美しき者も高貴な者も世は無常~皇后・橘嘉智子
嘉祥三年(850年)5月4日、第52代嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子が65歳でこの世を去りました。
・・・・・・・
橘嘉智子(たちばなのかちこ)は、その姓をご覧になっておわかりの通り、「源・平・藤・橘(げんぺいとうきつ)」の貴種のうちの一つ橘氏の人・・・つまり、以前に登場した一代で大出世の女傑=橘三千代(たちばなのみちよ)(1月11日参照>>)の子孫という事になります。
嘉智子の姉の夫が、藤原四家(藤原不比等の4人の息子の家系)の生き残り・藤原冬嗣(ふゆつぐ)の嫁の弟だったという関係から、その冬嗣に推されて、嵯峨天皇の皇后となったという事ですが、橘氏出身の皇后は、後にも先にも彼女ただ一人です。
三千代の息子・橘諸兄(たちばなのもろえ)は左大臣にまで昇りつめますが、その息子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ・恵美押勝)との政戦に敗れて(7月4日参照>>)・・・以来、橘氏は低迷します(*嘉智子は、この奈良麻呂の孫にあたります)
しかし、栄華誇った、その仲麻呂も乱に失敗して(9月11日参照>>)、藤原四家のうち南家が転落し、すでに、その少し前には、藤原広嗣(ひろつぐ)が、やはり叛乱に失敗して(9月3日参照>>)式家が転落・・・京家が、後継者に恵まれなかった事があってはなから浮上せず。
そのおかげで、ここに来てグンと浮上してきたのが、最後残った冬嗣の北家であり、その血筋と、低迷していた橘氏の、「ともにタッグを組んで浮かんで行こうよ」という利害関係が結びついたというところでしょうか?
・・・とは言え、この嘉智子さん・・・かなりの美貌の持ち主で、かなりのモテモテぶりだったようです。
彼女の残した歌によれば・・・
♪言繁(ことしげ)し しばしは立てれ 宵の間に
おけらむ露は いでてはらはむ ♪
「メッチャ噂になってますから、チョットの間、外で待っててください。
その間についた夜露は、後で私がキレイにしてさしあげますよって・・・」
これは、彼女恋しさに毎日通ってくる嵯峨天皇に詠んだとされる歌・・・
嵯峨天皇の心を、ひとりじめしている彼女を、他の女がヤキモチを焼いて、あれやこれや噂するので、目立つ時間帯には家には入らずに、外で待っててほしいって事なのです。
(クゥ~(*゚ー゚*)えぇなぁ)
さらに、も一つ・・・
♪うつろはぬ 心の深く ありければ
ここらちる花 春にあへるごと ♪
「アンタの気持ちが、あんまりにも一途やから、
すでに散ってしもた私やのに、春の盛りに会うたような気持ちやわ」
これも、相手は嵯峨天皇・・・歌の内容からしてわかるように、もう若くない彼女に対して、あまりにも一途に「好き好き光線」を出しまくる天皇に、「若い時みたいでウレシイわ」と・・・
これら、嘉智子さんの歌を見る限りでは、嵯峨天皇とはラブな関係にあったのではないか?と想像できますね。
おかげで、低迷気味だった橘氏も、奈良麻呂の孫にあたる橘常主(たちばなのつねぬし・奈良麻呂の六男)が70年ぶりに公卿になったのをはじめ、嘉智子の兄の橘氏公(たちばなのうじきみ)が右大臣にまで昇りつめる繁栄ぶりとなります。
仏教への関心も篤かった嘉智子は、当時、中国から来日したばかりの僧・義空を師と仰ぎ、京都は、嵯峨野にて日本初の禅院・檀林寺(だんりんじ)という壮大な寺院を営みました・・・このため、嘉智子は、檀林皇后(だんりんこうごう)とも呼ばれます。
現在の檀林寺は、以前とは別の場所にあり、直接の関係は無いようですが・・・
さらに、その後、その権勢を誇るように、橘氏のための学校・蓮華精舎も設立した嘉智子さん・・・しかし、そのうち、嘉智子自身が、この世の空しさを感じるような時代へと入っていきます。
嵯峨天皇は、自身の即位の時に、兄弟同士でのゴタゴタがあった関係から、弟に皇位を譲り、第53代・淳和(じゅんな)天皇が即位しますが、その淳和天皇も周囲に気をつかい、多くの息子がいながら、兄の嵯峨天皇の息子(つまり嘉智子の息子)の第54代仁明天皇に皇位を譲ります。
この兄弟同士での譲り合いの関係も、二人の天皇が健在な時には、平穏無事に行われていましたが、承和七年(840年)に淳和上皇が、承和九年(842年)に嵯峨上皇が相次いで亡くなった直後、早くも事件が起きます。
この時、すでに、淳和天皇の息子・恒貞親王が皇太子となっており、次期天皇は彼に決まっていたわけですが、その皇太子を看板に、謀反をくわだてたとして橘逸勢(たちばなのはやなり・奈良麻呂の孫)と伴健岑(とものこわみね・大伴一族)が逮捕され、恒貞親王も皇太子を廃されてしまいます。
結局、代わって皇太子となったのは、現役の仁明天皇の息子・道康親王(後の文徳天皇)・・・その母親は、冬嗣の息子で、後に臣下で初の摂政となる藤原良房(よしふさ)の妹です。
臭いますね~
もちろん、承和の変と呼ばれるこの事件(7月17日参照>>)は、今では、でっちあげだったというのが定説となっています。
この事件には、嘉智子自身も深く関わっていたとされ、そのせいで、失脚した恒貞親王の生母・正子内親王から、嘉智子はひどく恨まれたとも言いますが、後世の歴史を知っている私たちから見れば、結局、この事件をきっかけに、橘氏は再び低迷状態となり、藤原北家の1人勝ち(8月19日参照>>)となってしまうわけで、もし、本当に関与していたのなら、「嘉智子さん、何やってんの?」って感じですが・・・。
そして・・・
自分をあんなに愛してくれた夫・嵯峨天皇を亡くし、その後に起こった事件に関与した自分自身に何か思うところがあったのでしょうか?
