捕らわれた敵将との恋…平重衡と千手の前
文治元年(元歴二年・1185年)6月23日、一の谷の戦いで捕虜となった平重衡が木津川のほとりにて斬首されました。
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平重衡(たいらのしげひら)は、あの平清盛の五男・・・その容姿は牡丹の花に例えられ、ユーモアのセンスもあり、やさしくて爽やか、それでいて凛々しく、合戦の大将ともなれば、負け知らずの武勇を誇る・・・
そんな彼の、ただ一度の負け戦が、副将軍として生田の森で戦った(2013年2月7日参照>>)、あの一の谷の合戦でした。
撤退中に馬を射られ、乗り換え用の馬に乗った家臣にも逃げられた重衡は、源氏軍の梶原景時に生け捕られてしまったのです。
捕虜となった重衡は、鎌倉へと送られますが、源頼朝の尋問に対しても、武士らしく、腹を据えての堂々たる態度・・・それでいて、都で洗練された優雅な物腰は、東国の鎌倉武士を感嘆させました。
あまりの人物のすばらしさに、頼朝は、「敵ながら惜しい」…その命を助けたいと思ったくらいでしたが、それは許されない事・・・
なぜなら、彼は、未だ清盛健在の頃、平家と対立した南都を攻め、興福寺や東大寺を焼き討ち(12月28日参照>>)した張本人だったからで、いずれ、その身は、大仏炎上で怒り狂う奈良の僧たちの手に渡り、処刑される事が決まっていたのです。
一の谷から1年・・・鎌倉を出た重衡は、東大寺の使者へと引き渡された後、文治元年(元歴二年・1185年)6月23日、奈良への護送中の木津川のほとりで斬首され、その首は般若寺の門前にさらされました。
そんな重衡と奥さん・藤原輔子(すけこ)との悲話については、彼が鎌倉へと護送された3月10日の日づけで、すでに書かせていただいていますので(3月10日参照>>)、本日は、その後の運命も決まった鎌倉で、最後の時をともに過ごした女性・千手(せんじゅ)とのお話をさせていただきます。
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重衡のき然とした態度に感銘を受けた頼朝は、彼を罪人扱いするのではなく、狩野介宗茂(かのうのすけむねもち)という情け深い男に預け、丁重に扱うよう指示します。
やがて、宗茂の屋敷に移った重衡・・・ある日、そこで沐浴を許されます。
一の谷にて捕虜となってから、その体は潮風にさらされ、汗まみれとなりながらも、湯につかるなんて事はできなかった重衡・・・「体を清めてから処刑しよって事なのか…」と思いつつ過ごしていると、ガラッと湯殿の扉が開きます。
「すわっ!刺客か!」
と思ったところ、そこには、歳の頃なら20歳ばかりの女房と、14~15歳の少女の二人・・・少女は水を張ったタライに櫛を入れて手に持っています。
実は、この湯殿・・・重衡を預かる事になった宗茂が、その心を癒してもらおうと、慌てて造らせた彼専用の特注だったのです。
もちろん、二人の彼女たちは、湯殿での重衡のお世話を言渡された二人・・・細々とした世話を終えた女房は・・・
「男ばっかりやったら、何かと無骨で不愉快に感じられたらアカンと思われた宗茂様が、とりあえずは女ならえぇやろと、私が使わされました。
なんでも、重衡さんのご希望どおりにするから、お前が聞いて来いと言われておりますよって、なんなりとお申しつけください」
と・・・
それに答える重衡は
「こんな境遇で、何を言う事もないけど、ただ一つの希望は出家したいって事かな」
と・・・
しかし、彼は、もはや源氏だけの敵ではなく朝敵(国家の敵)・・・出家は許されるものではありませんでした。
彼女が帰った後、重衡が警護の武士に尋ねると、
「彼女は、手越の長者の娘で名は千手と言い、美人で気だてが良いと評判でっせ」
と言います。
その人選に宗茂のやさしさを感じつつも、夕方は雨となり、やはり捕らわれの身である重衡には、何かと物寂しく思って過ごしているところへ、例の彼女が琵琶と琴持った召使とともに現われます。
あくまで囚人ですので、宗茂の監視という条件はつきますが、その心を少しでも晴れやかにして差し上げたいという思いのもと、ささやかな酒宴が催されたのです。
宗茂の家人や郎党を含めて十数人・・・重衡を囲むように座って、囚人と監視役という関係を取っ払って談笑します。
