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2010年6月 7日 (月)

物部滅亡ヘのカウントダウン~穴穂部皇子・誅殺

 

用明天皇二年(587年)6月7日、蘇我馬子が皇位を狙う穴穂部皇子を誅殺しました。

・・・・・・・・・

敏達(びたつ)天皇十四年(585年)5月、亡き天皇に代わって第31代天皇となったのは用明(ようめい)天皇でした。

Suikokeizucc_1 二人はともに、第29代欽明(きんめい)天皇の息子・・・つまり兄弟間の皇位継承だったわけです。

しかし、用明天皇の下には、もう一人、異母弟がいました。

それが穴穂部皇子(あなほべのおうじ)・・・ただ、敏達天皇亡きあと、その兄弟の中での最年長者は用明天皇ですから、周囲から見れば順当な皇位継承であったわけですが、どうやら穴穂部さんは、この頃から、すでに、少々の不満を持っていたようです。

そんな中、早くも即位した翌年の4月には、用明天皇は病に侵されてしまいます。

この時、用明天皇は、臣下の皆々を集めて
「仏教に帰依して平癒を祈ろうと思うんやけど、どやろか?」
と、尋ねます。

すでに、書かせていただいているように、この仏教問題・・・
「日本には八百万の神々がいるのだから・・・」
と、仏教導入に反対する物部(もののべ)氏や中臣(なかとみ)と、
「大陸でも、皆、信じてまっせ」
と、導入に賛成する蘇我氏の間で、長年、争われてきた問題です(3月30日参照>>)

今回も、物部守屋(もののべのもりや)中臣勝海(なかとみのかつみ)らは猛反対し、蘇我馬子(そがのうまこ)は、
「天皇のおっしゃる通りにすべきである」
と、真っ向から対立・・・

しかし、「祈ろうと思うんやけど、どやろか?」
という、天皇の言い方を見てもわかる通り、蘇我氏出身の母を持つ用明天皇の心は、すでに仏教へと傾いていたのです。

結局、天皇自らが、はっきりと仏教崇拝を主張する形となり、ここで守屋は、かなり窮地に立たされます。

そんな波乱を含んだまま、用明天皇の容体はますます深刻なものとなり、早くも次期天皇の事が囁かれるようになるのですが、この時、皇太子だったのは、敏達天皇の第1皇子だった押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのおうじ)という人・・・しかし、なぜか、彼の消息が、この後、プッツリと歴史書に登場しません。

病弱のための急死・・・あるいは隠居して身を隠したとも言われますが、あまりにもグッドタイミングな消息不明に、当然の事ながら、誰かによる暗殺説も囁かれていますが、とにかく、まったく登場して来ないので、どうしようもありません。

・・・で、この押坂さんの行方不明により、急激に皇位に近くなったのが穴穂部皇子です。

そんな穴穂部皇子を支持して、現在の窮地を挽回しようとしたのが守屋・・・

二人の計算づくなのか?とれとも若気の至りだったのか?
ここで、穴穂部皇子は事件を起してしまします。

以前、推古(すいこ)天皇のところで書かせていただいた「レイプ未遂事件」です(3月7日参照>>)

この頃、まだ額田部皇女(ぬかたべのおうじょ・炊屋姫)と呼ばれていた後の推古天皇は、亡き敏達天皇の皇后として殯宮(もがりのみや・亡き人を偲んで喪に服す場所)にて喪に服していたのですが、そこに、穴穂部皇子が、力づくで乱入しようとしたのです。

もちろん、これは、そのページにも書かせていただいたように、穴穂部皇子のちょっとした暴走を、したたかな彼女が逆手にとって、大きな事件にでっち上げてしまった可能性もあるのですが、真相はともかく、翌日には
「穴穂部皇子は、次期天皇の座が欲しいため、亡き天皇の皇后を犯そうとした」
という、一大スキャンダルとなって、宮中を駆け巡ってしまったわけです。

怒りが収まらないのは穴穂部皇子・・・とは言え、さすがに皇后である額田部皇女をどうこうする事はできませんから、その怒りは、殯宮の門前で、乱入しようとした彼を制止した欽明天皇の寵臣・三輪君逆(みわのきみさかう)に向けられます。

