関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係に新説?
慶長十年(1605年)5月10日、徳川家康が豊臣秀頼に上洛を促すも、秀頼が、これを拒否しました。
・・・・・・・・・・
関ヶ原の合戦は慶長五年(1600年)・・・
大坂の陣の勃発が慶長二十年(1615年)・・・
以前より、この間の豊臣と徳川の微妙な関係が気になっておりました。
ブログにも度々書かせていただいておりますが、天下分け目の関ヶ原と言えど、これは、後々の歴史を知っている者が感じる、この後の江戸時代ありきの考えであって、勃発当時は、あくまで豊臣家内のトップ争いだったわけです。
西軍の石田三成からすれば、亡き秀吉の決めたルールを守らず、遺児・秀頼が幼いのを良い事に、代役として采配を振る家康が、豊臣家内を乱す叛逆分子であり、
東軍の家康から見れば、豊臣恩顧の加藤清正や福島正則らとことごとく対立する三成が、豊臣家内を乱す叛逆分子だったわけです。
もちろん、家康個人には、すでに豊臣家に代わって天下を握る構想があったかも知れませんが、少なくとも、その事は、家康自身の心の中だけであって、たとえポーズであったとしても、表向きは豊臣家のために三成を討つという姿勢であったはずです・・・でないと清正ら豊臣恩顧の武将が味方につく事はなかったでしょうし、合戦のわずか12日後に、大坂城の秀頼と淀殿の前に出て、勝利の報告とともに「豊臣家への忠誠を誓う」なんて事をするはずもありません。
ここでは、あくまで家康は、豊臣家の臣下だったわけです。
しかし、世に出ている多くの書籍には、「この関ヶ原の合戦の前と後では、大名たちの石高が大きく変動した」と書かれています。
つまり、勝利した東軍に属した大名は、その恩賞として石高が大幅に上がり、負けた西軍の大名は、没収されて浪人になるか大幅カットか・・・確かに、合戦があったのだから、そうなるのは当然ですが、不可解なのは、主君である秀頼の石高です。
上記の通り、関ヶ原の合戦が豊臣家内の内部抗争ならば、なぜ、秀頼の222万石もあった石高が、摂津・河内・和泉のみの65.7万石になるのか?
この領地配分をやったのは、幼い秀頼に代わって、事実上の采配を振っていた家康だと言いますが、清正ら、豊臣恩顧の武将は、この事に疑問を持たなかったのでしょうか?
中には、ここで「豊臣家は一大名になり下がった」とまで書かれている書籍もある中、私の見る限りでは、この疑問に対して、明確な回答が書かれている物は、未だありませんでしたので、いつもモヤモヤしながらも、自分なりにイロイロ考えておりました。
そんなおり、2月12日の【徳川家康・征夷大将軍への道】>>のページで、このブログを読んでくださっているいんちきさんから、
「関が原の合戦は”豊臣家内のトップ争い”とあります。ではなぜ、合戦後に豊臣家の領地は削られたのでしょう?」
という、ご質問をいただきました。
そのページのコメントにて、
「すでに、全国のほとんどがどこかの大名の領地となっている現状では、新たに与える領地がなかったので、豊臣家の直轄地から分け与えるという形にしたのでは?」
といった感じの、思うところを書かせていただいたのですが、それでも、「家康がドサクサにまぎれに取っちゃった」みたいな事が書かれている本よりは、少しは説得力があるかな?程度の物で、自分自身でもスッキリとは言い難い物でした。
なんせ、私は単なる歴史好きですので、秘蔵の古文書を特別に見せていただいたりできる立場にはなく、もとになる史料と言えば、一般に公表されている物を展示会で拝見したり、現地へ行って観察したり、市販されている書籍を読まさせていただくしかないわけで、あまたある書籍に「こうなのだ」と書かれていると、まずは、そこから考えるしかなかったわけですし・・・
