壬申の乱~大伴吹負・飛鳥を制圧!
天武天皇元年(672年)6月29日、大海人皇子の吉野脱出で幕を開けた壬申の乱で、最初の戦闘がありました。
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第38代天智天皇の死を受けて、その息子・大友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)との間で勃発した後継者争い・・・壬申の乱
身の危険を感じ、一旦、吉野へと退いた大海人皇子は(10月19日参照>>)、その約半年後の天武天皇元年(672年)6月24日、その吉野を後にし、一路北東へと進みます。
鈴鹿を越えて桑名に一泊した26日には、先発隊として先を急いだ長男の高市皇子(たけちのみこ)が、不破(ふわ)の関を押さえ、翌・27日には、大海人皇子自らが不破に入りました。
先日は、ここまでお話させていただきました(6月25日参照>>)。
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6月27日、不破よりわずかに西に位置する野上(のがみ)という場所を本営とした大海人皇子は、さらに、そこから3kmほど離れた和蹔(わざみ)に兵を終結させます。
実はこの和蹔・・・現在の住所で言えば、岐阜県関ヶ原町関ヶ原・・・そう、あの関ヶ原です。
先日の6月25日にupした地図ですが、位置関係の参照に・・・
←クリックしていただくと別窓で大きく開きます。
この約1000年後に、徳川家康と石田三成が天下分け目の決戦の地に選んだ関ヶ原・・・その事でもわかるように、この地は、古代より東西を結ぶ交通の要所で、ここを押えてしまえば、畿内は東国と分断されてしまうのです。
そんな大海人皇子側の動きが、近江の朝廷側に届いたのは6月26日の事でした。
都には、一気に動揺が走り、逃亡者が続出する中で開かれた会議・・・その席上では、「騎兵隊を以って、すぐに追撃すべき」との意見が出ますが、大友皇子は、これを採用せず、東国や倭京(やまとのみやこ・飛鳥の事)、筑紫(北九州)や吉備(岡山県)に特使を派遣して軍兵を徴集したのです。
・・・と、この時代の史料が少ないため、『日本書紀』に基づいて書いてますが、この大友皇子の判断は、実にヘンですね。
倭京や東国(近場なら)はともかく、筑紫や吉備に、いまさら援軍を頼んでも、間に合うはずがありませんもんね~とは言いながらも、しかたなく、そのままお話を進めますが・・・
案の定、東国へ向かった使者は、3人のうち2人は不破の関で捕まり、1人は命からがら大津へ逆戻り・・・
さらに、吉備の国宰(くにのみこともち)・当摩(たぎま)公広島は、「そんなモンに従うかい!」と使者を殺害・・・
筑紫の大宰(おおみこともち)・栗隈(くりくま)王からは、「(大陸からの)外敵への防備をやってるワシらは忙しいんじゃ!」と、これまた、つれない返事・・・
やむなく、畿内の兵を動員して、山部(やまべ)王を総大将に、蘇我秦安(そがのはたやす)と巨勢人(こせのひと)を副将に任命し、まもなく、不破方面へ向けて進発しました。
かくして天武天皇元年(672年)6月29日、ぶつかり合う両者の初めての戦闘が・・・と言いたいところですが、実は、この最初の戦闘は、この本隊同士の戦いではないのです。
そう、東国とは分断され、吉備からも筑紫からも断られた大友皇子の最後の頼み=倭京にて、戦いが勃発したのです。
実は、寸前まで近江朝廷に仕えていた大伴吹負(おおとものふけい)と大伴馬来田(まくだ)の兄弟・・・二人とも病と称して大津を離れ、倭京に帰っていたのですが、弟の馬来田は、この大海人皇子の脱出劇をきっかけに倭京を出て、大海人皇子と行動をともにしていたのです。
そして、一方の兄・吹負は、タイミングを見計らって自宅を出撃し、留守司(とどまりまもるつかさ)の坂上熊毛(さかのうえのくまけ)と共謀して、ここ、倭京を制圧する作戦に出たのです。
この時、吹負と熊毛の命を受けた秦造熊(はたつくりのくま)という男が、フンドシいっちょで馬にまたがり、
「高市皇子が攻めて来た~!メッチャ大軍やゾ~!」
(↑もちろん、ウソです…高市皇子は上記の通り関ヶ原にいます)
と、叫びながら、倭京に集合していた近江朝廷側の陣営に飛び込んで行ったのです。
なぜ、フンドシいっちょである必要があったのか?
この時代は、「熊」のつく名前がハヤっていたのか?
・・・は、おいおい考えるとして、
このウソ情報で、大騒ぎとなる近江朝廷陣営・・・雇われ兵は、すぐさま逃げ散ります。
そこへ吹負が数十騎を率いて乱入・・・混乱の中、都から派遣されていた軍使は、次々と命を落としていき、逃げ遅れた兵士たちは、またたく間に服従の姿勢をとります。
熊毛以外の二人の留守司=高坂王(たかさかおう)と稚狭王(わかさおう)も、すぐさま吹負の味方となりました。
というか、この二人・・・乱後はメチャメチャ出世してるので、おそらくは、最初っから話はできあがっていたのでしょうね。
こうして、見事な奇襲作戦で、吹負は倭京を制圧したのです。
これはかなり大きい・・・なんせ、「この時は大津が首都」と言っても、その大津に都を遷したのは、かの天智天皇で、わずか5年前の事です(3月19日参照>>)。
それまで、大化の改新後の難波宮(なにわのみや)の10年を除けば、ず~っと都は飛鳥(明日香)にあったわけで、多くの人にとって、大津は未だ馴染めぬ仮の都・・・ここ飛鳥こそが、心の都であり心のふるさとだったのです。
そんな場所を押えた事は、各地の豪族たちに「大海人・有利」の印象を与える事となり、続々と援軍が集まるようになります。
しかも、ここを押える事で、北東に大海人本隊、南西に吹負・・・と完全に近江朝廷側を挟み撃ちできる形となりました。
逆に朝廷側にとっては、大海人軍本隊と倭京・・・両方を相手にしなくちゃいけなくなったわけで、このプラマイは大きいです。
こうして、倭京を制圧した後、いよいよ大海人軍本隊が大津に向けて動きはじめるのですが、そのお話は、進撃を開始する7月2日のページへどうぞ>>。
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