« 蘇我入鹿の暗殺劇~孝徳天皇・首謀説 | トップページ | 大河ドラマ「龍馬伝」~考えがコロコロ変わる龍馬って »

2010年6月15日 (火)

安土城・炎上

 

天正十年(1582年)6月15日、織田信長の居城であった安土城が炎上しました。

・・・・・・・・・・・

6月2日に発生した、ご存知、本能寺の変・・・
(初めてお越しの方は、先日upした本能寺・前夜のページから見ていただくとありがたいです>>)

その後、脅威の中国大返しで畿内に戻り・・・(6月6日参照>>)
謀反を起した明智光秀天王山にて破った羽柴(豊臣)秀吉・・・(6月13日参照>>)

その2日後の天正十年(1582年)6月15日

この日、近江(滋賀県)坂本城へと帰還した光秀の娘婿・明智秀満(あけちひでみつ)は、城へと迫り来る堀秀政軍に、城内にあった光秀の財宝を送った後、そこにいた光秀の妻を刺し、一族もろとも自刃して果てたのです(2014年6月15日参照>>)

実は、『太閤記』では、この秀満が安土城に放火した事になっています。

山崎の合戦当時、安土城にいた秀満が、明智方の敗北を知り、坂本城へと向かう際に、放火して逃走したと・・・

確かに、この秀満さんは、坂本城へ向かう途中の大津で敵陣に囲まれた際、馬に乗ったまま琵琶湖を渡ったという「湖水渡り」の伝説を持つ人ですが、さすがに、同日に移動というのは・・・

もともと、彼が、山崎での敗北知ってまもなく安土を出たとされるのに、安土城が炎上したのが、2日後の15日であるとされる事もあり、今のところ彼が放火した可能性は低いと考えられています。

坂本城の明け渡しの際に、上記の通り、財宝などをすべて送り届けてから城に火を放ったのと、安土城の有無を言わさぬ放火とは、かなり雰囲気違いますしね。

・・・で、もう一人、疑われているのは、信長の次男・織田信雄(のぶお・のぶかつ)です。

これは、あのルイス・フロイス『日本史』に書かれているものなのですが、その理由が・・・

「神が、この城を残す事を許さず、(神のお力で)信雄が焼き払うようにしむけた」
宣教師らしい書き方ですが、キリスト教信者ではない私には、やはり理解できない理由です。

そう、以前、【織田信長とキリスト教】(4月6日参照>>)で書かせていただきましたが、宣教師たちは、信長がキリスト教に帰依しなかった事を非常に怒ってます。

そのページでも引用しましたが、同じく『日本史』の記述には、
「彼は、神や仏をまったく信じていない・・・デウスを否定して自らを神になぞらえ、途方もない狂気で、悪魔的な思い上がりである」
と、神にとって代わろうとするような信長の態度に激怒しています。

まぁ、私としては、そこにも書いたように「信長=神」というよりは、「信長自身が心に描く神や仏が、キリストでもなければ本願寺でもない」という風な考え方ではなかったか?と思っているのですが・・・

それは、さておき、もし本当に信雄が上記のフロイスの言う理由で、安土城に火を放ったのだとしたら、宣教師たちの指示に従った・・・つまりは、信雄がキリスト教徒だった事になりますが、その後の様子を見ても、キリシタンであったようには感じませんよね。

フロイスに言わせれば
「彼=信雄はアホなので・・・」
てな事もほのめかしていますが、それも失礼な気もします。

もし、安土城の炎上が神のおぼしめしだと言うなら、信雄ではなく、潜入したキリスト教徒が・・・って疑いたくなりますね。

逆に、信雄が放火したのだとしたら、未だ、城内に残っているかも知れない明智の残党をあぶりだすためにだったというほうが、納得のいく理由と言えるかも知れません。

他にも、略奪目的で乱入した一般人の放火であるとか、落雷による出火という説もあります。

また、6月7日の日に安土城の光秀に面会したとされる公家・吉田兼見(かねみ)の日記の6月15日のところには
「安土城放火云々、自山下類火云々」
とあり、
「放火だとか、山下(城下町)の火事が類焼したとかの噂になってる」
と、町の噂の状態のまま書き付けているところから、以前は、城下からの延焼説もあったようなのですが、近年の発掘調査により、この延焼説は消えました。