そんな中、先日、ある歴史講座に参加させていただく機会があり、今まで知らなかった史料を教えていただいた事で、やっと、「関ヶ原後の豊臣家の石高は65.7万石」の出どころを知ったのです。
まずは・・・
文化九年(1812年)に書かれた『廃絶禄』・・・
ここの元和元年の所に、
「六十五万七千四百石 摂州(摂津)大坂城 摂津・河内・和泉 豊臣右大臣秀頼公
五月八日、大坂城に於て二十三歳にて自害」
とあります。
『廃絶禄』とは、徳川家が統治した江戸時代に廃絶となった人たちを一覧にまとめたデータベースのような物・・・同じ年には、古田織部(ふるたおりべ)の名前も見えます。
そして、もう一つ・・・
明治以降に書かれた『徳川除封禄』・・・
これも、上記の『廃絶禄』と同様に徳川家時代に除封となった大名のデータベース。
「六拾五万七千石 豊臣右大臣秀頼
居城 摂津国西生(成)郡大阪(坂)
元和元年五月八日、大阪(坂)城中ニ戦死シ除封セラル」
この次には、大野治長(はるなが)が続きます。
「文化九年?」「明治以降?」
しかも、文化六年(1809年)に成立した『断家譜』という、やはり江戸時代に廃絶した大名や旗本の家譜を集成した物には、豊臣家は収録されていない=文化九年(1812年)以前の記録では、豊臣家は江戸時代に廃絶した大名の中に含まれていないというワケです。
つまり、豊臣家が65,7万石の一大名として廃絶となった事が登場するのは、文化九年=関ヶ原から200年以上も経ってからという事になります。
このお話を聞いて、が然、何でも疑ってかかるイケズな性格がムクムクと湧き出てきました!
つまり、関ヶ原直後の豊臣家は、石高を減らされてもいなければ、当然、一大名に成り下がってもいないかも?・・・それを主張しているのは、200年後の徳川幕府?という事になりませんか?
そうなると、関ヶ原後も、諸大名はおろか、公家までもが、毎年、正月の挨拶をしに、大坂城へと赴いたのも納得ですし、豊臣恩顧の武将が、文句を言わないのも納得です・・・なんせ、大勢は、戦前も戦後も変わらないのですから・・・。
家康は、関ヶ原の合戦の勝利一発で天下を手に入れたのではなく、その後、15年かかって、徐々に大勢を変えていき、大阪の陣で、やっと豊臣家を倒す事ができたという事なのではないでしょうか?
その証拠と言えるのが、慶長十七年(1612年)9月28日の日づけで書かれた秀頼の黒印状・・・
「備中国小田郡烏双村弐百廿九石弐斗、 同郡大河村六拾五石六斗、 同郡小林村内五石二斗、都合三百石之事、令扶助訖、全可領知者也、
慶長十七年 九月廿八日 御黒印
毛利兵橘とのへ」(豊臣秀頼知行宛行状写)
つまり、慶長十七年の時点で、秀頼は、備中(岡山県)の領地についての采配を振っていた事になります。
これら秀頼から領地をもらった武将の多くが、大阪の陣で戦死しているため、現存するのは、わずかに6通だそうですが、備中以外にも山城(京都府)や近江(滋賀県)の物が確認されており、
もし、関ヶ原後の秀頼の領地が、摂津・河内・和泉だけの一大名に成り下がっていたのなら、他人の領地を一大名が勝手に与えた事になってしまいます。
そこで、関ヶ原以降もそのまま続いていた豊臣家の威勢を、徐々に、自分の大勢へと持っていこうとする家康が、征夷大将軍に任命されるわけですが、それに関しては、先日の【お菊物語】のページ>>に、いつもコメントをいただいている DAIさんから「その時は家康の立場って微妙なのでは?豊臣恩子の大名、また家康をよく思っていない大名、朝廷などなどの反応は?」という質問をいただきました。
2月12日のページにも画像を転載させていただいたように、原本こそ無いものの、複数の1級史料に記録が残されている以上、その日の将軍宣下は、おそらく間違いない事なのでしょうが、本文にも書かせていただいたように、豊臣家は関白・・・なので、家康が征夷大将軍になったからと言って反豊臣とはならないのでは?と、以前から思っていたのですが、さらにスッキリする証拠の書状を教えていただきました。
