まさに背水の陣~瓶割柴田の野洲川の戦い
元亀元年(1570年)6月4日、織田信長から長光寺城を任されていた柴田勝家が六角承禎・義治親子を破った野洲川の戦いがありました。
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永禄十二年(1569年)、前年に足利義昭(よしあき)を奉じて上洛した織田信長は、越前(福井県)の朝倉義景(よしかげ)に対して、再三の上洛要請をしますが、義景は、かたくなに拒否し続けます。
そのため、朝倉討伐を決意した信長は、翌・元亀元年(1570年)4月、京都を出陣しました・・・これが、手筒山・金ヶ崎城攻防戦の勃発です(4月26日参照>>)。
4月26日には金ヶ崎城を落とした信長は、その勢いのまま、朝倉氏の本拠地:一乗谷を目指しますが、ここで臨時ニュース!!!
北近江(滋賀県北部)を治める浅井長政(あざいながまさ)が突然の寝返りです。
もう、すでに皆様ご存知だと思いますが、この長政さんは、来年の大河ドラマの主役=お江さんのパパ・・・そして、ママがあのお市の方です。
そう、信長は、カワイイ妹のお市の方を長政に嫁がせ、すっかり味方に引き入れたつもりでいたのですが、長政は朝倉との長年の友情を選びました。
めざす義景が福井で、長政が滋賀・・・今の信長は、まさにその中間にいますから、このままだと完全に挟み撃ち!!
この時、夫・長政の寝返りを「袋の小豆」で兄に知らせたのがお市の方だったなんて話もありますが、とにもかくにも信長は、最大のピンチを切り抜けるべく、京へと戻る事にします・・・金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)と呼ばれる撤退劇ですね。
敦賀から若狭を通って4月30日には京都に戻った信長・・・5月9日には、再び京都を出発し、今度は、琵琶湖の東岸から伊勢へと抜け、本拠地・岐阜へと戻ったのが5月21日の事でした。
そして、その途中、琵琶湖の東南に位置する長光寺城(ちょうこうじじょう=滋賀県近江八幡市)の城主に、配下の柴田勝家を任命し、ここを守らせたのです。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
この撤退劇をチャンスと見たのが六角承禎(じょうてい・義賢)・義治(よしはる)親子でした。
彼ら六角氏は、源氏の佐々木氏の流れを汲む名門(10月7日参照>>)・・・以前は、この長光寺城にほど近い観音寺城を拠点に、南近江(滋賀県南部)一帯に勢力を誇っていたのですが、信長上洛の時に敗れて(9月12日参照>>)以降、甲賀や伊勢などで、単発的なゲリラ戦を展開するしかない状況でした。
しかし、あの信長が命からがら岐阜へと戻り、わずか400人ほどの手勢の勝家が、長光寺城を守る事になったのですから、承禎としては、ここを攻めない手はありません。
信長が、岐阜へと到着した同じ5月21日・・・承禎らは、一向一揆を含む約4000を率いて、勝家の籠る長光寺城へと攻めかかりました。
多勢に無勢・・・しかし、勝家はよく持ちこたえ、長光城はなかなか落ちません。
・・・と、そこへ、地元領民から承禎へ、ナイスな情報がもたらされます。
まぁ、ここは、先にもかいた通り、もともとは六角氏の領地でしたから、彼らを支持する者も多かったでしょうからね。
・・・で、その情報というのは、
「この長光城には井戸がなく、水は、城の外から手に入れています。
そこを遮断すれば、水が無くなるので、籠城も時間の問題だと思われます」
「よっしゃぁ~~ヽ(*≧ε≦*)φ」
とばかりに、早速、水源を断つ承禎・・・
やがて、10日ほど経った頃、城内を様子を探らせる使者を送ります。
それとなく周囲の様子を監察しつつ、勝家と面会した使者は、彼に降伏するように持ちかけますが、勝家は
「城内の者と話し合って、明日、結論を伝えます」
とだけ返事・・・
その後、使者は、城内の水の残量を確かめようと
「スンマセン・・・ちょっと、手や顔を洗いたいんで、水を使わせてもらえまへんやろか?」
と、頼み込みます。
すると、城内の者が二人がかりで、大量の水を運んできて
「さぁ、どうぞ」
と・・・
そして、使者が、顔や手を洗い終えると、残った水は、全部、縁側から庭に捨ててしまったのです。
さらに、途中には馬を水で洗っている者も目撃・・・
承禎のもとに戻った使者は、ありのままを報告します。
この話を聞いた六角軍は、
「どうやら、水はまだまだあるようだ」
と判断し、これから長期戦になるであろうとの予想のもと、作戦を変更します。
ところが、これこそ、勝家の作戦!
