大坂夏の陣~決死の脱出byお菊物語
慶長二十年(元和元年・1615年)5月7日、淀殿に仕えた侍女・お菊が大坂城から脱出しました。
・・・・・・・・・
以前、関ヶ原の合戦における大垣城内の様子を克明に伝えたおあむ(おあん)という女性がいて、彼女の証言を書きとめた『おあむ物語(おあん物語)』によって、当時の合戦での女性の役割などが鮮明にわかる・・・という事を書かせていただきましたが(9月17日参照>>)、同じような女性が、この大坂夏の陣にもいらっしゃいます。
それが、幼い頃から茶々(淀殿)に仕えたお菊という女性で、大坂城落城当時は20歳・・・彼女が、本丸から逃げる様子をつぶさに語った物が『おきく物語』として伝わっています。
ただ、直接聞いた人が、すぐに書きとめた『おあむ物語』と違って、コチラは、お菊が、孫の田中意徳という人物に語った話を、その孫から聞いた人が、かなり後になって書いた物で、筆者の感想なども加わり、やや、信憑性に欠けるとの事のようですが、それでも、貴重な体験談・・・とても興味が沸くお話です。
・‥…━━━☆
すでに、総攻撃が開始されていた慶長二十年(元和元年・1615年)5月7日の大坂城・・・
★その日の戦いの様子は・・・
【大坂城総攻撃(真田幸村・討死)】>>
【毛利勝永VS本多忠朝~天王寺口の戦い】>>
【グッドタイミングな毛利秀元の参戦】>>
でご覧くださいo(_ _)o
しかし、その時、本丸の長局(ながつぼね)にいたお菊は、それほど危険を感じる事もなく、そば焼きを食べようと、下女に「そばを作ってヨ」と申しつけていたところでした。
ところが、その下女が台所へ向かってまもなく、本丸南東にある玉造口(たまつくりくち)が、徳川方の攻撃によって炎上中の情報が入ってきます。
すぐさま、千畳敷の縁側へ出て、見晴らしの良いところで確認すると、あちこちから火の手が上がっているのが見えます。
「これは、いかん!」
と、局へと戻り、かたびら(麻のひとえ)を3枚重ねにして着込み、帯も3本締め、豊臣秀頼から拝領した鏡を懐中にしまいこみ、いざ、台所口から出ると、武田栄翁(えいおう)なる武将と、ほか2名がいて、
「女中の皆さんは、外へ出んといて下さい」
と言います。
「そら、君らは、城を枕に討死の覚悟かも知れんけど、ウチはいやや!」
とばかりに、そんな言葉には耳を貸さずに出ていくと、そこに、秀吉以来、豊臣家のシンボルとなっている金の瓢箪の馬印(合戦の時に大将のしるしとして掲げる物)が落ちています。
「なんで、こんなとこに、こんな大事なモン落としてんねん!
敵に見つかったら、めっちゃハズイやん!」
と、ツッコミを入れながら、たまたまそばにいたおあちゃという女中とともに、これを打ち折ってから、すかさず外へ出ます。
しかし、城外へ出ても、城兵は1人も見当たりません。
「どうしよう・・・」
と、思っていると、物影から現われたのは徳川方の兵・・・
さびまくった刀をチラつかせながら
「ネェチャン、金出せや!」
と・・・
実は、こんな事もあろうかと、お菊は竹ながし(金を竹に流して固めた物)を何本か、胸元深くにしのばせておりました。
そのうちの2本を、男に手渡す代わりに、
「藤堂さんの陣はどこ?」
と尋ねます。
「まつ原口や」
と、男・・・
さらに、次の1本をチラつかせながら、
「その場所まで連れてってくれたら、これも、あげるけどなぁ」
と、言うと、男は
「ささ・・・コチラへ・・・」
と、本来なら城内に向かう事も忘れて、道案内をしてくれました。
その後、ラッキーな事に、やはり城を後にした常高院(じょうこういん・淀殿の妹:お初)の一行に合流する事ができました。
大坂城から脱出する初…「お菊物語」(国立公文書館内閣文庫蔵)
ご存知のように、この常高院さんは、秀頼の母=淀殿を姉に、徳川秀忠の妻=江(江与)を妹に持ち、先刻の冬の陣で徳川との和睦交渉の時の豊富方の使者となっていた人(12月19日参照>>)で、京極高次(きょうごくたかつぐ)さんの奥さんでもあります(5月3日参照>>)。
