戦国随一の築城術~藤堂高虎
慶長七年(1602年)6月11日、藤堂高虎が伊予今治浦に築城を開始しました。
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7人も主君を変えた事で「渡り奉公人」などと呼ばれる藤堂高虎(とうどうたかとら)・・・
近江(滋賀県)犬上(いぬがみ)郡の出身で13歳で浅井長政(あざいながまさ)に仕えたとも、甲良(こうら)郡の出身で15歳で浅井氏に仕官したとも・・・
初陣は、元亀元年(1570年)の姉川の合戦とされますが、織田信長方の敵首を挙げて武功を立てたという話がある一方で、小谷城の城番役であったので野戦には出ていないという話もあります。
これは、ひとえに、豊臣秀吉と同様、小者からの地道な努力で大大名にのし上がった証拠ともいえるわけで、土豪とは言え、没落して、ほぼ農民と変わらぬ生活からの仕官では、無名時代の記録という物が曖昧になるものです。
浅井家が滅亡した後も、阿閉政家(あずちまさいえ)や磯野員昌(かずまさ)など、故郷・近江周辺で転々と主君を替え、その合間には流浪の生活を送り、時には食い逃げもやったと言いますから、かなり困窮した生活だったのでしょう。
この後、秀吉の弟・羽柴秀長に仕えて紀州(和歌山県)粉河(こかわ)2万石になってからは、秀長亡き後に秀吉に仕えて朝鮮出兵などで武功を挙げ、出世街道まっしぐら・・・やがて、ご存知のように徳川家康のもとで、外様とは思えないほどの信頼を勝ち取る事になるのですが、それは、先に書いた武勇による功績とともに、苦労時代に身に付けた世渡り上手の一面もあるようです。
ただ、世渡り上手での出世という物は、周囲の一部から、やっかみとも言える反感を買うのもいたし方ないところで、有名な戦国逸話集『常山紀談(じょうざんきだん)』では、ゴマスリの嫌われ者として悪口書かれまくりのお気の毒さです。
そんな高虎さんについては、以前もチョコッとだけ書かせていただいてはいるのですが(7月22日参照>>)、書き足りない武勇伝は、またいずれ書かせていただくとして、本日は、冒頭に書いた通り・・・
慶長七年(1602年)6月11日・・・伊予今治浦に築城を開始した日という事で、その築城センスについて・・・
武勇や出世物語に関しては、敵味方、様々な解釈が混在するところでありましょうが、こと、築城に関しては、誰もが認める名人・・・
他にも、加藤清正や黒田如水など・・・築城名人と言われる武将はいますが、江戸時代初期の築城ブームにおいて、その数と言い、規模の大きさと言い、完成度の高さと言い、バリエーションの豊富さと言い、高虎の右に出る者はいないはず・・・
その、最も天才たるところは、江戸城や大坂城などの天下普請(天下普請については5月25日【宝暦治水事件】参照>>)を任された時には地味で堅実で重要なポイントを逸脱しない造りにしておきながら、自らの城である宇和島城や今治城・伊賀上野城などでは、個性あふれるデザインに挑戦・・・と、まぁ、ここでも世渡り上手を思う存分に発揮してくれているわけです。
大阪城・空堀にある謎の石組:中は人が1人しゃがんで通れるくらいの通路となってます…何のために造ったのか?聞きたい!
後方には、太平洋戦争時代の抜け穴も見えます。
くわしい場所は本家HPの「歴史散歩」のページで>>
中でも、関ヶ原の恩賞としてもらった今回の今治城は、高虎屈指の作品・・・(作品と言って良いかどうかワカランが・・・)
この城は、平地海浜築城法というユニークな物で、掘に海水を引き込み、海から入って来た船を、直接城へと横づけにできるという瀬戸内の海運を意識した造りです。
さらに、これまでは櫓からつながった隅櫓(すみやぐら)の発展形だった天守閣を、独立したシンボルとして本丸の中央のデ~ンと据え、層塔(そうとう)型という独自のデザインを編み出します。
この層塔型というのは、五重塔を横に膨らませた感じの物で、いわゆる、同じ形の屋根や建物が縦に並び、上にいくにつれ、徐々にサイズが小さくなるという、この後主流になる、あの天守閣です。
これ、高虎さんが最初だったんですね~
それまでは、信長の安土城に見るように、上の部分だけ望楼のような別の建物になってたのですが、それを層塔にすると、工期も短縮できるし、何たって規格が統一されてるので、解体と組み立てが、ハンパなくスムーズ・・・エコな天守閣だったんですね。
そんな中で、注目すべき点は、高虎の手となり足となって築城に携わった人たち・・・
高虎は、家康の死後には、日光東照宮の造営にも関わっていますが、その時に、高虎の出身地から行った甲良大工たちの匠の技が高い評価を受けた事をご存知の方も多いはず・・・。
これは、高虎が、優れた建築技術を持った技術集団を掌握できる立場にあったかも知れないという事で、彼らの技術と、高虎の発想との相乗効果による築城名人と言えるかも知れません。
優れた武勇と豊富な才能に加え、世渡り上手・・・最終的に32万3000石までのぼりつめつ高虎ですが、彼の残した言葉は・・・
「寝屋を出るより その日を死番と心得るべし」
「朝起きて、寝室を一歩出た時から、その日は死ぬ日かも知れないという覚悟を持っておけ」と・・・
戦国の世は、世渡りも命がけ・・・2代将軍・徳川秀忠の娘・和子が後水尾天皇のもとに入内する時、最後の花道とばかりに、自ら志願してお供をかって出たと言いますから、武将としても、さぞかし魅力的な人だった事でしょうが、そこらあらりは、また、いずれ・・・
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コメント
来年出るとすれば年齢上、主人公以外では第1回から最終回まで出る人ですね。ちょっと調べたんですが、過去に演じた人であまり有名な人がいないですね。大河ドラマでもあまり重要人物として出る事がないです。
世相を反映して従来の解釈とは違い、苦労人として前半は描かれるのかも?若い時代は苦労してます。
作者は忘れましたが、「藤堂高虎」のタイトルの小説で、お江さんや和姫とのくだりが書いてあります。来週あたり、配役が決まるといいんですが。そろそろ決めないと、俳優の秋以降の予定に間に合いませんので。
投稿: えびすこ | 2010年6月12日 (土) 09時13分
えびすこさん、こんばんは~
今回は、主人公とともに歩んだ(浅井→豊臣→徳川)人としてスポットが当たるのでしょうか?
楽しみですね。
投稿: 茶々 | 2010年6月12日 (土) 22時35分