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2010年6月21日 (月)

鯨海酔侯・山内容堂…幕府存続に賭けた日々

 

明治五年(1872年)6月21日、大政奉還を建白して幕末の四賢侯の1人として知られる第15代・土佐藩主・山内容堂が46歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

福井藩第14代藩主の松平慶永(よしなが・春嶽)、宇和島藩第8代藩主の伊達宗城(むねなり)、薩摩藩第11代藩主の島津斉彬(なりあきら)らと並んで、幕末の四賢侯(しけんこう)と称される第15代土佐藩主・山内容堂(ようどう)・・・

それでいて自らを鯨海酔侯(げいかいすいこう・クジラの海を持つ国の酒呑みの殿様みたいな意味です)と称し、数々の重要会議にも泥酔状態で出席・・・そのコロコロ変わる態度から、「酔えば勤王(朝廷側)、冷めれば佐幕(さばく・幕府側と、周囲にからかわれる・・・

こんなつかみどころのない不思議な人を、今年の大河ドラマ「龍馬伝」では、あの近藤正臣さんが、見事に演じています。

つい先日まで、武市半平太(たけちはんぺいた)がキライ!」と言って、土佐勤皇党つぶしに躍起になってたかと思ったら、昨日の放送では酒びたりで足元もおぼつかず、仏画なんか見ちゃって、いったい何を考えてるんだか・・・

と言っても、ただのバカ殿ではない・・・おそらく、この先も二転三転する容堂のつかみどころのないキャラクターを、近藤さんのすばらしい演技で、視聴者の心をわしづかみにしていただけるのではないかと思って期待しておりますが・・・

Yamautiyoudou148 そんな容堂さんは、本名を山内豊信(とよしげ)と言い、土佐南家・・・つまり分家の当主だった山内豊著(とよあきら)の長男として生まれ、しかも母親は側室・・・本来なら藩主になるはずなどなかった彼ですが、第13代・第14代と、相次ぐ藩主の急死により、後継ぎがわずか3歳という山内家存続の危機となったところで、第15代藩主となったのです。

・・・とは言え、22歳で藩主となった彼は、ペリー来航で、その進路を模索する幕府に「外交意見書」を提出し、ただならぬ人物である事を知らしめるとともに、革新派だった吉田東洋(とうよう)を藩政に起用し、富国強兵殖産興業人材刷新などの藩政改革に乗り出します。

しかし、まもなく起こった次期将軍問題・・・

第13代江戸幕府将軍・徳川家定(いえさだ)に子供がいなかった事から勃発した後継者問題で、彼は、水戸の徳川斉昭(なりあき)や島津斉彬とともに、一橋(徳川)慶喜(よしのぶ)を推薦・・・一方の徳川慶福(よしとみ・後の家茂)派の井伊直弼(なおすけ)らと激しく対立します。

結局、第14代将軍は徳川家茂(いえもち)となり、大老に就任した直弼によって、あの安政の大獄(10月17日参照>>)が決行されるわけですが、この時、彼は、自ら土佐藩主の座を降り、品川の別邸で2年間の蟄居(ちっきょ)生活を送る事になります。

この時から、その名を容堂と号します。

しかし、藩主の座こそ、本家の山内豊範(とよのり)が継いでいたものの、蟄居生活が解けて復帰した後は、再び、藩の実権を握る事になります。

そんな容堂の、基本的な立ち位置は「公武合体(こうぶがったい・朝廷と幕府の融和)・・・以前、武市半平太のページ(5月11日参照>>)でも書かせていただいたように、初代藩主・山内一豊以来、関ヶ原の功績によって、徳川から与えられた土佐一国という意識の強い山内家は、常に幕府に忠誠を誓う立場であって、倒幕をする気など、まったくなかったのです。

時勢を読む事を最優先にしていた容堂は、自論をムリヤリ推す事はなく、その時々に応じて柔軟な対応をする人で、それゆえ、冒頭に書いたように、「酔えば勤王、冷めれば佐幕」と言われたわけですが、この幕府への忠誠は一貫して、最後まで変える事はありません。

