちをかけるように赤痢(せきり)が流行し、こちらも30名以上の病死者を出してしまいました。
こうして、多くの犠牲を出しながらも、何とか、大榑川洗堰(おおくれがわあらいぜき)の大改修を終え、宝暦五年(1755年)3月・・・今回の治水工事のすべてを完了しました。
総工事費は、なんと40万両に達し、当初の見積もりの15万両を大幅に越え、それは当時の薩摩藩の財政の3倍という大きな金額になってしまいました。
思わぬ出費は、藩の財政を大きく傾け、やむなく、上方の豪商から借金し、薩摩藩は、この先、長きに渡って、その返済に苦しむ事となります。
5月24日、平田靭負は、美濃国(岐阜県)安八郡大牧村の現地本部として使っていた本小屋(もとごや)にて、工事のすべてが完了した事を、国元に報告する手紙をしたためます。
それを書き終えたとき、すでに日づけは宝暦五年(1755年)5月25日となっていました。
未だ闇に包まれた未明・・・靭負は、おもむろに西方鹿児島に体を向けて、その身に刃を向けたのです。
80名以上という多くの犠牲者を出した事と、莫大な費用を使ってしまった事の責任をとっての切腹でした。
しかし、その後、この靭負の死を含む、工事に関してのいっさいの事は、長く封印され続けました。
この宝暦の治水工事が、いかに難工事であったかを語る事は、幕府の天下普請を批判する事になり、タブーとされていたのです。
その後、明治時代になって、ようやく彼ら工事に関わった人たちの苦労や功績が語られるようになったのですが、それでも、公式記録では、靭負の死は病死となっているのだとか・・・。
♪住みなれし 里も今更 名残りにて
立ちぞわずらふ 美濃の大牧 ♪
国元への報告の手紙をしたためた時、靭負が詠んだとされる歌です。
藩主への手紙には、自分の苦労はいっさい書かず、完成の喜びだけが、いかにも満足そうに書かれていたと言います。
現在、地元・鹿児島では、宝暦の治水工事に関わったすべての藩士を「薩摩義士(さつまぎし)」と呼ぶとのこと・・・長く、長く、語り継いでいっていただきたいと願うばかりです。
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コメント
茶々さん、こんばんは!
大学の野外講義で長良川の源流から下流に至るまでを現地に行って見学しながら学ぶというものがありました。
大日岳の、地図には載っていない薮の中を歩いて長良川の源流を探索し、そこから下流へと向かっていくのです。
途中、大垣で大垣城や輪中堤防を見学しつつ、さらに下って治水神社や薩摩堰遺跡碑もしっかりと見学した記憶が懐かしいです。
この地域は木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)が流れているのですが、木曽川は徳川によって尾張国に水が氾濫しないように御囲堤が築かれ、この宝暦治水によって長良川が整備され、美濃国への被害も多少少なくなりました。しかし、残る揖斐川へはどんどん水が氾濫するは、土砂は堆積するはで伊勢国の人たちが一番甚大な被害を被っていたのです。
宝暦治水から約100年経った明治になって、ようやく木曽三川分流が成し遂げられ、現在に至っているという訳なんですね。
投稿: 御堂 | 2010年5月25日 (火) 23時01分
御堂さん、こんばんは~
教授や歴史家など、専門知識のある方と現地を巡るのは、とても勉強になりますね~うらやましいです。
上流から下流までの問題が、ある程度解決するのは明治末頃…という話は聞いた事があります。
地元の方は、苦労が絶えなかったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2010年5月26日 (水) 01時26分
茶々さん、こんばんわー。
この話は某漫画で読んだのですが、嫌がらせにひたすら耐える薩摩藩士&平田靭負に、涙涙でした。薩摩藩士は各々農家に泊まっていたのですが、幕府は農民に、宿代・食事代・船での渡し賃など道具一切合財すべてお金を取るようにわざわざ言っていたようです。資材も勝手に用意することができず、幕府の御用商人からしか買えなかったとか。更に、彼ら自身も土木工事を行ったとありました。
あまりの幕府の横暴ぶりに、なんと敵であるはずの幕府の役人まで、彼らに同情して抗議の切腹を行ったというので、異常ぶりがよくわかりました。
そうそう、以前桑名に行った時、彼ら義士の菩提寺を桑名駅近くを散策中にほんとにたまたま見つけました。せめて安らかに眠ってほしいものです。
ちなみに、3川の工事は明治時代にお抱え外国人の方が行ったと桑名の川べりの説明板に書いていました。しかし、例の伊勢湾台風で尋常ならざる被害が発生し、その後昭和期にも改修を行ったそうです。
投稿: おみ | 2010年5月26日 (水) 23時55分
おみさん、こんにちは~
そうですね~
伊勢湾台風もありましたね。
治水工事に完璧というのは、現在でも、なかなか難しいのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2010年5月27日 (木) 09時47分
この事件は愛知県では必ず小学校低学年で教わりますね
投稿: | 2013年8月 2日 (金) 09時31分
コメントありがとうございます。
>この事件は愛知県では必ず…
そうなんですか?
やはり、地元に関連する事は網羅されているんですね~
投稿: 茶々 | 2013年8月 2日 (金) 13時40分