いよいよ壬申の乱~大海人皇子の鈴鹿越え行軍
天武天皇元年(672年)6月25日、吉野を出発した大海人皇子一行に、高市皇子が合流しました。
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天智天皇十年(671年)秋・・・第38代天智天皇が病に倒れました。
すでに、その年の正月に、天皇の長男・大友(おおとも)皇子が太政大臣に任ぜられ、彼を補佐する左大臣・右大臣なども定められ、大友皇子を中心とする新体制も整いつつありました。
しかし、この時の皇太子は天皇の弟である大海人(おおあま)皇子・・・以前の孝徳(こうとく)天皇即位(6月14日参照>>)のページでもお話しましたが、当時の皇位継承は兄弟間が一般的ですから、たとえ大友皇子が太政大臣になろうとも、皇位を継ぐのは大海人皇子が最有力候補なのです。
翌・10月になって、ますます病が重くなった天智天皇は、その病床に大海人皇子を呼び、皇位を継いでくれるよう要請します。
しかし、大海人皇子は、それを拒否・・・即座に出家して吉野へと入ってしまうのです。
それには、やはり、天智天皇の真意が読めないから・・・
本当に心から大海人に皇位を譲りたいと思っているのか?
それとも、本当は息子の大友に譲りたいけれど、一応のポーズとして言っているのか?
さらに、すでに大友の側近として政権を握っている者は、大海人の即位をどう思うのか?
様々な思いが渦巻く中の10月19日・・・大海人皇子は、妻の鵜野讃良々皇女(うののさららのひめみこ)をはじめとするわずかな側近だけを供に、吉野へと旅立ったのです(10月19日参照>>)。
やがて12月3日、天智天皇は46歳で崩御しました(12月3日参照>>)。
それから5ヶ月・・・
『日本書紀』によれば、異変は、翌・天武天皇元年(672年)5月に起こります。
私用で美濃(岐阜県)へ行って来たという大海人皇子の舎人(とねり・下級官人)が、
「美濃では亡き天皇の陵墓を造るっちゅーて、朝廷が、ようけの人夫を集めてますねんけど、その人夫が、皆、手に手に武器持ってますねん」
と、慌てて報告します。
また、一方では、
「近江からこの吉野への食糧が、宇治橋の監視員によってストップされている」
なんて、情報も入ってきます。
先ほどの孝徳天皇即位の時にも、そのライバルとなった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)が、やはり出家して吉野へと入ったものの、結局は、その吉野に攻め込まれて命を落としています。
「よっしゃぁ~!こうなったら、ヤラレる前に、殺ったんゾ!」
と、吉野脱出を決意する大海人皇子・・・いよいよ壬申の乱の勃発です。
とは言え、ご存知のように、この『日本書紀』は、天武天皇(大海人皇子)のために書かれた歴史書・・・果たして、この壬申の乱が、大海人さんが身を守るがゆえのカウンターパンチだったのか?
はなから、大友皇子とその仲間ををボッコボコにするつもりでヤル気満々だったのかは、ご本人のみぞ知る・・・というところではありますが・・・
6月22日、3人の使者を不破道(ふわのみち)へと向かわせ、不破の関所を押さえた大海人勢・・・これで、近畿と、東国の連絡を断ち、早くも2日後の6月24日、東へと向かって吉野を脱出したのです。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
つき従ったのは、奥さんの鵜野讃良々皇女とその息子・草壁皇子など、わずか2~30名だったと言いますが、すでに、この日に、飛鳥京の留守番役・高坂王(たかさかおう・敏達天皇系の人?)へと3人の使者を派遣しています。
表向きは、駅鈴(えきれい・公式の馬の使用を許可する証し)を求めるための使者で、そして、その使用は許可されなかったとなっていますが、どうしてどうして、この高坂王は、この後すぐに大海人皇子の味方となって戦いますし、この先、続々と集まって来る味方の事を考えれば、この使者たちは、まさに出陣ラッパ・・・
大海人皇子が吉野を脱出・・・いや、吉野で挙兵した事を知らせる使者だったのです。
これに即座に答えたのが大海人皇子の長男・高市(たけち)皇子・・・異母弟の大津皇子とともに大津を脱出した高市は、一路、父のもとへと向かいます。
一方、この日吉野を出発した一行は、夜になっても歩き続けて伊賀(三重県)へと入りました。
途中、横河(名張川)に差し掛かった時、空を暗雲が横切ります。
「これは、天下が二つになる=大乱が起こるという兆し・・・その天下は俺が取ったる!」
と、自らの士気を高める大海人皇子。
やがて、夜が明ける頃、莿萩野(たらの・伊賀市佐那具町)に到着した一行は、ここでしばし休憩を取った後、さらに、その先の積殖(つむえ)の山口に・・・ここで、近江を脱出した高市の皇子が合流したのです。
出発から丸一日・・・天武天皇元年(672年)6月25日の事でした。
しかし、これは物見遊山ではありません・・・一行はさらに進みます。
この行程の一番の難所=大山(加太・かぶと)峠を越えると、うれしい出迎えがありました。
伊勢の国司・三宅石床(みやけのいわとこ)と三輪子首(みわのこびと)らが、すでに兵を率いて待ってくれていたのです。
この兵のうちの500ほどをここに置き、鈴鹿山道(鈴鹿の関)の押さえとして追撃に備え、さらに豪雨の中を突き進み、三重郡家(みえのこおりのみやけ・三重県四日市市)へ到着・・・ここでやっと一泊します。
翌・26日の朝・・・大海人皇子は、近くの迹太川(とほがわ・現在の明朝川もしくは海蔵川?)のほとりの出て、天に向かって天照大神(アマテラスオオミカミ)を拝んだのだとか・・・
とは言え・・・現在では、この頃には、まだ伊勢神宮は成立していないと考えられていますので、太陽神を拝んだ=つまり、何か事を起こす特別な朝などに、ご来光に手を合わせるってな感じ?でしょうか。
その後、まもなく、高市皇子とともに大津を脱出した大津皇子が合流・・・入れ替わりに、高市皇子は先発隊として不破へと向かい、ここより東の近隣諸国へ、兵の動員を呼びかける事にします。
この日のうちに桑名に到着した大海人皇子は、ここで一泊・・・翌・27日には、そんな本隊のもとに、尾張(愛知県西部)国司の小子部鉏鉤(ちいさこべのさひち)が2万の兵を率いて駆けつけ、大海人軍は、またたく間に大軍となりました。
ここで、大海人皇子は、妻の鵜野皇女や、未だ歳若い草壁皇子や大津皇子を、安全な、ここ桑名に留め置く事にて、軍事の全権を高市皇子にゆだね、いよいよ都=近江へと向かって進撃を開始するのです。
一方、その頃、都の大友皇子は・・・
と行きたいところですが、やはり、そのお話は、近江側に動きのある6月29日のページへどうぞ>>
それにしても・・・
24日に吉野を出て、26日に桑名に宿泊ですか~
それも、女子供連れで・・・
いやはや・・・昔の方の健脚ぶりには参りましたm(_ _)m
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