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2010年6月30日 (水)

内閣総理大臣・大隈重信~初の政党内閣・誕生

 

明治三十一年(1898年)6月30日、日本初の政党内閣第一次大隈重信内閣が発足しました。

・・・・・・・・・・・

このブログでは【明治十四年の政変で失脚】(10月11日参照>>)の記事で、すでに登場している、ご存知!早稲田の創立者・大隈重信(おおくましげのぶ)さん・・・

んん??
一度失脚したのに、総理大臣に??

この政界返り咲きを画策したのは、誰あろう、かの政変で彼を失脚に追い込んだ伊藤博文でした。

それは、不平等条約改正という大きな目標のため・・・。

未だ幼い頃、故郷・佐賀の藩校「弘道館」に入学した重信少年は、武士道の基本『葉隠(はがくれ)(10月10日参照>>)を基礎とした儒教教育に反発して退学・・・

オランダ系アメリカ人のフルベッキから英語を習い、その過程で知った『新約聖書』『アメリカの独立宣言』大いに感動・・・やがて英語塾を開いたりしながらも、慶応三年(1867年)には、第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)大政奉還を進言したいがため、副島種臣(そえじまたねおみ)とともに脱藩しました。

その時は、京都にいるところを捕縛され、謹慎処分を受けてしまった重信でしたが、その後、新政府のもとで、長崎裁判所副参謀を務めます。

その副参謀時代に起こった浦上信徒弾圧事件・・・隠れキリシタンを検挙したこの事件に、英国公使のパークスが噛みついて猛抗議!

これに対して重信は、国際法違反を持ち出して、ピシャリと黙らせました。

そんな交渉術が、「外交上の最大の課題として残された不平等条約改正には、大隈を外相に・・・」と、伊藤に思わせたのかも知れませんね。

もちろん、もともと、ともに考えていた国会開設にも必要な人物であった事でしょうし・・・。

・・・とは言え、あの明治十四年の政変は、二人の間の大きな溝となっていました。

あの伊藤に、「復帰を・・・」と言われても、大隈も、すぐには「はい、喜んで!」とはなりません。

そこで、伊藤は、「首相の地位を条件に説得してほしい」と、まずは黒田清隆に頼みます。

「首相の座を譲る」とまで言われちゃぁ、黒田も、自分のところでストップさせるわけにはいかず、その話を大隈に伝えるしかありません。

Ookumasigenobu600a この話を聞いた大隈・・・がぜんヤル気になります。

ただ、以前の出来事をなかった事には、やはりできないもの・・・って事で、大隈の出した条件は、翌年の国会開設と8年後には政党内閣制をとる事、それを条件に外相を引き受けたのです。

それが明治二十一年(1888年)の事でした。

就任した翌年に、爆弾での襲撃に遭い、右足を失って辞職するものの、明治二十九年(1896年)には、第二次松方内閣のもと、再び外相に返り咲いて政界に復帰・・。

板垣退助らとともに、憲政党を結成した直後の明治三十一年(1898年)6月30日薩長藩閥以外では初めての内閣総理大臣に就任・・・隈板(わいはん)内閣と呼ばれる日本初の政党内閣を誕生させました。

これこそ、維新以来の政権交代と言えるでしょう。

しかし、未だ結成されたばかりの憲政党・・・もとの政党の違いでギクシャクしはじめ、残念ながら、わずか4ヶ月で総辞職に追い込まれてしまったのは、大隈にとって、さぞかし不本意だった事でしょうが、その16年後、78歳にして再び首相に返り咲く根性は大したものです。

難しい理論を展開するよりも、その場その場で臨機応変に事を運んだという大隈さん・・・それでいて、ここぞという時は、その信念を曲げない人でもあったと言います。

お坊ちゃん育ちのわりには、能や謡曲よりも浪花節や講談が好きだったという庶民的なところもあり、あけっぴろげな性格は、なかなか大衆の人気者だったとか・・・

はてさて、最近の方々は・・・
「そこまであけっぴろげなくても」と思うくらいあけっぴろげな人は、何人かおられるようですが・・・どうなんでしょうねぇ( ̄◆ ̄;)
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2010年6月29日 (火)

壬申の乱~大伴吹負・飛鳥を制圧!

 

天武天皇元年(672年)6月29日、大海人皇子の吉野脱出で幕を開けた壬申の乱で、最初の戦闘がありました。

・・・・・・・・・・

第38代天智天皇の死を受けて、その息子・大友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)との間で勃発した後継者争い・・・壬申の乱

身の危険を感じ、一旦、吉野へと退いた大海人皇子は(10月19日参照>>)、その約半年後の天武天皇元年(672年)6月24日、その吉野を後にし、一路北東へと進みます。

鈴鹿を越えて桑名に一泊した26日には、先発隊として先を急いだ長男の高市皇子(たけちのみこ)が、不破(ふわ)の関を押さえ、翌・27日には、大海人皇子自らが不破に入りました。

先日は、ここまでお話させていただきました(6月25日参照>>)

・‥…━━━☆

6月27日、不破よりわずかに西に位置する野上(のがみ)という場所を本営とした大海人皇子は、さらに、そこから3kmほど離れた和蹔(わざみ)に兵を終結させます。

実はこの和蹔・・・現在の住所で言えば、岐阜県関ヶ原町関ヶ原・・・そう、あの関ヶ原です。

Zinsinnoranroot165 先日の6月25日にupした地図ですが、位置関係の参照に・・・
←クリックしていただくと別窓で大きく開きます。

 

 

この約1000年後に、徳川家康石田三成天下分け目の決戦の地に選んだ関ヶ原・・・その事でもわかるように、この地は、古代より東西を結ぶ交通の要所で、ここを押えてしまえば、畿内は東国と分断されてしまうのです。

そんな大海人皇子側の動きが、近江の朝廷側に届いたのは6月26日の事でした。

都には、一気に動揺が走り、逃亡者が続出する中で開かれた会議・・・その席上では、「騎兵隊を以って、すぐに追撃すべき」との意見が出ますが、大友皇子は、これを採用せず、東国や倭京(やまとのみやこ・飛鳥の事)筑紫(北九州)吉備(岡山県)特使を派遣して軍兵を徴集したのです。

・・・と、この時代の史料が少ないため、『日本書紀』に基づいて書いてますが、この大友皇子の判断は、実にヘンですね。

倭京や東国(近場なら)はともかく、筑紫や吉備に、いまさら援軍を頼んでも、間に合うはずがありませんもんね~とは言いながらも、しかたなく、そのままお話を進めますが・・・

案の定、東国へ向かった使者は、3人のうち2人は不破の関で捕まり、1人は命からがら大津へ逆戻り・・・

さらに、吉備の国宰(くにのみこともち)当摩(たぎま)公広島は、「そんなモンに従うかい!」使者を殺害・・・

筑紫の大宰(おおみこともち)栗隈(くりくま)からは、(大陸からの)外敵への防備をやってるワシらは忙しいんじゃ!」と、これまた、つれない返事・・・

やむなく、畿内の兵を動員して、山部(やまべ)総大将に、蘇我秦安(そがのはたやす)巨勢人(こせのひと)副将に任命し、まもなく、不破方面へ向けて進発しました。

かくして天武天皇元年(672年)6月29日ぶつかり合う両者の初めての戦闘が・・・と言いたいところですが、実は、この最初の戦闘は、この本隊同士の戦いではないのです。

そう、東国とは分断され、吉備からも筑紫からも断られた大友皇子の最後の頼み=倭京にて、戦いが勃発したのです。

実は、寸前まで近江朝廷に仕えていた大伴吹負(おおとものふけい)大伴馬来田(まくだ)の兄弟・・・二人とも病と称して大津を離れ、倭京に帰っていたのですが、弟の馬来田は、この大海人皇子の脱出劇をきっかけに倭京を出て、大海人皇子と行動をともにしていのです。

そして、一方の兄・吹負は、タイミングを見計らって自宅を出撃し、留守司(とどまりまもるつかさ)坂上熊毛(さかのうえのくまけ)と共謀して、ここ、倭京を制圧する作戦に出たのです。

この時、吹負と熊毛の命を受けた秦造熊(はたつくりのくま)という男が、フンドシいっちょで馬にまたがり、
「高市皇子が攻めて来た~!メッチャ大軍やゾ~!」
(↑もちろん、ウソです…高市皇子は上記の通り関ヶ原にいます)
と、叫びながら、倭京に集合していた近江朝廷側の陣営に飛び込んで行ったのです。

なぜ、フンドシいっちょである必要があったのか?
この時代は、「熊」のつく名前がハヤっていたのか?
・・・は、おいおい考えるとして、

このウソ情報で、大騒ぎとなる近江朝廷陣営・・・雇われ兵は、すぐさま逃げ散ります。

そこへ吹負が数十騎を率いて乱入・・・混乱の中、都から派遣されていた軍使は、次々と命を落としていき、逃げ遅れた兵士たちは、またたく間に服従の姿勢をとります。

熊毛以外の二人の留守司=高坂王(たかさかおう)稚狭王(わかさおう)も、すぐさま吹負の味方となりました。

というか、この二人・・・乱後はメチャメチャ出世してるので、おそらくは、最初っから話はできあがっていたのでしょうね。

こうして、見事な奇襲作戦で、吹負は倭京を制圧したのです。

これはかなり大きい・・・なんせ、「この時は大津が首都と言っても、その大津に都を遷したのは、かの天智天皇で、わずか5年前の事です(3月19日参照>>)

それまで、大化の改新後の難波宮(なにわのみや)の10年を除けば、ず~っと都は飛鳥(明日香)にあったわけで、多くの人にとって、大津は未だ馴染めぬ仮の都・・・ここ飛鳥こそが、心の都であり心のふるさとだったのです。

そんな場所を押えた事は、各地の豪族たちに「大海人・有利」の印象を与える事となり、続々と援軍が集まるようになります。

しかも、ここを押える事で、北東に大海人本隊、南西に吹負・・・と完全に近江朝廷側を挟み撃ちできる形となりました。

逆に朝廷側にとっては、大海人軍本隊と倭京・・・両方を相手にしなくちゃいけなくなったわけで、このプラマイは大きいです。

こうして、倭京を制圧した後、いよいよ大海人軍本隊が大津に向けて動きはじめるのですが、そのお話は、進撃を開始する7月2日のページへどうぞ>>
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2010年6月28日 (月)

アンケート企画「本能寺の真相は?」結果発表

 

『本能寺の篇の真相&黒幕は?』
のアンケート投票にご協力いただきありがとうございましたo(_ _)oペコッ

また、投票と同時に楽しいコメントもいただき、とてもうれしく拝見させていただきました。

そのコメントも含め、本日、このブログ上にて、結果発表をさせていただきます。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆・‥…ジャ~

1位 羽柴秀吉:20票
やはり、一番得をした人ですからね~中国大返しは怪しさ満載です
2位 光秀・衝動的 :18票
光秀が本当に実行犯なら、私もコレではないかと思ってます…天下を狙うなら、信忠を数時間ほったらかしはあり得ない気がする。
3位

徳川家康: 12票
「鳴くまで待とう」で考えるなら、本当に一番得したのはこの人かも知れません…この先300年の安泰

3位 その他 : 12票
様々な意見が出ましたね~大変興味深いです~一つ一つについては下部のコメント紹介の時に…
5位 朝廷 : 9票
生前の信長が朝廷をも脅かすところに来ていたのは確か…力はなくともその権威で5位を獲得!
6位 光秀・計画的 : 8票
愛宕山の連歌会の歌を含めた定番の推理で6位入賞…
7位 斉藤利三 : 4票
知名度のわりには、7位に食い込むスルドさ…春日局の存在も光る!
7位 足利義昭 : 4票
やっぱり、腐っても鯛は食い下がります。
9位 堺の商人 : 1票
票数は少ないですが、本能寺への信長おびき出しに一役買ってる気が…
9位 イエズス会: 1票
この方たちは暗躍以外の何者でも…鮮明な記録を残しながらも、自分たちに都合の悪い事は書いてないのでは?
9位 恵瓊+秀吉: 1票
中国大返しには、やはり、この二人のタッグが必要…という事で1票獲得となりました。
12位 長宗我部元親: 0票
0表は意外でしたが、やはり得をしたとは言え、「四国で手がいっぱい」って頃ですからやむを得ませんね

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

では続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示…「青文字」の管理人のコメントもお楽しみください

その他 光秀の単独犯、最大の原因は信長の油断、計画性はそれ程無く機会に乗じただけ、秀吉の動きは余りに想定外 (男性)
「その点でも、個人的には信長はイイ人だったと思ってます…でないと、あんな無防備に…」
その他 怨恨は無い。単に衝動的な犯行だと思います。 (男性/50代/長野)
「怨恨や野望よりも衝動的が主…って事ですね」
その他 公家
「朝廷ぐるみ…ではなく、ある公家のたくらみって事ですね…だとしたら、誰が一番怪しいんでしょうかね」
徳川家康 春日局や天海の話等、家康だったらロマンがあるから (女性/30代/大分)
「“葵三代”ではなく“桔梗三代”の大河をやってほしいですね~」
その他 家臣に翻弄された明智光秀の悲劇説。家臣に「謀反してやる」と愚痴っていたら、家臣が本気にしてしまった。 (男性/20代/滋賀)
「特に、斉藤利三が本気にしちゃったかも…」
光秀・衝動的 本能寺襲撃後の対応が計画性に欠ける(信忠への襲撃、光秀軍の保身の欠如)
「一番謎の部分ですよね~なんでこの時だけ?って言いたくなるほど光秀らしくない気が…」
光秀・衝動的 怨恨じゃないかも知れないが衝動的は衝動的…計画性を感じない (女性/20代/大阪)
「やはり、信忠無視が気になるところです」
朝廷 朝廷を中心とした勢力が主犯と考えます。 (男性/40代/北海道)
「なんだかんだで歴史古いですから、新参者を許せない人はたくさんいたでしょうね」
その他 織田信忠。可能性は薄いが何か引っかかる (男性/20代/沖縄)
「息子が父を…それを諌めた忠臣が…しかし、そこを天下を狙う別の家臣が…妄想が膨らみます~」
徳川家康 黒幕かな? (女性/40代)
「やはり、なんだかんだで暗躍してそうです」
光秀・衝動的 自分はどうなろうと信長を討ちたかった。 (男性/60代/大阪)
「確かに、信長を討ってどうする…って、その先を考えてたのか疑いたくなる行動ですよね」
光秀・計画的 状況を考えると最有力容疑者 (男性/20代/千葉)
「やはり、実行犯っていうのは、動かせない事実なのかも…」
羽柴秀吉 秀吉が前もって知っていたと思います。 (男性/40代/千葉)
「中国大返しがウマすぎますもんね」
足利義昭 しぶといよ~、元将軍は!みたいな感じで根回し (男性/30代/【海外】)
「皇室同様、力はなくとも権威がありますから、声をかければ従う者も出てくるやも知れませぬ」
その他 計画的でもなく、衝動的でもない、間がさした明智光秀の犯行。ふと周りを見たら、信長を討てるチャンスが… (男性/40代/京都)
「確かに、こんなチャンス2度とありませんからね~」
羽柴秀吉 光秀と秀吉が組んでした事だと思う そして秀吉が裏切った・・・ (男性/30代/兵庫)
「そこに、家康がからんで三者共謀…そして秀吉の裏切りってのもあるかも知れませんね」
光秀・衝動的 怨恨に一票 (男性/30代/愛知)
「やはり、高貴な考えを持つ光秀は、信長について行けなかったのかも…」
羽柴秀吉 毛利とタイミング良く講和を結んでいる辺りがなんとも怪しいんですよね・・・ (男性/10代/愛媛)
「信長の死を知ってもなお、毛利は追撃しませんでしたね~そこも怪しい」
足利義昭 怨恨もあるが旧主の命令、朝廷も絡んでいる (男性/50代/東京)
「やはり、信長より付き合い長いですからね~将軍の行く末を何かと気にしていたのかも」
その他 小沢元幹事長 (女性/20代/三重)
「ここにまで、影響を及ぼしてるなら、逆に尊敬です(笑)」
徳川家康 先見の目があったと言う事で (女性/40代/神奈川)
「やはり、先の先を…って事ですね」
羽柴秀吉 光秀の弔い方や子孫への配慮が根拠 (男性/60代/兵庫)
「やはり、光秀と秀吉は、元仲間って事なのかしら?」
徳川家康 首謀者家康 天海・春日局ラインが怪しい (男性/30代/福島)
「やっぱコレも、歴史のロマンです~家光は家康と春日局の子供かも」
その他 実行者は明智。後バックには徳川羽柴などなど、堺商人も絡んでいると思うな。 (女性/兵庫)
「様々な人の思惑…アガサのオリエント急行のパターンですね」
光秀・衝動的 怪しんだらすべての人が怪しい(笑)でも、意外と歴史って 単純なことから始まっているのでは? (女性/40代/兵庫)
「そうですね…ひょっとしたらあの世の光秀は、“そんなにややこしい事じゃないよ”って言ってるかも知れません」
朝廷 朝廷と光秀の合作だと思う。
「光秀って、上下関係を大切にしそうな雰囲気ありますもんね~」
羽柴秀吉 ヤッパリあの手際の良さ、情報収集力は半端ではない。プラス狸爺ですら騙された特技の『人たらし』! (男性/30代/埼玉)
「味方にさえ“信長は生きている”の情報を流した人ですからね~やっぱ『人たらし』」
光秀・衝動的 勝手に明智がやったことけど、秀吉はやるかもな~と予想して、見張ってた。っていう (女性/10代/神奈川)
「うまく、誘導したって感じですかね…中国への出陣を要請したのも秀吉ですからね」
朝廷 やはり、無用な古いしきたりを排除していく魔王・信長が恐ろしかったのでしょう。 (男性/30代/福井)
「恐怖というのは、人を変えてしまいますから…光秀も冷静さを失ったのかも」
その他 自分が天下を取ることより、信長を抹殺したかった。かわいさ余って憎さ百倍、ってやつじゃないでしょうか。 (女性/40代/東京)
「やはり、光秀なら天下を狙っていた可能性も捨てきれない…って事ですね」
羽柴秀吉 +恵瓊も考えましたが、やはり秀吉さん単独で決まりでしょう! (女性/20代/大阪)
「この時点で、恵瓊とそこまでつながっていたかどうか、微妙ですからね」
イエズス会 イエスを冒涜したのでイエズス会が、ダイナマイトで木っ端みじんに吹っ飛ばした。これが真実。 (男性/40代/鳥取)
「本能寺の焼け跡の発掘には興味アリですね…やっぱ木っ端みじんだったのでしょうか」
羽柴秀吉 歴史は勝者によって塗り替えられる (女性/20代/東京)
「確かに、すべてを書き換えるだけの権力を得た秀吉さんですからね~」
その他 濃姫 (男性/30代/愛知)
「女の怨みは恐ろしいからなぁ~もし、本能寺の頃まで濃姫が生きて、そばにいたのだとしたら、吉乃を家に入れてはイカンですゾ…信長さん」
その他 たまたま状況が光秀に野心を抱かせたので黒幕なし (男性/30代/岐阜)
「やはり、2度とないチャンスってのは、人を動かすものですからね~」
徳川家康 狸! (男性/30代/茨城)
「人たらしの秀吉に勝るとも劣らぬ…ですからね」
光秀・衝動的 ↑そんなわけないでしょ (男性/10代/奈良)
「“そんなわけないでしょ”は“狸”に対して?それもと“濃姫”?ひょっとして“元幹事長”にかかっているのか?…とにかく光秀の衝動的犯行なのですね」
光秀・計画的 desyou (男性/40代)
「光秀の行動に計画がないわきゃない…確かに、光秀さんは、そんな雰囲気のキャラクターですね」
足利義昭 プライドだけは高い義昭がかつての部下である光秀をそそのかしてやらせたが、他の反応がないので知らん顔。 (男性/50代/神奈川)
「“他の反応がないので知らん顔
”ってとこは、義昭さんらしいところです…あるかも知れません」
その他 比叡山の残党勢力が共犯者かなと。明智光秀が治めていた坂本は比叡山の門前町でしたし。 (女性/40代)
「う~ん、確かに坂本は比叡山のふもと…位置関係が気になりますね~」
羽柴秀吉 光秀の弔い方や子孫への配慮が根拠←詳しく知りたい (女性/50代/静岡)
「“妙心寺住職の玄琳や本徳寺の南国梵桂が光秀の子供かもしれない”という話の事かも知れません…私も知りたいです」

・‥…━━━☆

以上、楽しいコメントをありがとうございました~

これだから、
歴史の妄想はやめられませんヽ(*≧ε≦*)φ!

