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2010年7月30日 (金)

真夏の夜の怪談話2~会津若松・新町化物屋敷

 

本日も「真夏の夜の怪談話」と参りましょう。

昨日は、有名な「播州皿屋敷」(昨日のページを見る>>)をご紹介させていただきましたので、本日は、少しマイナーはお話・・・だけど、好きなお話をご紹介させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

加藤嘉明(よしあき)が鶴ヶ城の城主だった慶長の時代・・・城の西方の新町という所に、あるお屋敷がありました。

その屋敷の主人は、歌が大好きで、同好の友を誘っては、自宅で連歌会を催しておりました。

ある時、その連歌会に出席した近くの寺の小僧が・・・

♪今宵の月は 空にこそあれ♪

と詠んだところ、周囲からはたいへんな酷評・・・

「月は今宵でなくとも空にあるだろうが!」
とか、
「お前、月が地べたにあるのを見た事あんのかよ!」
と、散々にからかわれてしまいます。

小僧は、恥ずかしさのあまり、その場から逃げるようにして寺と戻り、恥をかかされたという怒りをそのままに、首を吊って死んでしまったのです。

その夜からです。

新町のそのお屋敷には、どこからともなく、小僧の声が聞こえてくるのです。

♪今宵の月は 空にこそあれ~♪

と、句を詠んだかと思うと、一瞬の間をおいて、
「わ~~っ!」
という、泣き声とも叫び声とも聞こえる大きな声が響きわたる・・・

それが、一晩中、しかも、毎夜毎夜なのですから、主人はたまったもんじゃありません。

恐怖におののいた主人は、霊験あらたかな修験者を呼んで祈祷してもらいますが、それでも、不気味な声は止みません。

さらに、その夜、同席していた皆とともに、小僧のお墓参りにも行き、当日の大人気ない振る舞いを、心から詫びたりもしましたが、やっぱりダメ・・・。

結局、主人一家は、その家を手放し、どこへともなく引っ越して行ったのです。

空き屋になったその家は、いつしか「新町化物屋敷(しんまちばけものやしき)と呼ばれるようになります。

それから、どれくらいの年月が経ったでしょうか・・・

ある、ひとりの侍が、その家に入居する事になりました。

もちろん、その家のウワサを知っての事です。

いや、むしろ、その声だけの幽霊の出現を待っていた・・・そんな豪快な心の持ち主だったのです。

かくして、入居当日の夜・・・
庭に面した部屋に陣取り、その時を待つ侍・・・

夜半過ぎから小雨が降り、風もそよそよと・・・
庭の笹の葉が、その風に揺れてザワザワと・・・
絶好のシチュエーションとあいなりました。

・・・と、そこへ、庭のほうから、寂しげな声・・・

♪今宵の月は 空にこそあれ~♪

・・・と、侍は、その歌を聞いたが早いか、小僧が「わ~~」声を発するよりも早く、庭に面した障子戸を開け放つと・・・

すかさず、
♪影うつす 水は氷に とぢられて♪
と、下の句を詠んだのです。

月影を映すべき水面が、氷に閉ざされている冬なら、月は、ただただ空に掛かるしかない・・・と、見事に、アノ夜、愚作と言われた小僧の上の句を生かしてくれたのです。

もはや、小僧が「わ~~~」と叫ぶ事はありませんでした。

「新町化物屋敷」の幽霊は、新しいご主人のもと、成仏したのでした。

・‥…━━━☆

いいですね~。

見事、解決!

呪われた側が幽霊にとり殺されたり、あるいは、今回のような豪傑が登場しても、ただ、有無を言わさず化物を退治してしまう・・・

そんな感じの結末が多い怪談話の中で、これは、見事なまでにスッキリさせてくれます。

なんとなく、「怖い」というよりは「良かったね」と言いたくなるような、心和む感じの怪談でした。
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2010年7月29日 (木)

真夏の夜の怪談話~播州皿屋敷

 

昨日の大阪は、少々曇り気味のおかげで、あのカンカンした日差しは無かったものの、相変わらずの暑さ・・・

毎日、寝苦しい夜が続いております・・・って事で、
寝苦しい夜のお供と言えば、背筋も凍る怪談話・・・

お盆にはちょっぴり早いですが・・・お馴染みの「播州皿屋敷」と参りましょう!

・‥…━━━☆

頃は永正元年(1504年)頃・・・播州(ばんしゅう・兵庫県西部=播磨)姫路城の城主が未だ18歳の小寺則職(こでらのりもと)の時代、家老の青山鉄山(あおやまてつざん)謀反をくわだてます。

もちろん、謀反なので、その行動は水面下で行なわれていたわけですが、それを嗅ぎつけたのが、青山家の女中・お菊・・・

慌てて、恋人の衣笠元信(きぬがさもとのぶ)に知らせます。

この元信は、誰もが知る播州きっての忠臣・・・早速、藩主・則職を密かに脱出させ、事なきを得ました。

しかし、この時点では、まだ、謀反が表面化したわけではありませんから、その後の鉄山の動向を探るためにも、お菊はそのまま青山家に戻り、再び、何食わぬ顔で女中としての毎日を送っていました。

