大坂夏の陣・八尾の戦い~ちょっとイイ話
慶長二十年(元和元年・1615年)5月6日、大坂夏の陣において、迫り来る徳川方と迎え撃つ豊臣方で、野戦が展開されました。
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すでに何度も登場してはおりますが・・・
もはや天下を手中に収めた徳川家康が、どうしても潰したい目の上のタンコブは、亡き豊臣秀吉の後を継ぐ豊臣秀頼(ひでより)・・・
その秀頼が寄進した、京都・方広寺の鐘の銘文にイチャモンをつけて、大坂冬の陣を勃発させた家康ですが、難攻不落の大阪城を相手に一旦は和睦を結びます。
(ここまでのくわしい経緯は【大坂の陣の年表】からそれぞれのページへどうぞ>>)
しかし、外堀を埋めるなどの家康の約束破りに対して、再び浪人を集めるなどの豊富方の動きを察した家康は、名古屋に住む息子の結婚を理由に慶長二十年(元和元年・1615年)4月4日に駿府を出発・・・名古屋を経由して10日には、京都に入りました。
一方、すでに家康から将軍職を譲られていた三男・徳川秀忠も、続く21日に京都に到着します。
これを受けて、豊臣方では、大坂城の守りを固めると同時に、迫り来る徳川方への野戦を展開する作戦・・・
家康は、本隊を2手に分け、1軍は大和大路を通り、大和国(奈良県)を迂回して大坂へ至るという松平忠輝率いる3約万5000、もう1軍は、淀川沿いの京街道を南下し、河内方面から大坂に至るという秀忠&家康が率いる約12万の大軍・・・
もちろん、徳川方にくみする畿内の武将も、それぞれが大坂城を囲むべく動きはじめます。
そんな徳川傘下の武将の1人であった紀州(和歌山県)の浅野長晟(ながあきら)軍と、4月29日に樫井(かしい・泉佐野市)でぶつかったのが、豊臣方の籠城軍・主将格を務める大野治長(はるなが)の弟・大野治房(はるふさ)軍・・・そこで、配下の塙団右衛門(ばんだんえもん)が壮絶な討死を遂げた事は、つい先日書かせていただきました(4月29日参照>>)。
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かくして、大坂城へと迫り来る徳川軍と、それを迎え撃つべく城を撃って出た豊臣方によって各地で野戦が展開されたのが慶長二十年(元和元年・1615年)5月6日・・・
大和方面から来る徳川軍を豊臣方の後藤又兵衛(またべえ)が迎え撃った道明寺の戦いでは、かの真田幸村(信繁)が戦いに間に合わず、到着した時には、又兵衛も(2016年4月30日参照>>)薄田隼人(すすきだはやと)も討死(2009年5月6日参照>>)・・・その後、幸村はちょうど進軍中の伊達政宗(だてまさむね)と死闘をくり広げますが、籠城軍からの命令により、夕方には大坂城へと帰還しました(2007年5月6日参照>>)。
一方、河内方面からの徳川軍を迎え撃つべく出陣した木村重成(しげなり)率いる約4700は、若江(東大阪市)にて、徳川配下の藤堂高虎軍を退けたものの、井伊直孝勢の逆襲に遭い、将の重成は討死します(2011年5月6日参照>>)。
その高虎軍と八尾(八尾市)にてぶつかったのが、やはり大坂城から撃って出た長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)・・・(2019年5月6日参照>>)
ここでは、対峙した藤堂勢に大打撃を与えて奮戦する長宗我部勢でしたが、木村勢の敗北が伝えられると、本来、その木村勢とともに行動すべき予定であったため、孤立を恐れて、やむなく大坂城へと帰還する事になります。
その時、盛親の家臣として参戦していた甘牧勘解由(あままきかげゆ)・・・
槍を手に奮戦していた彼も、しかたなく退却を開始した直後・・・藤堂家の家臣・名村石見(なむらいわみ)と目と目が合います。
「俺と勝負しろ!」
迫る石見に、一瞬構える勘解由でしたが、もはや、勝負は終った戦い・・・ここで、戦って討死したら、犬死以外の何物でもない!と考えた勘解由は
「アホんだら!おのれはクソでも喰っとけ!」
と、捨てゼリフを残して、勝負をせずに立ち去りました。
・・・で、このお話には、その後日談があります。
大坂の陣の決着もつき、すでに落ち着いた頃・・・
藤堂家の家臣であった掘信家(ほりのぶいえ)という人物が、ある人と酒を酌み交わした事がありました。
そこで、
「今って、どんな友達と親しくしてるのん?」
と、その人に聞いてみたところ、甘牧勘解由の名前を出したのです。
しかも、その人は、勘解由のオモシロイ話として、あの八尾の戦いでの出来事を話し始めたのです。
「アハハハ・・・俺、その話、知ってる」
実は、信家は、かの石見と大親友・・・
「アイツ、いつも、俺に話しとんねん。『俺にクソを喰らわして逃げたヤツがおる』って・・・、ソレって本当の事やってんなぁ」
と、大笑いです。
なんだか、不思議なエニシで結ばれているような感激を覚える二人・・・
「今度、アイツらも呼んで、4人で会われへんやろか!」
と、話が盛り上がります。
後日、お酒を酌み交わす4人・・・
あの八尾の戦い以来の勘解由も石見も、当時の話で大笑い・・・
その後の4人は、大の親友となり、末永く交流したのだとか・・・
これは、『備前老人物語』や『古実話』に残るエピソードですが、大坂夏の陣と言えば、
○○が壮絶な討死を遂げたとか・・・
大坂市街になだれ込んだ徳川軍によって、目も覆うような殺戮があったとか・・・(9月12日参照>>)
秀頼と、その母・淀殿の自刃とか・・・
何かと、物々しいエピソードばかりが目立ちますが、今日のところは、こんな話もあるのですよ・・・というところをご紹介させていただきました。
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コメント
ここで登場した4人は、戦火を潜り抜けて長命を保ったと言う事ですね。文字通りの「昨日の敵は今日は友」ですね。
歴史上の「ちょっとイイ話」は探せばありそうですね。
投稿: えびすこ | 2010年5月 6日 (木) 18時02分
えびすこさん、こんばんは~
イロイロと知られざるエピソードを探してみたいと思います。
投稿: 茶々 | 2010年5月 7日 (金) 00時52分