「話せばわかる」から「問答無用」へ~五・一五事件
昭和七年(1932年)5月15日、軍部政権樹立をもくろんだ青年将校らによる五・一五事件が勃発・・・時の首相・犬養毅が暗殺されました。
・・・・・・・・・
その日は、気持ちよく晴れたおだやかな日曜日で、犬養毅(いぬかいつよし)首相は、総理公邸でゆっくりとした休日を過ごしていました。
夕方になり、息子夫婦とともに楽しい夕食のひとときを味わっていたところ、突然、複数の人物が屋内に侵入して来たのです。
彼らは、三上卓(たかし)・山岸宏海軍中尉を中心とする陸・海軍軍人と士官候補生ら9名で、すでに警備の警察官1名を射殺し、もう1名に重傷を負わせていました。
彼らの仲間はおよそ30名で、それが数隊に分かれて、首相官邸ほか内大臣官邸・警視庁・日本銀行・三菱銀行・・・その他、都内近郊の変電所などを襲撃し、爆弾を投げ込むなどのテロ行為を決行したのです。
そもそも・・・
先の第一次世界大戦時の行動と好景気で世界の先進国の仲間入りをした日本は、中国への進出に成功・・・軍備拡張による広域経済圏の確立に向かいます。
とりわけ、その頃の満州は、巨大な鉱山があり、多くの製鉄所を抱える「日本の生命線」とも言える存在でしたが、時の第2次若槻内閣の外交は、陸軍から「軟弱外交」と呼ばれる状況で、現地では、関東軍(満州駐留の陸軍部隊)と中国兵や中国農民と朝鮮農民の衝突が耐えませんでした。
そこで、ついに関東軍は、昭和六年(1931年)9月、奉天(ほうてん)郊外の柳条(りゅうじょう)湖で、満州鉄道の線路を故意に破壊し、中国側の犯行と発表する軍事行動に出たのです。
その後、奉天・長春などの南満州を占領し、さらに、若槻内閣が止めるのも聞かずにハルピン・チンハルなども占領します。
関東軍を止める事ができなかった若槻内閣は総辞職・・・その年の暮には、立憲政友会の総裁であった犬養が首相となりましたが、関東軍の暴走は、まだ止まらず、清国最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を擁立して執政とし、満州国の建国を宣言させます。
しかし、当然の事ながら、この行為は、先の国際連盟設立を機に結ばれた9ヶ国条約にも違反しますから、犬養内閣は満州国独立の承認を渋っておりました。
一方、この関東軍の暴走は、国内での軍部の勢力にも関係します。
汚職や腐敗ばかりの政党政治にイヤ気がさしている国民は、少なからず軍部に期待を寄せ、その軍部では青年将校らが、「日本のような小領土の国は、大領土のイギリスやロシアと戦ってアジアから排除し、日本を中心とする大アジアを造らねばならない」と解いた国家改造の思想へと傾いていき、テロ行為や暗殺事件を繰り返すようになります。
・・・と、
長~い前置きになりましたが
(それでもごくごく簡単に・・・( ̄◆ ̄;))、
この昭和七年(1932年)5月15日という日は、そのような状況下にありました。
犬養首相の官邸に侵入した9人も、仲間とともにテロ行為を起こして戒厳令がしかれ、犬養・死亡のあかつきには、きっと軍事政権が誕生するものと信じていたのです。
この時、官邸に侵入し、先に犬養を発見したのは三上でした。
興奮状態の彼らに出合った犬養首相は、
「何を騒いどるんや!」
と一喝・・・
さらに銃をつきつけられても、
「待て、待て、話せばわかる」
と、冷静に彼らを客間へと通します。
客間が日本間だった事で、
「コラ、君ら土足やないかい!
他人んちにあがんねやったら靴ぐらい脱いだらどやねん」
と、落ち着いて対処・・・
そこで、三上は、
「靴の心配はあとでもよろしいやん。
俺らが何のために来たかはわかりますやろ?