しかし、ついにお菊の一連の行動が、町坪弾四郎(ちょうのつぼだんしろう)という人物にバレてしまいます。

前々から、お菊の美しさに魅了されていた弾四郎は、そのスパイ行為をネタに、お菊に結婚を迫ります。

もちろん、はなから元信という恋人がいるお菊が、そんな結婚を承諾するわけがありません。

腹を立てた弾四郎は、お菊が管理している青山家の家宝の皿・・・10枚セットのうちの1枚を隠してしまいます。

驚いたのは、お菊です。
大事な家宝の皿・・・最近は触った事もないはずなのに、いつの間にやら、1枚足りない・・・
「こんな事、ご主人様に知られたら、お手打ちになってもしかたがないワ、どうしょましょう」

そこへ弾四郎・・・
「俺の言う事、聞くんやったら、皿を見つけたるで~」

「ハハ~ン
そんなもん、誰だって気づきます。

しかし、そうなると、意地でも言う通りになんてなるもんか!と思うものです。

言う事を聞かないお菊に、怒り狂った弾四郎は、彼女に襲いかかり、引きずり出して城内の松の木に吊るし、拷問の末に殺害・・・遺体を、近くの井戸に投げ捨てました。

Hokusaisarayasiki600 それからというもの・・・
姫路城内のとある井戸から、毎夜毎夜、悲しげな女の声が聞こえるようになったのです。

「1枚、2枚、3枚・・・・」
9枚まで数えると、その声はピシャリととまり、ガシャーンと、皿らしき物が割れる音が城内に響きわたります。

そしてまた、
「1枚、2枚、3枚・・・・」
と、くりかえされますが、何度くりかえしても、その数が10枚になる事はありませんでした。

さらに、毎年、お菊が殺された梅雨の頃になると、彼女が吊るされたあの松が、枯れたような茶色い色に変色し、人々は「梅雨松(ばいうのまつ)と呼んで恐れたと言います。

そして、寛政七年(1795年)には、後ろ手に縛られたように見える「お菊虫」が、姫路城下で大量発生したのだとか・・・

・‥…━━━☆

・・・と、伝説はここまでですが・・・
そんな伝説が、更なる伝説を呼んで、いつしか、このお菊の物語は、「番町皿屋敷」と題したお芝居となり、江戸の人々の涙を誘うと同時に、興行としても大成功・・・全国ネットの人気怪談話なるのです。

現在の姫路城にも、「お菊井戸」と呼ばれる井戸がありますが、全国的にも、この皿屋敷伝説の残る井戸は48箇所もあります。

Himeziokikuido800
姫路城内のお菊井戸

また、「お菊虫」と呼ばれた虫も、ジャコウアゲハのサナギであろうという事・・・

さらに、この「お菊井戸」と呼ばれる井戸は、実は、城主の住居である備前丸から通じる、まさかの時のための抜け穴の出口であり、その秘密を守るため、人が近づかないように、恐ろしい噂を流した・・・なんていう、別の伝説も存在します。

・・・とは言え、多くの人が、この恐怖の伝説を信じ、哀れなお菊に成仏してもらおうと「於菊大明神」として、現在もいくつかの神社の境内に祀られています。

まぁ、私個人的には、上方落語にある、このお話をモチーフにした「オモシロイ皿屋敷」のお話が大好きで、「播州皿屋敷」「番町皿屋敷」も、あまり怖いとは思わない怪談なんですが・・・

そもそも伝説という物は、それが真実かどうかという事よりも、今なお語り継がれている事にこそ意義があり、これからも、語り継いでいきたい歴史の1ページではあります。

*「オモシロイ皿屋敷」のくわしい内容は、上方落語のHP=「世紀末亭」さんの【皿屋敷・春団治】で>>(別窓で開きます)
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2010年7月28日 (水)

アンケート企画:あなたが思う戦国の幕開けとは?

 

ちょっと気分を変えて、本日はアンケート企画といきましょう!

お題は、ズバリ!

