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2010年6月14日 (月)

蘇我入鹿の暗殺劇~孝徳天皇・首謀説

 

大化元年(645年)6月14日、皇極天皇の弟・軽皇子が即位し、第36代天皇・孝徳天皇となりました。

・・・・・・・・・・

Keizukoutokutennou_3 第30代敏達(びたつ)天皇の孫の茅渟王(ちぬのおおきみ)を父に、第29代欽明天皇の孫の吉備姫王(きびひめのおおきみ)を母に持つ・・・と言ってもややこしいので、とりあえず、関係は右の系図で確認していただくとして・・・(クリックするとチョットだけ大きくなります→)

この2日前に起こった乙巳(いっしの変蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺とその父・蘇我蝦夷(そがのえみし)自害という政変を受けての即位です。

ご存知のように、通常、教科書等では、『日本書紀』の記述にしたがって、この乙巳の変は、時の天皇・皇極(こうぎょく)天皇の息子である中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)が、中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)とともに計画&実行したとされています。

そして、この日、第36代の天皇となった孝徳(こうとく)天皇は、難波宮(なにわのみや・大阪府)への遷都冠位の改定(こおり)制の実施など、いわゆる「大化の改新」と呼ばれる一連の改革を行うわけですが、それらの中心となっていたのは天皇ではなく、皇太子の座についていた中大兄皇子と内臣(うちつおみ)となった鎌足であったと言われています。

さらに、孝徳天皇の皇后となった間人皇女(はしひとのひめみこ)は、実は実兄=中大兄皇子と禁断の愛を育んでおり、完全に兄の味方だったなんて噂もチラホラ・・・(1月3日参照>>)

異母兄弟の場合は結婚すらあった当時ですが、さすがに同父母から生まれた同志は、当時も禁断でしたから、あくまで噂ですが・・・

そんな感じなので、政権内での孝徳天皇はひとりぼっち・・・故に、この後、二人の関係が悪化すると、反対する天皇を置いたまま、中大兄皇子は再び大和(奈良県)への遷都を強行し、1人残された孝徳天皇は、淋しく難波宮で亡くなったとされています。

しかし、白雉四年(653年)の奈良戻りはともかく、その9年前の乙巳の変の時は、中大兄皇子は、わずかに20歳・・・確かに、32歳の鎌足がサポートしていたとは言え、あの謀略に謀略を重ねた蝦夷・入鹿父子を相手に、それを上回る謀略を張りめぐらせてのクーデターの主導権を握るにはあまりにも年齢が若い・・・

なので、この乙巳の変・・・つまり、蘇我入鹿暗殺の主導権を握っていたいたのは、実は、軽皇子(かるのみこ)こと孝徳天皇であったのでは?という説が囁かれています。

一番の根拠は、この乙巳の変から、わずか3ヶ月後の9月(11月とも)、古人大兄皇子ふるひとのおおえのおうじ)討伐の憂き目に遭う事です。

この古人大兄皇子という人は、第34代舒明(じょめい)天皇法堤郎女(ほてのいつらめ)という女性の間に生まれた皇子で、中大兄皇子よりも年長・・・つまり異母兄という事になります。

系図には書ききれませんでしたが(二人の位置が離れてしまったので( ̄○ ̄;)!この法堤郎女は、蘇我馬子(そがのうまこ)の娘なので、古人大兄皇子は蝦夷とは叔父と甥、入鹿とは従兄妹同志という事になりますから、当然の事ながら、蘇我氏は、「この古人大兄皇子を天皇の座につけたい」と願っていたわけで、変の前までは、この古人大兄皇子が、次期天皇の最有力候補だったわけです。

ところが、世紀のクーデターが起こり、古人大兄皇子は、大きな後ろ盾を失っていまいます。

身の危険を感じた古人大兄皇子は、皇位につく事を断り、出家して吉野の山へと入ります、まもなく、「謀反の計画を立てていた」として攻め込まれ一族もろとも滅ぼされてしまいます。

もちろん、「謀反を計画していた」という確かな証拠はなく、おそらくは蝦夷&入鹿父子もろとも、はなから抹殺する計画であったのでしょうが、正史とされる歴史では、これも、中大兄皇子の命令で兵が動いた事になっています。

しかし、考えてもみて下さい。

この頃は兄弟間で皇位継承が頻繁に行われていた頃・・・いや、この頃だけではありません。

平安時代でさえ、父から子へ・・・よりは、兄から弟へ、弟は兄の息子へ・・・と皇位を譲るのが一般的でした。

なので、古人大兄皇子が、次の天皇になったとしても、彼より年齢が低い中大兄皇子が、その次に皇位を継げるチャンスはいくらでもあったのです。

むしろ、古人大兄皇子が天皇になる事で、そのチャンスが無くなるのは、軽皇子=孝徳天皇のほうだったわけです。

当時50歳という彼の年齢からみても、ここがラストチャンスだったはずです。

大化元年(645年)6月12日に、自ら主導権を握ってクーデターを決行した孝徳天皇は、6月14日、譲り合った結果ではなく、自らの意思で天皇となったという事なのかも知れません。

もちろん真相はわかりませんが、もし本当に、この時の歴史が書き換えられていたとしたら、それはひとえに、記紀編さんに携わった藤原一族のしわざ・・・

藤原氏の祖となる鎌足さんを、「できるだけカッコ良く描きたかった」って事なのでしょう。

なんせ、世紀のクーデターを決行したのが20歳の皇子で、それをサポートしたのが32歳の寵臣なら、どう考えても、この寵臣がヒーローですからね。
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飛鳥時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんにちは!!