Aduti11as
発掘調査から推定した火災の範囲(この図は、滋賀県安土城郭調査研究所の発表をもとに、現地ドライブマップから、趣味の範囲で作成したものです)

滋賀県安土城郭調査研究所の発表によれば、発掘調査にて火災の痕跡が見られたのは、本丸などの主郭部分のみ・・・この事から、この部分だけを燃やすための意図的な放火と考えられるとの事だそうです。

これは、その後、まもなく信長の孫・三法師(さんほうし)を後継者と決めた(6月27日参照>>)秀吉が安土に入城したり、後に廃棄される時に、その資材の多くを豊臣秀次(秀吉の甥)近江八幡城に再利用したという話とも一致しますね。

つまり、大城郭だった安土城は、主要部分が燃えても、残った部分で充分に役目を果たしていたし、まだまだ建物が残っていたという事であり、それだけ、主要部分だけを意図的に焼いた可能性も高いという事にもなるわけです。

・・・で、結局、名指しで指名された中で、アリバイのある秀満は除外され、信雄犯人説が主流となるのですが、それには、上記の通り、動機があいまい・・・

なので、現在では、略奪目的の一般人の放火のせんが、有力視されているようですが、個人的には、「ならば、主要部分だけ意図的に・・・」っていうのが引っかかるので、結局、ワタシ的には、一番怪しいのは怒ってたキリスト教徒ですが、証拠もないのに、そんな事言うわけにもいかず・・・

Dscn8489a800
安土城跡・大手道

あぁ・・・結局、わからない(´;ω;`)ウウ・・・

・・・とは言え、この世の物と思えぬほどの絢爛豪華な城・・・(その豪華さは2月23日参照>>)

信長の権勢を誇ったその城は、覇王・信長の死とともにこの世から消え、野となり山となるのが、一番ふさわしい散り方だったのかも・・・。

この安土城炎上は、祭り好きで派手好きだった信長さんが、最後の最後に、後世の歴史ファンの妄想をかきたてるべく、大いなる謎として投げかけた物なのかも知れません。

●関連ページ
【本能寺の変~その時、安土城では…】>>
 .

あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 蘇我入鹿の暗殺劇~孝徳天皇・首謀説 | トップページ | 大河ドラマ「龍馬伝」~考えがコロコロ変わる龍馬って »

戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

「日本最初の本格天守閣」を有する安土城が炎上して、大阪城が少し後に完成して天下人交代を印象付けたと感じますね。そして、時代が下り江戸城が完成して「豊臣の大阪城」が落城する。でも安土城は再建されて、織田信長の末裔に顔向けできましたね。

江戸城は火事で天守が消滅して、現在に至るまで再建されないですね。明治以降は皇居として、建物を洋風建築に(段階的に)衣替えしたと思うんですが、天守が消失するのは城の運命でしょうか?現在でも残る慶長期の城は貴重。

投稿: えびすこ | 2010年6月15日 (火) 17時54分

こんばんは。
伊勢安土城は再現されているとか?
http://ise-bunkamura.co.jp

投稿: やぶひび | 2010年6月15日 (火) 19時56分

えびすこさん、こんばんは~

当時は高い建物が少ないので、やはり落雷の被害が多かったんじゃないでしょうか?

投稿: 茶々 | 2010年6月16日 (水) 00時04分

やぶひびさん、こんばんは~

まだ、「伊勢戦国村」と呼ばれていた頃に行った事があります。
今は、名前が変わってるんですね~
懐かしいです~

投稿: 茶々 | 2010年6月16日 (水) 00時06分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 安土城・炎上:

« 蘇我入鹿の暗殺劇~孝徳天皇・首謀説 | トップページ | 大河ドラマ「龍馬伝」~考えがコロコロ変わる龍馬って »