それは、文禄四年(1594年)8月3日付けで書かれた毛利輝元の自筆の書状・・・
文禄四年と言えば、先の朝鮮出兵が一段落したものの、未だ正式な和睦には至らず、なんだかんだと交渉中の微妙な頃・・・輝元は、畿内にいて、国許に、「オレ、無事に元気でやってるからな~」てな事を報告している文面なのですが、そこに・・・
「昨日御城へ参候而神文(秀吉と秀頼に忠誠を誓う血判書の事)とも仕候、東ハ家康、西ハ我々へまかせ被置之由候、面目此事候・・・」
とあります。
つまり、昨日登城して謁見し、改めて豊臣家への忠誠を誓った輝元に、秀吉が
「東は家康に、西は輝元に任せる」と言ったというのです。
以前、奈良時代の歌人でもある大伴旅人(おおとものたびと)が、九州の隼人族を制圧するための征隼人持節大将軍に任命されたお話を書かせていただきましたが(3月4日参照>>)、この天平の時代より、将軍と名のつく役職は複数あって、もともとは、東にいる蝦夷(えみし)を征するから征夷大将軍なのだとお話させていただきました。
この場合の輝元は鎮西(ちんぜい)大将軍とでも呼ばせていただきましょうか・・・そうです、家康の征夷大将軍、輝元の鎮西大将軍、そして、その上に全国を統一する豊臣家・・・これが、秀吉が生きている時からの構想だったのです。
そう考えれば、この時の家康の将軍宣下に対して、豊臣家も朝廷もが、いかにも素直な事が当然となってくるわけです。
秀頼は、まだ若いですから、急がずとも、いずれ関白に・・・と、誰しもが思います。
まぁ、結果的には輝元の鎮西大将軍も秀頼の関白も実現しなかったわけで、それが征夷大将軍=武門のトップという錯覚を起させてしまい、あたかも、家康が、将軍となった時点で、天下を取ったような印象を受けてしまうわけです。
そうなると、本日の、「徳川家康が豊臣秀頼に上洛を促すも、秀頼が、これを拒否」というのも納得・・・いや、当然です。
さらに、ご存知のように、大阪の陣のきっかけと言われている、京都・方広寺の鐘銘事件(7月21日参照>>)ですが、銘文にイチャモンをつけた家康が、
1、秀頼の江戸への参勤
2、淀殿の江戸在住
3、秀頼が国替えして大坂城を出る
の条件を出してきますが、コレ、関ヶ原直後に豊臣家が一大名になってしまっていたのなら、すでにやっていなくてはならない当然の事ですが、秀頼は、まだやってなかったからこそ条件に出したわけです。
つまり、家康は、この時でも、まだ天下を取ってはいなかったわけで、だからこそ、大坂の陣を仕掛けて、豊臣家をぶっ潰す必要があったという事なのです。
・・・とは言え、まだまだ謎はあります。
もちろん、誰も見た事がない以上「これが正解!」と言えるものでもありませんが、なにやら、以前からのモヤモヤした物が、少しフッ切れたような気がします。
まだ、書き足りない部分もあるのですが、一つのページが、あまり長くなると、読んでいただく方にも負担となりますので、今日のところはこのへんで・・・
新説というよりは、別の視点で見ると・・・という感じかも知れませんでしたね。
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コメント
この新説だと、徳川家は将軍で武門に君臨して、豊臣家が関白を世襲して朝廷に君臨する「公武住み分け構想」と言えますね。
豊臣の関白世襲が頓挫しているのでこれはむりでしたね。豊臣世襲の可能性はゼロではありませんが。
そうなると家康将軍就任で、豊臣が腹を立てるのはおかしいですね。ただ、秀吉時代の権勢がなかったのも事実。
徳川の天下が確立するまで15年の移行期間が必要と言えますね。過去の大河ドラマはその前提で製作していたのかも。
来年はどういう解釈になるでしょうか?
