鬼門の猿が目撃者?姉小路公知・暗殺事件
文久三年(1863年)5月20日、幕末に攘夷派の公家の1人として活躍した姉小路公知が、猿ヶ辻にて襲撃され、命を落としました。
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文久三年(1863年)5月20日・・・その日の帰宅は深夜となりました。
時の天皇=第121代・孝明天皇の伊勢・大和への行幸問題がもつれにもつれ、会議が深夜まで続いたのです。
午後10時・・・やっと会議が終わり、皆々、帰宅の途につきます。
尊王攘夷派の公卿・姉小路公知(あねがこうじきんとも)は、同じく行幸推進派である三条実美(さねとみ)とともに、御所の宣秋門(ぎしゅうもん)出て、そこで別れを告げて、それぞれ、屋敷に向かって歩き始めます。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
実美は南へ・・・
公知は、二人の護衛とともに北へ・・・
御所の白塀沿いに北西の角を曲がり、やがて、北東にある「猿ヶ辻」にさしかかります。
京都御所に行かれた方はご存知かも知れませんが、御所を囲む土塀の角が、この北東の部分だけへこんでおり、その屋根の軒下には、烏帽子をかぶって御幣(ごへい・神主さんがお祓いをする時に使うベラベラの紙のようなヤツ)を持った猿の彫刻が鎮座します。
北東の角が欠けているのは、いわゆる鬼門というヤツで、魔物封じのため・・・猿は、インドの叙事詩「ラーマヤナ」や「西遊記」の孫悟空を見てもわかるように、魔物を退治する動物というところから来ているのでしょうが、その話をすると長くなりそうなので・・・
とにかく、ここは、その猿の彫刻がある事から、猿ヶ辻という名前で呼ばれていた場所なわけです。
電灯のない時代です。
おそらくは、真っ暗闇の中・・・
現代社会とは違う夜の10時・・・
しんと、静まりかえる御所の鬼門は、張りつめた空気に満ちていたかも知れません。
そんな中、一筋の光が走ります。
暗闇の中から手裏剣のような物が放たれ、護衛の1人・中条右京の足を襲ったのです。
うずくまる右京・・・と、その瞬間、覆面をした二人が現われ、公知めがけて斬りかかります。
喉から肩にかけての一撃を喰らった公知・・・応戦しようと、刀を求めますが、彼の刀を持っていたもう一人の護衛・鉄輪左近は、恐怖のあまり、刀を持ったまま、一目散に逃走してしまっていました。
やむなく公知は、手に持った扇で剣先を防ぎながら、身をかわす事、幾たびか・・・
そのうち、態勢を立て直した右京が、賊の1人に斬りかかり、一撃を食らわします。
これを形勢不利と見たのか?・・・そのまま賊は、闇の中へと消え去ってしまいました。
深手を負いながらも、賊から奪った刀を杖に、何とか自宅まで戻った公知・・・しかし、そこで力尽きました。
享年25・・・
これが、朔平門(さくべいもん)外の変、あるいは猿ヶ辻の変と呼ばれる公知暗殺事件です。
そもそもは、あのペリー来航以来、アメリカの圧力に屈して結んでしまった日米修好通商条約・・・この時に初めて攘夷の声を挙げてから、将軍・徳川家茂(いえもち)と孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)の結婚(8月26日参照>>)に猛反対した公知は、尊王攘夷派の期待の星となっていました。
文久二年(1862年)には、天皇の勅使(ちょくし・天皇の使い)として、かの実美とともに江戸城へとおもむき、幕府に攘夷の決行を約束させました。
その約束は、翌・文久三年(1863年)3月の家茂の上洛という形で果たされます。
この時、公知ら過激な尊攘派は、孝明天皇が賀茂社へ「攘夷祈願」として行幸し、そのお供を家茂にさせたうえ、将軍を末席に置く事で上下関係を見せつけました。
さらに、彼らは、天皇の石清水八幡宮への行幸も計画していました。
八幡太郎義家ゆかりの源氏の神様へ天皇と将軍とがお参りをし、そこで、家茂に刀を授けて、武力行使をうながそうと考えたのです。
ただ、これは、その当日に家茂が体調を崩して欠席をし、代理でやってきた将軍後見の徳川慶喜(よしのぶ)も、腹痛と称して途中でバックレたために(←めっちゃアヤシイ)、実現には至りませんでしたが、それでも、何とか、攘夷決行の日づけを切り出す事に成功したのです。
その攘夷決行の日づけというのが文久三年の5月10日・・・あの、長州藩が、関門海峡を通過しようとしたアメリカ商船を攻撃しちゃうアレ(5月22日参照>>)です。
・・・て、事は、この公知の暗殺事件は、その10日後という事になります。
これだけ攘夷派の先頭に立っていた公知ですから、それならば、犯人は開国派???
いえいえ、それが、事は、そう簡単ではないのです。
実は、家茂は京都滞在中に、大坂湾の湾岸警備の視察というのを行っています。
以前、家茂さんのご命日である7月20日のページに書かせていただきましたが(7月20日参照>>)、この時、案内役となった勝海舟の熱弁で、即座に海軍を作る事をOKしたという出来事がありました。
実は、この時、朝廷内では「家茂は大坂に行ったまま、京都へは戻らずに江戸に帰ってしまうのでは?」との噂が流れ、その家茂の動向を監視するために、公知が、その視察に立ち会っていたのです。
一説には、公知の気質と聡明さを見抜いた慶喜の案という話もありますが、とにかく、その日、公知は、家茂とともに、その勝海舟の熱弁を聞いてしまった・・・
そうです。
それこそ、勝の熱弁で聡明な家茂が、海軍の重要性に気づいたように、聡明な公知も、勝の熱弁で日本の置かれている現状に気づいてしまったというワケです。
現に、この直後、朝廷から「大坂湾防衛強化」の沙汰が下されています。
つまり、尊攘派の先頭を走っていた公知が、幕府側に走ってしまった???・・・と、攘夷派の面々が思った可能性大なのです。
・・・で、結局、容疑者として逮捕されたのは、幕末の四大人斬りと呼ばれたアノ男・・・
と、行きたいところですが、そのお話は、その逮捕劇が行われた6日後=5月26日のページへどうぞ>>!!
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コメント
茶々さん、こんにちは!
朔平門外の変(猿ヶ辻の変)、確かに木猿が第一目撃者やと思います(笑)
しかも公知はん、従者がさっさと逃げたにも関わらず、応戦したのも立派そのもの…
これはその当時、公知の家臣だった跡見花渓って女性の家族から花渓がその状況を聞いた記録が『跡見花渓日記』として、花渓が後に設立した跡見学園大学の学校史に掲載されています。
ps.
このネタ、TBしようかな、と思いましたが、止めときます。
投稿: 御堂 | 2010年5月20日 (木) 16時20分
御堂さん、こんばんは~
なんと!学校史に…
歴史のある学校にびっくり!!
…で、なんでTBを???
ネタばれ、に気をつかっていただいたという事でしょうか?
ありがとうございますm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2010年5月20日 (木) 23時37分