正保四年(1647年)6月3日、徳川家康の寵臣・本多正信の次男でありながら、関ヶ原では西軍の主力として戦うという波乱の青年期を送った武将・本多政重が68歳でこの世を去りました。
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本多政重(ほんだまさしげ)は、徳川家康が最も心開いた家臣と言われる、あの本多正信(まさのぶ)(9月5日参照>>)の次男・・・
12歳の時に家康の旗本・倉橋長右衛門(ちょうえもん)の養子となって家康に仕え、そのまま、徳川傘下にいれば、親の七光りを受けながら、譜代の家臣としてエリート街道まっしぐら・・・のはずでした。
ところがどっこい、この最初の主君である家康のもとを離れるのが慶長二年(1597年)・・・そして、最後の主君となる前田家に落ち着くのが慶長十六年(1611年)、この14年間に7人も主君を変えるという波乱の一時期を送ります。
最初の出奔は、若気の至りの突発的な出来事でした。
それは、政重が、まだ18歳だった頃・・・ふとした事で同僚との言い争いとなり、その勢いで岡部荘八という人物を斬ってしまいます。
その荘八が、徳川秀忠の乳母の息子であったため、「おそらくはお咎めを受けるだろう」と確信した政重は、そのまま徳川家を出奔・・・つまり、家出して逃げちゃったわけです。
そして、まずは大谷吉継(よしつぐ)の家臣となった後、その2年後には宇喜多秀家(うきたひでいえ)の家臣となります。
どうやら、この政重さん・・・その武勇に関しては並外れた腕の持ち主だったようで、その点では、たとえ今の主君のもとを離れても、すぐに再就職の口が見つかるほど引く手あまただったようです。
しかし、この宇喜多家にいる時に、あの一大事件が起こります。
そう、関ヶ原の合戦です。
冒頭に書いた通り、政重の父は家康の寵臣、後継ぎ長男である15歳年上の兄・本多正純(まさずみ)も徳川家内での重要人物です。
でも、今は秀家の家臣・・・それも、かなりの信頼を得ている彼は、当然、宇喜多配下の西軍として参戦し、初戦の伏見城攻防戦(7月19日参照>>)でも大活躍!
関ヶ原当日(9月15日参照>>)には、最前線で、元同僚の井伊直政(いいなおまさ)隊と激しいぶつかり合いを見せて一歩も退かず・・・後方から眺めていた大将・家康が「あのスゴイやつ誰やねん!」と、その目に止めるくらいの活躍ぶりだったと言います。
しかし、ご存知のように、関ヶ原の合戦は、その日のうちに西軍の敗戦が決定します。
敗色が濃くなった午後・・・政重は、死を覚悟して敵陣に突っ込むつもりでいましたが、仲間からの連絡で、主君の秀家が無事に戦場を離脱した事を知り、彼もまた琵琶湖方面へと逃走しました。
政重の無事を知った前田利長や小早川秀秋(こばやかわひであき)から「ウチに来ないか?」との誘いを受けますが、それらを断って、彼が仕官したのは福島正則(ふくしままさのり)でした。
しかし、ここも、わずか2年で終了・・・結局、慶長七年(1602年)には、以前からラブコールを送り続けてくれていた利長の前田家に仕える事になります。
どうやら、この時期の前田家のラブコールが、かなりの物だったようです。
それには、政重の武勇もさることながら、やはり、未だに父と兄の七光り的な物もあったようです。
以前、前田利常さんのご命日のページ(10月12日参照>>)にも書かせていただいたように、とにかく、この前田家は、徳川家に対抗できる大大名として警戒され続けていましたから、なんとか、その関係をうまく保つため、悪く言えば、政重を利用したといった感じでしょうか。
なんだかんだ言っても、家康・秀忠父子が最も信頼をおく家臣の肉親なわけですから・・・。
しかし、当の政重は、まだ23歳・・・政治家でもタレントでもそうですが、まだ、親の七光りを武器にはしたくないお年頃です。
早くも、翌・慶長八年・・・関ヶ原から逃走の後、薩摩(さつま・鹿児島県)にかくまわれていた以前の主君・秀家が、家康のもとに出頭する事が決まった時、「おそらく、元・主君は死罪を免れないだろう」と判断した政重は、前田家を去り、元・主君に殉じて死ぬ覚悟を決めました。
ところがどっこい・・・彼の予想とはうらはらに、秀家をかくまっていた島津家と、秀家の奥さんの実家(妻:豪姫は利長の妹)である前田家の尽力で、秀家本人は死罪を免れ、八丈島への流罪となります(8月6日参照>>)。
ありゃりゃ・・・せっかく、一大決心して前田家を飛び出しちゃったのに・・・どうしましょ???