投稿: えびすこ | 2010年5月10日 (月) 09時14分
えびすこさん、こんにちは~
また、いずれ書かせていただくつもりでおりますが、「公武住み分け」というよりは、秀吉は、公家の家格と同じような、武家の家格制の導入も準備していたようです。
それは、近衛や高司…などの五摂家に相当するのが豊臣家、久我や西園寺…などの七清華に相当するのが、いわゆる五大老になっていた徳川・前田・毛利・上杉・小早川といった感じだそうですが、これは秀吉の没後も、家康の将軍就任後も機能していて、その大勢を潰すための大坂の陣だった可能性大と言えるかも知れません。
投稿: 茶々 | 2010年5月10日 (月) 11時11分
こんにちわ、茶々様。
新説が凄過ぎて驚きながら興奮しながら
読ましていただきました。
>家康の征夷大将軍、輝元の鎮西大将軍、そして、その上に全国を統一する豊臣家
>征夷大将軍=武門のトップという錯覚
今日は歴史ファンを自称する私ですが、喉につかえていたものが『腑』に落ちました。ヽ(´▽`)/
これで寝れる
(-.-)zZ
今日も茶々様に感謝です!
投稿: DAI | 2010年5月10日 (月) 12時50分
DAIさん、ありがとうございます。
私も、長年の胸のつかえが取れましたヽ(´▽`)/
・・・と言いながら、また新しい史料を見せてもらったら、気が変わる可能性も・・・
いやいや、これはなかなか変わらない気がします~
投稿: 茶々 | 2010年5月10日 (月) 14時51分
関が原の戦いで五奉行が「壊滅」して、五大老も「解散」状態と思っていました。
小早川と入れ替わりの宇喜多秀家が最年少ですが、この人が少し後に流罪になっているので「解散」と考えてました。
幕府発足後もまだはっきりと二派に割れていたんですね。
考えてみれば、関が原の戦いから家康将軍就任まで「3年も」かけていますね。
投稿: えびすこ | 2010年5月10日 (月) 15時56分
茶々様
勝者によって歴史は書き換えられるということでしょうか。
ただ、歴史のロマンを感じますね。
投稿: いんちき | 2010年5月10日 (月) 16時21分
初めてコメントさせていただきますので、ちゃんと登録できるか心配の伸之介です。 毎日楽しくまた興味深く拝見しております。さて何かの歴史番組で徳川は豊臣を越えるために、従1位で源氏長者を得る戦略だったというのを聞きました。その点どうなのでしょうか?もしよろしければ教え願います。
投稿: 伸之介 | 2010年5月10日 (月) 22時10分
茶々さん、こんばんは!
>関ヶ原の合戦が豊臣家内の内部抗争ならば、なぜ、秀頼の222万石もあった石高が、摂津・河内・和泉のみの65.7万石になるのか?
毛利兵橘宛慶長十七年九月廿八日付豊臣秀頼黒印状(知行宛行状)は20年以上も前から話題にはなってましした。僕もこれを使って「大坂衆」について卒論を書こうとしたのですが、ゼミ教授に「10年(取り上げるのが)早い」と言われ、諦めたクチです。
その間、というか現在もですが、秀頼が「65万石の大名」という考え方は何ら変わっていませんよね。
僕は秀頼は幕府の枠から外れた別の公儀の中心人物と捉えて研究してます!