「あなたが思う戦国の幕開けは?」

はっきり言って、正解となる答えはありません。

人それぞれ、好きな武将や重きを置く出来事によって、様々な解釈ができるものですので、さぞかし、イロイロな意見が聞けるのではないかと、前々から考えていたお題でした。

関連するページとともに、一応、私が思う選択技をいくつか出しておきますので、「これだ!」と思うところに一票を・・・ではでは

  1. 正長元年(1428年)=正長の土一揆>>
    ちょっと年代的に早すぎる気もしないではありませんが、何たって一揆ですぜ!
    一般庶民の鎮圧に管領が出て行かなきゃならない時点で、世の中乱れまくり!
      畠山満家>土民
  2. 永享十一年(1439年)=永享の乱>>
    まだまだ年代が早いですが、鎌倉公方が将軍に叛旗をひるがえすという事件は、やはり無視しがたい気がしましたので…
      将軍・足利義教>鎌倉公方・足利持氏
  3. 嘉吉元年(1441年)=嘉吉の乱>>
    規模は小さいけれど、一武将が将軍を暗殺しちゃう時点で、アカンでしょう・・・やっぱ選択技の一つに入れとかねば
      将軍・足利義教<赤松満祐
  4. 応仁元年(1467年)=応仁の乱>>
    やっぱ、外せない天下分け目の大乱・・・東軍・細川勝元と、西軍・山名宗全(持豊)に群がる全国の武将たちによって京都は焦土と化す
      東軍VS西軍
  5. 文明十七年(1485年)=山城の国一揆>>
    大乗院尋尊「下克上の至り」と言わせた山城の国一揆・・・「下克上」は、戦国の代名詞とも言えるキーワードだし、なんたって鎮圧された正長の土一揆と違って、短いとは言え、自治を勝ち取ってますから・・・
      畠山氏<国人+農民
  6. 長享二年(1488年)=加賀一向一揆>>
    守護の富樫政親を自刃に追い込み、以後100年の長きに渡って「百姓の持ちたる国」を造り上げた本願寺門徒の加賀一向一揆・・・まぁ、結局は、武将との絡みもあるものの、やっぱコレでしょう!
      富樫政親<一揆衆
  7. 延徳三年(1491年)もしくは
    明応二年(1493年)=伊豆討ち入り>>
    なんだかんだで堀越公方は、幕府から正式に任命されてる支配者・・・それを、彗星のごとく現れた大名ですらない一武将が滅ぼしちゃったら、そりゃ、あ~た、戦国でっせ!
      足利茶々丸<北条早雲
  8. 明応二年(1493年)=明応の政変>>
    そりゃ確かに応仁の乱は、全国の武将を巻き込んだ大乱ですが、なんだかんだで、将軍・足利義政の権力は健在・・・その点、クーデターを起して、将軍を自分の意のままになる人物に変えちゃった政元は…そのニックネームも乱世の梟雄だし
      足利義稙<細川政元
  9. 元正三年(1507年)=長尾為景が上杉房能を討つ>>
    守護代が守護を討つ・・・副社長が社長をクビに!この先、全国各地で出現する主家にとってかわる戦国武将…戦国の定番下克上がここに!
      上杉房能<長尾為景 
    もちろん
  10. その他
    も選択技の一つです。
    「コレ、忘れてるんじゃない?」
    てのがあれば、その他のコメントにてお知らせください

以上・・・
古河公方と関東管領を壊滅に追い込む天文十五年(1546年)の河越夜戦>>なんかも頭に浮かんだんですが、その時代まで言い出すと、もう幕開けじゃなくなってくる気がして、上記の10項目でまとめてみました。

投票時、それぞれの回答におもしろいコメントも付け加えれくだされば、さらに楽しいアンケートとなりますので、どうぞ皆様よろしく願いします。

追記:
勝手ながら、この投票は8月10日に締め切らせていただきましたo(_ _)oペコッ

投票結果&いただいたコメントは8月18日のページでどうぞ>>
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いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

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2010年7月27日 (火)

いよいよ「龍馬伝」に登場する中岡慎太郎と陸援隊

 

慶応三年(1867年)7月27日、中岡慎太郎を隊長とする土佐藩の独立部隊・陸援隊が発足しました。

・・・・・・・・・・

大河ドラマ「龍馬伝」で、長い長い沈黙から開放され、やっとこさ、来週、登場する事になる中岡慎太郎・・・

ドラマでは、すでに今週の坂本龍馬が、ケンカの仲裁のような形で、薩摩(鹿児島県)西郷隆盛長州(山口県)高杉晋作に会い、なにやら薩長同盟とおぼしき話を持ちかけている一方で、来週の予告の中での慎太郎は「それなら協力しちゃる」的なセリフを発していたように思います。

先日いただいたコメントの返信としても書かせていただきましたが、この、完全に龍馬主動で行われる感じは、ドラマとは言え、さそかし中岡ファンは、はがゆい思いをしておられるものと思います。

未だ、近代史は勉強中の私ですが、そんな未熟な私でも、実際の薩長同盟は、この逆・・・慎太郎主動で、そこに協力するのが龍馬という印象です。

Nakaokasintarou140 土佐(高知県)東部の山奥の寒村で、庄屋の長男として生まれた慎太郎は、幼い頃から神童と噂される秀才で、通っていた隣村の塾では、わずか14歳で、師匠に代わって講義を行なっていたと言います。

やがて、尊攘思想家・間崎哲馬(まざきてつま・滄浪)の塾で学びはじめた頃、日本は、長い鎖国を解き放ち、いよいよ幕末と呼ばれる時代へ突入します。

さらに、17歳で出会った武市半平太(たけちはんぺいた・瑞山)(5月11日参照>>)に感銘し、高知城下に出て、半平太の道場へと通いながら、兵学や砲術も学びました。

慎太郎が龍馬と出会ったのも、この半平太の道場でした。

しかし、ここで、父が病に倒れたため、一旦、慎太郎は郷里に戻り、庄屋見習いとして政務に励む日々を送るのですが、「志は捨ててないよ」と、その篤い胸の内を友人に語っていたと言います。

やがて、起こった桜田門外の変(3月3日参照>>)・・・井伊直弼(いいなおすけ)尊攘派の志士たちによって暗殺されたこの事件が、再び、慎太郎の篤い心を蘇らせたのです。

翌・文久元年(1861年)に半平太が結成した土佐勤皇党へ、早速、入党・・・半平太に負けず劣らずの「目的のためには手段を選ばず」姿勢で頭角を現します。

この同じ年、先代藩主・山内容堂(やまうちようどう)(6月21日参照>>)を警護するために自主的に結成された五十人組伍長として、江戸にて、容堂公への謁見も許されていのですから、その頭角の現しぶりもハンパじゃありません。