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますようよろしくお願いします。
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2010年6月27日 (日)

「秀頼自刃・山里丸の遺構発見」のニュースを聞いて

 

昨日、『豊臣秀頼と淀殿・自刃の地「山里丸」で焼損瓦大量出土』というニュースが新聞紙上を賑わせました。

ネット上でも各社のニュースページで報道され、
Yhooニュースのページ↓
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/japanese_history/
(ニュース記事は時間が経つと排除される場合があります)
には、このブログの「合戦布陣図保管室」>>にある「大坂夏の陣・布陣図」>>を参照ページとしてご紹介いただいたおかげで、昨日一日のブログ全体のアクセス数が144586アクセスと、開設以来の多くの方のご訪問をいただき、ありがたく思っています。

ブログにご訪問をいただいた皆様、ようこそ!
そして、今後ともよろしくお願いします。

ところで、それらのニュース記事にもあります通り、

“大坂夏の陣(1615年)で、豊臣秀吉の子・秀頼とその母・淀殿が自刃した場所とされる大坂城(大阪市中央区)の区画「山里丸(やまざとまる)」とみられる遺構の一部が、大阪市博物館協会大阪文化財研究所の調査で初めて出土した”(読売新聞より)

“豊臣秀吉の子・秀頼とその母・淀君が慶長20(1615)年の大坂夏の陣で徳川家康に敗れて自刃した場所とされる大阪城天守閣(大阪市中央区)北側の区画「山里丸(やまざとまる)」で、夏の陣で焼けたと推定される大量の瓦や壁土が大阪市博物館協会・大阪文化財研究所の発掘で見つかっていたことが25日、分かった”(サンケイ新聞より)

どちらにも、“自刃した場所とされる”と書かれてますね。

そうなんです・・・実は、コレ、確定ではないんです。

Natunozinyamazatokuruwacc 大阪城に行かれた事のある方は、ご存知かも知れませんが、大阪城天守閣の北側に位置する、この「山里丸山里曲輪)と呼ばれる場所には、現在「秀頼・淀殿最期の地」という供養碑が建っています(くわしい場所は本家HP【大阪城公園周辺パーフェク歴史散歩】>>で紹介しています)

確かに、史跡と称される場所に、このような石碑があると、とてもわかりやすいですし、大好きな歴史人物と同じ空間にいるような気がして妄想もふくらみまくりなわけですが、一方では難しい部分もあります。

それは、「ここがその場所だ」と特定されてしまう危険性です。

秀頼と淀殿の場合、もちろん、この「山里丸で自刃」という事が書かれている史料が最も多いため、ここに供養碑が建てられたわけですし、私自身、ブログに書く場合は、最も可能性が高い場所として書かせてもいただいているわけですが、そうは言いながらも、そうではない史料も、そして、同じ「山里丸」でも、アノ位置ではないという話もけっこうあるのです。

抜粋して、いくつかご紹介させていただくと・・・

  • 大坂落城五月八日朝、秀頼卿御存生ニ而、山里丸糒蔵(ほしいくら)ニ御座候・・・(藤堂家譜)
  • 大坂本丸自焼、乍去秀頼、同御袋、翌日八日迄、天守下之丸之蔵ニ被生残候・・・(慶長二十年5月11日付け伊達政宗・書状)
  • 秀頼公ハ、母子トモニ、玉造ノ櫓ニ御入候(武功雑記)
  • 八日の朝、山里南東の方の御腰物蔵矢倉焼きのこるにより、秀頼公御入・・・(老将座談)
  • 蘆田曲輪(あしだくるわ)ノ方ヘ、皆々御供シ立退キテ入ラセケル・・・(明良洪範)
  • 二之丸帯車輪(おびくるわ)ニ引籠ル由云々・・・(駿府記・慶長二十年5ガツ八日条)
  • 大坂城中之焼殘之唐物倉(からものぐら)ニ秀頼并御袋、大野修理・・・(本光国師日記・慶長二十年五月八日条)
  • 五月八日、大坂落居、御屋形千畳敷ニテ、秀頼様并御母儀其外女房衆諸侍以下・・・(春日社司祐範記・慶長二十年五月八日条)

・・・と、私が知ってるだけでもこれだけあるのですから、たぶん、もっとあります。

だからと言って、供養碑があそこに建っている事を否定するつもりはありません。

先にも、書かせていただいたように、そこにそれがある事によって、大いに心踊りますし、大阪城内ならともかく、まったく、その痕跡すらない街中の史跡などは、「本当にここであってるのかしら?」と悩む事もしばしば・・・

そんな時に、専門家の方が、ちゃんと検証なさったしるしとも言える石碑が、そこに建ってる事によって、私のような素人は、「あぁ、やっぱり、ここがそうなんだ」と安心するわけです。

ただ、専門家の方によっては、「あぁ、やっぱり、ここがそうなんだ」と思ってしまうため、未だ特定されていない場所については、石碑などの建立を避けるべきとのお考えを持っている方もおられるようです。

素人の私には、「どっちが良い」なんて事は言えませんが、少なくとも、秀頼さんと淀殿の最期の場所は、いくつかの候補地があるという事を、お伝えしたかったので、本日は、ニュースの関連から、その事を書かせていただきました。

それにしても山里丸で秀吉築城時の施設跡と焼けた瓦が同時に出土したのは、今回が初めてなのだとか・・・いつもいつも、新しい発見にはワクワクします~

今後の調査で、秀頼&淀殿の最期の場所の特定に、さらに近づく可能性もあるかと思うと楽しみです。

今回出土した瓦などは、7月28日から9月20日まで大阪歴史博物館で開催される『新発見・なにわの考古2010』にて展示されるそうなので、コチラも楽しみですね。
(大阪歴史博物館の場所は、本文中にリンクを貼った本家・歴史散歩のページで紹介しています)
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2010年6月26日 (土)

南禅寺事件~坊さんどうしのケンカに幕府が…

 

応安元年(1368年)6月26日、南禅寺勢力と園城寺宗徒の対立が激化・・・幕府から警護の軍隊を出す事態となりました。

・・・・・・・・・

今もなお、教科書に登場する織田信長比叡山焼き討ち・・・(9月12日参照>>)

信長は比叡山以外に、あの本願寺とも抗争をくりかえした事から、神仏をも恐れぬ魔王のイメージがついてしまって、未だにドラマでは、そのような姿で描かれるため、その恐怖政治の末に起こったのが、忠実な家臣であるはずの明智光秀の謀反と考える人も少なくありません。

もちろん、タイムマシンで本物の信長さんを見た人はいないので、それも一つの考えかも知れませんが、このブログで度々書かせておりますように、私が、個人的に抱く信長さんのイメージは、そのようなものではありません。

そもそも、この時代のお寺さんに、現在のお寺さんと同様のイメージを持ってしまう事が誤解の始まりで、現代でこそ、仏の道に生き、穏やかで和む空間でありますが、その頃のお寺さんは、はっきり言って武装集団・・・

もちろん、その頃も修行に励む高僧も多くいたでしょうが、一方では、自らの寺領を自らの手で守る軍隊も併設していたのが、当時の寺院です。

確かに、信長のやり方も100%正しいとは言えませんが、今回のこのお話を聞けば、少しは、そのイメージも変わるかも知れない・・・という事で、本日は、南北朝時代のお坊さん同士の争いのお話をさせていただきます。

以前、【僧侶の武装と堕落】>>と題して、やはり、寺院の武装について書かせていただいた時に、チョコッと出てきたお話なので、少し内容が重複するところもありますがご了承くださいませ。

・‥…━━━☆

室町時代の初期、第2代将軍・足利義詮(よしあきら)の時代の事です。

京都五山の第一と言われた南禅寺が、その楼門を造営するための費用を捻出しようと(当時は拝観料という物がありませんので・・・)勝手に関所を造って通行料を徴収したのですが、そこを園城寺の小僧が料金を払わずに通行しようとしたために関守とケンカとなり、小僧は殺されてしまいます。

すると、怒った園城寺側が、今度は南禅寺の関所へ殴りこみをかけて僧・2名を殺害してしまい、まずは京都五山VS園城寺の抗争が勃発します。

さらに、その園城寺に興福寺延暦寺が味方した事で、京都五山VS園城寺・興福寺・延暦寺の構図が出来上がり、それは禅宗VS旧宗教という形で、さらにヒートアップ!

とは言え、正平二十二年(貞治六年・1367年)12月には将軍・義詮が亡くなって、一旦、抗争は小休止・・・

ここで、終っておけば良かった物を、その翌年の応安元年(1368年)に、南禅寺の僧・定山祖禅(じょうざんそぜん)が、その著書『続正法論(しょうぼうろん)の中で、「禅宗以外の他宗派は邪法である!」と非難した事から、騒ぎは再燃します。

特に・・・
「延暦寺の坊主は猿や!人のようで人でない(ベンベン)
とか
「園城寺の坊主は三井のガマ蛙!生き物の中で、一番アホ!」
とか、延暦寺と園城寺を名指しで中傷したのです。

これは、延暦寺の鎮守である日吉神社の使いとされる神獣が猿である事、園城寺の別称が三井寺である事にひっかた物ですが、なんだか、レベルが子供のケンカ並み・・・

これで、怒るのも、なんだかなぁ~・・・って感じではありますが、延暦寺はブチ切れます。

平安時代から続く、お得意の神輿動座(しんよどうざ・日吉神社の御輿を奉じて入京する行事)を行い、洛中にて大々的な集会を開いて、「南禅寺は邪教の危険集団!悪の極みや!」といきまいて、建設中の楼門の破却と、禅宗界の最高実力者・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)&誹謗中傷の実行犯=祖禅の流罪を幕府に要求し、仲良し社寺には、「みんな総動員して、南禅寺ぶっ潰してやろうせ!」なんて呼びかけたりしました。

そして応安元年(1368年)6月26日「明日、行くからな」などという犯行予告があったとの噂が流れ、とうとう、幕府が警護のための軍隊を動員するに至ったのです。

結局、この日の襲撃はなく、まもなく警護は解除されましたが、2ヵ月後の8月25日にも集会が開かれ、再び幕府は、軍隊を動員して内裏(だいり・天皇の住まい)や南禅寺の警護にあたっています。

この時の管領は、細川頼之(よりゆき)という人・・・

もともと南禅寺の楼門の建設を幕府が支援していた事もあり、最初のうちは延暦寺の要求を拒否していましたが、朝廷の仲立ちと幕府内の妥協派の意見に推されて、結局、祖禅を遠江(とおとうみ・静岡県)に配流したのです。

ただし、武門の意地とばかりに、楼門の建設は、そのまま続けさせていたのですが、そうなると、当然の事ながら、破却を求めて、延暦寺側の抗議は続きます。

・・・で、結局、翌・応安二年(1369年)の7月下旬に楼門を破却・・・こうして南禅寺事件と呼ばれる一連の騒動は終結を迎えます。

しかし、それはそれで、京都五山・南禅寺側は納得がいきません。

五山側では、春屋妙葩以下、多くの住職が辞職して抗議し、頼之と五山の関係は、以後、険悪なムードとなってしまいました。

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南禅寺・三門

確かに、これには、室町幕府による宗教政策にも問題があり、掘り返せば意外と根が深いものではありますが、現在の私たちが描くお寺さんのイメージとは、ずいぶんかけ離れた、なんとも言えない出来事です。

やはり、悟りを開くという事は、人間、なかなかできないもの・・・

今回の頼之さんは、結局、延暦寺側に屈してしまった形になるわけですが、これが「絶対に屈しない!」となると、「目には目を」「武装には武装を」・・・と、信長さんのような事になってしまうのも、少しは納得できるわけです。
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2010年6月25日 (金)

いよいよ壬申の乱~大海人皇子の鈴鹿越え行軍

 

天武天皇元年(672年)6月25日、吉野を出発した大海人皇子一行に、高市皇子が合流しました。

・・・・・・・・・・・

天智天皇十年(671年)秋・・・第38代天智天皇が病に倒れました。

すでに、その年の正月に、天皇の長男・大友(おおとも)皇子太政大臣に任ぜられ、彼を補佐する左大臣右大臣なども定められ、大友皇子を中心とする新体制も整いつつありました。

しかし、この時の皇太子は天皇の弟である大海人(おおあま)皇子・・・以前の孝徳(こうとく)天皇即位(6月14日参照>>)のページでもお話しましたが、当時の皇位継承は兄弟間が一般的ですから、たとえ大友皇子が太政大臣になろうとも、皇位を継ぐのは大海人皇子が最有力候補なのです。

翌・10月になって、ますます病が重くなった天智天皇は、その病床に大海人皇子を呼び、皇位を継いでくれるよう要請します。

しかし、大海人皇子は、それを拒否・・・即座に出家して吉野へと入ってしまうのです。

それには、やはり、天智天皇の真意が読めないから・・・

本当に心から大海人に皇位を譲りたいと思っているのか?
それとも、本当は息子の大友に譲りたいけれど、一応のポーズとして言っているのか?

さらに、すでに大友の側近として政権を握っている者は、大海人の即位をどう思うのか?

様々な思いが渦巻く中の10月19日・・・大海人皇子は、妻の鵜野讃良々皇女(うののさららのひめみこ)をはじめとするわずかな側近だけを供に、吉野へと旅立ったのです(10月19日参照>>)

やがて12月3日、天智天皇は46歳で崩御しました(12月3日参照>>)

それから5ヶ月・・・
『日本書紀』によれば、異変は、翌・天武天皇元年(672年)5月に起こります

私用で美濃(岐阜県)へ行って来たという大海人皇子の舎人(とねり・下級官人)が、
「美濃では亡き天皇の陵墓を造るっちゅーて、朝廷が、ようけの人夫を集めてますねんけど、その人夫が、皆、手に手に武器持ってますねん」
と、慌てて報告します。

また、一方では、
「近江からこの吉野への食糧が、宇治橋の監視員によってストップされている」
なんて、情報も入ってきます。

先ほどの孝徳天皇即位の時にも、そのライバルとなった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)が、やはり出家して吉野へと入ったものの、結局は、その吉野に攻め込まれて命を落としています。

「よっしゃぁ~!こうなったら、ヤラレる前に、殺ったんゾ!」
と、吉野脱出を決意する大海人皇子・・・いよいよ壬申の乱の勃発です。

とは言え、ご存知のように、この『日本書紀』は、天武天皇(大海人皇子)のために書かれた歴史書・・・果たして、この壬申の乱が、大海人さんが身を守るがゆえのカウンターパンチだったのか?

はなから、大友皇子とその仲間ををボッコボコにするつもりでヤル気満々だったのかは、ご本人のみぞ知る・・・というところではありますが・・・

6月22日、3人の使者を不破道(ふわのみち)へと向かわせ、不破の関所を押さえた大海人勢・・・これで、近畿と、東国の連絡を断ち、早くも2日後の6月24日、東へと向かって吉野を脱出したのです。

Zinsinnoranrootcc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

つき従ったのは、奥さんの鵜野讃良々皇女とその息子・草壁皇子など、わずか2~30名だったと言いますが、すでに、この日に、飛鳥京の留守番役・高坂王(たかさかおう・敏達天皇系の人?)へと3人の使者を派遣しています。

表向きは、駅鈴(えきれい・公式の馬の使用を許可する証し)を求めるための使者で、そして、その使用は許可されなかったとなっていますが、どうしてどうして、この高坂王は、この後すぐに大海人皇子の味方となって戦いますし、この先、続々と集まって来る味方の事を考えれば、この使者たちは、まさに出陣ラッパ・・・

大海人皇子が吉野を脱出・・・いや、吉野で挙兵した事を知らせる使者だったのです。

これに即座に答えたのが大海人皇子の長男・高市(たけち皇子・・・異母弟の大津皇子とともに大津を脱出した高市は、一路、父のもとへと向かいます。

一方、この日吉野を出発した一行は、夜になっても歩き続けて伊賀(三重県)へと入りました。

途中、横河(名張川)に差し掛かった時、空を暗雲が横切ります。

「これは、天下が二つになる=大乱が起こるという兆し・・・その天下は俺が取ったる!」
と、自らの士気を高める大海人皇子。

やがて、夜が明ける頃、莿萩野(たらの・伊賀市佐那具町)に到着した一行は、ここでしばし休憩を取った後、さらに、その先の積殖(つむえ)山口に・・・ここで、近江を脱出した高市の皇子が合流したのです。

出発から丸一日・・・天武天皇元年(672年)6月25日の事でした。

しかし、これは物見遊山ではありません・・・一行はさらに進みます。

この行程の一番の難所=大山(加太・かぶと)を越えると、うれしい出迎えがありました。

伊勢の国司三宅石床(みやけのいわとこ)三輪子首(みわのこびと)らが、すでに兵を率いて待ってくれていたのです。

この兵のうちの500ほどをここに置き、鈴鹿山道(鈴鹿の関)の押さえとして追撃に備え、さらに豪雨の中を突き進み、三重郡家(みえのこおりのみやけ・三重県四日市市)へ到着・・・ここでやっと一泊します。

翌・26日の朝・・・大海人皇子は、近くの迹太川(とほがわ・現在の明朝川もしくは海蔵川?)のほとりの出て、天に向かって天照大神(アマテラスオオミカミ)を拝んだのだとか・・・

とは言え・・・現在では、この頃には、まだ伊勢神宮は成立していないと考えられていますので、太陽神を拝んだ=つまり、何か事を起こす特別な朝などに、ご来光に手を合わせるってな感じ?でしょうか。

その後、まもなく、高市皇子とともに大津を脱出した大津皇子が合流・・・入れ替わりに、高市皇子は先発隊として不破へと向かい、ここより東の近隣諸国へ、兵の動員を呼びかける事にします。

この日のうちに桑名に到着した大海人皇子は、ここで一泊・・・翌・27日には、そんな本隊のもとに、尾張(愛知県西部)国司の小子部鉏鉤(ちいさこべのさひち)が2万の兵を率いて駆けつけ、大海人軍は、またたく間に大軍となりました。

ここで、大海人皇子は、妻の鵜野皇女や、未だ歳若い草壁皇子や大津皇子を、安全な、ここ桑名に留め置く事にて、軍事の全権を高市皇子にゆだね、いよいよ都=近江へと向かって進撃を開始するのです。

一方、その頃、都の大友皇子は・・・
と行きたいところですが、やはり、そのお話は、近江側に動きのある6月29日のページへどうぞ>>

それにしても・・・
24日に吉野を出て、26日に桑名に宿泊ですか~
それも、女子供連れで・・・

いやはや・・・昔の方の健脚ぶりには参りましたm(_ _)m
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2010年6月24日 (木)

武田信玄・信濃攻略への第一歩in諏訪

 

天文十一年(1542年)6月24日、武田信玄甲斐教来石で軍を整え、信濃に侵入を開始しました。

・・・・・・・・・・・

その理由は、未だ様々に憶測される武田信玄信虎・追放(6月14日参照>>)ですが、とにもかくにも、父・信虎を追いやって甲斐(かい・山梨県)一国の当主となった信玄・・・(当時の名乗りは晴信ですが、本日は信玄で通させていただきます)

その一年後の天文十一年(1542年)6月24日、いよいよ領地拡大に乗り出します。

それは、父・信虎が手をつけらながらも達成する事ができなかった信濃(長野県)

Suwabonz6001 しかも信玄は、
「自分は父とは違うのだ!」
と言わんばかりに、父が同盟を結んでいた諏訪(すわ)を第一のターゲットに選ぶのです。

信虎が、度々侵攻していた場所は、同じ信濃でも、小勢力が小競り合いを繰り返していた佐久(さく)小県(ちいさがた)・・・しかし、ここは山に囲まれた攻めにくい場所で、甲斐から通じる道も狭く、八ヶ岳を迂回して侵入しなければならない不便さがあります。

しかも、あまり豊かでないこの地域を掌握したとしても、さほどのメリットもありません。

なので、信玄にとっては、開けた盆地で諏訪湖を抱くかの地は、大変魅力的であり、かつ、攻めやすい・・・ただ、ここ諏訪を治めている諏訪頼重(すわよりしげ)には、信玄の妹が嫁いでいます。

そもそも甲斐と諏訪は、古くから大路で結ばれ、人の行き来も盛ん・・・だからこそ、父・信虎は、ここを攻めるのではなく、娘を嫁がせて同盟を結ぶ形をとっていたわけですが、信玄は逆に、それを利用して、効率的に手に入れる作戦に出たのです。

まずは、諏訪一族の1人・高遠頼継(たかとおよりつぐ)を寝返らせて、それを足がかりに、諏訪氏の本拠地・上原城(茅野市)を攻撃します。

耐え切れなかった頼重は、桑原城(諏訪市)へと逃走し、そこで籠城作戦に出ますが、この時点で、すでに多くの兵士が逃亡していて、とても、武田勢を迎え撃てる状態ではなく、翌・7月、頼重は降伏したのです。

信玄は、一旦、講和という形をとり、頼重と、その弟・頼高甲府へと連行し、東光寺に幽閉しますが、まもなく、二人は自刃させられ、ここに諏訪惣領家は滅亡しました。

この時、美人との評判だった頼重の娘に一目惚れした信玄は、「敵の遺児を側室にするなど・・・何が起こるかわかりませんゾ!」と、反対する家臣を振り切って彼女をゲット!