この時、守屋・馬子の前で「アイツ 絶対!殺したる!」を息まく皇子に対して、この二人の権力者は「どうぞ、ご自由に」と、事実上、承認しています。

どうやら、亡き敏達天皇の寵愛を受けていた重臣=逆の存在は、この二人にとっても目の上のタンコブだったようです。

哀れ、穴穂部皇子と守屋の連合軍に襲撃された逆は、夜陰にまぎれて額田部皇女に助けを求めますが、海柘榴市(つばいち)離宮にて殺害されてしまいました。

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舞台となった海柘榴市

この時の馬子のスタンスが絶妙です。

先に書いたように、「どうぞ、ご自由に」と黙認しておきながら、「血気にはやらないように」てな感じで皇子を諌めつつ、それでいて、襲撃自体にはまったく関与せず、逆に、彼らの動きを見る・・・

そう、実は、馬子の予想通り、穴穂部と守屋は、この逆殺害の勢いに乗じて、このままクーデターを決行する計画を立てていたのです。

それを阻止したのが、計画を予想して用明天皇の病室の警護を強化していた馬子でした。

クーデターの失敗により身の危険を感じた守屋は、一旦、河内国渋川郡阿都(あと・大阪府八尾市跡部)の別宅に退きあげます。

そんなこんなの4月9日・・・とうとう、用明天皇が、快復をみないまま崩御します。

翌・5月・・・
「待ってました!」
とばかりに、再び兵を挙げ、穴穂部皇子を天皇に擁立し、政界の実権を握るべく守屋が動きます。

しかし、この時、守屋が穴穂部へ使わした密使の連絡が、なぜか馬子にだだ漏れ・・・

馬子は、すかさず額田部皇女から
「速やかに、穴穂部皇子と宅部皇子(やかべおうじ)を誅殺(ちゅうさつ・罪を認めて殺す事)せよ」
との(みことのり・天皇の正式命令)を取りつけます。

つまり、アチラは許可なきクーデターで、コチラは正統な官軍という事です。

用明天皇二年(587年)6月7日、馬子は、佐伯連丹経手(さえきのむらじぬいて)らの軍をさしむけ、穴穂部皇子と宅部皇子を殺害したのです。

この宅部皇子という人は、穴穂部皇子の弟とも、第20代宣化(せんか)天皇(欽明天皇の兄)の皇子とも言われますが、穴穂部皇子と大変仲が良かったとされる人で、なんとなく、巻き添えを喰った感がありつつも、意外と、率先して、今回の一件に関与していた可能性もあり、更なる研究が待たれるお人です。

とにもかくにも、次期天皇候補という大きな旗印をなくしてしまった守屋・・・当然の事ながら、この一件は致命的となります。

かくして、馬子による大々的な物部氏討伐が開始されるのは、この1ヵ月後の事となりますが、そのお話は7月7日の【VS蘇我との決戦~物部守屋の討死と鵲森宮】でどうぞ>>
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●未盗掘で発見された藤木古墳の埋葬者が、今回主役の穴穂部皇子かもしれない!というお話は2009年9月25日のページでどうぞ>>
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コメント

大阪の八尾というところに行ったことが、いえ、通ったことがあります。
何処に行く途中だったか憶えていませんが、電車から見た(だけなの)です。
が、何か、空虚な感じがしました。そこにある山には魂が抜けてしまっている・・・みたいな感じです。
そういう感じの、行ったところで何もないんだよっていう感じの場所は、関東には そこ ここ にあります。
物部は、もののふ、とも読めて、それは武士のことですよね。
武士と云えば関東ですから、妙に何か因縁を感じます。
平将門の本貫地を車で通った時も、同じような感じでした。ただ、風が吹き抜けて行くような場所です。
私の錯覚かもしれませんが・・・。

投稿: 重用の節句を祝う | 2010年6月 7日 (月) 23時10分

重用の節句を祝うさん、こんばんは~

私も、近くではありますが、あまり行った事がないので、八尾の印象としては映画ですかね~

八尾→朝吉→悪名シリーズ→勝新

河内音頭も含め、なんか熱いイメージがあります。

大阪の北はクールで南部は熱い感じ・・・別に根拠のない個人的なイメージですが・・・

投稿: 茶々 | 2010年6月 8日 (火) 01時41分

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