しかし、そんな宗茂の心遣いはありがたいものの、明日をも知れぬ命では、そうそう陽気になれるもんじゃありません。
誰かが冗談を言って、ドッと笑いがおきても、重衡は、ほんの少し、おつきあいの笑みを浮かべる程度・・・せっせとお酌をする千手にも、あいそ笑いしか出てきませんでした。
そんな重衡の不自然さに気づいた宗茂は、
「もう、お聞きになってはりますやろけど、頼朝様から充分に気を配ってお慰めするように仰せつかってますさかいに・・・」
と、あらためて言い、
「おぉ・・・千手!何か一曲頼むわ!」
それに答えて、千手は
♪羅綺の重衣たる 情なきことを・・・♪
と、『和漢朗詠集』にある菅原道真の歌を、2~3度くり返し歌いました。
しかし、重衡は
「これを歌う人を、天神様は一日3度守ってくれると言うけど、もはや極悪人となった俺は、もう救われへんやろなぁ」
と・・・
すると、千手は、すぐに
♪十悪といえども 引摂す♪
と、歌い、さらに
♪極楽願わん人はみな 弥陀の名号唱うべし♪
という今様(ヒットソング)を歌います。
改心してお経を唱えれば、どんな悪人でも救われると、大仏を焼いてしまうという大罪に苦しむ重衡を慰めたのです。
この千手の機転に、ようやく重衡の心は和みはじめ、その次に千手が「五常楽」という曲を琴で弾くと
「これは“五常楽”やけど、僕の場合は、さしずめ“後生楽”やな・・・これから急いで死にに行かなアカンさかいに“皇章急”でもやるか~」
と、自ら琵琶を手にとって雅楽を奏でるまでに楽しみました。
東国育ちの宗茂が
「これが都の雅か…」
と、聞きほれていると、やがて、窓の外の雨もあがり、とても澄んだ気分・・・
重衡は
「あぁ・・・東国に、これほど優雅な人がいてるとは・・・意外やったわ~
なぁ、もう一曲(人><)」
と千手にリクエスト・・・
こうして、宴は夜が明けるまで続いたと言います。
この宴会の成功から、千手は、その後も重衡に仕えたと言いますが、くわしい事が書かれているのは、この一夜限り・・・
しかし、二人の関係が、たとえこの一夜限りであったとしても、千手は、間違いなく恋をしました。
『平家物語』では、重衡亡き後、すぐさま出家した千手は、善光寺にて、その菩提を弔いながら一生を終えたと言います。
『吾妻鏡』では、3年後のある日、いきなり気絶して、そのまま息をひきとりますが、それは「亡き重衡を思うあまりに病に倒れたのだ」とされています。
優雅に歌い琵琶を奏でる雅な貴公子でいて、死を前にして堂々たる態度を崩さない武人、そこに牡丹のようなイケメンがプラスされた悲しいほど美しい平家の公達の、最期のひとときを慰めるためだけに使わされた千手・・・
そんな自分の使命を知っていてもなお、恋する気持ちを抑えきれなかった彼女・・・
それは、軍記物と呼ばれる平家物語に咲く、淡く切ない一輪の花でした。
奈良街道沿いにある平重衡の墓(くわしい場所は本家HP:京都歴史散歩「醍醐」へどうぞ>>)
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コメント
ホントに切ないですね…
来世では夫婦になれれば幸いです。
投稿: みか | 2010年6月23日 (水) 19時46分
みかさん、こんばんは~
そうですね…来世では・・・
でも、私、奥さんの輔子さんも大好きなんですよね~
3人で仲良く…ってのもチョットつらいし…悩みますね。
投稿: 茶々 | 2010年6月24日 (木) 00時10分
いい話なんですよね。でも、えーと、、二位殿と、、民部卿入道親範のむすめも、、、
投稿: | 2017年2月25日 (土) 08時28分
>えーと、、二位殿と、、民部卿入道親範のむすめも、、、
う~ん??(@Д@;
「二位殿と」はどこの事をおっしゃっているのか、関わりの範囲が広すぎてわかりませんが、「民部卿入道親範のむすめ」は、平家物語の「内裏女房」の巻のあたりの事をおっしゃっているのでしょうか?
平家物語でも千手の話とはズラして書いているように、ここは別の話としておいた方が良いような気がしますね。
1つのページに書ける事にも限りがありますし、親範の娘との別れは別の日なので、そのお話は、また別の日付で書かせていただきたいと思っています。
投稿: 茶々 | 2017年2月25日 (土) 10時34分