この彼女が、後に、勝頼を産む事になる諏訪御寮人と呼ばれる女性です。

そんな彼女の影響があったのかなかったのか、ともかく信玄は、この諏訪の支配においては、配下の者の名跡を継続させる・・・つまり、支配のトップが頼重から信玄に代わっただけという柔軟な方策を取ろうとします。

・・・が、それもつかの間、諏訪の支配を狙う、あの寝返り父さん頼継が、今度は、伊奈郡藤沢頼親(よりちか)と結託して、信玄に叛旗をひるがえします(10月29日参照>>)

ここで、信玄・・・亡き頼重と妹の間に生まれた寅王(とらおう)前面に推しだして出陣します。

案の定、諏訪の分家出身だった頼親は、かつての主君・頼重の息子に弓を引く事ができず、あえなく逃走・・・

しかし、ここで登場して来たのが、信濃守護・小笠原長時(おがさわらながとき)・・・実は、長時の妹のダンナが頼親=つまり、義理の弟だったわけで、そのピンチを救うべく出陣してきたのです。

しかし筑摩安積伊奈の大部分を手中に治める大物の登場にも、信玄、ひるみません。

すかさず、隣国・駿河(するが・静岡県東部)今川義元と、相模(さがみ・神奈川県)北条氏康(うじやす)援軍を要請・・・

まぁ、義元には、すでに信玄の姉が嫁いでいるので理解できますが、北条とは敵対関係にあったはず・・・と、ここは、共通の敵である関東管領上杉憲政(のりまさ)の存在をチラつかせて、敵の敵は味方とばかりに協力を要請したのです。

今川と北条・・・この二つの大国が援助するとなると、もはや頼継も頼親も勝ち目はありません。

こうして、諏訪・上伊奈地方を手に入れた信玄・・・いよいよ信濃最強の男村上義清(よしきよ)と相対する事になります(2月14日:上田腹の合戦を参照>>)
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2010年6月23日 (水)

捕らわれた敵将との恋…平重衡と千手の前

 

文治元年(元歴二年・1185年)6月23日、一の谷の戦いで捕虜となった平重衡が木津川のほとりにて斬首されました。

・・・・・・・・・・・・

平重衡(たいらのしげひら)は、あの平清盛の五男・・・その容姿は牡丹の花に例えられ、ユーモアのセンスもあり、やさしくて爽やか、それでいて凛々しく、合戦の大将ともなれば、負け知らずの武勇を誇る・・・

そんな彼の、ただ一度の負け戦が、副将軍として生田の森で戦った(2013年2月7日参照>>)、あの一の谷の合戦でした。

撤退中に馬を射られ、乗り換え用の馬に乗った家臣にも逃げられた重衡は、源氏軍の梶原景時生け捕られてしまったのです。

捕虜となった重衡は、鎌倉へと送られますが、源頼朝の尋問に対しても、武士らしく、腹を据えての堂々たる態度・・・それでいて、都で洗練された優雅な物腰は、東国の鎌倉武士を感嘆させました。

あまりの人物のすばらしさに、頼朝は、「敵ながら惜しい」その命を助けたいと思ったくらいでしたが、それは許されない事・・・

なぜなら、彼は、未だ清盛健在の頃、平家と対立した南都を攻め、興福寺や東大寺を焼き討ち(12月28日参照>>)した張本人だったからで、いずれ、その身は、大仏炎上で怒り狂う奈良の僧たちの手に渡り、処刑される事が決まっていたのです。

一の谷から1年・・・鎌倉を出た重衡は、東大寺の使者へと引き渡された後、文治元年(元歴二年・1185年)6月23日、奈良への護送中の木津川のほとりで斬首され、その首は般若寺の門前にさらされました。

そんな重衡と奥さん・藤原輔子(すけこ)との悲話については、彼が鎌倉へと護送された3月10日の日づけで、すでに書かせていただいていますので(3月10日参照>>)、本日は、その後の運命も決まった鎌倉で、最後の時をともに過ごした女性千手(せんじゅ)とのお話をさせていただきます。

・‥…━━━☆

重衡のき然とした態度に感銘を受けた頼朝は、彼を罪人扱いするのではなく、狩野介宗茂(かのうのすけむねもち)という情け深い男に預け、丁重に扱うよう指示します。

やがて、宗茂の屋敷に移った重衡・・・ある日、そこで沐浴を許されます。

一の谷にて捕虜となってから、その体は潮風にさらされ、汗まみれとなりながらも、湯につかるなんて事はできなかった重衡・・・「体を清めてから処刑しよって事なのか…」と思いつつ過ごしていると、ガラッと湯殿の扉が開きます。

「すわっ!刺客か!」
と思ったところ、そこには、歳の頃なら20歳ばかりの女房と、14~15歳の少女の二人・・・少女は水を張ったタライに櫛を入れて手に持っています。

実は、この湯殿・・・重衡を預かる事になった宗茂が、その心を癒してもらおうと、慌てて造らせた彼専用の特注だったのです。

もちろん、二人の彼女たちは、湯殿での重衡のお世話を言渡された二人・・・細々とした世話を終えた女房は・・・
「男ばっかりやったら、何かと無骨で不愉快に感じられたらアカンと思われた宗茂様が、とりあえずは女ならえぇやろと、私が使わされました。
なんでも、重衡さんのご希望どおりにするから、お前が聞いて来いと言われておりますよって、なんなりとお申しつけください」

と・・・

それに答える重衡は
「こんな境遇で、何を言う事もないけど、ただ一つの希望は出家したいって事かな」
と・・・

しかし、彼は、もはや源氏だけの敵ではなく朝敵(国家の敵)・・・出家は許されるものではありませんでした。

彼女が帰った後、重衡が警護の武士に尋ねると、
「彼女は、手越の長者の娘で名は千手と言い、美人で気だてが良いと評判でっせ」
と言います。

その人選に宗茂のやさしさを感じつつも、夕方は雨となり、やはり捕らわれの身である重衡には、何かと物寂しく思って過ごしているところへ、例の彼女が琵琶と琴持った召使とともに現われます。

あくまで囚人ですので、宗茂の監視という条件はつきますが、その心を少しでも晴れやかにして差し上げたいという思いのもと、ささやかな酒宴が催されたのです。

宗茂の家人や郎党を含めて十数人・・・重衡を囲むように座って、囚人と監視役という関係を取っ払って談笑します。

しかし、そんな宗茂の心遣いはありがたいものの、明日をも知れぬ命では、そうそう陽気になれるもんじゃありません。

誰かが冗談を言って、ドッと笑いがおきても、重衡は、ほんの少し、おつきあいの笑みを浮かべる程度・・・せっせとお酌をする千手にも、あいそ笑いしか出てきませんでした。

そんな重衡の不自然さに気づいた宗茂は、
「もう、お聞きになってはりますやろけど、頼朝様から充分に気を配ってお慰めするように仰せつかってますさかいに・・・」
と、あらためて言い、
「おぉ・・・千手!何か一曲頼むわ!」

それに答えて、千手は
♪羅綺の重衣たる 情なきことを・・・♪
と、『和漢朗詠集』にある菅原道真の歌を、2~3度くり返し歌いました。

しかし、重衡は
「これを歌う人を、天神様は一日3度守ってくれると言うけど、もはや極悪人となった俺は、もう救われへんやろなぁ」
と・・・

すると、千手は、すぐに
♪十悪といえども 引摂す♪
と、歌い、さらに
♪極楽願わん人はみな 弥陀の名号唱うべし♪
という今様(ヒットソング)を歌います。

改心してお経を唱えれば、どんな悪人でも救われると、大仏を焼いてしまうという大罪に苦しむ重衡を慰めたのです。

この千手の機転に、ようやく重衡の心は和みはじめ、その次に千手が「五常楽」という曲を琴で弾くと
「これは“五常楽”やけど、僕の場合は、さしずめ“後生楽”やな・・・これから急いで死にに行かなアカンさかいに“皇章急”でもやるか~」
と、自ら琵琶を手にとって雅楽を奏でるまでに楽しみました。

東国育ちの宗茂が
「これが都の雅か…」
と、聞きほれていると、やがて、窓の外の雨もあがり、とても澄んだ気分・・・

重衡は
「あぁ・・・東国に、これほど優雅な人がいてるとは・・・意外やったわ~
なぁ、もう一曲(人><)

と千手にリクエスト・・・

こうして、宴は夜が明けるまで続いたと言います。

この宴会の成功から、千手は、その後も重衡に仕えたと言いますが、くわしい事が書かれているのは、この一夜限り・・・

しかし、二人の関係が、たとえこの一夜限りであったとしても、千手は、間違いなく恋をしました。

『平家物語』では、重衡亡き後、すぐさま出家した千手は、善光寺にて、その菩提を弔いながら一生を終えたと言います。

『吾妻鏡』では、3年後のある日、いきなり気絶して、そのまま息をひきとりますが、それは「亡き重衡を思うあまりに病に倒れたのだ」とされています。

優雅に歌い琵琶を奏でる雅な貴公子でいて、死を前にして堂々たる態度を崩さない武人、そこに牡丹のようなイケメンがプラスされた悲しいほど美しい平家の公達の、最期のひとときを慰めるためだけに使わされた千手・・・

そんな自分の使命を知っていてもなお、恋する気持ちを抑えきれなかった彼女・・・

それは、軍記物と呼ばれる平家物語に咲く、淡く切ない一輪の花でした。

Sigehirabosyo600
奈良街道沿いにある平重衡の墓(くわしい場所は本家HP:京都歴史散歩「醍醐」へどうぞ>>
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2010年6月22日 (火)

坂本龍馬の「船中八策」土薩盟約そして大政奉還へ…

 

慶応三年(1867年)6月22日、薩摩西郷隆盛大久保利通土佐後藤象二郎坂本龍馬中岡慎太郎らが、大政奉還協力の盟約薩土盟約を成立させました。

・・・・・・・・・・

慶応三年(1867年)4月、土佐藩の外郭団体として正式発足したばかりの海援隊(かいえんたい)に降りかかった大事件=いろは丸事件・・・(11月15日参照>>)

とにもかくにも、その賠償問題の決着を見届けた坂本龍馬が、今や土佐藩の参政として活躍している後藤象二郎とともに、藩の蒸気船・夕顔丸にて長崎を出航したのは、6月9日の事でした。

すでに、この1月、長崎での会談にて、大政奉還(たいせいほうかん)の話で盛り上がっていた龍馬と象二郎は、この船の中で再び、その方策を協議します。

その時誕生した新政府の構想が『船中八策(せんちゅうはっさく)と呼ばれるアレです。

龍馬が象二郎に話して聞かせるのを、横にいた海援隊士の長岡謙吉が書きとめたと言われていますが、その原本は残っておらず、もともと上田藩士・赤松小三郎という人物の構想を龍馬が語って聞かせただけと考える人も少なくなく、また、親交のあった横井小楠(しょうなん)(1月5日参照>>)の影響も多分に受けているとして、果たして、この船中八策が、どこまで龍馬のオリジナルだったかは、よくわからない部分もあるわけですが、それを言い出すと、お話が前に進まないので、その真偽のほどは、またいずれの機会にさせていただく事にして・・・

この後、新たな国家構想を話し合う会議に使われたとおぼしき龍馬直筆の『新政府綱領(こうりょう)八策』なる原文が伝わっていますので、とりあえずはソチラを・・・

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新政府綱領八策(下関市立美術博物館蔵)

第一義
天下有名ノ人材ヲ招致シ顧問ニ供フ
第二義
有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ現今有名無実ノ官ヲ除ク
第三義
外国ノ交際ヲ定義ス
第四義
律令ヲ撰シ新ニ無窮ノ大典を定ム律令既ニ定レバ諸侯伯皆此ヲ奏ジテ部下ヲ率ス
第五義
上下議政所
第六義
海陸軍局
第七義
親兵
第八義
皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス

右預メ二三ノ明眼士ト議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ッテ云々
○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下万民ニ公布云云強抗非礼公儀ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スルコトナシ

慶応丁卯十一月 坂本直柔
 

以上、あの○○○には、何が入るんだろう???と妄想をかきたてられる一文ではありますが、とにかく、その元となる物は、大政奉還はもとより、人材登用不平等条約の改定憲法制定二院制議会海軍拡張御親兵設置金銀交換比率の改定基本原則を明示した画期的内容だったわけです。

この船中八策を手に、一路、京都へと向かう龍馬と象二郎・・・

かくして慶応三年(1867年)6月22日、二人は、福岡孝弟(たかちか)ら土佐藩家臣と、そこに中岡慎太郎も加わり、薩摩小松帯刀(たてわき)西郷吉之助(隆盛)大久保一蔵(いちぞう・利通)と会見し、この案への同意を求めたのです。

この直前の5月に行われた四侯会議・・・
福井藩第14代藩主の松平慶永(よしなが・春嶽)
宇和島藩第8代藩主の伊達宗城(むねなり)
前土佐藩主の山内容堂(ようどう・豊信)
薩摩藩主の父・島津久光

上記のメンバーで行われたその会議で、明確の答えが出なかった事から、この時の薩摩には、すでに武力討幕の意志はあったと思われますが、この文章自体には異論がなく、特に議会主義などは、薩摩としても興味のあるところでしたから、「まずは、様子見ぃ」(←たぶんそうかと…(゚ー゚;という感じで、この日、両者は土薩盟約を交わす事となりました。

幕府への忠誠心を持ちながら、薩長とのつながりも持つ・・・ちょうど昨日書かせていただいたばかりの山内容堂(6月21日参照>>)が、その微妙な姿勢から、「酔えば勤王(朝廷側)、冷めれば佐幕(さばく・幕府側)と、揶揄(やゆ)されていた土佐藩は、ここに来て、最も政局を動かせる位置についたのです。

早速高知に戻った象二郎は、この案を容堂に提出・・・容堂はすぐさま、建白書の準備を命じました。

やがて完成した大政奉還の建白案は、老中を通じて、第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)へと伝わります。

しかし、この案を慶喜がOKするかどうかは・・・提出した彼らにはわかりません。

「建白が採用されへんかった時には、そのまま城中で死ぬ覚悟でいてはりますやろ?
もしも、先生
(象二郎の事)が、お城から帰って来はれへんかった時には、海援隊が、将軍の参内するタイミングを狙ろて、一発ブチかましたりますさかいに・・・その後は冥土で会いましょうや!」

これは、10月13日、登城を間近にひかえた象二郎に渡された龍馬の手紙・・・二人の覚悟のほどが見えてきます。

果たして、その日、二条城に集められた在京中の40の藩の重臣・・・彼らの目の前で、容堂の建白を受ける形で、慶喜は、その胸の内を語ります。

その内容は、翌・14日、大政奉還として日本の歴史上に刻まれる事となったのです(10月14日参照>>)

そして、その大政奉還と同じ日・・・朝廷も動きます(10月13日:討幕の密勅>>)
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2010年6月21日 (月)

鯨海酔侯・山内容堂…幕府存続に賭けた日々

 

明治五年(1872年)6月21日、大政奉還を建白して幕末の四賢侯の1人として知られる第15代・土佐藩主・山内容堂が46歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

福井藩第14代藩主の松平慶永(よしなが・春嶽)、宇和島藩第8代藩主の伊達宗城(むねなり)、薩摩藩第11代藩主の島津斉彬(なりあきら)らと並んで、幕末の四賢侯(しけんこう)と称される第15代土佐藩主・山内容堂(ようどう)・・・

それでいて自らを鯨海酔侯(げいかいすいこう・クジラの海を持つ国の酒呑みの殿様みたいな意味です)と称し、数々の重要会議にも泥酔状態で出席・・・そのコロコロ変わる態度から、「酔えば勤王(朝廷側)、冷めれば佐幕(さばく・幕府側と、周囲にからかわれる・・・

こんなつかみどころのない不思議な人を、今年の大河ドラマ「龍馬伝」では、あの近藤正臣さんが、見事に演じています。

つい先日まで、武市半平太(たけちはんぺいた)がキライ!」と言って、土佐勤皇党つぶしに躍起になってたかと思ったら、昨日の放送では酒びたりで足元もおぼつかず、仏画なんか見ちゃって、いったい何を考えてるんだか・・・

と言っても、ただのバカ殿ではない・・・おそらく、この先も二転三転する容堂のつかみどころのないキャラクターを、近藤さんのすばらしい演技で、視聴者の心をわしづかみにしていただけるのではないかと思って期待しておりますが・・・

Yamautiyoudou148 そんな容堂さんは、本名を山内豊信(とよしげ)と言い、土佐南家・・・つまり分家の当主だった山内豊著(とよあきら)の長男として生まれ、しかも母親は側室・・・本来なら藩主になるはずなどなかった彼ですが、第13代・第14代と、相次ぐ藩主の急死により、後継ぎがわずか3歳という山内家存続の危機となったところで、第15代藩主となったのです。

・・・とは言え、22歳で藩主となった彼は、ペリー来航で、その進路を模索する幕府に「外交意見書」を提出し、ただならぬ人物である事を知らしめるとともに、革新派だった吉田東洋(とうよう)を藩政に起用し、富国強兵殖産興業人材刷新などの藩政改革に乗り出します。

しかし、まもなく起こった次期将軍問題・・・

第13代江戸幕府将軍・徳川家定(いえさだ)に子供がいなかった事から勃発した後継者問題で、彼は、水戸の徳川斉昭(なりあき)や島津斉彬とともに、一橋(徳川)慶喜(よしのぶ)を推薦・・・一方の徳川慶福(よしとみ・後の家茂)派の井伊直弼(なおすけ)らと激しく対立します。

結局、第14代将軍は徳川家茂(いえもち)となり、大老に就任した直弼によって、あの安政の大獄(10月17日参照>>)が決行されるわけですが、この時、彼は、自ら土佐藩主の座を降り、品川の別邸で2年間の蟄居(ちっきょ)生活を送る事になります。

この時から、その名を容堂と号します。

しかし、藩主の座こそ、本家の山内豊範(とよのり)が継いでいたものの、蟄居生活が解けて復帰した後は、再び、藩の実権を握る事になります。

そんな容堂の、基本的な立ち位置は「公武合体(こうぶがったい・朝廷と幕府の融和)・・・以前、武市半平太のページ(5月11日参照>>)でも書かせていただいたように、初代藩主・山内一豊以来、関ヶ原の功績によって、徳川から与えられた土佐一国という意識の強い山内家は、常に幕府に忠誠を誓う立場であって、倒幕をする気など、まったくなかったのです。

