明智光秀と細川幽斎~二人の別れ道
天正十年(1582年)6月9日、去る2日に本能寺の変を起した明智光秀が、細川幽斎宛てに、最後の書状をしたためました。
・・・・・・・・・・
その内容は・・・(注:私的解釈入ってます)
- 君ら親子が頭丸めたって聞いて、ちょっと腹たったけど、落ち着いて考えたら当然かも知れん。
けど、この後は、ええ家臣をこっちに来さして協力してくれへんかな。 - 領国については、こっちでは摂津(せっつ・大阪府北部と兵庫県南東部)がええと思て、君らが来るのを待ってたんやけど、但馬(たじま・兵庫県北部)や若狭(わかさ・京都府北部)がええねんやったら、それでもOKやし、なんやったら、もっと言うてくれたら考えるし・・・
- ボクが今回の「不慮之儀(本能寺の変)」を起したんは、ひとえに忠興君らを取り立ててやりたいと思たからで、それ以外に他意はないねん。
50日か100日のうちには、畿内を平定するつもりやよって、それ以降は、十五郎(光慶=光秀の息子)や与一郎(忠興)らに引き継いでもろて、俺は引退しようと思てんねん。
・・・てな事なのですが・・・
私は、これまで、このブログで、度々、この本能寺の変が、明智光秀の計画的な天下取りではなく、突発的かつ衝動的な物で、そこに「天下を取ろう」なんて気持ちはまったくなかったのでは?・・・と書いてきましたが、その根拠となるのが、まず、織田信長のいる本能寺と長男・信忠のいる妙覚寺を同時に攻撃しなかった事と、そして、もう一つが、この手紙です。
すでに、変から一週間経ってるんですよ!
なのに、未だにこんな事言ってる・・・
しかも、出した相手は細川幽斎(藤孝)・・・
名だたる家臣が居並ぶ中、織田コーポレーションに途中入社で入ったにも関わらず、先に入社していた誰よりも出世が早かった光秀にとって、一番に頼れる相手は、織田に来る前からの知り合いだった幽斎だったはずなのですから・・・
そもそもは、あの松永久秀と三好三人衆による第13代室町幕府将軍・足利義輝(よしてる)の暗殺(5月19日参照>>)・・・
この時、将軍に仕えていた幽斎(当時は藤孝)は、たまたま非番だった事で難を逃れ、奈良の興福寺に幽閉されていた義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)を救い出し、朝倉義景(よしかげ)を頼って、越前(福井県)へと逃れます。
久秀や三好三人衆の力の及ばない北陸の朝倉氏や、越後(新潟県)の上杉謙信の力を借りて、久秀らが擁立した第14代将軍・足利義栄(よしひで)を廃して、救い出した覚慶を将軍に・・・というのが、幽斎の構想です。
しかし、義景は、覚慶改め義昭を奉じて上洛しようなんて気配はまったくなく(9月24日参照>>)、謙信は謙信で、毎度毎度の戦いにあけくれまくり・・・
そんな幽斎に声をかけたのが、当時、義景に仕えていた光秀でした。
「ボクの親戚のコの結婚相手が力になってくれるかも・・・
ボク、その人に、“俺んとこへ来いや”ってメッチャ誘われてんねん」
まぁ、光秀の前半世が謎なので(10月13日参照>>)アレですが、一応、光秀は美濃(岐阜県)を治めていた土岐(とき)氏の出身で、斉藤道三の娘であった濃姫とは姻戚関係・・・幼い頃からの知り合いだったとも言われています。
ご存知のように、その濃姫は、信長の正室ですから・・・(2月24日参照>>)
こうして、二人はともに信長に近づき、永禄十一年(1568年)には、信長が義昭を奉じて上洛(9月7日参照>>)・・・かの久秀はいち早く信長傘下となり、三好三人衆は追い払われ、第15代将軍・足利義昭の誕生となるわけです。
この時点での光秀は信長と義昭の両方に属する身分・・・幽斎は将軍の取り次ぎ役となりました。
しかし、信長と義昭の関係が徐々に悪くなると(1月23日参照>>)、光秀はさっさと義昭に見切りをつけ、信長の傘下へ・・・元亀二年(1571年)には志賀郡を与えられて、坂本城の城主となる大出世を果たします。
一方の幽斎も、義昭配下でありながら信長に情報を流しつつ・・・義昭が挙兵して信長が迎え撃つという決定的亀裂の入った天正元年(1573年)には、そのために上洛する信長を国境にまで出迎えて、信長側である事をアピールします(2月20日参照>>)。
翌年には、光秀の娘・玉(後に洗礼を受けてガラシャ)と、幽斎の息子・忠興(ただおき)が結婚し、お互い新郎新婦の父&義父となります。
こうして信長の配下となった幽斎は天正八年(1580年)には、丹後(京都府北部)12万石を与えられ、光秀の与力となります。
んん?