投稿: 御堂 | 2010年5月10日 (月) 23時44分
えびすこさん、こんばんは~
関ヶ原から大坂の陣の間は、かなりグレーゾーンみたいですね。
いろいろと想像するのがオモシロくなりそうです。
投稿: 茶々 | 2010年5月11日 (火) 00時02分
いんちきさん、こんばんは~
徳川家によって書き換えられた歴史を、一つ一つ紐解いていくのが快感になりそうですね。
投稿: 茶々 | 2010年5月11日 (火) 00時05分
伸之介さん、始めまして~
>徳川は豊臣を越えるために・・・
豊臣と言わず、朝廷をも超えようとしたかも知れないとも思います。
もちろん、天皇相手に武力は使いませんが・・・
大坂の陣から、わずか2ヵ月後に、幕府は「禁中並公家諸法度」を発布しますが、それが決定するまでの2ヶ月間は、天皇の扱いをどうするかで、かなりモメたようです。
くわしくは、いずれ書かせていたただきたいと思っておりますが・・・
また、遊びに来てくださいね。
投稿: 茶々 | 2010年5月11日 (火) 00時12分
御堂さん、こんばんは~
>10年早い・・・
さすがですね~
でも、おっしゃる通り、
秀頼が「65万石の大名」という考え方は今も変わってませんね。
やはり、何らかの史料の発見が待たれるというところでしょうか?
投稿: 茶々 | 2010年5月11日 (火) 00時15分
新説、ご馳走様です。
妄想ネタが増えました。
これで寝不足、確定です。(笑)
投稿: ことかね | 2010年5月11日 (火) 13時02分
ことかねさん、こんにちは~
妄想ネタ・・・
歴史好きにとっては、この上ない褒め言葉です。
ありがたくいただいときます!
投稿: 茶々 | 2010年5月11日 (火) 14時09分
始めまして、大変興味深く拝見させていただきました。
さていきなりお話に水を差すようで大変恐縮なのですが、私が思うにそれでも秀吉生前と以後とでは収入が大幅に縮小されているような気がしてならないのです。
ご存知かとは思われますが、豊臣家220万石と言うのは、たしか蔵入地を含めての数字だったと記憶しております。
蔵入地は朝鮮出兵など度重なる出費で疲弊した大名を救うためとの名目で、関が原以前に家康により撤廃されましたし、
また豊臣家の主な資金源は金銀山の上納金でしたけど、これも関が原以前に家康が撤廃させましたよね。
やはり単純な石高で見ると変わっては居ないけど、その収入源のほとんどは削り取られてしまったと見ていいのではないでしょうか。
私なんかはむしろそういった所に家康のしたたかさを感じてならないのです。
投稿: 男爵 | 2010年5月11日 (火) 19時23分
すいません、文章にしてみたら超上から目線に仕上がってますね。
私の書いたことは、全く調べてない上に、かなりうろ覚えで酔っ払って書いてるので基本的に間違ってる可能性はかなり高いです。
投稿: 男爵 | 2010年5月11日 (火) 19時27分
男爵さん、こんばんは~
本文にも書いてますが、まだまだ謎は多いです。
ただ、家康がしたたかなのは確かですね。
いろんなパターンを考えてみるのもオモシロイかも知れません。
投稿: 茶々 | 2010年5月11日 (火) 22時01分
こちらでは戦国時代の貨幣価値を石高重視の視点で考えられておられるようですが、米自体が貨幣基盤であるという考え方はむしろ江戸時代に入ってからではないでしょうか。
戦国時代は恩賞や給料は米で払ったり、金で払ったり、色々あるけどつまるとこどちらでもよかったのかもしれません。
米は取れないけど鉱山はあり、鉱山はないけど米は取れる、こういったところはどこも重要視されておりました。
金銀は海外貿易や商売や兵や兵糧の売買にも役に立ちますし、米は生きる基盤にもなります。
豊臣家は鉱山や税の取立てを重視し、領国自体は多くありませんでした。
全国の鉱山を押さえ、毎年全国の米を買い占めても余るほどの金銀が手に入り、家臣団が多く蔵入地の米収入も安定しているから磐石だと考えたのでしょうが、両方とも直ぐにつぶされてしまっています。
それを豊臣の名の下に全国の大名に配るから誰かが公に文句を云う事も難しくなります。
元より豊臣家の税金は高すぎました。
こうなると権威だけが残ったプチ足利幕府になってしまいます。
しかしその権威の象徴である関白位すらも家康によって朝廷に返上され、秀頼に引き継がれることはありませんでした。
投稿: 男爵 | 2010年5月11日 (火) 23時29分
男爵さん、こんばんは~
>戦国時代の貨幣価値を石高重視・・・
というよりは、関ヶ原が豊臣家内のトップ争いなのだとしたら、なぜ、秀頼(豊臣家)の石高が減らされたたのか?