おそらく、容堂は、徳川幕府を潰す事なく、時勢の波に乗って、外国勢力とも対抗できる新しい国家へと移行する方法を模索し続けたのだと思います。

慶応三年(1867年)7月・・・そんな容堂のもとに、またとない朗報が届きます。

これが、坂本龍馬後藤象二郎が京都に向かう船の上で考えたと言われる大政奉還(たいせいほうかん)の方策船中八策(せんちゅうはっさく)です。

すでに、薩摩の小松帯刀(たてわき)西郷吉之助(隆盛)らの承諾を得て、薩土盟約も交わした象二郎が、容堂に大政奉還の案を説くために、今回、高知入りしたのです。

この案は、政権を幕府から朝廷に返し、天皇をトップとしながらも、その下に、現在の幕府を土台にした議会を造り、政治を運営しようとするもの・・・(6月月22日参照>>)

これは、容堂が望んでいた幕府生き残り作戦。

容堂は、早速、建白案準備を象二郎に命じます。

問題は、この案を第15代将軍となっていた徳川慶喜が承諾するかどうかでしたが、ご存知のように、10月14日・・・あの二条城で、歴史的な大政奉還が行われました(10月14日参照>>)

しかし、実は、ここからが容堂の勝負どころ・・・本格的な政争だったのです。

朝廷側は、徳川の存続を許そうとはしませんでした。

薩長の思惑は、あくまで倒幕・・・

そんな彼らによるクーデターが12月9日の小御所会議王政復古の大号令です(12月9日参照>>)

この会議に、慶喜以下、幕府要人をいっさい出席させない事に不満ムンムンの容堂・・・倒幕一色の会議の中、午前中の会議では、ひとり幕府の存続を模索する彼でしたが、午後からの会議で、あえなく撃沈・・・

その原因は・・・
先のページでは、西郷の脅しがあったと書かせていただきましたが、それとともに、実は、彼自身の失敗もあったのです。

すでに泥酔状態でこの会議に参加していた容堂・・・
「天皇が幼いのをえぇ事に、その権力をかついで私的に運営するなんぞ、許さん!」
と言っちゃったのです。

一見、的を射ている発言ですが、それを見逃さなかったのが、あげ足取り・・・いや、酸いも甘いも噛み分けた岩倉具視(ともみ)でした。

「帝は、年齢は幼くいらしても、不世出の英主であり、今回の事はすべて自らのご決断である!それを幼いからなどと・・・失言なんとちゃうんかい!」

やっちゃいました(〃゚д゚;A A゚Å゚;)ゝ ゚+:.

さらに、暴言を吐いたとして、「おのれの土佐の地を、徳川家同様に、朝廷に返還しろや!」と、逆に責め立てられ、ここからは、ただただ謝罪するのみの沈黙状態となってしまったのでした。

孤軍奮闘空しく、倒幕の動きを止める事ができなかった容堂・・・おそらく、彼は、ここで政治の表舞台から去る決意をしたのかも知れません。

それでも、戊辰戦争(1月3日参照>>)の時には、土佐軍の指揮官であった板垣退助「戦いに加わらないように」と発言したといいますが、容堂なら、それが不可能である事も気づいていたかも知れません。

現に、結局、土佐軍は参戦しますが、彼がそれを咎める事はありませんでした。

維新後は、内国事務総裁という官職につきますが、ほどなく辞職し、別邸での隠居生活を送ります。

十数人のお妾を囲い、朝から酒を呑み、豪遊に次ぐ豪遊の生活をしていたと言いますが、時々は、ポツリと、半平太ら勤皇党のメンバーを抹消してしまった事を悔やんでいたとも言われます。

ひょっとしたら、西郷隆盛や大久保利通(としみち)木戸孝允(たかよし・桂小五郎)など・・・身分の低い位置から這い上がって、新政府で活躍する彼らの姿を、半平太に重ねていたのかも知れませんね。

もし、半平太が生きていたら、土佐出身の要人として活躍していたかも知れないと・・・

明治五年(1872年)6月21日・・・長年の飲酒がたたって脳出血で倒れた容堂は、46歳の生涯を閉じました。

なるはずのない藩主に突然就任し、攘夷と開国に揺れる動乱の波の中を、自らの生き方と、忠誠を誓った主君の存続を願って泳いだ日々・・・

彼にとってのお酒は、百薬の長か、はたまた現実逃避の道具だったのか・・・それは、ご本人にもわからなかったのかも知れませんね。
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コメント

昨夜、女房と話しながらふと考えたのですが
瑞山が死んだ時、容堂38才、瑞山36歳!

確かに郷士と連枝五家の格式の差はあるとは思いますが
この年齢差では言うことを聞かなかったでしょうな・・・

藩主退任(1859年)の時は容堂32才、藤田東湖53歳、吉田東洋43才!
分別もあった人でしょうから
コッチの方が意見を聞きやすかったのでは?