光秀の与力??
ひょっとしたら、幽斎には、ここが引っかかっていたのかも知れません。
ただし、与力というのは、光秀の指揮下にありますが、配下ではありません。
つまり、二人はともに織田コーポレーションの社員で社長は信長・・・光秀は滋賀支店の支社長で、幽斎は北京都の支社長。
しかし、事が起これば、隣接地域は一つになって行動するわけで、北近畿グループを任されている光秀の指揮下に入るという事です。
確かに、臣下ではないですが、幽斎の細川家はかなりの名門・・・出自のわからない光秀の指揮下に置かれる事に、ひょっとしたら、わだかまりがあったかも知れません。
現に、将軍家では、完全に幽斎のほうが格上だったわけですし・・・
同じ時期に信長に会い、同じ時期に義昭を見限って姻戚関係を結んだ二人・・・しかし、光秀から見ると、この世に二人といない同志だと感じていた幽斎も、幽斎から見れば、恩を感じるのは上司の信長であって、同僚の光秀ではなかったのかも知れません。
かくして、光秀の本能寺を知った幽斎は、すぐさま、息子とともにマゲを落として隠居・・・嫁のお玉を丹後三戸野(みどの・京丹後市弥栄町)に幽閉し、大坂にいる信長の三男・神戸信孝に手紙を送り「僕ら、光秀とは無関係ですねん!」と主張します。
もちろん、光秀の再三の誘いもシカト・・・。
そんな幽斎の態度に、最後の望みとばかりに光秀がしたためたのが、冒頭の覚書です。
「望みどおりの領地を与える」
「安定したら隠居する」
そこには、もはや天下の野心のカケラもありません。
結局、この幽斎どころか、手取り足取り大名のイロハを教えてやった筒井順慶さえ光秀に味方になる事はなく(6月11日参照>>)、6月13日の山崎の合戦を迎える事になるのです。
●山崎の合戦は6月13日のページへ>>
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コメント
ここで細川が参戦しなかった事が、現在まで存続している要因ですね。後に細川は親徳川にシフトしますが、その時にも理由があるんですね。「信長配下」の経験者で織田信長⇒豊臣秀吉⇒徳川家康の3人に仕えた家は、他には山内家や前田家や森家くらいですね。
投稿: えびすこ | 2010年6月 9日 (水) 13時12分
えびすこさん、こんにちは~
総理大臣まで出てますからね~
悲願の天下統一ってトコでしょうか。
投稿: 茶々 | 2010年6月 9日 (水) 14時05分
エ~ン、茶々様~昨日から必死に考えてますけどさっぱりわかりません。(信長暗殺の動機、その背景)本人にぜひ聞いてみたいです。‘なんであんなことしたの?誰にも言わないからさ・・・’邪馬台国がどこにあったかや、竜馬が誰に暗殺されたかより、日本史の中で一番気になってます。目下その他の線で思案中です。これからも光秀さんネタ楽しみにしています。
投稿: Hiromin | 2010年6月 9日 (水) 14時51分
Hirominさん、こんにちは~
ホントですね~
光秀さんに聞いてみたい!
確かに龍馬暗殺は犯人も特定されてませんが、不貞浪士の龍馬は、それだけで狙われる要因があるわけで、後々龍馬が大人気となるので「謎」とされますが、攘夷・左幕の嵐の中では、犯人が特定されない暗殺はいくつもありますからね。
その点、こっちは犯人が特定されてるわりには、そんな事件を起すはずの無い人物だけに、よけいに謎です。
変の直後に光秀に会った公家の日記が、後に天下を取った秀吉の手で、その部分だけ抹消されたように、何か、重要な事が抹消されているのかも知れませんね。
あ~出てきてほしい…その部分
投稿: 茶々 | 2010年6月 9日 (水) 15時16分
>※欄茶々様:公家の日記が、~その部分だけ抹消されたように、
?????????????????????????
他人の日記に手を加えた?
可能なのでしょうか?
いつ何処で日記を知ったのでしょうか?
公開されたと言うことでしょうか?
何故に公開したのでしょうか?
?????????????????????????