しかも、その後、「あの知識人を土佐に連れて来い」という容堂の密命を受けて、佐久間象山(さくましょうざん)(7月11日参照>>)会いにも行っています。

そして、この一件が、慎太郎を大きく変えます。

この時、長州藩の久坂玄瑞(くさかげんずい)とともに象山宅を訪問した慎太郎に対し、象山は、手元に集めた最新兵器を見せながら、西洋の軍事力について語り、開国の必要性をまくしたて、とてもじゃないが、慎太郎や玄瑞がたちうちできるような雰囲気ではない博学ぶりを見せつけます。

結局、象山を土佐へ呼ぶ事ができなかった慎太郎でしたが、この帰り道、玄瑞と二人で「今日は参ったね」「完全にヤラれちゃったね」意気投合・・・この後、最後まで離れない長州とのきずなが生まれたのです。

しかも、この象山の話は、慎太郎に強烈なインパクトを与えてもいました。

これまでの、ただ外国を排除すれば良いという単純な攘夷ではなく、開国して富国強兵してはじめて、外国の影響を受けずに独立するという真の攘夷・・・開国攘夷に目覚めたのです。

その後、しばらくは、郷里で再び仕事に励む慎太郎でしたが、そこに飛び込んで来たのが、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)のニュースです。

御所からはじき出された尊攘派の公卿・7名が、玄瑞らに伴われて三田尻(みたじり・山口県防府市)まで落ち延びたと・・・

くわしい事が知りたくてたまらない慎太郎は、「ちょっと城下へ行ってくる」とウソをついて郷里を脱出・・・一路、長州へと向かい、無事に長州の保護を受けている三条実美(さんじょうさねとみ)らと面会するとともに、高杉晋作ら、長州藩士とも大いに語り合いますが、なんせウソついて出てきてるので、長居はできず、わずか3日で帰宅・・・

ところが、その間に土佐ではトンデモない事が!

中央ではじかれた攘夷派は、ここ土佐でも弾圧の対象に・・・そう、半平太をはじめ、勤皇党の同志たちが次々と投獄されていたのです。

さらに、自分にも捕縛命令が出ている事を知った慎太郎は、土佐での活動を断念し、脱藩を決意しました。

脱藩した慎太郎が身を寄せる場所は、ただ一つ・・・親愛なる長州です。

政変後に京都に潜伏する長州藩士らとの交流も持っていた慎太郎でしたが、池田屋事件(6月5日参照>>)の時は、たまたま三田尻に戻っていたので助かりました。

その後に起こった禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)では、故郷の父に遺書まで残して、自ら参戦・・・仲良しの玄瑞や、来島又兵衛(きじままたべえ)が戦死する中、彼も、足を鉄砲で撃ちぬかれる重傷・・・命からがら長州へと戻りますが、その翌月には四国艦隊の砲撃受けまくりの下関へと(8月8日参照>>)休むヒマなく動き回ります

その2ヵ月後の11月・・・慎太郎にターニングポイントが訪れようとしていました。

政界を追われた公卿たちに会いに、下関へとやってきた福岡藩士・早川勇(いさむ)が、あろう事か、「薩摩と手を組んだら?」と提案したのです。

あろう事か・・・というのは、あの禁門の変・・・はっきり言って、長州は薩摩にヤラれたようなもんです。

長州藩士の中には、下駄や草履に薩摩の名を書いて、踏みつけていた者がいたくらい憎む気持ちが強かった相手でした。

しかし、翌12月、「西郷に、長州に保護されている公卿を救う気がある」との噂を耳にした慎太郎・・・なんと、先の早川とともに小倉を訪れ、そこで、西郷と会見するのです。

もしもの場合は、西郷を殺す覚悟で会見にのぞんだ慎太郎でしたが、そこで聞いたのは「長州をサポートする気がある」という西郷の答えでした。

西郷の度量の大きさに、一発で「西郷さん!大好き」になった慎太郎・・・こうなったら、問題は、薩摩を憎む長州藩士の説得・・・

翌・元治二年(慶応元年・1865年)に入ってからは、その薩長の仲介のために、なおいっそう精力的に動き回る慎太郎(8月6日参照>>)・・・このあたりで、それに賛同した龍馬が加わり慶応二年(1866年)1月21日の薩長同盟成立(1月21日参照>>)とあいなるわけです。

薩摩と長州が手を結べば、怒涛のごとく盛り上がるのは倒幕への思い・・・

4月に龍馬が海援隊(かいえんたい)を組織した3ヵ月後の慶応三年(1867年)7月27日慎太郎を隊長に据えた土佐藩独立部隊・陸援隊(りくえんたい)が誕生したのです。

尊王攘夷の思想を持つ脱藩浪士らを中心に、70名以上の隊士がいたとされる陸援隊・・・

一方の龍馬が、意気投合した後藤象二郎(しょうじろう)とともに練り上げた「船中八策(せんちゅはっさく)(6月22日参照>>)を土台に、幕府生き残りの新時代を模索した感がある中、慎太郎の陸援隊は、完全に倒幕のための組織でした。

そのため、隊士たちは、様式軍学者の鈴木武五郎から、いつでも自由自在に動けるよう、軍事クーデターをを想定した実戦さながらの訓練を受けていたと言います。

もちろん、慎太郎も武力倒幕なしでの新時代は考えられないという人でした。

そこのところが、平和大好き=大河ドラマとしては、中岡慎太郎を主役にはできないというところなのでしょうが、こうして見ると、なにやら、龍馬より前の・・・最前線の位置に、いつも慎太郎が立っているような印象です。