時勢を読む事を最優先にしていた容堂は、自論をムリヤリ推す事はなく、その時々に応じて柔軟な対応をする人で、それゆえ、冒頭に書いたように、「酔えば勤王、冷めれば佐幕」と言われたわけですが、この幕府への忠誠は一貫して、最後まで変える事はありません。

おそらく、容堂は、徳川幕府を潰す事なく、時勢の波に乗って、外国勢力とも対抗できる新しい国家へと移行する方法を模索し続けたのだと思います。

慶応三年(1867年)7月・・・そんな容堂のもとに、またとない朗報が届きます。

これが、坂本龍馬後藤象二郎が京都に向かう船の上で考えたと言われる大政奉還(たいせいほうかん)の方策船中八策(せんちゅうはっさく)です。

すでに、薩摩の小松帯刀(たてわき)西郷吉之助(隆盛)らの承諾を得て、薩土盟約も交わした象二郎が、容堂に大政奉還の案を説くために、今回、高知入りしたのです。

この案は、政権を幕府から朝廷に返し、天皇をトップとしながらも、その下に、現在の幕府を土台にした議会を造り、政治を運営しようとするもの・・・(6月月22日参照>>)

これは、容堂が望んでいた幕府生き残り作戦。

容堂は、早速、建白案準備を象二郎に命じます。

問題は、この案を第15代将軍となっていた徳川慶喜が承諾するかどうかでしたが、ご存知のように、10月14日・・・あの二条城で、歴史的な大政奉還が行われました(10月14日参照>>)

しかし、実は、ここからが容堂の勝負どころ・・・本格的な政争だったのです。

朝廷側は、徳川の存続を許そうとはしませんでした。

薩長の思惑は、あくまで倒幕・・・

そんな彼らによるクーデターが12月9日の小御所会議王政復古の大号令です(12月9日参照>>)

この会議に、慶喜以下、幕府要人をいっさい出席させない事に不満ムンムンの容堂・・・倒幕一色の会議の中、午前中の会議では、ひとり幕府の存続を模索する彼でしたが、午後からの会議で、あえなく撃沈・・・

その原因は・・・
先のページでは、西郷の脅しがあったと書かせていただきましたが、それとともに、実は、彼自身の失敗もあったのです。

すでに泥酔状態でこの会議に参加していた容堂・・・
「天皇が幼いのをえぇ事に、その権力をかついで私的に運営するなんぞ、許さん!」
と言っちゃったのです。

一見、的を射ている発言ですが、それを見逃さなかったのが、あげ足取り・・・いや、酸いも甘いも噛み分けた岩倉具視(ともみ)でした。

「帝は、年齢は幼くいらしても、不世出の英主であり、今回の事はすべて自らのご決断である!それを幼いからなどと・・・失言なんとちゃうんかい!」

やっちゃいました(〃゚д゚;A A゚Å゚;)ゝ ゚+:.

さらに、暴言を吐いたとして、「おのれの土佐の地を、徳川家同様に、朝廷に返還しろや!」と、逆に責め立てられ、ここからは、ただただ謝罪するのみの沈黙状態となってしまったのでした。

孤軍奮闘空しく、倒幕の動きを止める事ができなかった容堂・・・おそらく、彼は、ここで政治の表舞台から去る決意をしたのかも知れません。

それでも、戊辰戦争(1月3日参照>>)の時には、土佐軍の指揮官であった板垣退助「戦いに加わらないように」と発言したといいますが、容堂なら、それが不可能である事も気づいていたかも知れません。

現に、結局、土佐軍は参戦しますが、彼がそれを咎める事はありませんでした。

維新後は、内国事務総裁という官職につきますが、ほどなく辞職し、別邸での隠居生活を送ります。

十数人のお妾を囲い、朝から酒を呑み、豪遊に次ぐ豪遊の生活をしていたと言いますが、時々は、ポツリと、半平太ら勤皇党のメンバーを抹消してしまった事を悔やんでいたとも言われます。

ひょっとしたら、西郷隆盛や大久保利通(としみち)木戸孝允(たかよし・桂小五郎)など・・・身分の低い位置から這い上がって、新政府で活躍する彼らの姿を、半平太に重ねていたのかも知れませんね。

もし、半平太が生きていたら、土佐出身の要人として活躍していたかも知れないと・・・

明治五年(1872年)6月21日・・・長年の飲酒がたたって脳出血で倒れた容堂は、46歳の生涯を閉じました。

なるはずのない藩主に突然就任し、攘夷と開国に揺れる動乱の波の中を、自らの生き方と、忠誠を誓った主君の存続を願って泳いだ日々・・・

彼にとってのお酒は、百薬の長か、はたまた現実逃避の道具だったのか・・・それは、ご本人にもわからなかったのかも知れませんね。
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2010年6月20日 (日)

戦国の活版印刷と日本にある世界最古の印刷物

 

天正十八年(1590年)6月20日、ヨーロッパを訪問し、ローマ法王に謁見した天正遣欧少年使節が、8年5ヶ月ぶりに帰国・・・ともに長崎に帰国したヴァリニャーノが、活版印刷や銅版画の技術をもたらしました。

・・・・・・・

大友宗麟(そうりん)など、九州キリシタン大名によって派遣された天正遣欧少年使節が帰国・・・しかし、命がけで使命を果たした彼らを待っていたのは、キリシタンへの対応が180度変わった日本でした。

天正少年使節については、2007年の6月20日>>に書かせていただいておりますので、本日はお題にある通り、その帰国の手土産にと、イエズス会の宣教師ヴァリアーノがもたらした活版印刷のお話です(ついでに、世界最古の印刷物のお話も・・・)

・‥…━━━☆

活版印刷と言えば、ドイツ出身の金属加工職人のヨハネス・グーテンベルクが1445年頃に発明した物・・・

それが、こうして、宣教師ヴァリアーノを通じて、天正少年使節の帰国とともに日本にもたらされ、その後、日本語の文をローマ字で書いた『サントス御作業の内抜書』『日羅辞典』『どちりなきりしたん』などなど・・・いくつかの本が、この時に持ちこまれた活版印刷機で印刷されました。

日本製の漢字やカタカナ・ひらがなの銅活字も作られて、しばらくの間はブームとなりましたが、キリスト教の禁止とともに、江戸幕府が行った鎖国政策(海外交易縮小)により、いつしかヨーロッパからもたらされた印刷技術は使われなくなってしまいます

また、同時期に、朝鮮出兵で大陸へと渡った豊臣秀吉配下の武将たちが、現地にて活版印刷の道具を見つけて持ち帰って来た事から、朝鮮方式の活版印刷も日本に伝わりましたが、こちらは、非常にコストがかかる事から次第に敬遠され、江戸時代には、ご存じのように、手軽な木版印刷が主流となります。

・・・とは、言いながらも、

実は、「印刷年代がはっきりしている世界最古の印刷物が、日本にある」というのをご存知でしょうか?

1000000pagodas 今も、約4万基が残されているという百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)という物で、約15cmほどの小さな塔の中に、「陀羅尼」というお経を印刷した紙が、折りたたまれて入っている物なのです。

これは、天平宝字八年(764年)に勃発した、あの藤原仲麻呂=恵美押勝(えみのおしかつ)の乱・・・(9月11日参照>>)

この事件は、当時、政界のトップに君臨していた藤原仲麻呂が起した叛乱を、時の天皇である第46代・孝謙(こうけん)天皇(乱後の第48代・称徳天皇と同一人物)が鎮圧したという物・・・

まぁ、仲麻呂の叛乱というよりは、孝謙天皇の相方チェンジのニュアンスが強い事件ですが、そのページでも書かせていただいたように、すでに新しい都の建設にまで着手していた仲麻呂を抹殺という強引な戦いは、国の世情にも、大きな動揺を与えたわけです。

そんな戦後の混乱を鎮めるべく、その称徳天皇自らの発案によって行われた国家の安泰を願うイベンというか儀式というか・・・そんな感じで作られた物なのです。

発案から四年後の宝亀元年(770年)4月26日には、文字通り、100万基の小塔(もちろん中にお経を印刷した紙も入ってます)が完成し、法隆寺薬師寺東大寺などの10のお寺にそれぞれ10万基ずつ寄進されたのです。

しかし、その後、火災で焼失したりして、現在では、法隆寺に残る約4万基と博物館、そして数基の個人蔵のみとなってしまっています。

4万でも多いっちゃぁ多いですが、もともと100万あった事を考えると、やっぱり少ない・・・

いったいどうしたのか?と言えば・・・

ご存じの、明治に起こったあの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐で、多くの寺院が縮小されたり壊されたり、たくさんの美術品も流失した時代からしばらくして、アメリカ人講師フェノロサ岡倉天心(10月15日参照>>)「日本美術の見直し運動」によって、その重要性を知った政府は、明治三十年(1897年)に、やっと「古社寺保存法」という、現在の文化財保護法の前身とも言える法律が制定し、重要な遺産は国が資金援助をを行って保存する方向へと向いたのですが、

残念ながら、あの時、10のお寺に収められた100万基の小塔の多くが、すでに消失してしまっていました。

ただ、それでも、法隆寺の陀羅尼だけは、まだ無事だった・・・しかし、そんな法隆寺も、未だ拝観料という物が存在しない当時では、国から出される資金援助だけでは、到底、寺を維持できない状態で、やむをえず資金調達のために多くの陀羅尼を手放したのだそうです。

・‥…━━━☆

こうして、
戦国時代に伝わりながらも、一旦は無くなったり・・・
世界最古でありながら売りに出されたり・・・

数奇な運命をたどる日本の印刷技術ですが、100万のうちの4万基だけとは言え、世界最古が、なんとか無事に残ったのは、うれしいですね。

ちなみに、百万塔陀羅尼の印刷方法が、木版だったのか銅版だったのかは、未だ不明なのだそうです。

国会図書館のサイトに、お経の文字も確認できる百万塔陀羅尼の大型画像があります・・・コチラからどうぞ>>(別窓で開きます)
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2010年6月18日 (金)

史跡めぐり~いま、むかし

 

今日は、少し、史跡めぐりのお話をしましょう!

・・・と言っても、「どこどこに行って来たよ」というお話ではありません。

題名の通り、昔の史跡めぐりと現在の史跡めぐりの違い・・・というよりは、旅の目的の違いと言った感じかも知れませんが・・・

・‥…━━━☆

いつもブログを読んでいただいている方は、すでにご存知でしょうが、私は歴史好きであるとともに、その歴史の舞台となった史跡を訪れる事も大好きです。

小学生の頃は、現在のような「ガイドブック」なる物もあまりなく、親が買ったとおぼしき亀井勝一郎氏の「大和古寺風物誌」なる文庫本を、たまたま家で見つけて読みふけり、「行きたい~ヽ( )`ε´( )ノと、訴えておりましたが、「小学生が1人で電車乗って遠くに行ったらアカン!」と親に言われ、一応、小学生の間は我慢・・・

そして、晴れて中学生になった春・・・夢殿の救世観音の開扉に合わせて訪問した法隆寺が初体験でした。

歳がバレるので、あまりくわしく言いたくありませんが、「non-no」「anan」が京都の特集を組んだり、国鉄が「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンを展開して、社寺めぐりがブームと化すのは、この、もう少し後ですかね。

・・・で、なんで、こんなところから話はじめるかと言いますと・・・
その中学生の頃に、初めて唐招提寺に行った時のパンフレットと、○○年経って、ごく最近訪れた時のパンフレットが、まったく同じ物だったのです。

南大門の前にあるお店も、あの頃と変わりなく・・・置いてあるベンチの位置まで同じでした。

ふと、感じた事は・・・
「こうして、人は、何十年も何百年も変わりなく、神社仏閣めぐりを楽しんだんだろうなぁ」
・・・と、
京街道山の辺の道なんて歩いたひにゃ、昔の旅人に思いを馳せまくり・・・

と、思いきや、意外にも、今の感覚と昔の感覚はちょっとばかり違うのですね~これが・・・

もちろん、以前に【人はなぜ、別れる時に手を振るのか?】(1月31日参照>>)で書かせていただいたように、古代には遊覧目的の旅なんて物は存在しません。

その頃は、一般庶民のほとんどが、生まれ育った土地で一生を過ごすわけですが、やがて、中央集権が確立するようになって、都造営の人足や防衛の兵士としてかりだされる事で、はじめて、命がけで村を出るわけです。

だからこそ、役行者(えんのぎょうじゃ)弘法大師が諸国をめぐる事が「修行」となるのです。

それだけ、危険で命がけ・・・でないと、修行ではなく、それこそ単なる旅行ですからね。

そんな命がけだった旅行のイメージが払拭されるのが江戸時代・・・

もちろん、それまでに大きな街道は整備され、織田信長楽市楽座などに見られるように物資の輸送経路などは、おおむね発達していましたが、なんせ、世の中が戦国ですから、行商などの目的があるならいざ知らず、一般庶民が遊び目的で遠方へというには治安が悪すぎます・・・せいぜい領国内で精一杯。

やはり、それは大いなる平和がもたらされる江戸時代になってからという事になるでしょうね。

有名なのは、伊勢神宮の参拝目的で旅する「お陰参り(おかげまいり)・・・以前、奈良街道を散策した時のページ(2月22日参照>>)に、早くも慶安三年(1650年)に一回目にブームが訪れた事を書かせていただきましたね。

この感覚は江戸時代を通じて変わりないわけで、ここだけ見ると「なんだ、今も昔も変らないじゃん!」と思われるかも知れませんが、実は、その名所旧跡となる条件が、現代人の感覚とは少し違うのです。

今、私たちが、名所としてその名を挙げる神社仏閣の条件と言えば・・・
1、美しい景色が見られる
2、すごい建物がある
3、他に類を見ないめずらしい場所である
4、歴史が古く由緒が正しい

・・・てな感じでしょうか?

しかし、江戸時代の名所の1番の条件は、
「いかに霊験あらたかでご利益があるか」
なのです。

今で言えば、パワースポットですね。

そういう意味で言えば、昨年あたりからブームになってるパワースポットめぐりは、江戸時代の旅の感覚に似ているのかも知れませんが、江戸時代のソレは、ブームなんて物ではなく、それが定番・・・しかも、建物の古い新しいも関係なく、歴史の古い新しいも関係ありません。

とにかく、「ここに行ったら、こんなご利益があった」という情報が流れると、そこに人が集まり、名所となったのです。

そこに安置されている仏像も、その古さや美術的価値ではなく、ご利益が最優先だったのです。

史跡に関しても、「そこに何がある」というのではなく、「そこで何があったか?」が最優先されます。

それも、一番人気は、「歌に詠まれている」という事でした。

話が少しそれますが・・・
昔から日本人は、驚くほど学識が豊かなのです。

たとえば、あの『源氏物語』・・・この古典文学が、外国で高い評価を受けるのは、その内容もさる事ながら、千年も前に、架空の物語=いわゆる小説を書く人(しかも女性)がいて、それを、周囲が読んで楽しむという事があったという事・・・

同時代のヨーロッパでは、日記を書いたり、日々の記録をとる習慣はあっても、架空の物語を楽しむという事はなかったとも言われているくらいなのに、日本では、それが写本に写本を重ねて読み継がれ、いつしか、一般庶民もが楽しむという事なってたわけですから・・・。

江戸には600軒、大阪には300軒以上の本屋があって、売れに売れたベストセラーなる物も生まれてますから、江戸時代には、「本を読む」という事が一部の特権階級だけでなく、庶民にまで行き渡っていたかがわかります。

幕末の日本を訪れた外国人の記録には、
「日本文字(仮名)と中国文字(漢字)を駆使した、この独特の文章を読み書きできない男女はいない」
「様々な印刷物を売る本屋がいくつもあり、安価で誰でも買い求められる」

と、驚いています。

つまり、日本人は、たいへんな読書好きだと・・・

その基本となる物が『万葉集』などの歌集だったのです。

「かつて貴族が訪れて歌を詠んだ場所」・・・それが、名所の第一条件だったんです。

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明治三十六年の猿沢池

未だ、江戸時代が色濃く残る明治初年の『奈良名所細見図』には、猿沢池興福寺東大寺の大仏などとともに、あの「奈良の都の八重桜」(4月30日参照>>)がしっかりと書き込まれています。

あの京都の円山公園も、鎌倉時代の僧・慈円『古今和歌集』に詠んだ事から、何もない草ボーボーの場所だったのが、江戸時代には貸し席が設けられるほどの一大リゾート地となり、明治になってから公園として整備された物です(くわしくは本家HP「歴史散歩:ねねの道」でどうぞ>>

もちろん、今でも、歴史や由緒を求めて史跡をめぐる事は大いにありますが、一番、現在と違うところは、江戸時代の旧跡めぐりには、復元という感覚がなかった事でしょうか?

今なら、「○○跡」なんていう史跡があって、ポツンと看板一つが立っているだけだと、「結局、何もないじゃん!」と肩を落す人も多いでしょうが、江戸時代の史跡めぐりは、そこが、どんな状態になっていようと、いっこうにかまわず、それが名所の条件を左右する事はありませんでした。

たとえ現状がどうであろうと「ここで、昔、こんな事があったんだ」と、古の出来事に思いを馳せる・・・なんだか、ちょっとうらやましいくらいの史跡めぐりです。

今の旅の感覚だと、ついつい、何かそれらしい物を求めてしまいます。

お城にしろ御殿にしろ寺社にしろ・・・確かに、全盛期の姿に復元されるのも、それはそれで良い事なのでしょうが・・・
江戸時代の旅を思うと、少し考えさせられますね。
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2010年6月17日 (木)

連合を図った瓢箪鯰~阿部正弘・未だ夢の途中

 

安政四年(1857年)6月17日、江戸時代末期の福山藩主で、幕府老中首座を務め、安政の改革を行った阿部正弘がこの世を去りました。

・・・・・・・・・

文政二年(1819年)に第5代・備後(広島県東部)福山藩主・阿部正精(まさきよ)の五男として生まれ、病弱な兄に代わって18歳で、第7代藩主となった阿部正弘(あべまさひろ)

その翌年に一度お国入りをしますが、彼が故郷の福山に帰ったのは、この一度っきり・・・その職務のほとんどを幕政に捧げた人です。

奏者番(そうじゃばん・礼式の管理役)から寺社奉行を経て、天保十四年(1843年)に25歳で老中に抜擢されます。

Abemasahirocc ・・・とは言え、後に同じような役どころとなる井伊直弼(いいなおすけ)と比べると、何となく印象が薄い感じ・・・ドラマでも、あのペリー来航にアタフタする幕府の代表のように描かれます。

3年前の「篤姫」でこそ草刈正雄さんが演じて、少し注目される役ではありましたが、今回の「龍馬伝」でも、なにやら、江戸城内の広い座敷に、せまっ苦しく屏風を立てて、コソコソ会議をする、あの集団の中にいる1人みたいな感じで描かれてますね~。

そんな阿部さんは、同時代の幕臣からも「八方美人」と批判され、現在でも、決断力がない事なかれ主義と思われがちです。

しかし、一件八方美人に見える政策も、ペリー来航を機に勃発した国家の一大事に、広い視野を持つ彼なりに、必死の努力で立ち向かっていた姿なのです。

ペリーが初めて来航した時、老中首座という役どころだった彼は、一旦ペリーが去った後、幕臣や諸大名とその家臣たちに、ペリーが置いていった国書の訳文を公開して、身分の上下を問わず、広く意見を求めます。

結局、大した意見も出なかった事もあり、苦しまぎれな政策と思われがちですが、考えてもみてください。

未だ「武士のメンツが立たなきゃ、腹を斬る」という時代ですよ。
「こんなもん、うまくいくワケない」というような事も、力づくで押し通しちゃう幕府独裁体制がまかり通っていた頃です。