何か言いたい事があるなら言いなはれ」
その言葉を聞いた犬養が何か言おうと・・・
・・・と、その瞬間、部屋に入ってきたばかりの山岸が
「問答無用!撃て!」
と叫んだ事から、黒岩勇予備役海軍少尉が、飛び込みざまに一発・・・
次いで、他の者も次々と銃を発射し、官邸をあとにしました。
銃の音に驚いて駆けつけた女中に、犬養は苦しい息の中、
「もっかい、あの若いヤツらを、ここへ呼んで来い!
わかるように話してきかせるから・・・」
と言っていたと言います。
直後には意識があり、家族とも会話をしていたという事ですが、次第に様態が悪化し、午後11時26分、帰らぬ人となりました・・・享年77歳。
その毒舌ゆえ、敵も多かったと言われる犬養首相・・・この40年前の「決闘状騒動」(12月30日参照>>)は見事にかわしたものの、今回の聞く耳持たぬ相手には通じなかったようです。
この犬養と軍人の会話のやりとりは、まさに時代の移り変わりを象徴していました。
「話せばわかる」の政党政治から、
「問答無用」の軍国主義へ・・・
ご存知の二・二六事件(2月26日参照>>)が勃発するのは、この4年後の事でした。
.
「 明治・大正・昭和」カテゴリの記事
- 日露戦争の最後の戦い~樺太の戦い(2024.07.31)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
- 維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ(2022.12.22)
- 大阪の町の発展とともに~心斎橋の移り変わり(2022.11.23)
- 日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』(2020.11.11)
コメント
おはようございます、茶々さん。
515事件ですが、当時の政界は汚職まみれでしたが、大逆事件のところで書きましたが、この将校たちの師を辿ると幸徳秋水等の系統になります。実際に226事件の師は北一輝でしたが、それくらいに元の社会主義、このころの国家主義の影響下です。
満州事変に関しては私も思うところがありますが、詳しくは書きません。
ただ万里の長城の北は異民族の土地というのは古典を読んでいて感じます。
さて斉藤内閣、岡田内閣は軍事内閣でなく中間内閣といいますか政友会、民政党も加わった山本権兵衛の時と同じ内閣です。これは民衆の意見をバックにした軍部、殺された政治家の両方を立てるという案でしたし、実際に政友会、民政党には若槻、犬養以降に顔になる政治家もいないのでそうなったみたいです。
世界的にもそういう内閣は増えていました。イギリスではマクドナルドが労働を首になったときにはボルドウィンが支える超党派内閣でした。フランスも政党の混乱で行き詰まっていました。ある意味政党がダメになっている証拠です。今の世界も似ている感じがします。といいましてもあの頃と一緒ではダメですが・・・
斉藤内閣、岡田内閣が226でつぶれた後は西園寺は近衛を組閣させようとしたのですが断りました。近衛、平沼はこのころから首班有力候補だったのですが、近衛は断り、平沼は嫌われました。桜会などは荒木首班、真崎首班を考えていたようです。というくらいに混乱をしていた証拠です。
投稿: non | 2016年6月 9日 (木) 06時06分
nonさん、こんにちは~
近代史は、政治や思想の話が絡んで来るので難しいです(。>0<。)
投稿: 茶々 | 2016年6月 9日 (木) 16時43分
この五・一五事件では、来日中だった喜劇王チャールズ・チャップリンが犬養総理と会見している所を襲撃して、犬養もろともチャップリンも暗殺、そのままこれに憤激したアメリカとの開戦まで持っていこうという計画もあったと聞きます。結局計画は実現しませんでしたが、もしそうなったら日本はアメリカに勝てると犯人グループは本気で思っていたのでしょうか┉┉┉┉
投稿: アッチ君 | 2018年4月17日 (火) 23時36分
アッチ君さん、おはようございます。
私も、チャップリンの話は、どこかで聞いた事があります。
軍部内ではイケイケムードだったんでしょうか?
投稿: 茶々 | 2018年4月18日 (水) 06時38分