残念ながら、ご存知のように、陸援隊が実戦にかりだされる前に、慎太郎は、龍馬とともにいるところを暗殺されてしまいますので、実際に、陸援隊の隊長として、彼が活動する事はありませんでした。
*暗殺については、本家HP【坂本龍馬暗殺犯を推理する】でどうぞ>>(別窓で開きます)

慎太郎亡き後の陸援隊は、土佐藩の谷干城(たにたてき)らの指導のもと、それぞれの隊に改編され、対幕府戦の一翼を荷う形となります。

・・・と、それぞれの出来事のくわしい経緯は、いずれ、その出来事に関連した日づけで、新たに書かせていただくつもりで、本日は、かなりはしょって駆け足で、ご紹介した感じになってしまいまいましたが、次回の「龍馬伝」から登場する中岡慎太郎への予備知識として、心の隅っこに置いていただければ幸いです。

果たしてどんな風に描かれるのか???
楽しみです。
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2010年7月26日 (月)

まさに最初の加賀一向一揆~文明一揆

 

文明六年(1474年)7月26日、加賀に最初の一向一揆=文明一揆が勃発しました。

・・・・・・・・・・・

ご存知のように、最終的に長享二年(1488年)に約20万人の本願寺門徒が集結し、加賀(石川県南部)の守護・富樫政親(とがしまさちか)自刃に追い込み、その後、織田信長配下の柴田勝家に攻め込まれるまで、約100年の長きに渡って本願寺の王国となった加賀一向一揆・・・(6月9日参照>>)

政親の高尾城を攻めたその一揆の事を、年号から長享一揆(ちょうきょういっき)、もしくは高尾城の戦いと呼びますが、本日は、その十四年前に勃発した文明一揆・・・

百姓一揆、あるいは、本願寺門徒による宗教一揆の印象がある加賀一向一揆ですが、実は、それは門徒だけではなく、武士団や地元国人衆が絡み合う複雑な人間関係が形成されての勃発だったのです。

・‥…━━━☆

そもそもは、応仁元年(1467年)に勃発した天下分け目の応仁の乱・・・(5月28日参照>>)

加賀の守護であった富樫政親は、この乱に東軍として参戦します。

かたや、弟の富樫幸千代(とがしこうちよ)は、西軍として参戦します。

そう、実は、すでに富樫氏では、兄と弟による内紛が勃発していたのです。

しかし、その途中で、同じ東軍に参加している播磨(兵庫県南西部)赤松政則(あかまつまさのり)の援助を受けた政親は、加賀の北半分に勢力を持っていた幸千代一派を追い出してしまいます。

こうして、一時期の加賀は、北半分を赤松氏が、南半分を政親が制圧していたわけですが、政則が本拠地に帰還しているすきに、幸千代一派が盛り返し、再び、北加賀を手中に治めます。

・・・というのも、この加賀に近い位置にある能登(石川県北部)守護畠山義統(はたけやまよしむね)や、越前(福井県)守護斯波義廉(しばよしかど)と、その配下の甲斐氏朝倉氏など、近くの有力武将が皆、西軍についていたため、この時期は、西軍にくみする幸千代一派が、かなり優勢だったのです。

ところが、文明三年(1471年)、その有力武将の中の1人=朝倉孝景(たかかげ・敏景)東軍に寝返ったのです。

これをチャンス!とみた政親は、京都の戦場をほっぽり出して加賀へと戻り、幸千代の勢力圏内へと攻撃を仕掛けます。

一方、お隣の越前では、その寝返った孝景と、もともと西軍の甲斐八郎が交戦中・・・勢いのある朝倉に敗れた甲斐氏の逃亡者が大量に加賀へと逃げ込み、幸千代一派へと合流します。

思わぬ援軍を得た形になった幸千代派は、一気に形勢逆転し、南加賀まで制圧・・・政親のほうが加賀を追い出され、朝倉の越前へと逃げ込む事になってしまいました。

・・・と、北陸一帯で武将たちがゴタゴタやってる文明三年(1471年)7月、比叡山延暦寺から攻撃を受けて京都を追われた本願寺第8代・蓮如(れんにょ)が、越前の吉崎坊舎を建立しました(7月27日参照>>)

吉崎御坊(ごぼう)と呼ばれたここは、カリスマ教祖がおわすおかげで、一躍、宗徒たちの聖地となり、続々と信者が集まってくるようになったのです。

その膨大な人数に目をつけたのが地元の侍たち・・・

新参者として、彼らを敵視するのではなく、自らも信者になって、彼らを味方につけようと考えたのです。

現に、参拝者用の宿坊を営む多屋(たや)と呼ばれる人々や、一部の過激な信者は、他の宗派を悪とみなし、近隣の神社などに対して、過激な行動に出る事も少なくなかったので、武装兵力としては、かなり期待できます。

地侍たちは、そんな彼らの力を借りて、守護や領主らに反発し、年貢などの諸税を逃れようと、度々の反対行動に出るようになります。

この過激な行動に対して、蓮如は、他宗教を誹謗中傷してはいけない事、守護や領主を尊重する事などを信者に説いてみますが、もはや、彼らの勢いを止める事は難しくなっていました。

