南禅寺事件~坊さんどうしのケンカに幕府が…
応安元年(1368年)6月26日、南禅寺勢力と園城寺宗徒の対立が激化・・・幕府から警護の軍隊を出す事態となりました。
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今もなお、教科書に登場する織田信長の比叡山焼き討ち・・・(9月12日参照>>)
信長は比叡山以外に、あの本願寺とも抗争をくりかえした事から、神仏をも恐れぬ魔王のイメージがついてしまって、未だにドラマでは、そのような姿で描かれるため、その恐怖政治の末に起こったのが、忠実な家臣であるはずの明智光秀の謀反と考える人も少なくありません。
もちろん、タイムマシンで本物の信長さんを見た人はいないので、それも一つの考えかも知れませんが、このブログで度々書かせておりますように、私が、個人的に抱く信長さんのイメージは、そのようなものではありません。
そもそも、この時代のお寺さんに、現在のお寺さんと同様のイメージを持ってしまう事が誤解の始まりで、現代でこそ、仏の道に生き、穏やかで和む空間でありますが、その頃のお寺さんは、はっきり言って武装集団・・・
もちろん、その頃も修行に励む高僧も多くいたでしょうが、一方では、自らの寺領を自らの手で守る軍隊も併設していたのが、当時の寺院です。
確かに、信長のやり方も100%正しいとは言えませんが、今回のこのお話を聞けば、少しは、そのイメージも変わるかも知れない・・・という事で、本日は、南北朝時代のお坊さん同士の争いのお話をさせていただきます。
以前、【僧侶の武装と堕落】>>と題して、やはり、寺院の武装について書かせていただいた時に、チョコッと出てきたお話なので、少し内容が重複するところもありますがご了承くださいませ。
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室町時代の初期、第2代将軍・足利義詮(よしあきら)の時代の事です。
京都五山の第一と言われた南禅寺が、その楼門を造営するための費用を捻出しようと(当時は拝観料という物がありませんので・・・)、勝手に関所を造って通行料を徴収したのですが、そこを園城寺の小僧が料金を払わずに通行しようとしたために関守とケンカとなり、小僧は殺されてしまいます。
すると、怒った園城寺側が、今度は南禅寺の関所へ殴りこみをかけて僧・2名を殺害してしまい、まずは京都五山VS園城寺の抗争が勃発します。
さらに、その園城寺に興福寺と延暦寺が味方した事で、京都五山VS園城寺・興福寺・延暦寺の構図が出来上がり、それは禅宗VS旧宗教という形で、さらにヒートアップ!
とは言え、正平二十二年(貞治六年・1367年)12月には将軍・義詮が亡くなって、一旦、抗争は小休止・・・
ここで、終っておけば良かった物を、その翌年の応安元年(1368年)に、南禅寺の僧・定山祖禅(じょうざんそぜん)が、その著書『続正法論(しょうぼうろん)』の中で、「禅宗以外の他宗派は邪法である!」と非難した事から、騒ぎは再燃します。
特に・・・
「延暦寺の坊主は猿や!人のようで人でない(ベンベン)」
とか
「園城寺の坊主は三井のガマ蛙!生き物の中で、一番アホ!」
とか、延暦寺と園城寺を名指しで中傷したのです。
これは、延暦寺の鎮守である日吉神社の使いとされる神獣が猿である事、園城寺の別称が三井寺である事にひっかた物ですが、なんだか、レベルが子供のケンカ並み・・・
これで、怒るのも、なんだかなぁ~・・・って感じではありますが、延暦寺はブチ切れます。
平安時代から続く、お得意の神輿動座(しんよどうざ・日吉神社の御輿を奉じて入京する行事)を行い、洛中にて大々的な集会を開いて、「南禅寺は邪教の危険集団!悪の極みや!」といきまいて、建設中の楼門の破却と、禅宗界の最高実力者・春屋妙葩(しゅんおくみょうは)&誹謗中傷の実行犯=祖禅の流罪を幕府に要求し、仲良し社寺には、「みんな総動員して、南禅寺ぶっ潰してやろうせ!」なんて呼びかけたりしました。
そして応安元年(1368年)6月26日、「明日、行くからな」などという犯行予告があったとの噂が流れ、とうとう、幕府が警護のための軍隊を動員するに至ったのです。
結局、この日の襲撃はなく、まもなく警護は解除されましたが、2ヵ月後の8月25日にも集会が開かれ、再び幕府は、軍隊を動員して内裏(だいり・天皇の住まい)や南禅寺の警護にあたっています。