孝徳天皇黒幕説なんてあるんですかっ
すごく面白い記事でした!!

確かに、藤原氏は歴史を変えてそうです…。
「鎌足は実は百済の王子(余豊章)で、天智は鎌足に天皇にしてもらったから、百済を助けるため白村江の戦いを挑んだ」っていう説もありますし…。鎌足と余豊章は全く同じような残忍な日本人では見られないような殺し方してるようで、もしそれが真実だったら全てのことが説明できるらしいです。
それが本当なら鎌子はヒーローどころか…

でも、私は個人的に天智も鎌子も大好きなので、やっぱ二人が史実道理に大化の改新をしてて欲しいですw
乙巳の変が起こってなかったら、今の日本はありませんし、二人は偉大ですよねww

投稿: 暗離音渡 | 2010年6月14日 (月) 17時44分

私前にも「蘇我氏邸発掘の結果‘蘇我氏は天皇家に代わるどころか天皇家を守ろうと堅固な邸宅を建てた。それを、天皇家を攻める要塞だと因縁をつけられた’という説が出てきた」とコメントしたと思いますが、ははぁ、裏でこんな人も暗躍してたかも・・ですね。蝦夷は自殺する時すべての文書を焼き捨てた、って言われてますよね。でも黒幕さんが証拠になりそうなものを処分したのかもしれませんね。歴史はいつの時代もどこの国でも勝者に都合のいいように作られているし。歴史の中で「悪人」とされてしまった人ほど、私利私欲でなく日本のことを真剣に思ってた人が多いんじゃないかなぁという気がしてしまうんですが。

投稿: Hiromin | 2010年6月14日 (月) 22時06分

暗離音渡さん、こんばんは~

おそらくは、今の歴史は藤原氏が作ったようなものでしょうが、それに代わる発見がないのでいたし方ないところですね~

でも、この孝徳天皇首謀説は、かなり主流になりつつあるようなので、この先、楽しみです。

投稿: 茶々 | 2010年6月14日 (月) 23時25分

Hirominさん、こんばんは~

私も、どこかで書いたかも知れませんが、聖徳太子は蘇我蝦夷か入鹿の事ではないか?と思うくらい、彼らは悪くないと思ってます。

すでに円熟した年齢に達している孝徳天皇は、この一件において、かなりのキーマンかも知れませんね~

投稿: 茶々 | 2010年6月14日 (月) 23時31分

こんにちは。
孝徳天皇は黒幕というより、藤原氏に
うまく利用されたと思います。
黒幕なら、自分の子供を皇位につけると
思うのですが。
「徳」という名前がついている皇族は、
不幸な人生をおくっているような気がします。

投稿: やぶひび | 2010年6月16日 (水) 16時57分

やぶひびさん、こんばんは~

兄弟間での譲位なら孝徳天皇の次は有馬皇子でなくても良いわけですが、かと言って斉明天皇の重祚ていうのも、なんだか臭いますね。

やっぱ、黒幕は藤原氏ですかねぇ~

投稿: 茶々 | 2010年6月16日 (水) 23時31分

孝徳天皇黒幕説

何か釈然としません。
黒幕と言うには、影が薄いような。(ん?矛盾してる?)
動機にしても、50歳で積極的に皇位を望んだりするでしょうか?
戦国時代でも、人間50年と言われていたわけですし。

古人大兄皇子討伐の件も、即位後に討伐する理由がありません。順序が逆になっています。
同時に“皇位を継げるチャンスはいくらでもあった”中大兄皇子が「乙巳の変」に参画する動機も無くなってしまいます。

以下、私の妄想。
「乙巳の変」は、蘇我氏の内紛。首謀者は蘇我石川麻呂。
その後、中大兄皇子と鎌足が力を付けて、蘇我氏滅亡。
藤原氏が「乙巳の変」の功績を横取り。
...だと面白いのですが。

投稿: ことかね | 2010年6月20日 (日) 16時54分

ことかねさん、こんにちは~

結局は、藤原氏の「ひとり勝ち」って事なのでしょうが、それをいかにかっこよく、いかに正統性を持たせるかやってるうちに、事実と創作が入り乱れて…って事なのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2010年6月20日 (日) 18時13分

私の妄想、四つ目が抜けていたので追加。

「乙巳の変」で震えていたのは、実は鎌足。

投稿: ことかね | 2010年6月21日 (月) 09時08分

ことかねさん、こんにちは~

>「乙巳の変」で震えていたのは、実は鎌足


アハッ!
蘇我石川麻呂の代わりに…って事ですねww

投稿: 茶々 | 2010年6月21日 (月) 14時22分

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