そんな時代に、最大機密の国書を公開して、身分の上下を問わず、広く意見を聞こうなんていう民主主義的な発想は、考えようによっちゃぁ画期的です。

とは言え、良い打開策を見つけられないまま、時間だけが過ぎ、再びのペリーの来航で日米和親条約を結んだ彼・・・その後は、幕府だけではなく、朝廷や雄藩からも人材を登用し、これらの連携による防衛体制を整えようと試みます。

攘夷派だった水戸徳川斉昭(なりあき)薩摩島津斉彬(なりあきら)らを幕政に参加させた事は、結果的には、幕府の権威を弱める事になってしまったかも知れませんが、おそらくは、「攘夷なんてできっこない」と見切っていた彼にとって、幕府という体制を維持しながら、なんとか日本を一つにまとめるための作戦であったようにも思います。

彼自身は譜代の名門という家柄でありながら、朝廷や雄藩をはじめ、身分にとらわれない人材登用によって、お互いに協調し、できもしない事を強行しようとせず、融和的に、かつ現実的に物事に対処しようとした・・・

これが、八方美人の事なかれ主義として「瓢箪鯰(ひょうたんなまず)なんてニックネームをつけられる阿部さんですが、この先の「攘夷決行は不可能」「日本が一丸となって外国に対処しなければならない」という現実の歴史を知っている現代の私たちから見れば、ベストではないにしても、平和的に事に対処する一つの方法だったのだという事は理解できます。

この時、小者の幕臣にすぎなかった勝海舟や、外国を見て来た土佐の漁師・中浜(ジョン)万次郎を起用したのも彼・・・阿部の広い視野による人材登用がなかったら、彼らの活躍もなかったでしょう。

しかし、安政四年(1857年)6月17日・・・阿部正弘は39歳という若さで亡くなってしまいます。

そうです、彼の、「朝廷雄藩連合構想」は、まだ夢の途中だったのです。

彼の死を以って、この連合構想は尻すぼみ状態となってしまい、ご存知のように、この2年後、あの井伊直弼による安政の大獄(10月7日参照>>)が決行され、世は血みどろの幕末へと突入する事となります。

♪やさしさと甲斐性のなさが、表と裏についてくる♪
演歌の世界じゃないですが、そのやさしさ故、決断力がなく、弱腰にも見える連合政策・・・

しかし、意見が真っ二つに別れる大所帯には、1人くらい、その調整役となる人がいても、悪くない・・・彼が、もう少し長く生きていたら、いったい、どんな幕末を迎えた事でしょうね。
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2010年6月16日 (水)

大河ドラマ「龍馬伝」~考えがコロコロ変わる龍馬って

 

久々に、大河ドラマ「龍馬伝」について・・・

と言っても、あくまで私的な感想ですので、広いお心でお聞きくださいませo(_ _)o

・‥…━━━☆

6月13日の放送は、第24回「愛の蛍」

先週からの続きである池田屋事件(6月5日参照>>)にはじまって、坂本龍馬伏見寺田屋前を通り、亡き母親にそっくりのお登勢を見かけるところまで・・・

予告では、次回に禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)が起こるようなので、今回の放送は元治元年(1864年)6月5日から、翌・7月19日までの4~50日間のうちのエピソードという事になりますね。

まぁ、実際には、龍馬は、池田屋事件のちょいと前に、幕府の黒龍丸江戸に行っちゃってるので、今回の池田屋事件との関わりは、すべてがフィクションという事になるのですが、ドラマの場合は、主人公には重要事件と関われる特権がありますので、そこのところは、別に良いのですが、やはり、気になるのは、このドラマにおける龍馬の性格・・・というかキャラクターの設定ですね。

いつも書かせていただいている通り、その時代に生きて、その目で見た人が、この平成の世にいない以上、今語られている歴史が、絶対に正しいかどうかはわからないわけですから、ドラマとして描く場合は、よほど逸脱しない限り、すべてを歴史に忠実に描く必要はないと思っておりますが、そのドラマ内で起こった出来事や、行った行動に対するつじつまは、そのドラマ内で、しっかりと合わせていただきたいと思うわけです。

ひょっとしたら、私だけかも知れませんが、このドラマ内での龍馬の性格がよくわからない・・・一貫性がなく、行動が支離滅裂なので、未だに理解できていないのです。

確かに、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)のように、一発で立場が入れ替わるような出来事が起こる時代ですから、そこに生きる人の心も、それらに影響されて、考え方がコロコロ入れ替わる・・・言わば、日々悩みながら生きているというところを描いているのかも知れませんが、個人的には、考え方がコロコロ変わる主人公に、なかなか感情移入できないでいます。

たとえば、今回、池田屋事件により命を落す、同郷の望月亀弥太(もちづきかめやた)・・・彼は、龍馬と同じく、神戸海軍操練所にて航海術を学んでいた同志ですが、もともと、武市半平太(たけちはんぺいた)が立ち上げた土佐勤皇党に所属していたわけですから、土佐藩の攘夷派が弾圧され、勤皇党の仲間が次々と捕縛される中で、「自分だけ、ここでこんな事してていいのか?」と悩みはじめるのはわかります。

しかし、ドラマの中では、そんな亀弥太を龍馬は説得し続けていたはず・・・
「もはや攘夷も開国もないぜよ!この日本国の海軍を俺らは作るちや」
みたいな感じで・・・(↑方言の間違いはお許しを・・・)

その説得を聞かずに長州と仲良くしたのは亀弥太の意志・・・だからこそ、大怪我を負ったひん死の状態の彼に遭遇した龍馬に対して
「おまんの言う通りにしちょったら良かった・・・」
(↑セリフの語尾がよく聞こえませんでしたが)
的な、勤王の志士にあるまじき発言をのたまいながら息をおひきとりになるのですから・・・
(ちなみに、実際の亀弥太は長州藩邸の門前で自刃したとされています)

ところが、その直後、町の噂で、「池田屋で捕物をしたのが、新撰組だ」と聞いた龍馬は、鬼のような形相で、亀弥太の仇を討つべく、新撰組を探して京の町をうろつく・・・

新撰組を見つけたところで、たまたま遭遇した桂小五郎に止められ、結局、仇討ちは断念して事なきを得ますが、私としては、どうもしっくり来ないのです。

もともと「危険だからやめろ!」という説得を聞かずに池田屋に行った亀弥太が、そこで新撰組にやられたら、やった新撰組が悪いのか?

なんだか、万引きをした高校生の息子を、店まで引き取りに行った親父が、「盗みたくなるような陳列をしている店側が悪い!」と言ってるような・・・こんな例えが良いとは思えませんが、亀弥太は立派な大人で、しかも新撰組は幕府の命で動いている公式の組織であって、強盗集団ではないのですから、「斬った新撰組が100%悪い」っていうのは、ちょっと違う気がしますし、そもそも、ここまで、「国内で争っている場合じゃない・・・この日本国が一丸となって外国と・・・」と言ってた気持ちは、どこへ???と聞き返したくなります。

以前も同じような事がありました。

やはり、ドラマ内で「外国を相手にできる日本の海軍を造る!ここしばらくは土佐には帰らん!」と息巻いているところに、土佐に戻った半平太の逮捕を知らされ、いきなり「幼馴染を助けたい!」と土佐に帰ろうとするくだりです。

ひょっとして、「日本も大事だけど友達も大事!」っていう事を描きたいという事なのかも知れませんが、そもそも、親兄弟を捨て、命がけで脱藩した人が、故郷の友人を心配している場合ではないと思うんですが・・・

たまたま、実家の才谷屋が金に物を言わせて、坂本家は存続する事になり、海舟の口利きで、龍馬の脱藩も一時許されてはいますが、普通、家は潰され、本人は一生罪人として追われる身となる・・・それが、脱藩ですから、自らの信念のために、親兄弟も故郷も捨てる気でないと脱藩なんてできないはずなのです。

なので、たとえドラマと言えど「日本も大事だけど友達も大事!」とする事には、ムリがあるように思えてなりません。

おそらく、ドラマの中の龍馬だって、脱藩した時点で、何かしらの一大決心をしている設定のはずなのに、なにやら、自分探しの旅をするバックパッカーのようになってるのが悲しい・・・

結局、今回の最後のほうで、お龍さんから「志を貫いた亀弥太さんを褒めてあげるべきなのでは?」と諭されて、ハタと気がつき、これまた、8時過ぎに鬼の形相で新撰組を探していた事もすっかり忘れ、8時40分には違った龍馬に生まれ変るわけですが、そんな一貫性のない龍馬を一貫して描くという点では一貫性があるという問答のような展開になりつつあります。

最後に、龍馬だけではなく、半平太のキャラも変わってしまってませんか?

以前は、岡田以蔵を自らの手駒の一つのように扱い、ミョーに冷たい部分があった(個人的にはこっちが本当の半平太に近い気がしますが)のですが、今回、京都で捕まった以蔵が土佐へと護送され、面会した時には、やさしい言葉をかける人に・・・

そもそも、このドラマの半平太は、土佐に帰った途端に、そのやさしいキャラに変わり、投獄されるやいなや、周囲の心配ばかりする人になってますが、どこで心境の変化があったのかがすっ飛ばされているので、とても違和感を感じます。

おそらくは、この後、彼が亡くなる時に、視聴者の涙を誘うがための「いい人攻撃」なのでしょうが、あの、「信念を貫くためには手段を選ばず」のカッコ良さがなくなってしまったのは、少し寂しい・・・

大森半平太のブラックさが少々小気味良かった私としては、この後、以前も書かせていただいた以蔵・毒殺疑惑のくだりがあるのかどうか楽しみです(5月11日参照>>)

ちなみに、今回の題名の由来ともなった半平太の奥さんが、獄中の彼に蛍のさしいれを送るくだり・・・これは、実際の出来事として記録されているようです。

あれは、ドラマチックで良かったわぁ(゚▽゚*)
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2010年6月15日 (火)

安土城・炎上

 

天正十年(1582年)6月15日、織田信長の居城であった安土城が炎上しました。

・・・・・・・・・・・

6月2日に発生した、ご存知、本能寺の変・・・
(初めてお越しの方は、先日upした本能寺・前夜のページから見ていただくとありがたいです>>)

その後、脅威の中国大返しで畿内に戻り・・・(6月6日参照>>)
謀反を起した明智光秀天王山にて破った羽柴(豊臣)秀吉・・・(6月13日参照>>)

その2日後の天正十年(1582年)6月15日

この日、近江(滋賀県)坂本城へと帰還した光秀の娘婿・明智秀満(あけちひでみつ)は、城へと迫り来る堀秀政軍に、城内にあった光秀の財宝を送った後、そこにいた光秀の妻を刺し、一族もろとも自刃して果てたのです(2014年6月15日参照>>)

実は、『太閤記』では、この秀満が安土城に放火した事になっています。

山崎の合戦当時、安土城にいた秀満が、明智方の敗北を知り、坂本城へと向かう際に、放火して逃走したと・・・

確かに、この秀満さんは、坂本城へ向かう途中の大津で敵陣に囲まれた際、馬に乗ったまま琵琶湖を渡ったという「湖水渡り」の伝説を持つ人ですが、さすがに、同日に移動というのは・・・

もともと、彼が、山崎での敗北知ってまもなく安土を出たとされるのに、安土城が炎上したのが、2日後の15日であるとされる事もあり、今のところ彼が放火した可能性は低いと考えられています。

坂本城の明け渡しの際に、上記の通り、財宝などをすべて送り届けてから城に火を放ったのと、安土城の有無を言わさぬ放火とは、かなり雰囲気違いますしね。

・・・で、もう一人、疑われているのは、信長の次男・織田信雄(のぶお・のぶかつ)です。

これは、あのルイス・フロイス『日本史』に書かれているものなのですが、その理由が・・・

「神が、この城を残す事を許さず、(神のお力で)信雄が焼き払うようにしむけた」
宣教師らしい書き方ですが、キリスト教信者ではない私には、やはり理解できない理由です。

そう、以前、【織田信長とキリスト教】(4月6日参照>>)で書かせていただきましたが、宣教師たちは、信長がキリスト教に帰依しなかった事を非常に怒ってます。

そのページでも引用しましたが、同じく『日本史』の記述には、
「彼は、神や仏をまったく信じていない・・・デウスを否定して自らを神になぞらえ、途方もない狂気で、悪魔的な思い上がりである」
と、神にとって代わろうとするような信長の態度に激怒しています。

まぁ、私としては、そこにも書いたように「信長=神」というよりは、「信長自身が心に描く神や仏が、キリストでもなければ本願寺でもない」という風な考え方ではなかったか?と思っているのですが・・・

それは、さておき、もし本当に信雄が上記のフロイスの言う理由で、安土城に火を放ったのだとしたら、宣教師たちの指示に従った・・・つまりは、信雄がキリスト教徒だった事になりますが、その後の様子を見ても、キリシタンであったようには感じませんよね。

フロイスに言わせれば
「彼=信雄はアホなので・・・」
てな事もほのめかしていますが、それも失礼な気もします。

もし、安土城の炎上が神のおぼしめしだと言うなら、信雄ではなく、潜入したキリスト教徒が・・・って疑いたくなりますね。

逆に、信雄が放火したのだとしたら、未だ、城内に残っているかも知れない明智の残党をあぶりだすためにだったというほうが、納得のいく理由と言えるかも知れません。

他にも、略奪目的で乱入した一般人の放火であるとか、落雷による出火という説もあります。

また、6月7日の日に安土城の光秀に面会したとされる公家・吉田兼見(かねみ)の日記の6月15日のところには
「安土城放火云々、自山下類火云々」
とあり、
「放火だとか、山下(城下町)の火事が類焼したとかの噂になってる」
と、町の噂の状態のまま書き付けているところから、以前は、城下からの延焼説もあったようなのですが、近年の発掘調査により、この延焼説は消えました。

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発掘調査から推定した火災の範囲(この図は、滋賀県安土城郭調査研究所の発表をもとに、現地ドライブマップから、趣味の範囲で作成したものです)

滋賀県安土城郭調査研究所の発表によれば、発掘調査にて火災の痕跡が見られたのは、本丸などの主郭部分のみ・・・この事から、この部分だけを燃やすための意図的な放火と考えられるとの事だそうです。

これは、その後、まもなく信長の孫・三法師(さんほうし)を後継者と決めた(6月27日参照>>)秀吉が安土に入城したり、後に廃棄される時に、その資材の多くを豊臣秀次(秀吉の甥)近江八幡城に再利用したという話とも一致しますね。

つまり、大城郭だった安土城は、主要部分が燃えても、残った部分で充分に役目を果たしていたし、まだまだ建物が残っていたという事であり、それだけ、主要部分だけを意図的に焼いた可能性も高いという事にもなるわけです。

・・・で、結局、名指しで指名された中で、アリバイのある秀満は除外され、信雄犯人説が主流となるのですが、それには、上記の通り、動機があいまい・・・

なので、現在では、略奪目的の一般人の放火のせんが、有力視されているようですが、個人的には、「ならば、主要部分だけ意図的に・・・」っていうのが引っかかるので、結局、ワタシ的には、一番怪しいのは怒ってたキリスト教徒ですが、証拠もないのに、そんな事言うわけにもいかず・・・

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安土城跡・大手道

あぁ・・・結局、わからない(´;ω;`)ウウ・・・

・・・とは言え、この世の物と思えぬほどの絢爛豪華な城・・・(その豪華さは2月23日参照>>)

信長の権勢を誇ったその城は、覇王・信長の死とともにこの世から消え、野となり山となるのが、一番ふさわしい散り方だったのかも・・・。

この安土城炎上は、祭り好きで派手好きだった信長さんが、最後の最後に、後世の歴史ファンの妄想をかきたてるべく、大いなる謎として投げかけた物なのかも知れません。

●関連ページ
【本能寺の変~その時、安土城では…】>>
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2010年6月14日 (月)

蘇我入鹿の暗殺劇~孝徳天皇・首謀説

 

大化元年(645年)6月14日、皇極天皇の弟・軽皇子が即位し、第36代天皇・孝徳天皇となりました。

・・・・・・・・・・

Keizukoutokutennou_3 第30代敏達(びたつ)天皇の孫の茅渟王(ちぬのおおきみ)を父に、第29代欽明天皇の孫の吉備姫王(きびひめのおおきみ)を母に持つ・・・と言ってもややこしいので、とりあえず、関係は右の系図で確認していただくとして・・・(クリックするとチョットだけ大きくなります→)

この2日前に起こった乙巳(いっしの変蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺とその父・蘇我蝦夷(そがのえみし)自害という政変を受けての即位です。

ご存知のように、通常、教科書等では、『日本書紀』の記述にしたがって、この乙巳の変は、時の天皇・皇極(こうぎょく)天皇の息子である中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)が、中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)とともに計画&実行したとされています。

そして、この日、第36代の天皇となった孝徳(こうとく)天皇は、難波宮(なにわのみや・大阪府)への遷都冠位の改定(こおり)制の実施など、いわゆる「大化の改新」と呼ばれる一連の改革を行うわけですが、それらの中心となっていたのは天皇ではなく、皇太子の座についていた中大兄皇子と内臣(うちつおみ)となった鎌足であったと言われています。

さらに、孝徳天皇の皇后となった間人皇女(はしひとのひめみこ)は、実は実兄=中大兄皇子と禁断の愛を育んでおり、完全に兄の味方だったなんて噂もチラホラ・・・(1月3日参照>>)

異母兄弟の場合は結婚すらあった当時ですが、さすがに同父母から生まれた同志は、当時も禁断でしたから、あくまで噂ですが・・・

そんな感じなので、政権内での孝徳天皇はひとりぼっち・・・故に、この後、二人の関係が悪化すると、反対する天皇を置いたまま、中大兄皇子は再び大和(奈良県)への遷都を強行し、1人残された孝徳天皇は、淋しく難波宮で亡くなったとされています。

しかし、白雉四年(653年)の奈良戻りはともかく、その9年前の乙巳の変の時は、中大兄皇子は、わずかに20歳・・・確かに、32歳の鎌足がサポートしていたとは言え、あの謀略に謀略を重ねた蝦夷・入鹿父子を相手に、それを上回る謀略を張りめぐらせてのクーデターの主導権を握るにはあまりにも年齢が若い・・・

なので、この乙巳の変・・・つまり、蘇我入鹿暗殺の主導権を握っていたいたのは、実は、軽皇子(かるのみこ)こと孝徳天皇であったのでは?という説が囁かれています。

一番の根拠は、この乙巳の変から、わずか3ヶ月後の9月(11月とも)、古人大兄皇子ふるひとのおおえのおうじ)討伐の憂き目に遭う事です。

この古人大兄皇子という人は、第34代舒明(じょめい)天皇法堤郎女(ほてのいつらめ)という女性の間に生まれた皇子で、中大兄皇子よりも年長・・・つまり異母兄という事になります。

系図には書ききれませんでしたが(二人の位置が離れてしまったので( ̄○ ̄;)!この法堤郎女は、蘇我馬子(そがのうまこ)の娘なので、古人大兄皇子は蝦夷とは叔父と甥、入鹿とは従兄妹同志という事になりますから、当然の事ながら、蘇我氏は、「この古人大兄皇子を天皇の座につけたい」と願っていたわけで、変の前までは、この古人大兄皇子が、次期天皇の最有力候補だったわけです。

ところが、世紀のクーデターが起こり、古人大兄皇子は、大きな後ろ盾を失っていまいます。

身の危険を感じた古人大兄皇子は、皇位につく事を断り、出家して吉野の山へと入ります、まもなく、「謀反の計画を立てていた」として攻め込まれ一族もろとも滅ぼされてしまいます。

もちろん、「謀反を計画していた」という確かな証拠はなく、おそらくは蝦夷&入鹿父子もろとも、はなから抹殺する計画であったのでしょうが、正史とされる歴史では、これも、中大兄皇子の命令で兵が動いた事になっています。

