北陸争奪戦~謙信と信長と顕如と…
天正四年(1576年)5月18日、上杉謙信が将軍・足利義昭の要請に応じて、本願寺顕如と和睦しました。
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意外な事かも知れませんが、この少し前までは、越後(新潟県)の上杉謙信と、尾張(愛知県西部)の織田信長とは、大の仲良しだったのです。
すでに元亀元年(1570年)には、本願寺第11代・顕如(けんにょ)が本拠地としていた大坂本願寺の寺地の明け渡しや軍資金の要求などのゴタゴタで、その本願寺との石山合戦に突入していた信長でしたが、元亀三年(1572年)には、室町幕府を守るという共通の目標を掲げて、謙信と同盟を結びます。
この前後の、信長は、謙信に、南蛮渡来の「ビロードのマント」を送ったり、あの有名な「洛中洛外図屏風」を送ったり・・・これでもか!というプレゼント攻勢で、彼のご機嫌取りに走ります。
ご存知の方も多いでしょうが、あの「洛中洛外図屏風」なんて、当代最高人気の狩野永徳(かのうえいとく)に、中央部分に輿(こし)に乗って将軍邸に向かう謙信とおぼしき人物を描かせています。
当時、「輿に乗って将軍邸に向かう」なんて姿は、最高権力者の証し・・・その人物を謙信に見立てて作画させるなんて!!!後の覇王・信長からは想像できないベンチャラ臭プンプンの演出です。
これらを貰った謙信が「わぁ~!ウレシイo(*^▽^*)o」と思ったかどうかはともかく、同盟と言いながら、明らかに下手に出て来る信長を、悪く思う事はなかったと思います。
それもこれも、信長は、とにかく謙信が怖かった・・・
それは・・・
一説によれば、謙信の生涯の戦歴は、
70戦・43勝・2敗・25引き分け・・・脅威の9割7分という恐ろしい勝率をはじき出す戦績もあったでしょうが、個人的には、その信心ぶりにあったような気がします。
確かに、信長にも信心はあります。
合戦の前には戦勝祈願をするし、お寺への寄進も行っています。
その線引きは、おそらくは、信仰の対象となる神や仏そのものと、それを布教する神官や僧という所で分かれるのではないか?と考えますが、神や仏は信じても、神官や僧・・・特に、戦国時代に多かった「戒律を破りまくって武装する僧なんて信じられるか!」といった感じではなかったかと思います。
後の、比叡山との一件、石山本願寺との一件を見る限りでも、その事がわかりますし、何より、信長の理に叶った戦い方を見れば察しがつきます。
一見、一か八かの冒険のように思える桶狭間(おけはざま)でも(題名は「一か八か」になってますが(*´v゚*)ゞ…5月19日参照>>)、敵の大将・今川義元の位置を正確に確認し、降りしきる豪雨によって、自軍の気配を消し、間近にまで寄せてから一気の攻撃をしかける・・・確かに、合戦は相手もいる事ですから、相手が自分の思い通りの行動をしてくれるかどうかという点では、その通りの一か八かですが、少なくとも、計画の時点では綿密かつ完璧に用意して出陣を決意しています。
あくまで予想ですが、この時の、義元の位置、豪雨、両者のタイミング・・・どれ一つ欠けても、信長は出陣を取りやめたように思うのです。
その点、謙信は少し違います。
もちろん、運や神頼みだけで上記のような戦績は残せませんから、謙信の武将としての才能もスゴイものであった事も確かでしょうが、そこに、あの毘沙門天への信仰がプラスされる・・・
謙信が毘沙門天の熱烈な信者だった事は有名ですが、それは信者に留まらず、「自らが毘沙門天の化身である」と思っていた可能性が高い・・・
つまり、「自分は毘沙門天の守られている」と考える謙信は、危険かつ無謀な事を平気でやってしまうわけで、そこに、妻も娶らず実子も残さないというストイックな人生で失う物がないぶん、さらに大胆な行動ができるというオマケもつきます。
どっぷりと信仰に浸かった人の捨て身の行動プラスあの戦績が証明する軍事の見事さ・・・この、敵情を視察しつつ計画通りに事を運ぶという自身の思考の範ちゅうを超えた謙信の戦い方が、信長は本当に怖かったという事ではないでしょうか?