Saitoumyoutin500a そんなこんなの文明六年(1474年)6月・・・美濃(岐阜県)の有力武将・斉藤妙椿(みょうちん)が間に入ってくれた事で、朝倉孝景と甲斐八郎の間に和睦が成立・・・ここに、幸千代派は、甲斐氏という強い味方を失ってしまいます。

「よっしゃぁ~~キターーー」
と、チャンス到来を確信するのは、先ほど越前へと逃れていた政親・・・

早速、蓮如以下・本願寺門徒たちに
「君らの教団を支援するから、僕のほうも支援して~~」
と、持ちかけます。

ちょうど、その頃、同じ親鸞(しんらん)の流れを汲みながらも、本願寺とは一線を画す高田(たかだ)門徒と呼ばれる人々が、本願寺と敵対関係になりつつあり、アチラコチラで小競り合いを起していたのですが、この高田門徒とツルんでいたのが幸千代一派・・・そうなると、当然の事ながら、今回の政親の申し出には、本願寺も二つ返事のOKサインです。

かくして文明六年(1474年)7月26日本願寺門徒を味方につけた政親が、弟・幸千代に攻撃を仕掛けたのです。

残念ながら、合戦の詳細についての記録は少なく、どのような戦いだったかはつかめないようなのですが、10月頃には、幸千代が本拠地としていた蓮台寺城(れんだいじじょう・石川県小松市)が落とされた事で、政親側の勝利が確定したようです。

・・・とは言え、本願寺門徒にも2000人以上の戦死者が出たという事なので、一揆というよりは合戦・・・それも、かなりの激戦であった事がうかがえます。

なんせ、先に書いたように、これまで「過激な事はするな」と、信者たちをセーブする立場だった蓮如さん・・・

やがては、
「守護方(幸千代の事)が仏法に敵対し、農民を罰しようとすので、やむなく謀反を起す!」
と、はっきりと、「俺正義」「あっち悪」というのを発表しちゃいましたから、結局は、教祖様も腹をくくって全面協力といった雰囲気でしょうか・・・

こうして、加賀一国を手中に治めた政親・・・
「んん???」

加賀一向一揆って、一揆に攻められて富樫政親が自刃するんじゃなかったでしたっけ???

そうなんです。

ここで、固いキズナで結ばれて、ともに戦った本願寺と政親・・・14年後の長享一揆までには、まだまだ波乱があるわけですが、そのお話は、蓮如が吉崎を退去する事になる8月21日のページでどうぞ>>
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2010年7月24日 (土)

鎌倉版「プロジェクトX」…東大寺復興と運慶

 

建仁三年(1203年)7月24日、仏師・運慶が東大寺金剛力士像の造立を開始しました。

・・・・・・・・・・・・

奈良・東大寺と言えば、あの大仏様ですが、その大仏様に勝るとも劣らないほど有名なのは、南大門の両側におわす、あの金剛力士像・・・それは、仏師と言って真っ先に思いつく運慶(うんけい)の代表作でもありますね。

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東大寺南大門の金剛力士像:
夜の「阿形=あぎょう」(左)と、昼の「吽形=うんぎょう」(右)

高さ8mを越えるこの像は、南大門とともに、鎌倉大復興時代の貴重な遺産です。

天平の東大寺・創建時代の造りに関しては、もはや謎ですが、現在の物は、(ひのき)でできた3000もの部位を集めて一つの像とする寄木造り・・・しかも、運慶とその仲間は、わずか30人ほどの人員にも関わらず、建仁三年(1203年)7月24日のこの日から、わずか69日10月3日完成という短期間で仕上げています。

鎌倉版プロジェクトX・・・そんな仏師・運慶とは???

保元元年(1156年)頃に生まれたとされる運慶は、実は、お父さんも康慶(こうけい)という有名な奈良仏師・・・

ただし、当時の都は京都・・・都には院派(いんぱ)円派(えんぱ)と呼ばれる平安京の宮廷内での仕事を請け負うエリート集団がいて、奈良仏師は、そこから外されたアウトローな仏師集団だったのです。

しかし、それが運慶には幸いしました。

父という立派な師匠のもとで腕を磨きつつ、近くの奈良や飛鳥には、デザインのお手本とも言える古の仏像がいつでも見られる状態・・・しかも、宮廷のおかかえというシバリがないぶん、自由な発想で新しい事にどんどん挑戦できます。

20代になった運慶は、初めて父の手を借りず、たった一人で11ヶ月という月日をかけて円成寺(えんじょうじ・奈良市忍辱山町)大日如来像を制作しました。

今も残る国宝の仏像・・・これが、運慶のデビュー作です。

そして、ここで運慶は、やはり、日本で初めての事をやってのけます。

それは、この完成した仏像にほどこした自らのサイン・・・未だ誰もやった事にないその行為は、見事に仕事を終えた職人の誇りであり、仏師として生きていく人生のスタートの証しでもあったのでしょう。

その後も、父のもとで仏師としての修行に励む運慶でしたが、やがて、治承四年(1180年)、あの平重衡(たいらのしげひら)南都焼き討ち(12月28日参照>>)で、東大寺や興福寺など、奈良の寺院はことごとく消失してしまいます。

早速、翌年から開始された復興事業で、京仏師たちに混じって、父・康慶らをはじめとする奈良仏師たちにも、それぞれの仏像の制作が割り当てられる事になるのですが、そんな仏師たちの中から、康慶・運慶父子が一歩飛び出るきっかけとなるのが、あの源頼朝(みなもとのよりとも)です。