豊臣恩顧の武将が、それに文句を言わないのはなぜか?
という事で話を進めていきましたので・・・
当時、日本にいた朝鮮人の姜沆(きょうこう)という人が『睡陰看羊禄』という本の中で、オモシロイ表現をしています。
「家康は関東から京都まで米で道をつくり、輝元は山陽・山陰から京都まで銀で橋をつくる」
当時の東日本と西日本の経済の違いをうまく表現しているように思います。
投稿: 茶々 | 2010年5月12日 (水) 01時15分
茶々様 はじめまして
以前から愛読させていただいておりましたが、たまたま先祖(毛利兵橘)の事を調べておりましたら茶々さまのサイトに記述が...!
>慶長十七年(1612年)9月28日の日づけで書かれた秀頼の黒印状・・・(中略)毛利兵橘とのへ」(豊臣秀頼知行宛行状写)
そこでおたずねしますが、この資料はどちらの所蔵でしょうか。現存が6通とはとても貴重なもののようですね。
戦国好きの私にとっては、ご先祖が秀頼さまから黒印状を拝領して写しが残っていたなんて大感激なんですが、私がネットで調べた限りではこの書状の出所がわからず終いでしたので、茶々さまにおたずねする次第です。
是非とも、ご教示いただければ幸いです。
ちなみに、この毛利兵橘は後に徳川の旗本となり、江戸にて幕末まで続いております。黒印状が残ったのも豊臣方の生き残りゆえかと推察しております。
投稿: 三毛 | 2014年12月10日 (水) 16時01分
三毛さん、コメントありがとうございます。
私も、原本が残っているのか?どうかは確認していないのですが、教えていただいた出典は、【記録御用所本『古文書』】という、江戸時代に幕府が、旗本たちに、家中で所蔵する古文書などを提出させて、「写し」をとって記録に残したデータベースのような文献の中に、その「写し」があるとの事です。
おっしゃる通り、旗本として生き残ったので記録に残ったのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2014年12月10日 (水) 17時18分
茶々さま、御礼が遅くなりまして済みません。
さっそく資料の名前を教えていただきありがとうございました。
>記録御用所本『古文書』
図書館にあるようなので、近々見てこようと思います。ご先祖のことは、まだ調べ始めたばかりなのですが、こうして江戸幕府が旗本の記録を残してくれているのはありがたいです。
なにか興味深い事実がわかったらこちらでご報告させていただきます。
ありがとうございました。
投稿: 三毛 | 2014年12月17日 (水) 14時14分
三毛さん、お返事、ありがとうございます。
私も、ネットで検索してみたところ、いくつかの解説本が出版されているのを確認したのですが、「上下巻あるようだし」「なかなかに高価だし…」と悩んでいたのですが…
そうですか!