(注:あくまで、個人的妄想です)
しかし、そんな二人の関係も、そう長くは続きませんでした。
そこに目をつけたのが顕如・・・信長と対抗するにあたって、最も期待できる戦力は北陸の本願寺門徒です。
なんせ、あの加賀一向一揆で富樫(とがし)を倒してから約100年に渡る本願寺門徒の治める国を造った人たちですから(6月9日参照>>)・・・
しかし、これまでの北陸は謙信と信長の強力タッグに挟まれ、なかなか身動きが取れない・・・一方で、顕如の奥さんの姉の嫁ぎ先=武田信玄の協力により、美濃(岐阜県)伊勢(三重県)などの門徒の活躍はめざましく、これには、信長が一旦、石山本願寺との和睦を申し入れるくらいでした。
しかし、元亀四年(1573年)の信玄の死によって、情勢は大きく変わります。
自らが奉じて室町幕府第15代将軍に擁立した足利義昭(よしあき)を京都から追放し(7月18日参照>>)、元号を天正と改め、浅井・朝倉を倒した(8月27日参照>>)信長は、謙信よりもさらに上にある天下を見はじめ、ともに室町幕府を守るという共通の理念は崩れ去ったのです。
天正四年(1576年)4月、再び、石山本願寺との戦闘状態に入る信長・・・
そして謙信もが、近づいて来る信長に対して、その姿勢をあらわにし始める(3月17日参照>>)と、ここで、暗躍するのは、追放された義昭・・・彼のとりなしで接近した謙信と顕如は、天正四年(1576年)5月18日、和睦を実現させたのです。
これで、北陸門徒の敵は信長1人になり、謙信も安心して西へと兵を進める事ができるようになったわけです。
謙信は、翌・天正五年(1577年)9月には能登をほぼ平定(9月13日参照>>)・・・さらに、その勢いのまま京都に向かって西上し、手取川(石川県)にて、信長が派遣した柴田勝家軍を撃ち破り、その翌月には大聖寺(だいしょうじ・石川県加賀市)でも大勝利!
もちろん、顕如としては、このまま謙信が北陸の本願寺門徒とともに上洛し、信長を根源からぶっ潰す事を期待していたのでしょうが、ここで、大誤算・・・風前の灯火となった信長を救うのは・・・そう、謙信の死です。
そして、ご存知のように、その後継者でモメた上杉家は、約1年間に渡って内戦状態となり(3月17日参照>>)、もはや、信長どころではなくなってしまい、その間に信長は越中(富山県)のほぼ半分ほどを手中に治め、天正八年(1580年)には、勝家によって加賀一向一揆は終焉を迎えます(3月9日参照>>)。
ほぼ本願寺門徒の抵抗がなくなった北陸で、魚津城(富山県魚津市)まで落とされ、もはや風前の灯火となった上杉でしたが、ここで、この上杉を救うのが、信長の突然の死・・・というのは、なんとも皮肉な事ですね・・・・(6月3日参照>>)。
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コメント
ナイスです!
《拍手》
投稿: ポチッ | 2010年9月15日 (水) 16時48分
ポチッさん、ありがとうございますo(_ _)o
素直に喜ばさせていただきます。
投稿: 茶々 | 2010年9月15日 (水) 18時41分
うーん、茶々様の人物分析と信長と謙信の持つ宗教への考えを分解されたのは見事なものがあると思います。自分も大同意です!って、自分の言葉で自分の意見を言えよ、と怒られそうです。
投稿: minoru | 2011年5月18日 (水) 15時04分
minoruさん、こんにちは~
同意していただいてありがとうございます…うれしいです!
投稿: 茶々 | 2011年5月18日 (水) 18時06分