投稿: 桃色熊 | 2010年6月21日 (月) 13時47分

桃色熊さん、こんにちは~

大河ドラマでは、何か「東洋暗殺容疑」で逮捕されたようになってますが、実際の逮捕理由は「藩主に向かって意見した事」ですからね。

現代の会社運営ではなく、封建時代の藩なのですから、例え年下であっても、主君に従うしかなかったわけですが、半平太にはできなかったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2010年6月21日 (月) 14時38分

こんばんは。
この殿様と龍馬は会ったことがないそうですね。龍馬の死後、龍馬の業績を知ったとか。
生きているうちに、登用したら歴史も変わっていたかも。

投稿: やぶひび | 2010年6月21日 (月) 20時48分

やぶひびさん、こんばんは~

そうですね、
文久三年に勝海舟が龍馬の脱藩の罪の許しを乞うために会ってますから、その時に名前は聞いたでしょうが、それこそ藩士はたくさんいるので、覚えてはいなかったでしょうね。

殿様じゃなくても、龍馬が生きている間に龍馬のやってた事を知っていた人は少ないと思います。
おそらく、お龍さんも知らなかったと…

投稿: 茶々 | 2010年6月21日 (月) 22時45分

山内家が徳川幕府に恩義があるのは、関が原の戦いで山内一豊が東軍に従軍して、土佐21万石をもらった事で番組でも触れていますね。2代目藩主(山内一豊の甥)が酒好きと言う事で血筋ですね。最近でも、山内家の現在の当主が日本酒のCMに出ていました。

桃色熊さんのご投稿で土佐藩要人の年齢差がわかりました。上記の人は演者の方が年齢が上ですね。NHK大河ドラマは本当に主人公を何歳の俳優がやるかで、親族や周辺の人の役に何歳の俳優を当てるかがおのずと決まりますね。

投稿: えびすこ | 2010年6月22日 (火) 09時03分

えびすこさん、こんにちは~

龍馬が福山さんなので、おのずと、周囲の年齢も少し高くなりますが、この容堂さんと近藤さんの差はスゴイですよね~東洋さんもか(^-^;

まぁ、演技のウマイ方が良いので、いたし方ないですが…

投稿: 茶々 | 2010年6月22日 (火) 12時37分

四国からあまり総理大臣が出ないのは、土佐藩の事情もあるんでしょうね。でも今は反対に鹿児島県選出の大臣が少ない印象。平成になり関東からは総理大臣が何人か出ていますね。

閑話休題。大河ドラマの配役でちょっとした小話。
「登場人物の年齢に近い俳優を起用しない事もあるがなぜか?」と言う質問で、専門家が「実年齢に近い俳優ばかりだと、高齢の俳優に出番がないからでは」と言う回答。民放ドラマに高齢の俳優がほとんど出ない事も影響してる?今年はそれに配慮したとも考えられますね。ただ、近年の大河ドラマは「長寿」と「老後」(今と昔は「老後」の定義が違うので比較は難しいです)の認識が薄いので、そこが少し気がかり。

それを考えると2004年の「新撰組!」は年齢ではベストな配役でした。

投稿: えびすこ | 2010年6月23日 (水) 12時00分

えびすこさん、こんにちは~

「新選組!」では、実年齢にこだわる三谷さんが、周囲の反対を押し切ってキャスティングしたと聞きました。

往年の大河ファンからは不評を受けた作品ですが、私は好きです。

投稿: 茶々 | 2010年6月23日 (水) 13時39分

大政奉還後、小御所会議でクーデター失敗し、鳥羽伏見や戊辰などの戦をせず新政府が樹立されていたらどうなっていたでしょうか歴史の裏を探って見るとどんどん想像が膨らんで訳分からなくなります(笑)逆に薩摩や長州が関ヶ原で徳川方について軍功を頂いていたらまた違った方向に、日本が進んでいたかもしれませんね

投稿: もりやん | 2010年11月24日 (水) 10時23分

もりやんさん、こんにちは~

「歴史にifは禁物」なんて事言われますが、それはあくまで学問として歴史を追及する方々の言い分…

趣味で楽しむぶんには、これほどオモシロイ事はありませんよね。

私も、イロイロ考え出すと、昼間寝てしまうくらい夜も寝られません(爆)(*^m^)

投稿: 茶々 | 2010年11月24日 (水) 13時18分

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