実は、もう、城内の水は、ほとんど底をついていたのです。
元亀元年(1570年)6月4日、
ここが勝負どころ!・・・と判断した勝家は、城内に残った水を一箇所に集めて、兵士たちに告げます。
「水は、もう、これだけしかない!
どうせ、干上がって死ぬなら、ここで撃って出よう!」
こう宣言して、残った水を兵士たちに思う存分飲ませて士気を高め、さらに、水が入っていた瓶(かめ)を、次々と叩き割ってしまいました。
水瓶を割る柴田勝家(「絵本太閤記」滋賀県立安土城考古博物館蔵)
「さぁ、これで、すべて無くなった・・・行くゾ!」
と、自らが先頭に立って城外へと躍り出、城を取り囲む敵陣に向かって突っ込んで行ったのでした。
「長期戦になる」と余裕をかましていた六角軍、
名実ともに背水の陣で挑む勝家軍・・・
その兵卒1人1人の士気の高さは、しっかりと、その数の少なさをかき消したのです。
近くの野洲(やす)川にて、六角軍を散り散りにさせ、勝家は見事、勝利しました。
もちろん、この勝利の報告に感激する信長・・・
この時、信長が、勝家に与えた感状(かんじょう・活躍した者に与える賞状)には、「瓶割(かめわり)柴田殿へ」との宛名が記されていたのだとか・・・
・‥…━━━☆
この逸話は、『総見記』『武家事紀』『新武者物語』などに登場するお話なのですが、現在では、おそらく創作であろうというのが定説となっています。
がしかし、ご覧の通り、とてもオモシロイお話ですし、戦いに勝利したのは史実ですので、是非、ドラマで見てみたいですね~
必死の形相で、瓶を割りまくる勝家・・・カッコイイぞ!
果たして6月19日、態勢を整えなおした信長が岐阜城を出陣(6月19日参照>>)浅井・朝倉へと迫る・・・いよいよ姉川の合戦(6月28日参照>>)近し!。
この姉川の合戦で、信長が、長政の拠点・小谷城の間近へと迫れたのも、この日の勝家の死守あればこそ!ですね。
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コメント
こんにちわ~、茶々様!
この話は有名ですが「絵本太閤記」みたいな描写の資料を見るのは初めて(゜Д゜Uu)
創作にしろ事実にしろ非常に面白い話ですよね!!
今日も茶々様に感謝ですo(_ _)oペコッ
投稿: DAI | 2010年6月 4日 (金) 13時11分
本当に読んでてわくわくします。ドラマでもこのエピソードを入れたらさぞ盛り上がると思います。でも冷静に考えるとちょっとドラマチックすぎるしリーダーがそんなやけっぱちみたいなことするかな…って気もしますが言い伝えられてるんなら堂々と使えるネタですよね。ところでうろ覚えですがお市の方は鈴木保奈美、淀殿は宮沢りえみたいですね。お江の樹理ちゃんもだけど芸達者な人ばかりで楽しみ。特にりえちゃんの淀殿なんてもうイメージにピッタリ!茶々様もなんか嬉しくありませんか
投稿: Hiromin | 2010年6月 4日 (金) 14時30分
DAIさん、こんばんは~
実際には、六角氏も、これだけ見事にコロッと騙されるとは思えませんが、エピソードとしては痛快ですよね。
勝家の姿が目に浮かぶようです。
投稿: 茶々 | 2010年6月 4日 (金) 21時35分
Hirominさん、こんばんは~
はい!
宮沢りえさんの淀殿は楽しみですね。
勝家も、お江さんにとっては、2度目のお父さんとなる人なので、このお話もやってほしいですね。
投稿: 茶々 | 2010年6月 4日 (金) 21時38分