そんな宙ぶらりん状態の政重に目をつけたのが、上杉景勝(かげかつ)の執政・直江兼続(なおえかねつぐ)です。
ご存知のように、上杉家も、一連の関ヶ原で西軍となり・・・いや、むしろ大モメのきっかけを作ってしまった(4月1日参照>>)と言えるくらい家康に真っ向から対抗して、敗戦後には大幅減封となっていたのですから、ここらで、その信頼回復とばかりに、かの前田家と同じ作戦で、政重に近づいたわけです。
もともと、あの石田三成(みつなり)との共謀説が囁かれるくらい、その渦の中心となっていた兼続を配下に置く上杉ですから、その処分が減封ですんだのも、陰で、兼続が正信に頼み込み、正信から家康に働きかけたおかげとも言われています。
とにもかくにも、七光り丸出しの政略結婚で、政重は、兼続の娘・お松と結婚し、婿養子として直江家に入ります・・・政重:25歳、兼続:45歳の時でした。
昨年の大河ドラマ「天地人」をご覧になって「あぁ、兼続の息子として再登場していた、かわいい清史郎君を悩ませたアノ人ね」と、記憶されている方も多いでしょう。
ドラマでは、上杉家中心のくくりでしたので、父の命令に背けないまま、婿養子としてやってきたお坊ちゃんのように描かれていましたが、ここに来るまで、すいぶんと暴れまくってた人なんですね~政重さんって・・・
・・・とは言え、ドラマでも描かれていたように、すでに景勝にも、兼続にも、後を継ぐべき息子がいる状況・・・そこに養子っていうのは、明らかに上記の徳川との関係を強めるというのが彼の役目だったわけで、やがて、上杉家が徳川からの信頼を得るようになると、自分の居場所を模索するようになったのでしょうか?・・・慶長十六年(1611年)、政重は上杉&直江家との話し合いの末、円満に直江家を去ります。
そして、彼が最後にたどりついたのは、・・・やはり前田家でした。
さすがの政重も、すでに30代も後半・・・若気の至りはとっくに捨て去って、この前田家を最後の主君と定め、フッ切れた親の七光りをフル活用して、徳川から前田家への警戒心を解くという役割に没頭します。
すでに病弱になって隠居の身となっていた利長も、政重のそんな気持ちがわかるのか、彼に大きな信頼を寄せるようになります。
大坂の陣への緊張が高まった時は、前田家からの使者として、江戸や駿府へおもむいた政重が、家康や秀忠、そして、父や兄と何度も会談をし、前田家に対する徳川の信頼を勝ち取っています。
実際に大坂の陣が勃発した時には、政重は前田家の先鋒として、あの真田丸の真正面に陣取って奮戦しました。
ただ、この時は、手痛い敗北を喰らってしまいましたが・・・(12月4日参照>>)
しかし、一方では、破格の信濃一国を条件に、「真田幸村(信繁)・寝返らせ作戦」も水面下で行っていたと言いますから、なかなか、侮れない人です。
その大坂の陣も終わり、元号が変わった翌年の元和二年(1616年)、偉大だった父・政信が亡くなります。
さらに、その6年後の元和八年(1622年)に、は、例の宇都宮・日光釣天井事件(3月18日参照>>)で、兄・正純も失脚・・・
これにより、政重は大きな七光りを失う事となり、これ以降は、幕府に対する交渉の手札もなくなってしまった事になるのですが、この頃には、政重は、もう、どっぷり前田家の人・・・政重本人の人格によって受けた篤い信頼は、もはや、父や兄の七光りを使う必要もなかったに違いありません。
やがて訪れた正保四年(1647年)6月3日、政重は病に倒れ、68歳の生涯を閉じる事になります。
思えば、最初の親譲りの徳川と、最後に尽くした前田家を除いた数々の主家・・・
大谷吉継は関ヶ原に散り、宇喜多秀家は流罪、福島正則は改易となり、直江家は断絶・・・さらに、あれだけの権勢を誇った本多の総領家さえ断絶する中、政重の家系は、前田家の八家(はちけ・代々重役を出す1万石以上の家柄)として末永く存続するのですから、世の中わからないものです。
おそらく、若き日に味わった流転の日々は、政重に、ただの坊ちゃんでは経験する事のできない何かを与えてくれたに違いありませんね。
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