内閣総理大臣・大隈重信~初の政党内閣・誕生
明治三十一年(1898年)6月30日、日本初の政党内閣・第一次大隈重信内閣が発足しました。
・・・・・・・・・・・
このブログでは、【明治十四年の政変で失脚】(10月11日参照>>)の記事で、すでに登場している、ご存知!早稲田の創立者・大隈重信(おおくましげのぶ)さん・・・
んん??
一度失脚したのに、総理大臣に??
この政界返り咲きを画策したのは、誰あろう、かの政変で彼を失脚に追い込んだ伊藤博文でした。
それは、不平等条約改正という大きな目標のため・・・。
未だ幼い頃、故郷・佐賀の藩校「弘道館」に入学した重信少年は、武士道の基本『葉隠(はがくれ)』(10月10日参照>>)を基礎とした儒教教育に反発して退学・・・
オランダ系アメリカ人のフルベッキから英語を習い、その過程で知った『新約聖書』や『アメリカの独立宣言』に大いに感動・・・やがて英語塾を開いたりしながらも、慶応三年(1867年)には、第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を進言したいがため、副島種臣(そえじまたねおみ)とともに脱藩しました。
その時は、京都にいるところを捕縛され、謹慎処分を受けてしまった重信でしたが、その後、新政府のもとで、長崎裁判所の副参謀を務めます。
その副参謀時代に起こった浦上信徒弾圧事件・・・隠れキリシタンを検挙したこの事件に、英国公使のパークスが噛みついて猛抗議!
これに対して重信は、国際法違反を持ち出して、ピシャリと黙らせました。
そんな交渉術が、「外交上の最大の課題として残された不平等条約改正には、大隈を外相に・・・」と、伊藤に思わせたのかも知れませんね。
もちろん、もともと、ともに考えていた国会開設にも必要な人物であった事でしょうし・・・。
・・・とは言え、あの明治十四年の政変は、二人の間の大きな溝となっていました。
あの伊藤に、「復帰を・・・」と言われても、大隈も、すぐには「はい、喜んで!」とはなりません。
そこで、伊藤は、「首相の地位を条件に説得してほしい」と、まずは黒田清隆に頼みます。
「首相の座を譲る」とまで言われちゃぁ、黒田も、自分のところでストップさせるわけにはいかず、その話を大隈に伝えるしかありません。
ただ、以前の出来事をなかった事には、やはりできないもの・・・って事で、大隈の出した条件は、翌年の国会開設と8年後には政党内閣制をとる事、それを条件に外相を引き受けたのです。
それが明治二十一年(1888年)の事でした。
就任した翌年に、爆弾での襲撃に遭い、右足を失って辞職するものの、明治二十九年(1896年)には、第二次松方内閣のもと、再び外相に返り咲いて政界に復帰・・。
板垣退助らとともに、憲政党を結成した直後の明治三十一年(1898年)6月30日、薩長藩閥以外では初めての内閣総理大臣に就任・・・隈板(わいはん)内閣と呼ばれる日本初の政党内閣を誕生させました。
これこそ、維新以来の政権交代と言えるでしょう。
しかし、未だ結成されたばかりの憲政党・・・もとの政党の違いでギクシャクしはじめ、残念ながら、わずか4ヶ月で総辞職に追い込まれてしまったのは、大隈にとって、さぞかし不本意だった事でしょうが、その16年後、78歳にして再び首相に返り咲く根性は大したものです。
難しい理論を展開するよりも、その場その場で臨機応変に事を運んだという大隈さん・・・それでいて、ここぞという時は、その信念を曲げない人でもあったと言います。
お坊ちゃん育ちのわりには、能や謡曲よりも浪花節や講談が好きだったという庶民的なところもあり、あけっぴろげな性格は、なかなか大衆の人気者だったとか・・・
はてさて、最近の方々は・・・
「そこまであけっぴろげなくても」と思うくらいあけっぴろげな人は、何人かおられるようですが・・・どうなんでしょうねぇ( ̄◆ ̄;)
.
「 明治・大正・昭和」カテゴリの記事
- 日露戦争の最後の戦い~樺太の戦い(2024.07.31)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
- 維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ(2022.12.22)
- 大阪の町の発展とともに~心斎橋の移り変わり(2022.11.23)
- 日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』(2020.11.11)
コメント
78歳で総理大臣復帰。今なら議員引退の年齢ですね。
「最後に一花」の感じでしょうか。今もそうですが「小派閥」の人はポストに恵まれない事が多いので、「明治14年の政変」の原因の1つは、人事面の不満も多分あったんでしょうね。
大隈内閣で文部大臣の尾崎行雄は、若い時に群馬県にいたんですね。今で言う「英会話スクール」の生徒だったんですね。新島襄と面識があるかどうかわかりませんが、もしあれば再来年の大河ドラマに出るかも?
新島襄は同志社大学で、大隈重信が早稲田大学で、両大学は今も交流がありますね。
欲を言うと慶応義塾大学創設者の、福沢諭吉が出てもおかしくはないと思います。福沢諭吉も新島襄も、幕末期にアメリカに行ってるんですね。
投稿: えびすこ | 2011年8月11日 (木) 17時57分
えびすこさん、こんばんは~
東が早稲田&慶応なら、西は同志社と立命館ですね。
関西では、「関関同立」と言われます。
投稿: 茶々 | 2011年8月11日 (木) 23時36分