その常高院さんとともにいた秀頼付きのお女中が、たった1枚のかたびらに1本の下帯のみの姿だったのを見かねたお菊は、
「自分は3枚着てるので・・・」
と、1枚わけてあげるというやさしさも見せつつ・・・
そうこうしているうちに、常高院に、徳川家康からの呼び出しが・・・
求めに応じて、常高院が家康の陣に向かうと、
「城内におる者も、出た者も、女の子らは、関係ないよって、好きなようにしてええで」
との将軍命令が出たとの事・・・
皆で大いに喜んだのです。
その後、お菊は、備前岡山藩の藩医をしていた田中家に嫁ぎ、83歳の天寿を真っ当したとの事・・・
孫に昔語りを聞かせる、おだやかなおばぁちゃんの、ある意味、武勇伝とも言えるお話でした。
それにしても、しっかりとした20歳ですこと!(*≧m≦*)
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コメント
大阪の陣の時に20歳と言う事は、それから50年以上もたって孫に伝えた話ですね。
4代将軍家綱の時代になると、戦国時代は「遙かなる昔」ですからね。3代将軍家光時代でさえもう昔の話でしたね。
現代の感覚で言うと「戦争中に防空壕に逃げるべく、とっさに爆弾をよける支度をした」のを聞いた感じですね。
投稿: えびすこ | 2010年5月 7日 (金) 08時54分
えびすこさん、こんにちは~
この手際のよさは、まさに武勇伝ですね。
投稿: 茶々 | 2010年5月 7日 (金) 10時47分
こんにちわ~、茶々様。
大阪城落城の悲惨なシーンの中でたくましきお菊さんの姿が目に浮かび笑えました。
ところで、ちょっと質問よろしいですか?
秀吉の死後、家康が征夷大将軍に任命される流れってのが未だに理解できません。秀吉は身分にこだわったから関白は良いとして、秀頼を通り越して家康が征夷大将軍に・・・まぁ、『秀頼が大きくなったら交代ね!』みたいな話があったとしても、その時は家康の立場って微妙なのでは?豊臣恩子の大名、また家康をよく思っていない大名、朝廷などなどの反応は?
勉強不足の私事ではありますが茶々様の分かりやすい説明で記事にしてもらえませんか?
垂頭合掌 o(_ _)oペコッ
投稿: DAI | 2010年5月 8日 (土) 02時01分
DAIさん、こんばんは~
>秀吉の死後、家康が征夷大将軍に任命される流れってのが・・・
そうなんです。
それは、私も理解し難い部分でありました。
先日(2月12日)の家康が征夷大将軍になった日のページでのいんちきさんからの質問にも、その時点での思うところを書かせていただいたのですが、それも、自分自身で納得のいく回答ではありませんでした。
ところが、その後、ある方の講演に出席させていただいて、いくつかの古文書を紹介していただいた事で、自分なりのスッキリした関ヶ原から大坂の陣までの流れにたどりつきました。
近々、そのお話をまとめさせていただくつもりでいますので、少々お待ちを・・・o(_ _)o
そのページが、今回のご質問の回答にもなると思いますので・・・
投稿: 茶々 | 2010年5月 8日 (土) 02時35分
茶々様
いんちきです。
自分の名前が出てきて驚いています。
その古文書の内容は興味があります。心待ちにしています。
投稿: いんちき | 2010年5月 8日 (土) 07時40分
おはようございます、茶々様!
私も心待ちにしています。
よろしくお願いします!
投稿: DAI | 2010年5月 8日 (土) 10時28分
いんちきさん、DAIさん、
昨日、奈良の長谷寺に行ってきましたので、本日はその事を書かせていただきますが、ちょうど、明日、5月10日は、家康&秀頼関連の出来事があった日なので、明日の日づけで、その事を書かせていただきたいと思っています。
よろしくお願いします。
追記:5月10日に書かせていただいたページです>>
投稿: 茶々 | 2010年5月 9日 (日) 08時49分