文治元年(1185年)3月の壇ノ浦の戦い(3月24日参照>>)にて、平家を滅亡させた頼朝は、本拠地・鎌倉にて、着々と新政権の樹立する一方で、天下を握った人物の鉄則とも言える、新しい寺院の建立に尽力するのです。・・(ご存知の鎌倉の大仏も頼朝の発案です=3月23日参照>>

とは言え、最初の頼朝のお気に入りは、奈良仏師の直系・成朝(せいちょう)でした。

わざわざ、彼を鎌倉へと呼び寄せ、亡き父・源義朝(みなもとのよしとも)の菩提を弔うために建立した勝長寿院(しょうちょうじゅいん・現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)本尊を造らせています

ところが、いつのほどからか、そのお気に入りが康慶に入れ替わるのです。

そのへんところは、くわしい事がわからず、なんとなく成朝が、こつ然と姿を消した風にも見える不思議ななりゆきとなってますが、おそらくは、康慶が、奈良仏師直系のお家乗っ取りを謀ったか?、あるいは、商売人のような売込みのワザが冴えていたか?・・・

とにかく、その父のおかげで、頼朝のお気に入りとなった康慶一門・・・中でも運慶は、鎌倉の御家人たちの人気を得て、北条時政(頼朝の奥さん=北条政子の父)が建立した伊豆の願成就院(がんじょうじゅいん・静岡県伊豆の国市寺家)に納める複数の仏像を手始めに、頼朝の側近たちの注文を次々とこなしていきました。

そんな中、奈良では、僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が中心となって、引き続き、東大寺の復興事業が行われており、これのスポンサーとなったのが頼朝・・・

天下を握った権力者は、新しい寺院を建立するのも鉄則ですが、戦乱で失われた寺院を復興するのも鉄則・・・それこそ、その権力の見せどころでもあります。

・・・で、そうなると、当然の事ながら、そのプロジェクトには、お金を出すスポンサーの意向が反映されるわけで、この一大プロジェクトにも、お気に入りの康慶一門のご登場となるわけです。

現在の東大寺大仏殿内にある四天王像をはじめとする巨像軍団は、江戸時代に再建された時のものですが、この鎌倉時代での再建時には、あの巨像の制作を、康慶一派が独占して行っています。

この頃、父の康慶が亡くなってしまいますが、息子の運慶だって、もうすでに50代・・・父の後を継いで、立派に仕事をこなすのが、当たり前の年齢ですから、その後も、トップの位置は、守り続けます。

それどころか、娘・如意(にょい)藤原雅長(まさなが)の娘・冷泉局(れいぜいのつぼね)の養子にするなど、貴族とのつながりまで・・・

そんなこんなの建仁三年(1203年)7月24日・・・運慶は、東大寺・南大門の仁王像を造という一大プロジェクトに挑みます。

当時の仏師は、芸術家ではなく、僧侶としてみなされていましたが、運慶は、この仕事の成功とともに、法印(ほういん)という最高位にまで上りつめます。

京の都からはじかれ、苦渋をナメながら技術を磨いた少年が、名実ともに仏師界の頂点に立った瞬間でした。
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2010年7月23日 (金)

大海人皇子と大友皇子…どっちが正統?

 

天武天皇元年(672年)7月23日、壬申の乱で敗れた大友皇子が、山前の地にて首を吊り、自殺を謀りました。

・・・・・・・

第38代天智天皇亡き後に、その弟=大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)と息子=大友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)の間で勃発した皇位継承の争い壬申の乱・・・

その経緯については、すでにイロイロ書かせていただいていますので・・・

・・・と上記のリンクから、それぞれの出来事を確認していただくとして、前日=7月22日の瀬田合戦で敗れた大友皇子は、天武天皇元年(672年)7月23日山前(やまさき)の地にて首を吊り、25歳の生涯を終えたのです。

この山前という場所は、その読みが「やまさき」であるところから、現在の山崎=天王山ではないか?という説と、近江京近くのどこかの山かも?という説に分かれていますが、いずれにしても、左右大臣をはじめ、大友皇子の近臣は、皆、散り々々に逃げ去り、彼に従うのは物部連麻呂(もののべのむらじまろ)と、1~2人の舎人(とねり・下級官人)だけだったと言います。

・・・と、本日は大友皇子のご命日という事で、今回は大友皇子の人となりについて書かせていただきたいところではありますが、なにぶん、壬申の乱に最もくわしい日本書紀は、天武天皇のための歴史書・・・つまり、勝者の歴史ですので、大友皇子個人の言動や人柄などの記述はほとんど書かれておらず、その実像が見え難いところではあります。

とにかく・・・
大友皇子は、先の天智天皇が、未だ中大兄皇子(なかのおおえのみこ)と称されていた23歳の時に、伊賀采女宅子娘(うねめのやかこのいつらめ)との間に生まれた長男です。

采女(うねめ)とは、地方の豪族が中央への恭順の証しとして、その娘を後宮へと差し出した下級女官の事で、「伊賀」とついているからには、彼女は伊賀(三重県の一部)の豪族の娘であったという事です。