しかし、考えてもみて下さい。

この頃は兄弟間で皇位継承が頻繁に行われていた頃・・・いや、この頃だけではありません。

平安時代でさえ、父から子へ・・・よりは、兄から弟へ、弟は兄の息子へ・・・と皇位を譲るのが一般的でした。

なので、古人大兄皇子が、次の天皇になったとしても、彼より年齢が低い中大兄皇子が、その次に皇位を継げるチャンスはいくらでもあったのです。

むしろ、古人大兄皇子が天皇になる事で、そのチャンスが無くなるのは、軽皇子=孝徳天皇のほうだったわけです。

当時50歳という彼の年齢からみても、ここがラストチャンスだったはずです。

大化元年(645年)6月12日に、自ら主導権を握ってクーデターを決行した孝徳天皇は、6月14日、譲り合った結果ではなく、自らの意思で天皇となったという事なのかも知れません。

もちろん真相はわかりませんが、もし本当に、この時の歴史が書き換えられていたとしたら、それはひとえに、記紀編さんに携わった藤原一族のしわざ・・・

藤原氏の祖となる鎌足さんを、「できるだけカッコ良く描きたかった」って事なのでしょう。

なんせ、世紀のクーデターを決行したのが20歳の皇子で、それをサポートしたのが32歳の寵臣なら、どう考えても、この寵臣がヒーローですからね。
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2010年6月13日 (日)

公費使いまくり…朝日文左衛門の出張日記

 

元禄四年(1691年)6月13日、尾張徳川家の家臣・朝日重章が、この日から享保二年(1718年)の12月29日までの26年8ヶ月に渡る日記を書き始めました。

・・・・・・・・

その日記の名前は『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)と言います。

書いた人は、朝日文左衛門重章(あさひぶんざえもんしげあき)さん・・・

そう、以前、尾張徳川家の第4代藩主・徳川吉通(よしみち)さんの生母・本寿院(ほんじゅいん)さんのお話のところで登場した日記です(2月14日参照>>)

そのお話でもわかるように、少々、藩に対する不満や批判的な事も記されているため、長い間封印されていて、世に出なかった日記ではありますが、今となっては、当時の世相を知る貴重な史料という事になります。

文左衛門さんは、尾張藩の中でも下級武との事・・・

ただ、その死後まもなく朝日家が断絶してしまうため、この日記以外の事は、ほとんどわかっていないのですが、下級という身分から、一般庶民とのつき合いもあり、それでいて、ちょっとしたおエライさんとのつき合いもあり、そんな毎日の生活の身の回りの事から、殺人事件や町の噂などなど・・・その内容ときたら、それはそれは興味深いわけです。

・・・で、上記のような藩のメンツに関わるような重い話もあれば、ちょっとツッコミたくなるようなお話もあるのです・・・なんせ26年間ですからね。

そんな文左衛門さんは、元禄十三年(1700年)の4月・・・27歳の時に、御畳奉行という役職につき、その翌年の4月から出張旅行に出かけるのですが、その56日間の日記が、実にオモシロイのです。

江戸時代の武士は、特別な許可がおりない限り、外泊なんてなかなかできない物・・・それだけでもウレシイのに、藩命令の出張とくれば、その費用もすべて藩持ち・・・しかも、その名目は畳表の買い付けですから・・・

そう、面会する相手は業者で、こっちは客なのですから、もう、だいたい想像つきますよね~。

特に、文左衛門の奥さん・けいさんは、ヤキモチ焼きのヒステリー気味な嫁ですから、そんな奥さんと離れて、公費での上方旅行・・・もう、気分はウキウキ!

槍持ち1人、草履取り1人のお供を連れて、ルンルン気分で、いざ!上方へ・・・

目的地につけば、案の定、畳商人が、連日連夜の接待攻撃・・・

今日は相撲で、明日は歌舞伎・・・
夜は夜で、料亭での大宴会が終れば、遊郭に繰り出す・・・

もちろん、この遊興費用は業者持ち!

「昼前から誰それと飯を食って、その後、誰それとお酒を飲んで、次は東の座敷に移り、また飲んで・・・」

・・・と、延々と酒盛りの様子が綴られ、その合間合間には、芝居小屋の入場料や、そこで食べたお弁当の値段まで、しっかりと書きとめられています。

さらに、
「○○屋の××ちゃんが良かった」
だの
「□□楼の△△ちゃんのサービスがスゴかった」
だの・・・

おいおい!仕事はどーなってんの!

・・・で、そろそろ名古屋に戻らなければ・・・って頃になって、ようやく、ある1人の畳職人の名前が登場し、
「役目なので、一度は見てみる」
と、やっと、畳表の見本を見に、工場見学に行った話が登場します。

56日間の出張日記中、仕事の話は、この一回きり・・・

30ilal09115 今なら、業者と官の癒着とばかりに、マスコミが一斉に食いつくところでしょうが、当時は、こんなの当たり前・・・ご本人も藩も商人も、まったく悪いと思っていないので、ものの見事にキッチリと書き残されているわけです。

この尾張藩には、弘化三年(1846年)に視察旅行に行った下級武士の日記『御座所日記』なる物も残されているようですが、この内容も、今回のと、ほとんど変らず・・・つまり、150年経っても、同じような事をやってたんですね~。

・・・とは言え、現代でも、はじける前のバブルの頃は、かなり高額の接待費がまかり通っていたような・・・???

そう言えば、つい最近も、少女漫画やキャミソールを、某大臣の事務所費の経費で・・・って聞いたような???

これも、「歴史は繰り返される」
・・・って事なのかしらん(≧ヘ≦)トホホ…
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2010年6月11日 (金)

戦国随一の築城術~藤堂高虎

 

慶長七年(1602年)6月11日、藤堂高虎が伊予今治浦に築城を開始しました。

・・・・・・・・・

7人も主君を変えた事で「渡り奉公人」などと呼ばれる藤堂高虎(とうどうたかとら)・・・

近江(滋賀県)犬上(いぬがみ)の出身で13歳で浅井長政(あざいながまさ)に仕えたとも、甲良(こうら)の出身で15歳で浅井氏に仕官したとも・・・

初陣は、元亀元年(1570年)の姉川の合戦とされますが、織田信長方の敵首を挙げて武功を立てたという話がある一方で、小谷城城番役であったので野戦には出ていないという話もあります。

これは、ひとえに、豊臣秀吉と同様、小者からの地道な努力で大大名にのし上がった証拠ともいえるわけで、土豪とは言え、没落して、ほぼ農民と変わらぬ生活からの仕官では、無名時代の記録という物が曖昧になるものです。

浅井家が滅亡した後も、阿閉政家(あずちまさいえ)磯野員昌(かずまさ)など、故郷・近江周辺で転々と主君を替え、その合間には流浪の生活を送り、時には食い逃げもやったと言いますから、かなり困窮した生活だったのでしょう。

この後、秀吉の弟・羽柴秀長に仕えて紀州(和歌山県)粉河(こかわ)2万石になってからは、秀長亡き後に秀吉に仕えて朝鮮出兵などで武功を挙げ、出世街道まっしぐら・・・やがて、ご存知のように徳川家康のもとで、外様とは思えないほどの信頼を勝ち取る事になるのですが、それは、先に書いた武勇による功績とともに、苦労時代に身に付けた世渡り上手の一面もあるようです。

ただ、世渡り上手での出世という物は、周囲の一部から、やっかみとも言える反感を買うのもいたし方ないところで、有名な戦国逸話集『常山紀談(じょうざんきだん)では、ゴマスリの嫌われ者として悪口書かれまくりのお気の毒さです。

そんな高虎さんについては、以前もチョコッとだけ書かせていただいてはいるのですが(7月22日参照>>)、書き足りない武勇伝は、またいずれ書かせていただくとして、本日は、冒頭に書いた通り・・・

慶長七年(1602年)6月11日・・・伊予今治浦に築城を開始した日という事で、その築城センスについて・・・

武勇や出世物語に関しては、敵味方、様々な解釈が混在するところでありましょうが、こと、築城に関しては、誰もが認める名人・・・

他にも、加藤清正黒田如水など・・・築城名人と言われる武将はいますが、江戸時代初期の築城ブームにおいて、その数と言い、規模の大きさと言い、完成度の高さと言い、バリエーションの豊富さと言い、高虎の右に出る者はいないはず・・・

その、最も天才たるところは、江戸城大坂城などの天下普請(天下普請については5月25日【宝暦治水事件】参照>>)を任された時には地味で堅実で重要なポイントを逸脱しない造りにしておきながら、自らの城である宇和島城今治城伊賀上野城などでは、個性あふれるデザインに挑戦・・・と、まぁ、ここでも世渡り上手を思う存分に発揮してくれているわけです。

Dscn0403a800 大阪城・空堀にある謎の石組:中は人が1人しゃがんで通れるくらいの通路となってます…何のために造ったのか?聞きたい!
後方には、太平洋戦争時代の抜け穴も見えます。
くわしい場所は本家HPの「歴史散歩」のページで>>

中でも、関ヶ原の恩賞としてもらった今回の今治城は、高虎屈指の作品・・・(作品と言って良いかどうかワカランが・・・)

この城は、平地海浜築城法というユニークな物で、掘に海水を引き込み、海から入って来た船を、直接城へと横づけにできるという瀬戸内の海運を意識した造りです。

さらに、これまでは櫓からつながった隅櫓(すみやぐら)の発展形だった天守閣を、独立したシンボルとして本丸の中央のデ~ンと据え、層塔(そうとう)という独自のデザインを編み出します。

この層塔型というのは、五重塔を横に膨らませた感じの物で、いわゆる、同じ形の屋根や建物が縦に並び、上にいくにつれ、徐々にサイズが小さくなるという、この後主流になる、あの天守閣です。

これ、高虎さんが最初だったんですね~

それまでは、信長の安土城に見るように、上の部分だけ望楼のような別の建物になってたのですが、それを層塔にすると、工期も短縮できるし、何たって規格が統一されてるので、解体と組み立てが、ハンパなくスムーズ・・・エコな天守閣だったんですね。

そんな中で、注目すべき点は、高虎の手となり足となって築城に携わった人たち・・・

高虎は、家康の死後には、日光東照宮の造営にも関わっていますが、その時に、高虎の出身地から行った甲良大工たちの匠の技が高い評価を受けた事をご存知の方も多いはず・・・。

これは、高虎が、優れた建築技術を持った技術集団を掌握できる立場にあったかも知れないという事で、彼らの技術と、高虎の発想との相乗効果による築城名人と言えるかも知れません。

優れた武勇と豊富な才能に加え、世渡り上手・・・最終的に32万3000石までのぼりつめつ高虎ですが、彼の残した言葉は・・・

「寝屋を出るより その日を死番と心得るべし」
「朝起きて、寝室を一歩出た時から、その日は死ぬ日かも知れないという覚悟を持っておけ」と・・・

戦国の世は、世渡りも命がけ・・・2代将軍・徳川秀忠の娘・和子後水尾天皇のもとに入内する時、最後の花道とばかりに、自ら志願してお供をかって出たと言いますから、武将としても、さぞかし魅力的な人だった事でしょうが、そこらあらりは、また、いずれ・・・
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2010年6月10日 (木)

大江広元を祖に持つ戦国武将…毛利・4本目の矢の法則

 

嘉禄元年(1225年)6月10日、鎌倉幕府初期に源頼朝の重臣として活躍した大江広元が、78歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

大江広元(おおえのひろもと)は、もともと京都の貴族の出身で、下記(げき)という官職についていましたが、兄を介して知り合った源頼朝に招かれて鎌倉へ下り、元暦元年(1184年)からは、幕府の要人として活躍する事になります。

鎌倉幕府の政所(まんどころ)初代別当を務めるなどして初代将軍・頼朝を支えながら、その出自を生かして、幕府と朝廷のパイプ役もこなしました。

守護・地頭の設置を頼朝に進言したのも彼・・・
兄との関係を修復したい源義経が、あの腰越状(5月24日参照>>)を託したのも彼・・・
その並々ならぬ信頼度がうかがえます。

頼朝の死後には、梶原景時(かじわらかげとき)(1月20日参照>>)比企能員(ひきよしかず)(9月2日参照>>)など、源平争乱の頃から幕府に尽力した御家人たちが、次々と失脚する中で、数少ない生き残りとして幕府草創期を支えました。

・・・と、広元さんについても、まだまだ書きたいところではあるのですが、本日は、初めて、その話を知った時に、「えぇ~!?」と驚いた、その広元さんからある戦国武将へと続くお話・・・

もちろん、知ってる人は、昔から知ってる話ですし、私の場合も、初聞きはずいぶん前ですが、聞くまでは、この広元さんと、その戦国武将とは、まったく別の、次元の違うところでの歴史人物として認識していたので、これを聞いた時には、ちょっとびっくり・・・そして、よくよく見るとさらにびっくりという感じだったわけです。

・・・で、この広元さんには、4人の息子がいたわけですが、長男親広(ちかひろ)が、都にて京都守護職についていた時に勃発したのが、あの承久の乱・・・

ご存知のように、この承久の乱は、後鳥羽上皇を中心とした天皇家が、公家勢力の回復を願って起した反乱(5月15日参照>>)・・・しかし、大量に押し寄せた幕府軍に、あっさりと鎮圧されてしまいます。

この時の親広は、その京都守護職という職務からか、朝廷側として参戦したために失脚してしまいます。

しかし、四男季光(すえみつ)は幕府側につき、しかも、けっこうな武功を挙げた事で(6月14日参照>>)、この後は関東評定衆(ひょうじょうしゅう)という役どころとなります。

ところがどっこい、広元の死後、この季光さんも、宝治元年(1247年)に勃発した三浦泰村・光村兄弟が起した叛乱に加わり、参戦した一族郎党もろともに、自刃して果てます。

・・・が、しかし、ただ1人、生き残る人が・・・

この時、越後(新潟県)地頭職を務めていたために、乱に参加しなかったとして、季光の四男経光(つねみつ)が助かったのです。

その後、越後の佐橋(さばし)安芸(あき・広島県)吉田荘の地頭を勤める事になった経光は、その地頭職を四男時親(ときちか)に引継ぎます。

やがて、鎌倉幕府が滅亡すると、時親は、高齢を理由に隠居し、ひ孫の元春が後を継ぎます。

そして、その元春は、地頭を務めていた安芸吉田荘に移り住み、ここに郡山城を築いて、以後、ここを拠点とします。

安芸・郡山城・・・そうです。

Mourimotonari600 あの毛利元就(もとなり)の居城です(1月13日参照>>)

実は、広元が亡くなる時に、四男の季光は、父から相模(さがみ・神奈川県)毛利荘を相続していて、その時から、本姓は大江、苗字を毛利毛利季光と名乗っていたのです(本姓と苗字の違いは2月13日参照>>)。

元就が登場するのは、広元から数えて14代目・・・

名門の大内氏と、スゴ腕の尼子氏に挟まれながら、国人に毛の生えたような小領主的勢力しかなかった毛利を、一代で西国の雄にのし上げたその逸話は、このブログでもいくつかご紹介させていただいておりますが、私が驚いたのは、広元から元就へと続く、一連の流れだけではありません。

元就が亡くなった後、孫の輝元の代になって、関ヶ原の合戦での敗北を受け、毛利は、このうえない窮地に立たされるわけですが(9月28日参照>>)、その時、わずかに残った領地が、周防(すおう)長門(ながと)の2国・・・

これが、ひょっとしたら豊臣秀吉が、「命の恩人の毛利秀元に与える」と宣言した領地ではなかったか?というお話を以前書かせていただきました(11月7日参照>>)

秀元は、元就の四男穂田元清(ほいだもときよ)の息子で、あの大坂の陣でも大活躍し(5月7日参照>>)、輝元の直系が絶えた後は、この秀元の血筋が毛利家を継いで江戸時代を生き抜いた・・・まさに、毛利家を支えた人物です。

その11月7日のページでも、三本の矢の教えで有名な毛利家ですが、その3本のの矢が、長男・隆元(または孫の輝元)、次男・吉川元春(きっかわもとはる)、三男・小早川隆景こばやかわたかかげ)なのだとしたら、そんな毛利家を救ったのは4本目の矢・・・つまり四男の血筋である事を書かせていただきました。

そうです、今回の広元から元就までの流れ・・・まさに、窮地に立った時、毛利を救うのは四男なのですよ!

この不思議なえにしを、驚かずにいられましょうか!

とは言え、法則にそぐわない部分には目をつぶるという・・・因縁話の常套手段を使ったこじつけなんですけどねww

果たして、江戸時代を通じて眠れる獅子だった毛利家が、幕末の雄藩となり、維新の表舞台に立つ時は・・・やっぱり、こじつけだな(*≧m≦*)
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2010年6月 9日 (水)

明智光秀と細川幽斎~二人の別れ道

 

天正十年(1582年)6月9日、去る2日に本能寺の変を起した明智光秀が、細川幽斎宛てに、最後の書状をしたためました。

・・・・・・・・・・

その内容は・・・:私的解釈入ってます)

  • 君ら親子が頭丸めたって聞いて、ちょっと腹たったけど、落ち着いて考えたら当然かも知れん。
    けど、この後は、ええ家臣をこっちに来さして協力してくれへんかな。
  • 領国については、こっちでは摂津(せっつ・大阪府北部と兵庫県南東部)がええと思て、君らが来るのを待ってたんやけど、但馬(たじま・兵庫県北部)若狭(わかさ・京都府北部)がええねんやったら、それでもOKやし、なんやったら、もっと言うてくれたら考えるし・・・
  • ボクが今回の「不慮之儀(本能寺の変)を起したんは、ひとえに忠興君らを取り立ててやりたいと思たからで、それ以外に他意はないねん。
    50日か100日のうちには、畿内を平定するつもりやよって、それ以降は、十五郎(光慶=光秀の息子)与一郎(忠興)らに引き継いでもろて、俺は引退しようと思てんねん。

Mituhide69a800
明智光秀・覚書(永青文庫蔵)

・・・てな事なのですが・・・

私は、これまで、このブログで、度々、この本能寺の変が、明智光秀の計画的な天下取りではなく、突発的かつ衝動的な物で、そこに「天下を取ろう」なんて気持ちはまったくなかったのでは?・・・と書いてきましたが、その根拠となるのが、まず、織田信長のいる本能寺と長男・信忠のいる妙覚寺同時に攻撃しなかった事と、そして、もう一つが、この手紙です。

すでに、変から一週間経ってるんですよ!

なのに、未だにこんな事言ってる・・・
しかも、出した相手は細川幽斎(藤孝)・・・

名だたる家臣が居並ぶ中、織田コーポレーションに途中入社で入ったにも関わらず、先に入社していた誰よりも出世が早かった光秀にとって、一番に頼れる相手は、織田に来る前からの知り合いだった幽斎だったはずなのですから・・・

そもそもは、あの松永久秀三好三人衆による第13代室町幕府将軍・足利義輝(よしてる)の暗殺(5月19日参照>>)・・・

この時、将軍に仕えていた幽斎(当時は藤孝)は、たまたま非番だった事で難を逃れ、奈良の興福寺に幽閉されていた義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)を救い出し、朝倉義景(よしかげ)を頼って、越前(福井県)へと逃れます。

久秀や三好三人衆の力の及ばない北陸の朝倉氏や、越後(新潟県)上杉謙信の力を借りて、久秀らが擁立した第14代将軍・足利義栄(よしひで)を廃して、救い出した覚慶を将軍に・・・というのが、幽斎の構想です。

しかし、義景は、覚慶改め義昭を奉じて上洛しようなんて気配はまったくなく(9月24日参照>>)、謙信は謙信で、毎度毎度の戦いにあけくれまくり・・・

そんな幽斎に声をかけたのが、当時、義景に仕えていた光秀でした。

「ボクの親戚のコの結婚相手が力になってくれるかも・・・
ボク、その人に、“俺んとこへ来いや”ってメッチャ誘われてんねん」

まぁ、光秀の前半世が謎なので(10月13日参照>>)アレですが、一応、光秀は美濃(岐阜県)を治めていた土岐(とき)の出身で、斉藤道三の娘であった濃姫とは姻戚関係・・・幼い頃からの知り合いだったとも言われています。

ご存知のように、その濃姫は、信長の正室ですから・・・(2月24日参照>>)

こうして、二人はともに信長に近づき、永禄十一年(1568年)には、信長が義昭を奉じて上洛(9月7日参照>>)・・・かの久秀はいち早く信長傘下となり、三好三人衆は追い払われ、第15代将軍・足利義昭の誕生となるわけです。

この時点での光秀は信長と義昭の両方に属する身分・・・幽斎は将軍の取り次ぎ役となりました。

しかし、信長と義昭の関係が徐々に悪くなると(1月23日参照>>)光秀はさっさと義昭に見切りをつけ、信長の傘下へ・・・元亀二年(1571年)には志賀郡を与えられて、坂本城の城主となる大出世を果たします。

一方の幽斎も、義昭配下でありながら信長に情報を流しつつ・・・義昭が挙兵して信長が迎え撃つという決定的亀裂の入った天正元年(1573年)には、そのために上洛する信長を国境にまで出迎えて、信長側である事をアピールします(2月20日参照>>)

翌年には、光秀の娘・(後に洗礼を受けてガラシャ)と、幽斎の息子・忠興(ただおき)が結婚し、お互い新郎新婦の父&義父となります。

こうして信長の配下となった幽斎は天正八年(1580年)には、丹後(京都府北部)12万石を与えられ、光秀の与力となります。

んん?
光秀の与力??

