大江広元を祖に持つ戦国武将…毛利・4本目の矢の法則
嘉禄元年(1225年)6月10日、鎌倉幕府初期に源頼朝の重臣として活躍した大江広元が、78歳で亡くなりました。
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大江広元(おおえのひろもと)は、もともと京都の貴族の出身で、下記(げき)という官職についていましたが、兄を介して知り合った源頼朝に招かれて鎌倉へ下り、元暦元年(1184年)からは、幕府の要人として活躍する事になります。
鎌倉幕府の政所(まんどころ)初代別当を務めるなどして初代将軍・頼朝を支えながら、その出自を生かして、幕府と朝廷のパイプ役もこなしました。
守護・地頭の設置を頼朝に進言したのも彼・・・
兄との関係を修復したい源義経が、あの腰越状(5月24日参照>>)を託したのも彼・・・
その並々ならぬ信頼度がうかがえます。
頼朝の死後には、梶原景時(かじわらかげとき)(1月20日参照>>)や比企能員(ひきよしかず)(9月2日参照>>)など、源平争乱の頃から幕府に尽力した御家人たちが、次々と失脚する中で、数少ない生き残りとして幕府草創期を支えました。
・・・と、広元さんについても、まだまだ書きたいところではあるのですが、本日は、初めて、その話を知った時に、「えぇ~!?」と驚いた、その広元さんからある戦国武将へと続くお話・・・
もちろん、知ってる人は、昔から知ってる話ですし、私の場合も、初聞きはずいぶん前ですが、聞くまでは、この広元さんと、その戦国武将とは、まったく別の、次元の違うところでの歴史人物として認識していたので、これを聞いた時には、ちょっとびっくり・・・そして、よくよく見るとさらにびっくりという感じだったわけです。
・・・で、この広元さんには、4人の息子がいたわけですが、長男・親広(ちかひろ)が、都にて京都守護職についていた時に勃発したのが、あの承久の乱・・・
ご存知のように、この承久の乱は、後鳥羽上皇を中心とした天皇家が、公家勢力の回復を願って起した反乱(5月15日参照>>)・・・しかし、大量に押し寄せた幕府軍に、あっさりと鎮圧されてしまいます。
この時の親広は、その京都守護職という職務からか、朝廷側として参戦したために失脚してしまいます。
しかし、四男・季光(すえみつ)は幕府側につき、しかも、けっこうな武功を挙げた事で(6月14日参照>>)、この後は関東評定衆(ひょうじょうしゅう)という役どころとなります。
ところがどっこい、広元の死後、この季光さんも、宝治元年(1247年)に勃発した三浦泰村・光村兄弟が起した叛乱に加わり、参戦した一族郎党もろともに、自刃して果てます。
・・・が、しかし、ただ1人、生き残る人が・・・
この時、越後(新潟県)の地頭職を務めていたために、乱に参加しなかったとして、季光の四男・経光(つねみつ)が助かったのです。
その後、越後の佐橋(さばし)荘と安芸(あき・広島県)吉田荘の地頭を勤める事になった経光は、その地頭職を四男の時親(ときちか)に引継ぎます。
やがて、鎌倉幕府が滅亡すると、時親は、高齢を理由に隠居し、ひ孫の元春が後を継ぎます。
そして、その元春は、地頭を務めていた安芸吉田荘に移り住み、ここに郡山城を築いて、以後、ここを拠点とします。
安芸・郡山城・・・そうです。
あの毛利元就(もとなり)の居城です(1月13日参照>>)。
実は、広元が亡くなる時に、四男の季光は、父から相模(さがみ・神奈川県)毛利荘を相続していて、その時から、本姓は大江、苗字を毛利=毛利季光と名乗っていたのです(本姓と苗字の違いは2月13日参照>>)。
元就が登場するのは、広元から数えて14代目・・・
名門の大内氏と、スゴ腕の尼子氏に挟まれながら、国人に毛の生えたような小領主的勢力しかなかった毛利を、一代で西国の雄にのし上げたその逸話は、このブログでもいくつかご紹介させていただいておりますが、私が驚いたのは、広元から元就へと続く、一連の流れだけではありません。
元就が亡くなった後、孫の輝元の代になって、関ヶ原の合戦での敗北を受け、毛利は、このうえない窮地に立たされるわけですが(9月28日参照>>)、その時、わずかに残った領地が、周防(すおう)と長門(ながと)の2国・・・
これが、ひょっとしたら豊臣秀吉が、「命の恩人の毛利秀元に与える」と宣言した領地ではなかったか?というお話を以前書かせていただきました(11月7日参照>>)。
秀元は、元就の四男・穂田元清(ほいだもときよ)の息子で、あの大坂の陣でも大活躍し(5月7日参照>>)、輝元の直系が絶えた後は、この秀元の血筋が毛利家を継いで江戸時代を生き抜いた・・・まさに、毛利家を支えた人物です。
その11月7日のページでも、三本の矢の教えで有名な毛利家ですが、その3本のの矢が、長男・隆元(または孫の輝元)、次男・吉川元春(きっかわもとはる)、三男・小早川隆景(こばやかわたかかげ)なのだとしたら、そんな毛利家を救ったのは4本目の矢・・・つまり四男の血筋である事を書かせていただきました。
そうです、今回の広元から元就までの流れ・・・まさに、窮地に立った時、毛利を救うのは四男なのですよ!
この不思議なえにしを、驚かずにいられましょうか!
とは言え、法則にそぐわない部分には目をつぶるという・・・因縁話の常套手段を使ったこじつけなんですけどねww
果たして、江戸時代を通じて眠れる獅子だった毛利家が、幕末の雄藩となり、維新の表舞台に立つ時は・・・やっぱり、こじつけだな(*≧m≦*)
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コメント
命数、というものなのでしょうか、古今東西、英雄の伝説には不思議な数字の因縁話しがありますよね。
面白いと思います。
日本の歴史の有名な 四 と云えば、藤原四家、私は、藤原鎌足の大化の改新の時の役割と、鎌倉幕府が開かれて、武士による新しい世の中が誕生した時の、大江広元の役割が似ているような気がしています。
日本に稀代の社会が芽生える時には、長男や二代目ではなくて、ずっと後方に控えていた 四 の人が活躍してくれるものなのかもしれません・・・。
投稿: 重用の節句を祝う | 2010年6月10日 (木) 15時54分
重用の節句を祝うさん、こんにちは~
命数ですか…
言霊もそうですが、なにやら数字にも不思議な力が宿っているような気がしますね。
投稿: 茶々 | 2010年6月10日 (木) 16時11分
茶々様、夜分遅く失礼します。
今卒論で南北朝期の毛利氏について調べているのですが、私も毛利氏が大江広元からきたというのは最近知りました。
だから安芸毛利は代々「元」を、越後の北条や安田は「広」を通字にしていたのか!とか知ると色々納得出来る事が多かったです。
是非茶々様には大江(毛利)季光さんの記事を書いて頂きたいです。中々面白いくて格好良いというかかなり惜しい人生を歩んでいるので(苦笑)
投稿: ryo | 2013年5月30日 (木) 02時10分
ryoさん、こんにちは~
>大江(毛利)季光さん…
そうですね。。。
話題の四男ですからね~
もっとたくさん…イロイロと調べていきたいと思います。
投稿: 茶々 | 2013年5月30日 (木) 12時11分