彼女は、あまりにも壮絶な遺言を残したと言います。
「自分の死後は、遺体を埋葬せず、道端に放置するように」と・・・
伝説によれば・・・
嘉祥三年(850年)5月4日、亡くなった嘉智子の遺体は、当時、都の北西部にあったとされり帷子辻(かたびらつじ・現在の帷子ノ辻付近とされる)に放置され、日に日に腐り、犬やカラスに喰い荒らされ、果ては白骨化していったと言います。
この様子は「檀林皇后九相図(くそうず)」(西福寺蔵)に描かれているのだとか・・・(←)
もちろん、当時は、風葬(ふうそう)と呼ばれる、このような埋葬方法が存在していたわけで、決して遺体を軽く扱ったわけではないのですが、彼女にしてみれば、高貴な身分の者も、美しかった者も、やがては朽ち果てていく現状を、自らの身を投げうって世間にさらす事で、世の無常・・・世の中は常に移り変わっていき、永遠の物などありはしないという事を示し、そこに仏の道を見いだしたかったのだと・・・
現在の京都でも、北西部の化野(あだしの)や、東山の鳥辺野(とりべの)などはかつての風葬の地として有名ですが、かの帷子ノ辻が、かつては、檀林皇后がその身を投げうって仏の道を解いた聖地とされていたのが、いつしか、「死体を喰い荒らされている幽霊が出る」などの噂が立ち、オカルト的な場所になってしまった事が非常に悲しい・・・
彼女の風葬に関しては、伝説であって事実ではないという意見もありますが、せめて、帷子ノ辻は、心霊スポットではなく、聖地として見守っていただきたいと願うばかりです。
●檀林寺への行き方は、本家HPの【京都歴史散歩・嵯峨野嵐山コース】のページへどうぞ>>
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コメント
こんばんは。
嵯峨天皇は三筆のひとりです。
政変で大変だったのに、書をたしなむ
文化人だったんですね。
皇位を継がなかったら、文化の方で
活躍していたかも。
橘家って文化人多いと思いますが。
聖徳太子の橘夫人の刺繍というのが、
残っています。
投稿: やぶひび | 2010年5月 4日 (火) 18時42分
やぶひびさん、こんばんは~
政界では活躍できなくなった橘家の人々は、文化面で才能を発揮しましたね。
投稿: 茶々 | 2010年5月 5日 (水) 03時02分
茶々さま
橘嘉智子の記事ありがとうございます。
家内の名が嘉智子で、橘嘉智子にあやかって、お父さんが命名したことを、逝ってから、おじさんに聞いて、橘嘉智子を知りたいと、色々と検索して知識を得ました。
葛城一言主神社を調べたり、壇林寺に行ったり、空海や高野山を調べたり、面白いものです。もっと早くに二人で探求しておればと思っていますが、後の祭りです。
分かりやすく橘嘉智子さんの事た分かり、感謝感激です。ありがとうございました。こんな人が沢山おられると思います。大変と思いますが、長くブログを続けていただければ嬉しいです。トシ
投稿: 土橋俊紀 | 2012年1月 1日 (日) 17時00分
土橋俊紀さん、こんばんは~
そうですか…橘嘉智子さんと、そのようなご縁で結ばれているのですね。
いろいろと探求していく事は楽しいですね。
投稿: 茶々 | 2012年1月 2日 (月) 04時34分
橘嘉智子が皇后になれた理由についての解説が非常にわかり易くまとめられていると思いました。
10年も前の記事に今更ながら質問なのですが、藤原冬嗣が嘉智子を皇后に推したかもしれない理由について、利害の一致を論拠にされていますが、藤原北家側のメリットについて何か詳しい考察でもあれば教えていただきたいです。
投稿: | 2020年12月14日 (月) 18時37分
う~ん
本文に書いてある理由だけでは弱いですかね?
藤原冬嗣の周りには女子が少ないので、縁者として使える駒は使おうという感じにも思いますが…
投稿: 茶々 | 2020年12月15日 (火) 01時38分
ご回答ありがとうございます!
確かに女子の少なさは理由と言えるかも...
投稿: | 2020年12月16日 (水) 21時41分