図書館にあるのでしたら、お目当ての部分だけでも、先に閲覧できますね。
何か、新しい発見があれば、お知らせください。
投稿: 茶々 | 2014年12月17日 (水) 16時12分
茶々さん、はじめまして
秀吉の死後、徳川家の天下取りを画策したのは、謀略家である本多正信だと言われています。
三河武士は、謀略を嫌う武闘派気質。家康の人柄についても、情に厚いと言われています。
家康は、多くの戦国大名から畏怖されると同時に信頼されていたのは事実でしょう。
豊臣家を滅ぼす原因を作ったのは、間違いなく秀吉です。北条討伐、朝鮮討伐、黒田官兵衛を遠ざけたこと、茶々狂い・・・晩年の秀吉は狂人としか思えません。
余談ですが、我々、一般人に影響を与えた政策と言えば、農民から自主防衛力を奪った「刀狩り」と、町内会の礎となった「五人組」が挙げられます。
これらは、為政者にとっては、国民を御しやすいのですが、国民にとっては、「野生の力」を奪われて、家畜化されたようなものです。
そのために、国民1人1人の犯罪やいじめ、自殺などへの抵抗力が弱まったのです。
投稿: ミッチー | 2016年6月25日 (土) 23時50分
ミッチーさん、はじめまして
家康さんや徳川家の皆々様がお好きな事がひしひしと伝わって来るコメントですが、ミッチーさんが徳川をお好きなように、私も豊臣が好きなので、やはり、本文に書かせていただいたように、現在に伝わる歴史は、徳川によって書き換えられている部分がけっこうあるんじゃないか?と思っています。
自らが天下を取った後に、秀吉の墓を潰したり、豊国神社をはじめ、秀吉の生きた痕跡をことごとく末梢しようとする行為には、ミッチーさんのおっしゃる「情に厚くて信頼される」という人物像とは別の人物像が見え隠れするような気がしてなりません。
もちろん、それらの事を家康自身が率先してやったかどうかはわかりませんが、神君家康公にセコイ事はさせられないので、家臣が勝手にやった事になってる場合もあるかも知れません。
ただ、それは悪い事ではないです。
むしろ、それだけ、したたかでヤリ手で、ある意味冷酷な人でない限り、戦国乱世に終止符を打つ事なんてできなかったでしょうし、だからこそ政権が長持ちしたと言えるでしょう。
また、
おっしゃる通り、豊臣滅亡の原因が秀吉自身にある事も確かでしょう…なんせ子供が一人しかいませんから…それも、自分が死ぬ時にまだ幼児だった事が最大の要因かも知れません。
家康のように、若いうちに男子が生まれていて、その後も、九男・十男ともうけていたら、ちょっとは変わったかも知れませんね。
ただ、
「北条」は北条自身も意固地になってた部分もなきにしもあらず…
「黒田官兵衛」は、関ヶ原を見る限りでは、(秀吉が警戒した通り)彼自身にも野望があったように思いますし、
「朝鮮出兵」も、当時の世界情勢を見れば、それほどおかしな事ではありませんし、
「茶々狂い」って、ドラマでは見ますが、あまり聞いた事無いですし、秀吉には、他にもたくさん側室がいましたので、茶々姫だけ特別って事も無いようにも思います。
とにもかくにも、私個人的には、佐世元嘉が書き残したように、秀吉は、晩年どころか、死の間際までシッカリしていたと思ってます。
投稿: 茶々 | 2016年6月26日 (日) 01時25分
茶々さん、些か文章が傲慢であったことをお詫びします。
そのため、秀吉に酷評をしてしまいましたが、彼の非凡さは認めています。また、彼自身に魅力があったからこそ、天下の逸材が集まったのでしょう。
兎に角、秀吉の行動は、私の器量で計りきれないことは確かです。
また、茶々さんに誤解されてしまいましたが、私は徳川贔屓ではありません。豊臣潰しの残虐さや、陰湿な江戸幕府には、嫌悪感すら抱いています。
しかし、私にとっては、徳川の「隙のない強さ」に、学ぶべき所が多いとも感じています。
投稿: ミッチー | 2016年6月26日 (日) 19時20分
ミッチーさん、こんばんは~
そうでしたか…
こちらこそ、憶測でお返事してしまって申し訳なかったです。
先のコメントにも書かせていただきましたが、私も、豊臣好きではありますが、家康はスゴイと思います。
「鬼のような…」が褒め言葉となるような戦国を終わらせるためには、時には徹底的にやらねばならない事もあり、ある意味、憎まれるほどの人物でないと成功しなかったと思っています。
そういう意味で、家康は聖人君子では無く、どちらかと言うと悪人の部類に入ると思ってますが、戦国においては、それが重要で、そこがスゴイと思っています。
それこそ、信長にも秀吉にもできなかったわけですし…長期に渡る平和を成し遂げた家康と、サポートした家臣、後世につないだ後継者たちは、本当にスゴイと思います。
投稿: 茶々 | 2016年6月27日 (月) 13時38分