?が頭の中で、ぐるぐる回っています。
投稿: ことかね | 2010年6月11日 (金) 13時28分
ことかねさん、こんにちは~
私も、実物は見てないので、あくまで話として聞いてるだけなんですが、本能寺後の6月7日に、安土城にいた光秀のもとに、吉田兼見という公家が勅使として派遣されて、なにやら話したらしいんですが、この人の日記の天正十年の物が、6月12日部分まで2種類現存してるらしいです。
…で、13日分からは1種類。
ただ、現実には、「それが存在している」という事実しかない状態ですので、天下を取った後の秀吉が書き換えさせたのか、公家が、あらかじめ、どっちが勝っても良いように2種類作成していたのかは不明のようです。
先日の、本能寺前夜のページにも、別のお公家さんの日記の事を書きましたが、ある一部分だけ別に見つかる(ひょっとして隠した?)ってな事があるみたいで、今後の発見に期待したいですね。
投稿: 茶々 | 2010年6月11日 (金) 13時51分
いつもご丁寧にお答えいただきまして、
ありがとうございます。
さすが茶々様、博識でいらっしゃいますね。
勉強になります。
早速、『吉田兼見』をググって見たところ、
在りました『兼見卿記』。
(正本)と(別本)の違いは、とても興味深いですね。
概ね、(別本)⇒(正本)へと、改変されているようですが、
本能寺の変について、(正本)では放火としか書かれていないようで、とても不思議です。
改変する必要があったのでしょうか?
それとも(正本)⇒(別本)が正しいのでしょうか?
はたまた別の思惑が?
妄想のネタは尽きませんね。
投稿: ことかね | 2010年6月12日 (土) 17時48分
ことかねさん、お返事ありがとうございます。
そうですね、今後は、何のために2種類…てのが興味のあるところです。
ひょっとして、もう一つ、ホントにホントの事を書いたナイショの日記があったりして…
妄想はつきませんね。
投稿: 茶々 | 2010年6月12日 (土) 22時48分
新年明けましておめでとうございます。今年は、明智光秀に関するコメントから始めたいと思いますが、本能寺の変を引き起こした後の光秀は、細川幽斎(剃髪前は、藤孝)&忠興親子に、味方になってほしいと依頼をしてきたわけですが、幽斎&忠興親子としては、織田信長に対する忠義心が強かったのか、それとも、謀反をした行為を悪と断じたのか、完全に味方しないことを宣言したことで、光秀は、幽斎&忠興親子からは、裏切られるだけ裏切られ、見捨てられるだけ見捨てられました。光秀と幽斎は、2人とも優秀な能力を持った武将ですが、2人の違いは、信長に対する考え方や接し方の違いかもしれませんね。おそらく光秀は、幽斎&忠興親子や、最終的には日和見を決め込んだ筒井順慶に対して、怒りと憎しみが沸き上がっても不思議ではないと思います。幽斎&忠興親子や順慶が英断を下したことで、光秀は、本当の転落人生を味わうようになってしまったのではないでしょうか。
投稿: トト | 2016年1月 3日 (日) 18時59分
トトさん、明けましておめでとうございますm(_ _)m
そこも謎の一つですよね~
光秀ともあろう人が、細川父子の動向を考えないで謀反に踏み切るとは、とても思えないので…
投稿: 茶々 | 2016年1月 4日 (月) 03時37分
明智光秀と細川幽斎(剃髪前は、藤孝)の2人に関する追記となりますが、吉田兼見という人物をご存知でしょうか? その人物は、京都府のどこかにある吉田神社という神社の神官で、光秀と幽斎とは、かなり親密な交際があったそうで、本能寺の変の後に、朝廷では光秀との折衝に、兼見をあてているようです。しかし、山崎の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、光秀を倒したことで、兼見としては、光秀と親しかったことが、今度は逆に、自分の身の危険につながると感じてしまい、兼見自身の日記から、光秀との親しい交流を示す記事をカットしました。なお、日記の内容の中に、安土城で光秀が兼見に「謀反の存分」を語ったとされる記事があったらしく、それをカットすることで、身の安全を確保することに成功しました。おそらく兼見は、秀吉を敵に回せば、確実に殺されると思ったのでしょう。そのおかげで、長生きしたそうです。兼見は、したたかなまでに、知恵に優れた人物ではないかと思いました。
投稿: トト | 2016年4月 8日 (金) 08時36分
トトさん、こんにちは~
吉田兼見の『兼見卿記』については、トトさんのコメントの5つ上に、ことかねさんへのお返事として書いております。
コメント欄には、本文の補足のような事を書いている場合もありますので、また読んでいただけると、ありがたいです。
あと、現段階の最新ページ>>では、信長から兼見宛ての黒印状から話を展開していますので、コチラ>>もヨロシクですm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2016年4月 8日 (金) 18時13分