ひょっとしたら、幽斎には、ここが引っかかっていたのかも知れません。

ただし、与力というのは、光秀の指揮下にありますが、配下ではありません。

つまり、二人はともに織田コーポレーションの社員で社長は信長・・・光秀は滋賀支店の支社長で、幽斎は北京都の支社長

しかし、事が起これば、隣接地域は一つになって行動するわけで、北近畿グループを任されている光秀の指揮下に入るという事です。

確かに、臣下ではないですが、幽斎の細川家はかなりの名門・・・出自のわからない光秀の指揮下に置かれる事に、ひょっとしたら、わだかまりがあったかも知れません。

現に、将軍家では、完全に幽斎のほうが格上だったわけですし・・・

同じ時期に信長に会い、同じ時期に義昭を見限って姻戚関係を結んだ二人・・・しかし、光秀から見ると、この世に二人といない同志だと感じていた幽斎も、幽斎から見れば、恩を感じるのは上司の信長であって、同僚の光秀ではなかったのかも知れません。

かくして、光秀の本能寺を知った幽斎は、すぐさま、息子とともにマゲを落として隠居・・・嫁のお玉を丹後三戸野(みどの・京丹後市弥栄町)に幽閉し、大坂にいる信長の三男・神戸信孝に手紙を送り「僕ら、光秀とは無関係ですねん!」と主張します。

もちろん、光秀の再三の誘いもシカト・・・

そんな幽斎の態度に、最後の望みとばかりに光秀がしたためたのが、冒頭の覚書です。

「望みどおりの領地を与える」
「安定したら隠居する」

そこには、もはや天下の野心のカケラもありません。

結局、この幽斎どころか、手取り足取り大名のイロハを教えてやった筒井順慶さえ光秀に味方になる事はなく(6月11日参照>>)、6月13日の山崎の合戦を迎える事になるのです。

●山崎の合戦は6月13日のページへ>>
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2010年6月 8日 (火)

アンケート投票企画:本能寺の変の真相・黒幕は?

 

せっかくのこの時期なので、『本能寺の変の真相』について、久々にアンケート投票を行ってみようかと思います。

もちろん、ワタクシ個人的には、タイムマシンに乗って現場を見て来ない限り、「歴史に答えは無い」と思っています。

まして、「謎」と称される物には、様々な意見があって当然・・・なので、あくまで「私は、こう思う」という事で投票お願いします。

とりあえずはエントリーする人物の紹介と、私的なエントリー理由・・・関連ページへのリンクも表示しておきますので、よろしければ参考にしてみて下さいね。

  1. 明智光秀:計画的な野望
    やっぱ、アノ光秀なら、相当考えたんじゃないかな?
     【本能寺の変~『信長公記』より】>>
     【八上城攻防戦は謀反のきっかけ?】>>
  2. 明智光秀:怨恨による衝動的な犯行
    計画的なら、長男・信忠も同時に襲撃しなきゃね!
     【数時間のタイムラグを埋めるのは?】>>
     【連歌会の句は本能寺の意思表明か?】>>
  3. 斉藤利三
    元親と親しい利三にとって四国征伐は一大事
     【明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…】>>
  4. 羽柴(豊臣)秀吉
    結局、一番得をしたのよね~
     
    【豊臣秀吉・黒幕説】>>
  5. 徳川家康
    築山殿と信康の怨みは深いかも・・・
     【徳川家康・黒幕説】>>
  6. 足利義昭
    将軍の復権を夢見てます!
     ボロは着てても心は将軍】>>
  7. 朝廷
    ここに来て、けっこう対立してたりなんかして・・・
     【上京焼き討ちの謎】>>
  8. 堺の商人
    信長が単独で本能寺に入ったのは?
     
    【本能寺の変と堺の関係】>>
  9. イエズス会
    「自分を神と拝め」って・・・ええかげんにせんかい!
     【信長とキリスト教】>>
  10. 安国寺恵瓊羽柴秀吉
    脅威の中国大返しは二人でしか成しえない?
     【戦国のネゴシエーター】>>
  11. 長宗我部元親
    このままやと、四国に攻め込まれるやん!
     【ラッキーサプライズで阿波平定】>>
  12. その他

さてさて、本能寺の変の真相はいかに?

[追記]
この投票は、清洲会議が開かれる6月27日>>に締め切らせていただきました。

結果は6月38日のページで>>・・・投降されたコメントもお楽しみくださいo(_ _)o
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2010年6月 7日 (月)

物部滅亡ヘのカウントダウン~穴穂部皇子・誅殺

 

用明天皇二年(587年)6月7日、蘇我馬子が皇位を狙う穴穂部皇子を誅殺しました。

・・・・・・・・・

敏達(びたつ)天皇十四年(585年)5月、亡き天皇に代わって第31代天皇となったのは用明(ようめい)天皇でした。

Suikokeizucc_1 二人はともに、第29代欽明(きんめい)天皇の息子・・・つまり兄弟間の皇位継承だったわけです。

しかし、用明天皇の下には、もう一人、異母弟がいました。

それが穴穂部皇子(あなほべのおうじ)・・・ただ、敏達天皇亡きあと、その兄弟の中での最年長者は用明天皇ですから、周囲から見れば順当な皇位継承であったわけですが、どうやら穴穂部さんは、この頃から、すでに、少々の不満を持っていたようです。

そんな中、早くも即位した翌年の4月には、用明天皇は病に侵されてしまいます。

この時、用明天皇は、臣下の皆々を集めて
「仏教に帰依して平癒を祈ろうと思うんやけど、どやろか?」
と、尋ねます。

すでに、書かせていただいているように、この仏教問題・・・
「日本には八百万の神々がいるのだから・・・」
と、仏教導入に反対する物部(もののべ)氏や中臣(なかとみ)と、
「大陸でも、皆、信じてまっせ」
と、導入に賛成する蘇我氏の間で、長年、争われてきた問題です(3月30日参照>>)

今回も、物部守屋(もののべのもりや)中臣勝海(なかとみのかつみ)らは猛反対し、蘇我馬子(そがのうまこ)は、
「天皇のおっしゃる通りにすべきである」
と、真っ向から対立・・・

しかし、「祈ろうと思うんやけど、どやろか?」
という、天皇の言い方を見てもわかる通り、蘇我氏出身の母を持つ用明天皇の心は、すでに仏教へと傾いていたのです。

結局、天皇自らが、はっきりと仏教崇拝を主張する形となり、ここで守屋は、かなり窮地に立たされます。

そんな波乱を含んだまま、用明天皇の容体はますます深刻なものとなり、早くも次期天皇の事が囁かれるようになるのですが、この時、皇太子だったのは、敏達天皇の第1皇子だった押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのおうじ)という人・・・しかし、なぜか、彼の消息が、この後、プッツリと歴史書に登場しません。

病弱のための急死・・・あるいは隠居して身を隠したとも言われますが、あまりにもグッドタイミングな消息不明に、当然の事ながら、誰かによる暗殺説も囁かれていますが、とにかく、まったく登場して来ないので、どうしようもありません。

・・・で、この押坂さんの行方不明により、急激に皇位に近くなったのが穴穂部皇子です。

そんな穴穂部皇子を支持して、現在の窮地を挽回しようとしたのが守屋・・・

二人の計算づくなのか?とれとも若気の至りだったのか?
ここで、穴穂部皇子は事件を起してしまします。

以前、推古(すいこ)天皇のところで書かせていただいた「レイプ未遂事件」です(3月7日参照>>)

この頃、まだ額田部皇女(ぬかたべのおうじょ・炊屋姫)と呼ばれていた後の推古天皇は、亡き敏達天皇の皇后として殯宮(もがりのみや・亡き人を偲んで喪に服す場所)にて喪に服していたのですが、そこに、穴穂部皇子が、力づくで乱入しようとしたのです。

もちろん、これは、そのページにも書かせていただいたように、穴穂部皇子のちょっとした暴走を、したたかな彼女が逆手にとって、大きな事件にでっち上げてしまった可能性もあるのですが、真相はともかく、翌日には
「穴穂部皇子は、次期天皇の座が欲しいため、亡き天皇の皇后を犯そうとした」
という、一大スキャンダルとなって、宮中を駆け巡ってしまったわけです。

怒りが収まらないのは穴穂部皇子・・・とは言え、さすがに皇后である額田部皇女をどうこうする事はできませんから、その怒りは、殯宮の門前で、乱入しようとした彼を制止した欽明天皇の寵臣・三輪君逆(みわのきみさかう)に向けられます。

この時、守屋・馬子の前で「アイツ 絶対!殺したる!」を息まく皇子に対して、この二人の権力者は「どうぞ、ご自由に」と、事実上、承認しています。

どうやら、亡き敏達天皇の寵愛を受けていた重臣=逆の存在は、この二人にとっても目の上のタンコブだったようです。

哀れ、穴穂部皇子と守屋の連合軍に襲撃された逆は、夜陰にまぎれて額田部皇女に助けを求めますが、海柘榴市(つばいち)離宮にて殺害されてしまいました。

Dscn0640800
舞台となった海柘榴市

この時の馬子のスタンスが絶妙です。

先に書いたように、「どうぞ、ご自由に」と黙認しておきながら、「血気にはやらないように」てな感じで皇子を諌めつつ、それでいて、襲撃自体にはまったく関与せず、逆に、彼らの動きを見る・・・

そう、実は、馬子の予想通り、穴穂部と守屋は、この逆殺害の勢いに乗じて、このままクーデターを決行する計画を立てていたのです。

それを阻止したのが、計画を予想して用明天皇の病室の警護を強化していた馬子でした。

クーデターの失敗により身の危険を感じた守屋は、一旦、河内国渋川郡阿都(あと・大阪府八尾市跡部)の別宅に退きあげます。

そんなこんなの4月9日・・・とうとう、用明天皇が、快復をみないまま崩御します。

翌・5月・・・
「待ってました!」
とばかりに、再び兵を挙げ、穴穂部皇子を天皇に擁立し、政界の実権を握るべく守屋が動きます。

しかし、この時、守屋が穴穂部へ使わした密使の連絡が、なぜか馬子にだだ漏れ・・・

馬子は、すかさず額田部皇女から
「速やかに、穴穂部皇子と宅部皇子(やかべおうじ)を誅殺(ちゅうさつ・罪を認めて殺す事)せよ」
との(みことのり・天皇の正式命令)を取りつけます。

つまり、アチラは許可なきクーデターで、コチラは正統な官軍という事です。

用明天皇二年(587年)6月7日、馬子は、佐伯連丹経手(さえきのむらじぬいて)らの軍をさしむけ、穴穂部皇子と宅部皇子を殺害したのです。

この宅部皇子という人は、穴穂部皇子の弟とも、第20代宣化(せんか)天皇(欽明天皇の兄)の皇子とも言われますが、穴穂部皇子と大変仲が良かったとされる人で、なんとなく、巻き添えを喰った感がありつつも、意外と、率先して、今回の一件に関与していた可能性もあり、更なる研究が待たれるお人です。

とにもかくにも、次期天皇候補という大きな旗印をなくしてしまった守屋・・・当然の事ながら、この一件は致命的となります。

かくして、馬子による大々的な物部氏討伐が開始されるのは、この1ヵ月後の事となりますが、そのお話は7月7日の【VS蘇我との決戦~物部守屋の討死と鵲森宮】でどうぞ>>
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●未盗掘で発見された藤木古墳の埋葬者が、今回主役の穴穂部皇子かもしれない!というお話は2009年9月25日のページでどうぞ>>
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2010年6月 5日 (土)

一昼夜に2万余句~井原西鶴「吟じます!」

 

貞享元年(1684年)6月5日、井原西鶴が、一日一夜にして2万3500句の新記録を樹立しました。

・・・・・・・・・・・

大坂の町人の家に生まれ、15歳の頃から俳諧(はいかい)を学び、21歳の時に点者(てんじゃ・連歌や俳句などの優劣を判定する人)となったと言いますが、なんと言っても40歳の時に書いて大ヒットさせた『好色一代男』が有名ですよね。

ただ、一時期忘れ去られた時代があったためか、「好色物」「雑話物」など、その作品は残るものの、生き方や人となりについては、あまりくわしい事が残っていない人でもあります。

まぁ、作家さんとしては、「作品が残る」という事が最大の評価と言えるでしょうし、その作品から、ご本人の考え方なども垣間見えるわけですが・・・。

Saikaku400 そんな井原西鶴(さいかく)さんの、若き日のエピソードとして知られるのが、今回のギネス並みの記録のお話です。

それは、未だ『好色一代男』のヒットもなく、俳諧にドップリ浸かっていた30代の頃・・・

彼は、京都三十三間堂通し矢にならって、一昼夜に何句の俳諧を作れるか?に挑戦する事にしました。

時は延宝五年(1677年)5月・・・場所は大坂本覚寺・・・

この時は、一日一夜にして1600句を作り、『俳諧大矢数』として出版しました。

これが、なかなかの評判・・・

そうなると、当然の事ながら、「その記録に挑戦しよう!」とする人が現われるもの・・・

早くも4ヵ月後の9月には、大和(奈良県)多武峰(とうのみね)の僧・月松軒紀子(きし)が、1800句を独吟して、その記録を塗りかえます。

さらに2年後の延宝七年には、仙台に住む大淀三千風(みちかぜ)なる人物が、3000句を作って記録を更新・・・

「そもそもコレ、俺のアイデアやん!」

こうなったら西鶴も、本家本元として黙っているわけにはいきません。

翌年の延宝八年には、多くの聴衆の目前で4000句「吟じます!」

しかし、そこで止まらない!
なかなかの意地っ張り&負けず嫌いぶりを見せてくれるのが、今回の更なるチャレンジ!

貞享元年(1684年)6月5日、江戸の俳人・宝井其角(きかく)を見届け人に招いて、大坂は住吉神社の境内にて、数百人の見物人の中、一日一夜にして、なんと!2万3500句を吐きました。

そう・・・「ひねる」というよりは「吐いた」・・・

一日24時間で2万3500だと、約4秒に一句?!・・・って、「ねずっちです」も真っ青・・・いや、4秒なら「整いました」って言ってるうちに過ぎてまう!

・・・ていうか、、さすがに「ホンマかいな?」と疑いたくなるスピードですが、これだけの多くの人の前なんだから、やっぱ、本当なんでしょうね。

ギネスの人、呼んでおけば良かったですね。

ただし、その時吐いた句として記録されているのは
♪俳諧の 息の根とめん 大矢数(おほやかず) ♪
と、最初に吐いた一句のみ・・・

記録を担当した人物が、この一句のみを記して、その後は、棒線を引っ張って、その数のみを数えたため、どのような句を吐いたのかは、残っていないのだそうです。

それなら「何本かはゴマかせそうだ」ってな、よこしまな勘ぐりはやめときましょう。

西鶴が、『好色一代男』を発表し、更なる有名人となるのは、この2年後の事です。
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2010年6月 4日 (金)

まさに背水の陣~瓶割柴田の野洲川の戦い

 

元亀元年(1570年)6月4日、織田信長から長光寺城を任されていた柴田勝家角承禎義治親子を破った野洲川の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

永禄十二年(1569年)、前年に足利義昭(よしあき)を奉じて上洛した織田信長は、越前(福井県)朝倉義景(よしかげ)に対して、再三の上洛要請をしますが、義景は、かたくなに拒否し続けます。

そのため、朝倉討伐を決意した信長は、翌・元亀元年(1570年)4月、京都を出陣しました・・・これが、筒山・金ヶ崎城攻防戦の勃発です(4月26日参照>>)

4月26日には金ヶ崎城を落とした信長は、その勢いのまま、朝倉氏の本拠地:一乗谷を目指しますが、ここで臨時ニュース!!!

北近江(滋賀県北部)を治める浅井長政(あざいながまさ)突然の寝返りです。

もう、すでに皆様ご存知だと思いますが、この長政さんは、来年の大河ドラマの主役=お江さんパパ・・・そして、ママがあのお市の方です。

そう、信長は、カワイイ妹のお市の方を長政に嫁がせ、すっかり味方に引き入れたつもりでいたのですが、長政は朝倉との長年の友情を選びました。

めざす義景が福井で、長政が滋賀・・・今の信長は、まさにその中間にいますから、このままだと完全に挟み撃ち!!

この時、夫・長政の寝返りを「袋の小豆」で兄に知らせたのがお市の方だったなんて話もありますが、とにもかくにも信長は、最大のピンチを切り抜けるべく、京へと戻る事にします・・・金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)と呼ばれる撤退劇ですね。

敦賀から若狭を通って4月30日には京都に戻った信長・・・5月9日には、再び京都を出発し、今度は、琵琶湖の東岸から伊勢へと抜け、本拠地・岐阜へと戻ったのが5月21日の事でした。

そして、その途中、琵琶湖の東南に位置する長光寺城(ちょうこうじじょう=滋賀県近江八幡市)の城主に、配下の柴田勝家を任命し、ここを守らせたのです。

Anegawaitikankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この撤退劇をチャンスと見たのが六角承禎(じょうてい・義賢)義治(よしはる)親子でした。

彼ら六角氏は、源氏の佐々木氏の流れを汲む名門(10月7日参照>>)・・・以前は、この長光寺城にほど近い観音寺城を拠点に、南近江(滋賀県南部)一帯に勢力を誇っていたのですが、信長上洛の時に敗れて(9月12日参照>>)以降、甲賀や伊勢などで、単発的なゲリラ戦を展開するしかない状況でした。

しかし、あの信長が命からがら岐阜へと戻り、わずか400人ほどの手勢の勝家が、長光寺城を守る事になったのですから、承禎としては、ここを攻めない手はありません。

信長が、岐阜へと到着した同じ5月21日・・・承禎らは、一向一揆を含む約4000を率いて、勝家の籠る長光寺城へと攻めかかりました。

多勢に無勢・・・しかし、勝家はよく持ちこたえ、長光城はなかなか落ちません。

・・・と、そこへ、地元領民から承禎へ、ナイスな情報がもたらされます。

まぁ、ここは、先にもかいた通り、もともとは六角氏の領地でしたから、彼らを支持する者も多かったでしょうからね。

・・・で、その情報というのは、
「この長光城には井戸がなく、水は、城の外から手に入れています。
そこを遮断すれば、水が無くなるので、籠城も時間の問題だと思われます」

「よっしゃぁ~~ヽ(*≧ε≦*)φ
とばかりに、早速、水源を断つ承禎・・・

やがて、10日ほど経った頃、城内を様子を探らせる使者を送ります。

それとなく周囲の様子を監察しつつ、勝家と面会した使者は、彼に降伏するように持ちかけますが、勝家は
「城内の者と話し合って、明日、結論を伝えます」
とだけ返事・・・

その後、使者は、城内の水の残量を確かめようと
「スンマセン・・・ちょっと、手や顔を洗いたいんで、水を使わせてもらえまへんやろか?」
と、頼み込みます。

すると、城内の者が二人がかりで、大量の水を運んできて
「さぁ、どうぞ」
と・・・

そして、使者が、顔や手を洗い終えると、残った水は、全部、縁側から庭に捨ててしまったのです。

さらに、途中には馬を水で洗っている者も目撃・・・

承禎のもとに戻った使者は、ありのままを報告します。

この話を聞いた六角軍は、
「どうやら、水はまだまだあるようだ」
と判断し、これから長期戦になるであろうとの予想のもと、作戦を変更します。

ところが、これこそ、勝家の作戦!