この時の管領は、細川頼之(よりゆき)という人・・・
もともと南禅寺の楼門の建設を幕府が支援していた事もあり、最初のうちは延暦寺の要求を拒否していましたが、朝廷の仲立ちと幕府内の妥協派の意見に推されて、結局、祖禅を遠江(とおとうみ・静岡県)に配流したのです。
ただし、武門の意地とばかりに、楼門の建設は、そのまま続けさせていたのですが、そうなると、当然の事ながら、破却を求めて、延暦寺側の抗議は続きます。
・・・で、結局、翌・応安二年(1369年)の7月下旬に楼門を破却・・・こうして南禅寺事件と呼ばれる一連の騒動は終結を迎えます。
しかし、それはそれで、京都五山・南禅寺側は納得がいきません。
五山側では、春屋妙葩以下、多くの住職が辞職して抗議し、頼之と五山の関係は、以後、険悪なムードとなってしまいました。
確かに、これには、室町幕府による宗教政策にも問題があり、掘り返せば意外と根が深いものではありますが、現在の私たちが描くお寺さんのイメージとは、ずいぶんかけ離れた、なんとも言えない出来事です。
やはり、悟りを開くという事は、人間、なかなかできないもの・・・
今回の頼之さんは、結局、延暦寺側に屈してしまった形になるわけですが、これが「絶対に屈しない!」となると、「目には目を」「武装には武装を」・・・と、信長さんのような事になってしまうのも、少しは納得できるわけです。
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コメント
この時代、仏教界はかなり権力をもってましたよね。(神道はどうなんだろう)歴史は別の角度から見るのって大切だと思います。信長を取り巻く人、集団を別の角度から見ることによって信長の別の一面が浮かび上がってくる・・・ような気がします。史料にはのってない新たな一面がわかるかも。あれだけの人です。「神も仏も恐れない冷酷非道な人」というのは表面的なごく一部分で、その奥にはもっといろいろな面があったでしょう。
投稿: Hiromin | 2010年6月26日 (土) 20時15分
Hirominさん、こんばんは~
>この時代、仏教界はかなり権力をもってましたよね
おっしゃる通り、強かったですね。
本文にある通り、延暦寺には日吉神社もからんでますし、「皆で南禅寺をぶっ潰しに行こう」と声をかけた話は、声をかけられた側の八坂神社の記録として残ってますので、その頃は、神道も寺院と同調していたのだろうと思います。
投稿: 茶々 | 2010年6月27日 (日) 04時14分
おはようござます。
この前読ませていただいた中世関係の寺社関係の本に凄いことが書いてありました。
(黒田俊推「寺社勢力」岩波新書、伊藤正俊敏「寺社勢力の中世」ちくま新書)
1.寺社勢力の武力は血の気の多いもので平安末期から鎌倉期にかけて「保元平治」並みの武力行使が毎年のように行なわれていた。
その対戦相手は寺院内の内紛だったり対立する寺院との抗争等色々あったようです。
2.寺社勢力に属する神人達が「高利貸」を行いその借金のカタに貴族から所領を取り上げていた。
3.京都の祇園付近は比叡山の商業経済圏になっており、その地域の富裕住民は(宗教的な意味ではなく純粋な経済的意味で)比叡山の影響をかなり受けていた。
4.有力寺社は全国に末寺末社を有しており有力寺社の影響力は都近辺に留まらず地方にまで及んでいた。
などなど書かれていたように見受けられます。
ちなみに八坂神社は比叡山の末社で比叡山の影響を強く受けていたようです。(当時は神社と寺の区分はあまり厳密ではなかったようです)
これらの著作物によると寺社勢力は朝廷幕府に十分比肩しうるものと表されているようです。
投稿: さがみ | 2010年6月27日 (日) 06時42分
さがみさん、くわしいお話ありがとうございます。
信長に焼かれた比叡山も、その前には別の宗派を焼き討ちしたりしてますもんね~
「仕事に喰いっぱぐれたらお寺に駆け込む」なんて輩もたくさんいたんでしょうね。
神仏分離までは、鎮守の社ていうのがありましたし、社寺一体だったんでしょうね。
・・・なのに、信長ばかりを責めるのは・・・って、ちょっと思ってしまいますね。
投稿: 茶々 | 2010年6月27日 (日) 10時56分