応仁の乱~初戦は激しい五月合戦
応仁元年(1467年)5月28日、20日に勃発した応仁の乱の戦況を見た将軍・足利義政が、山名宗全と細川勝元に停戦命令を出しました。
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その日の日づけで思いついた事を書いてしまうという、このブログの性質上、話が前後してややこしくなり、まことにもって申し訳ないです(*_ _)人
一度、整理しましょう(゚ー゚;
ご存知のように、応仁の乱は、室町幕府・第8代将軍の足利義政が、その趣味に没頭しいたいがため、早々と子供の誕生を諦め、弟の足利義視(よしみ)に「将軍を譲る」と約束しちゃった直後、嫁さんの日野富子がご解任あそばし、息子の義尚(よしひさ)が誕生・・・わが子を次期将軍にしたい富子が、守護大名として頭角を現し、当時日本の6分の1を持っていたという山名宗全(そうぜん・持豊)に近づいたところから火がくすぶりはじめます。
そんなくすぶりが表面化するのが文正元年(1466年)12月・・・管領家=畠山家のトップ争いに敗れて京都を追われていた畠山義就(よしなり)が宗全の手助けにより上洛します。
当然の事ながら、畠山家の家督を継いで現在の当主となっている畠山政長(義就とは従兄弟)にとっては最大の危機なわけですが、当時は中立の立場にあった将軍・義政が、このお家騒動への関与を禁止したために、政長を支援していた管領家の名門・細川勝元は彼を助ける事ができず、政長は自宅に火を放って上御霊神社にて戦闘態勢に入りますが、ここで敗れて逃走します・・・これが文正二年(1467年)1月18日の御霊合戦と呼ばれる戦いです(1月17日参照>>)。
政長が京都を去った事で、新管領には山名派の斯波義廉(しばよしかど)が就任し、勝利の美酒に酔う山名派ですが、この時、水面下で着々と次の作戦を展開していたのが、戦場から逃走した政長と、彼を助けられなかった事を後悔する勝元・・・
改元されて応仁元年となった5月20日・・・この間に将軍・義政を味方につける事に成功した勝元は、やや強引に、「京都を荒らす山名一派の追討命令」を取り付けたのです・・・これが応仁の乱の勃発です(5月20日参照>>)。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
そして、6日後の5月26日未明には、細川派の武田信賢(のぶかた)らが、室町第近くにある一色義直(いっしきよしなお)邸を襲撃して占拠・・・応仁の乱の初戦=五月合戦が勃発しました。
その後、報復とばかりに、細川勝久邸を山名派の朝倉孝景(たかかげ)が襲撃・・・急襲を聞いてかけつけた細川派の赤松政則(あかまつまさのり)が入り乱れて、屋敷のある一条大宮一帯は、戦場と化します。
一進一退の攻防戦は、約2日間に渡って行われましたが、どうにもこうにも決着がつかない・・・この状況を見るに見かねた将軍・義政が、応仁元年(1467年)5月28日、宗全と勝元に停戦命令を出したわけです。
・・・って、もともと、この将軍さんのせいて話がややこしくなってる気がしないでもありませんが、とにかく、ここで合戦は一旦中断・・・
しかし、またまた、このお騒がせ将軍はやってくれます!
わずか、10日後の6月8日、勝元に牙旗(がき)が与えられ、それが室町第の四足門に掲げられたのです。
牙旗とは、天子や将軍が掲げる旗・・・つまり、幕末の鳥羽伏見の戦いで掲げられた錦の御旗みたいなもので、要するに、細川派が官軍となった事が表明されたわけです。
さらに、細川方は、管領となった義廉の屋敷を包囲・・・もちろん、勝元は、将軍の住まう花の御所も押さえましたから、これは山名派にとってキツイ!!!
やむなく、宗全は自宅に本陣を置き、ここが西陣・・・つまり西軍となり、対する細川派は東軍となります。
これで、一気に士気さがる西軍は、戦いを諦めて国に帰る者が続出し、士気の低下に拍車がかかります。
一方の東軍は、将軍を抱え込んでいるうえに、次期将軍の約束を受けている義就を総大将に大いに盛り上がりますが、ここで、一つ忘れてはならない事が・・・
そうです。
かの日野富子の動向・・・
そもそも、わが息子を次期将軍にしたいがために、宗全に働きかけたのでは???
ところが、どっこい、蓋を開けてみれば、自分たちがいるのは敵であるはずの義視が総大将の陣・・・そして、勝元らに守られる花の御所で暮らしているうえ、味方であるはずの宗全を追討する者たちの中に身を置いている事に・・・
そんな状況を打破すべく、せっせと義視にプレッシャーをかける富子・・・
一方、ここに来て、満を持して参戦してきたのが西国の雄・大内政弘(おおうちまさひろ)・・・大物の参戦で、士気が戻り始める西軍の追い風となったのは、誰あろう義視でした。
なんと、自分を敵視する富子のプレッシャーと、西軍への内通者に耐え切れず、わずかの側近を連れて伊勢へ逃亡してしまうのです(11月13日参照>>)。
総大将のトンズラに、今度は東軍の士気が下がる・・・
こうした中、勃発したのが、応仁の乱の中でも、最も激戦となった相国寺の戦い・・・コチラは10月3日のページでどうぞ>>
そして、その半年後に起こるのが、稲荷山の攻防戦(3月21日参照>>)・・・
11年の長きに渡って展開される応仁の乱ですが、都での攻防戦は、この稲荷山を最後に、あとは小競り合いといった程度のもので大きな戦いとはならず、むしろ、大戦は地方へと移っていく事になります。
しかし、その間にも、山名派は賊軍の汚名を払拭しようと画策し、あの義視くんからも目が離せない状況となるのですが、そのお話は、11月13日の【足利義視トンズラ事件in応仁の乱】>>で読んでいただくとして、
今回は、この5月28日に終結した五月合戦を中心に、これまで書かせていただいた応仁の乱の経緯をひとまとめに・・・という事でよろしくお願いします。
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コメント
茶々さん、こんにちは。さてさて、応仁の乱とその後に続く戦国時代は中国の三國志同様に、個性豊かな武将や人間関係・戦略や裏切りなどが絡み合い面白いですね。乱のキッカケが将軍のちからのなさから始まったとなれば、今の時代と似てますね。でも、この人なら大丈夫って人がいないのが辛いなぁ~。
投稿: 伸之介 | 2010年5月29日 (土) 00時57分
伸之介さん、こんばんは~
群雄割拠から一つ抜きん出る・・・
平成の織田信長は、誰なのでしょうね。
「いない」という結果だけは避けていただきたいです。
投稿: 茶々 | 2010年5月29日 (土) 01時28分