実は、もう、城内の水は、ほとんど底をついていたのです。

元亀元年(1570年)6月4日
ここが勝負どころ!・・・と判断した勝家は、城内に残った水を一箇所に集めて、兵士たちに告げます。

「水は、もう、これだけしかない!
どうせ、干上がって死ぬなら、ここで撃って出よう!」

こう宣言して、残った水を兵士たちに思う存分飲ませて士気を高め、さらに、水が入っていた(かめ)を、次々と叩き割ってしまいました。

Kamewarisibata 水瓶を割る柴田勝家(「絵本太閤記」滋賀県立安土城考古博物館蔵)

「さぁ、これで、すべて無くなった・・・行くゾ!」
と、自らが先頭に立って城外へと躍り出、城を取り囲む敵陣に向かって突っ込んで行ったのでした。

「長期戦になる」と余裕をかましていた六角軍、
名実ともに背水の陣で挑む勝家軍・・・

その兵卒1人1人の士気の高さは、しっかりと、その数の少なさをかき消したのです。

近くの野洲(やす)にて、六角軍を散り散りにさせ、勝家は見事、勝利しました。

もちろん、この勝利の報告に感激する信長・・・

この時、信長が、勝家に与えた感状(かんじょう・活躍した者に与える賞状)には、「瓶割(かめわり)柴田殿へ」との宛名が記されていたのだとか・・・

・‥…━━━☆

この逸話は、『総見記』『武家事紀』『新武者物語』などに登場するお話なのですが、現在では、おそらく創作であろうというのが定説となっています。

がしかし、ご覧の通り、とてもオモシロイお話ですし、戦いに勝利したのは史実ですので、是非、ドラマで見てみたいですね~

必死の形相で、瓶を割りまくる勝家・・・カッコイイぞ!

果たして6月19日、態勢を整えなおした信長が岐阜城を出陣(6月19日参照>>)浅井・朝倉へと迫る・・・いよいよ姉川の合戦(6月28日参照>>)近し!。

この姉川の合戦で、信長が、長政の拠点・小谷城の間近へと迫れたのも、この日の勝家の死守あればこそ!ですね。
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2010年6月 3日 (木)

エリートから波乱万丈へ~本多政重・流転の半生

 

正保四年(1647年)6月3日、徳川家康の寵臣・本多正信の次男でありながら、関ヶ原では西軍の主力として戦うという波乱の青年期を送った武将・本多政重が68歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

本多政重(ほんだまさしげ)は、徳川家康が最も心開いた家臣と言われる、あの本多正信(まさのぶ)(9月5日参照>>)の次男・・・

12歳の時に家康の旗本・倉橋長右衛門(ちょうえもん)の養子となって家康に仕え、そのまま、徳川傘下にいれば、親の七光りを受けながら、譜代の家臣としてエリート街道まっしぐら・・・のはずでした。

Hondamasasige600ast ところがどっこい、この最初の主君である家康のもとを離れるのが慶長二年(1597年)・・・そして、最後の主君となる前田家に落ち着くのが慶長十六年(1611年)、この14年間に7人も主君を変えるという波乱の一時期を送ります。

最初の出奔は、若気の至りの突発的な出来事でした。

それは、政重が、まだ18歳だった頃・・・ふとした事で同僚との言い争いとなり、その勢いで岡部荘八という人物を斬ってしまいます。

その荘八が、徳川秀忠の乳母の息子であったため、「おそらくはお咎めを受けるだろう」と確信した政重は、そのまま徳川家を出奔・・・つまり、家出して逃げちゃったわけです。

そして、まずは大谷吉継(よしつぐ)の家臣となった後、その2年後には宇喜多秀家(うきたひでいえ)の家臣となります。

どうやら、この政重さん・・・その武勇に関しては並外れた腕の持ち主だったようで、その点では、たとえ今の主君のもとを離れても、すぐに再就職の口が見つかるほど引く手あまただったようです。

しかし、この宇喜多家にいる時に、あの一大事件が起こります。

そう、関ヶ原の合戦です。

冒頭に書いた通り、政重の父は家康の寵臣、後継ぎ長男である15歳年上の兄・本多正純(まさずみ)徳川家内での重要人物です。

でも、今は秀家の家臣・・・それも、かなりの信頼を得ている彼は、当然、宇喜多配下の西軍として参戦し、初戦の伏見城攻防戦(7月19日参照>>)でも大活躍!

関ヶ原当日(9月15日参照>>)には、最前線で、元同僚の井伊直政(いいなおまさ)と激しいぶつかり合いを見せて一歩も退かず・・・後方から眺めていた大将・家康が「あのスゴイやつ誰やねん!」と、その目に止めるくらいの活躍ぶりだったと言います。

しかし、ご存知のように、関ヶ原の合戦は、その日のうちに西軍の敗戦が決定します。

敗色が濃くなった午後・・・政重は、死を覚悟して敵陣に突っ込むつもりでいましたが、仲間からの連絡で、主君の秀家が無事に戦場を離脱した事を知り、彼もまた琵琶湖方面へと逃走しました。

政重の無事を知った前田利長小早川秀秋(こばやかわひであき)から「ウチに来ないか?」との誘いを受けますが、それらを断って、彼が仕官したのは福島正則(ふくしままさのり)でした。

しかし、ここも、わずか2年で終了・・・結局、慶長七年(1602年)には、以前からラブコールを送り続けてくれていた利長の前田家に仕える事になります。

どうやら、この時期の前田家のラブコールが、かなりの物だったようです。

それには、政重の武勇もさることながら、やはり、未だに父と兄の七光り的な物もあったようです。

以前、前田利常さんのご命日のページ(10月12日参照>>)にも書かせていただいたように、とにかく、この前田家は、徳川家に対抗できる大大名として警戒され続けていましたから、なんとか、その関係をうまく保つため、悪く言えば、政重を利用したといった感じでしょうか。

なんだかんだ言っても、家康・秀忠父子が最も信頼をおく家臣の肉親なわけですから・・・。

しかし、当の政重は、まだ23歳・・・政治家でもタレントでもそうですが、まだ、親の七光りを武器にはしたくないお年頃です。

早くも、翌・慶長八年・・・関ヶ原から逃走の後、薩摩(さつま・鹿児島県)にかくまわれていた以前の主君・秀家が、家康のもとに出頭する事が決まった時、「おそらく、元・主君は死罪を免れないだろう」と判断した政重は、前田家を去り、元・主君に殉じて死ぬ覚悟を決めました。

ところがどっこい・・・彼の予想とはうらはらに、秀家をかくまっていた島津家と、秀家の奥さんの実家(妻:豪姫は利長の妹)である前田家の尽力で、秀家本人は死罪を免れ、八丈島への流罪となります(8月6日参照>>)

ありゃりゃ・・・せっかく、一大決心して前田家を飛び出しちゃったのに・・・どうしましょ???

そんな宙ぶらりん状態の政重に目をつけたのが、上杉景勝(かげかつ)の執政・直江兼続(なおえかねつぐ)です。

ご存知のように、上杉家も、一連の関ヶ原で西軍となり・・・いや、むしろ大モメのきっかけを作ってしまった(4月1日参照>>)と言えるくらい家康に真っ向から対抗して、敗戦後には大幅減封となっていたのですから、ここらで、その信頼回復とばかりに、かの前田家と同じ作戦で、政重に近づいたわけです。

もともと、あの石田三成(みつなり)との共謀説が囁かれるくらい、その渦の中心となっていた兼続を配下に置く上杉ですから、その処分が減封ですんだのも、陰で、兼続が正信に頼み込み、正信から家康に働きかけたおかげとも言われています。

とにもかくにも、七光り丸出しの政略結婚で、政重は、兼続の娘・お松と結婚し、婿養子として直江家に入ります・・・政重:25歳、兼続:45歳の時でした。

昨年の大河ドラマ「天地人」をご覧になって「あぁ、兼続の息子として再登場していた、かわいい清史郎君を悩ませたアノ人ね」と、記憶されている方も多いでしょう。

ドラマでは、上杉家中心のくくりでしたので、父の命令に背けないまま、婿養子としてやってきたお坊ちゃんのように描かれていましたが、ここに来るまで、すいぶんと暴れまくってた人なんですね~政重さんって・・・

・・・とは言え、ドラマでも描かれていたように、すでに景勝にも、兼続にも、後を継ぐべき息子がいる状況・・・そこに養子っていうのは、明らかに上記の徳川との関係を強めるというのが彼の役目だったわけで、やがて、上杉家が徳川からの信頼を得るようになると、自分の居場所を模索するようになったのでしょうか?・・・慶長十六年(1611年)、政重は上杉&直江家との話し合いの末、円満に直江家を去ります。

そして、彼が最後にたどりついたのは、・・・やはり前田家でした。

さすがの政重も、すでに30代も後半・・・若気の至りはとっくに捨て去って、この前田家を最後の主君と定め、フッ切れた親の七光りをフル活用して、徳川から前田家への警戒心を解くという役割に没頭します。

すでに病弱になって隠居の身となっていた利長も、政重のそんな気持ちがわかるのか、彼に大きな信頼を寄せるようになります。

大坂の陣への緊張が高まった時は、前田家からの使者として、江戸駿府へおもむいた政重が、家康や秀忠、そして、父や兄と何度も会談をし、前田家に対する徳川の信頼を勝ち取っています。

実際に大坂の陣が勃発した時には、政重は前田家の先鋒として、あの真田丸の真正面に陣取って奮戦しました。

ただ、この時は、手痛い敗北を喰らってしまいましたが・・・(12月4日参照>>)

しかし、一方では、破格の信濃一国を条件に、「真田幸村(信繁)・寝返らせ作戦」も水面下で行っていたと言いますから、なかなか、侮れない人です。

その大坂の陣も終わり、元号が変わった翌年の元和二年(1616年)、偉大だった父・政信が亡くなります。

さらに、その6年後の元和八年(1622年)に、は、例の宇都宮・日光釣天井事件(3月18日参照>>)で、兄・正純も失脚・・・

これにより、政重は大きな七光りを失う事となり、これ以降は、幕府に対する交渉の手札もなくなってしまった事になるのですが、この頃には、政重は、もう、どっぷり前田家の人・・・政重本人の人格によって受けた篤い信頼は、もはや、父や兄の七光りを使う必要もなかったに違いありません。

やがて訪れた正保四年(1647年)6月3日政重は病に倒れ、68歳の生涯を閉じる事になります。

思えば、最初の親譲りの徳川と、最後に尽くした前田家を除いた数々の主家・・・

大谷吉継は関ヶ原に散り、宇喜多秀家は流罪、福島正則は改易となり、直江家は断絶・・・さらに、あれだけの権勢を誇った本多の総領家さえ断絶する中、政重の家系は、前田家の八家(はちけ・代々重役を出す1万石以上の家柄)として末永く存続するのですから、世の中わからないものです。

おそらく、若き日に味わった流転の日々は、政重に、ただの坊ちゃんでは経験する事のできない何かを与えてくれたに違いありませんね。
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2010年6月 2日 (水)

おかげさまで200万アクセス突破!

 

さほど深くも考えず、2006年2月12日にスタートさせていただいたこのブログではありますが、4年3ヶ月と18日めに当たります2010年6月1日に、200万アクセスを突破しました。

それもこれも、いつもご訪問してくださるやさしい皆様のおかげ・・・感謝々々でございますm(_ _)m

思えば、最初は何を書いてよいのかもわからず、とりあえずは・・・
「今日は何があった日だ」とか、
「今日は○○の記念日です」とか、

他愛もない事を書き綴るうち、もともと、幼い頃から好きだった歴史のほうへと話が傾きはじめ、そうなると、「なるべく間違いがないように」と、ほこりのかぶっていた本を書棚から引っ張り出し、あるいは、スクラップしていた史料に再び目を通しながらの日々の更新・・・

最初は、一日10人・20人のご訪問だったのが、1年後には一日100アクセスを越えるようになり、「こんなブログでも、読んでくださる方がいるのだ」という事がとてもうれしく、毎日の励みとなりました。

おかげさまで、最近では、少ない時で2000前後、多いときには3000を越えるアクセスをいただけるようになり、さらにうれしい限りであります。

最初の2~3年は休む事なく更新し、ここ何ヶ月間は、平日とは生活パターンの変わる土日のうちいずれかを休ませていただく事もありましたが、スタートから数えて1568日で、現在の記事の合計が1513ページを数えていますので、やはり、ほぼ毎日のペースで更新させていただいていた計算になりますね。

*これまでのブログの軌跡については【このブログの歩み】>>をご参照くださいませ

そんな中で、記念すべき200万アクセスを突破して、これからますます張り切って!・・・と言いたいところではありますが、実は、個人的事情により、これから少し忙しくなりそうなのです。

・・・と言っても、大した事情ではありませんので、ブログはこれからも続けていきますし、できる限り日々の更新をしていきたいと思っておりますが、時々、休ませていただく日が、今よりちょいとだけ増えるかも知れませんという事だけ・・・

いや、むしろ、時間のない日に「書かなくちゃ!」という観念にかられて不本意なページをupするよりは、少し、時間にも心にも余裕を持って、末永く続けていく事のほうがベストなのではないかと自分自身に言いきかせているといった感じでしょうか・・・

・・・と、なにやら節目があるたびに、同じような事を考えつつも、またまた、新しい情報を得ると人にじゃべりたくてたまらない病が発症してウズウズ・・・てな事になるんでしょうけど、とりあえずは、今後とも、おしゃべり好きの歴女の独り言が尽きるまで、どうか、皆様おつきあいくださいませ。

という事で、これからも小難しい事は考えず、わかりやすく楽しく、今日の歴史を語ろう!をコンセプトに続けて参りますので、これまで同様、皆様のご訪問と応援が、明日への活力となります事と、今後とも「今日は何の日?徒然日記」をよろしくお願いしますという、管理人・茶々の心の内を、お話させていただきました。

本日も、ここまで、読んでくださって
ありがとうございましたo(_ _)oペコッ
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2010年6月 1日 (火)

天正十年6月1日~本能寺・前夜

 

上京の内裏前に、長さ八町(約110m)の馬場を設置し、時の正親町(おおぎまち)天皇の前で、ド派手な一大軍事パレード・御馬揃えから1年2ヶ月・・・織田信長にとっては、久しぶりの入京でした。

今回の信長は、いつも護衛する馬廻衆(うままわりしゅう)も伴わず、わずかの小姓と側近だけを連れて、宿舎の本能寺におりましたが、すでに本拠を置く安土では、配下の羽柴(豊臣)秀吉が攻める中国地方を支援するための軍備が整えられつつあり、4日には、その大軍を率いて西国へと出陣する予定でした。

前日の雨もあがった天正十年(1582年)6月1日・・・博多から訪れていた豪商・島井宗室(そうしつ)を招いて、信長は名物茶器の披露を兼ねた茶会を催します。

以前、【本能寺の変と堺の関係】のページ(1月9日参照>>)で、この時の信長が、すでに西国への出陣準備が安土にて、ほぼ整っているにも関わらず、単身で本能寺に入った理由として、この宗室の博多への帰郷が翌日の6月2日であったからではないか?と書かせていただきました。

当時、天下の三大名器と呼ばれた初花(はつはな)新田(にった)楢柴(ならしば)という三つの茶入れ・・・このうち初花と新田は、すでに信長が所有しておりましたが、残る楢柴を持っていたのが宗室です。

Odanobunaga400a 信長は、宗室が帰ってしまう前に、どうしてもコンタクトと取りたいと思い、大軍を安土に置いたまま、京へと入り茶会を開いたのではないか?という事です。

もちろん、今もこの可能性は充分あるわけですが、ここ何年かで、新たな発見があり、もう一つの理由も囁かれるようになりました。

それは、東京国立博物館に所蔵されている『日々記』という公家の日記・・・この日記の存在自体は、ずっと以前から確認されていたのですが、長い間、これが誰の日記かわからなかったために、あまり注目されていなかったのです。

ところが、近年の研究によって、これが勧修寺晴豊(がしゅうじはるとよ)という公家の日記の一部である事が判明し、そこに重大な事実が書かれている事がわかったわけです。

それは、天正十年当時の朝廷の動き・・・3月に甲斐(山梨県)の武田を滅ぼした(3月11日参照>>)信長に対して、「何かの官につけなければ・・・」という話が朝廷内で持ち上がり、その意向を打診するために、晴豊自身が安土へと赴き、この5月6日には直接対面して「征夷大将軍か?太政大臣か?」の答えを得ようとしていたというのです。

ただ、その時の信長からは、どちらとの返事は受け取れなかった・・・つまり、信長は、4日に出陣する前に、その返答を朝廷にしなければならなかったわけで、それが単身入京の理由の一つではないか?という事です。

そこで、にわかに明智光秀の謀反の理由も、一つ浮かび上がってきます。

すでに、何らかの形で、信長の心の内を「征夷大将軍を希望する」と確信していた光秀・・・源氏の流れを汲む土岐氏の出身である光秀にとって、当時、平姓を名乗っていた信長の征夷大将軍はなんとしてでも阻止したかったのでは?・・・

まぁ、これも仮説の一つ・・・以前からチョコチョコ書かせていただいている通り、個人的には、この光秀の謀反には、あまり計画性を感じないので、私としては、やはり衝動的だったような気がします。

そんな光秀の心を知ってか知らずか、信長の催した茶会は、夕刻から長男の織田信忠一行も加わり、酒宴と化して盛り上がります。

やがて、夜も更けていき、信忠が宿舎の妙覚寺に戻る頃には、酒宴もおひらきとなります。

Goban1cc 人もまばらとなり、静かな夜を迎えた本能寺の一角で、信長は、囲碁に興じていた本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)鹿塩利賢(かしおりけん)対局を眺めます。

算砂は、京都寂光寺本因坊の僧で、碁の初代名人として有名な人物・・・『ヒカルの碁』でも有名ですが・・・)

ある時、信長は算砂に五目置いて(弱いほうが、あらかじめいくつかの石を置いてから打ち始める事)打ちはじめますが、まったく勝負にならず、軽くかわされたため、その後は、算砂の事を「名人」「名人」と読んで、囲碁の師と仰いでいたのだとか・・・

以来、本因坊は世襲となり、第21代本因坊秀哉まで続きますが、昭和十四年(1939年)の秀哉の引退後は、世襲を廃止し、実力による選抜制となり、本因坊は優勝者に与えられるタイトルとなりました。

・・・で、この夜の算砂と利賢の大局・・・三勃(さんごう)という、いつまでたっても勝負がつかない局面が現われます

お互い「不思議な事もあるものだ・・・」と思いつつ、結局、その夜は「勝負なし」という事になって、ふたりとも帰宅し、信長も眠りにつきました。

その頃、前日の雨によるぬかるみをひた走る軍団・・・旧暦の1日ゆえ月はなく、漆黒の暗闇の中、3隊に分かれた軍団は、山城国への国境を越え、一路、本能寺へと向かいます。
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●ルートは4月7日【明智越・体験記】を参照してね>>

●これまで登場している本能寺の変・関連のページ
 ・本能寺の変~『信長公記』より
 ・八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけとなったか?
 ・愛宕山での連歌会の句は本能寺の意思表明か?
 ・数時間のタイム・ラグを埋める物は?
 ・本能寺の変・秀吉黒幕説
 ・堺にいた徳川家康黒幕説
 ・家康暗殺計画(431年目の真実)説
 ・本能寺から逃亡で「人でなし」~織田長益の歩く道
 ・信長の首は静岡に?
 ・明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…
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