「秀頼自刃・山里丸の遺構発見」のニュースを聞いて
昨日、『豊臣秀頼と淀殿・自刃の地「山里丸」で焼損瓦大量出土』というニュースが新聞紙上を賑わせました。
ネット上でも各社のニュースページで報道され、
Yhooニュースのページ↓
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/japanese_history/
(ニュース記事は時間が経つと排除される場合があります)
には、このブログの「合戦布陣図保管室」>>にある「大坂夏の陣・布陣図」>>を参照ページとしてご紹介いただいたおかげで、昨日一日のブログ全体のアクセス数が144586アクセスと、開設以来の多くの方のご訪問をいただき、ありがたく思っています。
ブログにご訪問をいただいた皆様、ようこそ!
そして、今後ともよろしくお願いします。
ところで、それらのニュース記事にもあります通り、
“大坂夏の陣(1615年)で、豊臣秀吉の子・秀頼とその母・淀殿が自刃した場所とされる大坂城(大阪市中央区)の区画「山里丸(やまざとまる)」とみられる遺構の一部が、大阪市博物館協会大阪文化財研究所の調査で初めて出土した”(読売新聞より)
“豊臣秀吉の子・秀頼とその母・淀君が慶長20(1615)年の大坂夏の陣で徳川家康に敗れて自刃した場所とされる大阪城天守閣(大阪市中央区)北側の区画「山里丸(やまざとまる)」で、夏の陣で焼けたと推定される大量の瓦や壁土が大阪市博物館協会・大阪文化財研究所の発掘で見つかっていたことが25日、分かった”(サンケイ新聞より)
どちらにも、“自刃した場所とされる”と書かれてますね。
そうなんです・・・実は、コレ、確定ではないんです。
大阪城に行かれた事のある方は、ご存知かも知れませんが、大阪城天守閣の北側に位置する、この「山里丸(山里曲輪)」と呼ばれる場所には、現在「秀頼・淀殿最期の地」という供養碑が建っています(くわしい場所は本家HP【大阪城公園周辺パーフェク歴史散歩】>>で紹介しています)。
確かに、史跡と称される場所に、このような石碑があると、とてもわかりやすいですし、大好きな歴史人物と同じ空間にいるような気がして妄想もふくらみまくりなわけですが、一方では難しい部分もあります。
それは、「ここがその場所だ」と特定されてしまう危険性です。
秀頼と淀殿の場合、もちろん、この「山里丸で自刃」という事が書かれている史料が最も多いため、ここに供養碑が建てられたわけですし、私自身、ブログに書く場合は、最も可能性が高い場所として書かせてもいただいているわけですが、そうは言いながらも、そうではない史料も、そして、同じ「山里丸」でも、アノ位置ではないという話もけっこうあるのです。
抜粋して、いくつかご紹介させていただくと・・・
- 大坂落城五月八日朝、秀頼卿御存生ニ而、山里丸糒蔵(ほしいくら)ニ御座候・・・(藤堂家譜)
- 大坂本丸自焼、乍去秀頼、同御袋、翌日八日迄、天守下之丸之蔵ニ被生残候・・・(慶長二十年5月11日付け伊達政宗・書状)
- 秀頼公ハ、母子トモニ、玉造ノ櫓ニ御入候(武功雑記)
- 八日の朝、山里南東の方の御腰物蔵の矢倉焼きのこるにより、秀頼公御入・・・(老将座談)
- 蘆田曲輪(あしだくるわ)ノ方ヘ、皆々御供シ立退キテ入ラセケル・・・(明良洪範)
- 二之丸帯車輪(おびくるわ)ニ引籠ル由云々・・・(駿府記・慶長二十年5ガツ八日条)
- 大坂城中之焼殘之唐物倉(からものぐら)ニ秀頼并御袋、大野修理・・・(本光国師日記・慶長二十年五月八日条)
- 五月八日、大坂落居、御屋形千畳敷ニテ、秀頼様并御母儀其外女房衆諸侍以下・・・(春日社司祐範記・慶長二十年五月八日条)
・・・と、私が知ってるだけでもこれだけあるのですから、たぶん、もっとあります。
だからと言って、供養碑があそこに建っている事を否定するつもりはありません。
先にも、書かせていただいたように、そこにそれがある事によって、大いに心踊りますし、大阪城内ならともかく、まったく、その痕跡すらない街中の史跡などは、「本当にここであってるのかしら?」と悩む事もしばしば・・・
そんな時に、専門家の方が、ちゃんと検証なさったしるしとも言える石碑が、そこに建ってる事によって、私のような素人は、「あぁ、やっぱり、ここがそうなんだ」と安心するわけです。
ただ、専門家の方によっては、「あぁ、やっぱり、ここがそうなんだ」と思ってしまうため、未だ特定されていない場所については、石碑などの建立を避けるべきとのお考えを持っている方もおられるようです。
素人の私には、「どっちが良い」なんて事は言えませんが、少なくとも、秀頼さんと淀殿の最期の場所は、いくつかの候補地があるという事を、お伝えしたかったので、本日は、ニュースの関連から、その事を書かせていただきました。
それにしても山里丸で秀吉築城時の施設跡と焼けた瓦が同時に出土したのは、今回が初めてなのだとか・・・いつもいつも、新しい発見にはワクワクします~
今後の調査で、秀頼&淀殿の最期の場所の特定に、さらに近づく可能性もあるかと思うと楽しみです。
今回出土した瓦などは、7月28日から9月20日まで大阪歴史博物館で開催される『新発見・なにわの考古2010』にて展示されるそうなので、コチラも楽しみですね。
(大阪歴史博物館の場所は、本文中にリンクを貼った本家・歴史散歩のページで紹介しています)
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コメント
昨日1日で14万件を超えるとはすごいですねw(゚o゚)w
豊臣家の侍女の末裔が代々、現在に至るまで大阪城で供養していると以前書きましたが、大阪がにわかに注目されますね。来年の大河での母子自決の扱いも気になりますね。去年はすっ飛ばしたので。
「~の戦いでの~軍本陣はここだ」とも断定できないですからね。
投稿: えびすこ | 2010年6月27日 (日) 09時37分
えびすこさん、こんにちは~
歴史上では断定できなくとも、そこをうまく、おもしろくやってくださるのが作家さんの腕の見せ所…期待したいです。
投稿: 茶々 | 2010年6月27日 (日) 11時03分
はぁぁ~すごい・・・14万4500ちょっと・・・これ普通なら3~4年くらいかかるんじゃ(もっとかな)訪問された方、ラッキーでした。 この焼けた瓦、当時の炎に包まれた大阪城や逃げ惑う人々と共にあったんだ。怒号や悲鳴を聞いたんだ。そう思うと見てみたいです。
投稿: Hiromin | 2010年6月27日 (日) 12時29分
Hirominさん、こんばんは~
>当時の炎に包まれた大阪城や逃げ惑う人々と共にあったんだ。怒号や悲鳴を聞いたんだ。
ほんとですね~
以前、京都御苑の榎を見て
「この木は蛤御門の目撃者なんだなぁ」
との思いに浸ってた事がありましたが、まさに、今回の瓦も目撃者ですよね~
いったい、何を語ってくれるのか…
公開されたら、ぜひ見に行きたいと思っています。
投稿: 茶々 | 2010年6月27日 (日) 22時34分