つまりは、下世話な言い方をすると、「若き日の天智天皇が、宮仕えをする女官に手をつけてデキちゃった子」という事になりますが、この頃は難波に都が置かれていたので、おそらくは大友皇子は大阪生まれ・・・ただ、この時代の慣例として、奥さんの実家で養育という事があったので、育てられたのは伊賀かも知れません。

なので、もとの名は伊賀皇子(いがのみこ)・・・大友皇子という名は、後の通称なのですが、今日は、大友皇子という名前で呼ばせていただきます。

やがて白雉四年(653年)、第36代孝徳天皇と不和になった中大兄皇子が、飛鳥に戻ったので、おそらく大友皇子も父に従って飛鳥へ・・・

この頃の日本は、百済(くだら)からの大量の亡命者を受け入れている時代でもあったので、多感な少年時代だった大友皇子も、彼らから教育を受け、大陸最先端の高い教養を身につけていものと思われます。

天平勝宝三年(751年)成立の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)には・・・
「皇子博学多通 文武ノ才幹」
・・・と博識で文武両道の優れた人物である事が書かれています。

まぁ、この懐風藻の撰者は、大友皇子のひ孫にあたる淡海三船(おうみのみふね)かも知れないという事なので、そうなると、敗者となって、その存在のほとんどを抹消されたひいじっちゃんの名誉のためにも、精一杯、褒めてあるとも言えなくもないですが、普通に考えて、母親の身分は低いとは言え、事実上の最高権力者で次期天皇の長男に、当時の最高級の教育をほどこすのは当然と言えば当然でしょうね。

やがて、中大兄皇子は第38代天智天皇となって、天智天皇六年(667年)、都を近江に遷します(3月19日参照>>)

当然、大友皇子も近江へ移住・・・さらに20歳の青年の盛りを迎えていた大友皇子は、おそらく、この頃に十市皇女(とおちのひめみこ)と結婚・・・葛野王(かどのおう)という待望の男の子も生まれています

この奥さんの十市皇女は、大海人皇子と、あの額田王(ぬかたのおおきみ)との間に生まれた女の子で(1月6日参照>>)、一説には、大海人皇子側から送り込まれたスパイなんて噂もありますが、おそらく、それは、物語をよりドラマチックに演出するためのつけたしのように思います。

その後、天智天皇十年(671年)には、大友皇子は太政大臣に任ぜられ、朝廷の政務を取り仕切る役どころとなりますが、この頃から、天智天皇は、成長した息子へのかわいさあまり、皇太子である弟=大海人皇子ではなく、息子に皇位を譲りたいと思うようになったとされていますが、一方では、母方の身分の低さからみて大友皇子の皇位継承はあり得なく、天智天皇もそんな事は考えていなかったという説も囁かれます。

結局は、懐風藻などに記されている天智天皇が亡くなった後に即位していたという説をとって、明治の世になって第39代弘文天皇と、歴代天皇表に記される事になる大友皇子ですが、実際には、天智天皇が亡くなった後も大友皇子は即位せず、天智天皇の皇后であった倭女王(やまとひめのおおきみ)が即位し、大友皇子が、その補佐として政務をこなす役割をしていたとも言われ、ここらへんは、現在でも、様々な説が飛び交っているところでもあります。

ただ、大海人皇子が吉野へと退いている以上、この天智天皇が亡くなった直後の一時期は、事実上、大友皇子が近江朝廷の政務をこなしていなければならない事になります。

日本書紀によれば、結局、その後、近江朝廷が吉野を攻める準備をしているとの噂を聞き、大海人皇子は挙兵の決意をするわけですが、個人的には、どうも、このあたりがウヤムヤになってる気がしないではありません。

Tenmutennou400at 冒頭にも書いた通り、日本書紀は、天武天皇のために天武天皇の息子が書いた勝者の歴史書です。

独断的な仮説を許していただけるなら、ひょっとしたら、大海人皇子は、皇太子どころか、まったく皇位継承の範ちゅうになかった人物だったのではなかったか?と思います天武天皇の疑惑については2月27日のページもどうぞ>>)

天智天皇と、まったく血縁関係が無かったとまでは言いませんが、少なくとも、弟などではなく、天皇のイス争奪戦に参加できるほど近い人物ではない人物・・・つまり、このままだったら、絶対に天皇になれないので、力ずくで、近江朝廷を倒した気がしてならないのです。

しかし、そうなると、おそらくは謀反人とも言える大海人皇子に、多くの味方がつくのはなぜか?という疑問が湧いてきます。

壬申の乱では、確かに、大海人皇子は戦略にも長け、大友皇子よりもはるかに人生経験を積んではいますが、やはり、最も大きかったのは、その数の差・・・多くの豪族の協力を得た事による勝利です。

そこで、思うのは、この後、天武天皇から皇位を継いだ奥さんの持統天皇の世で確立する事になる大宝律令です(8月3日参照>>)

以前、書かせていただきましたが、この大宝律令によって決定づけられた官制・・・中国にならったと言いながらも、その官人の採用方法は、完全なる世襲制で、100%コネの世界・・・

中国には科挙(かきょ)と呼ばれるメッチャ難しい試験があって、その成績によって官人への採用や登用が決められていたわけですが、これまで、中国にならっての中央集権をめざして来た朝廷として、ここをまったく無視した大宝律令・・・

ひょっとして、逆に、勝者の歴史によって消されてしまった668年の天智天皇の近江令には、この科挙のような試験採用制度のような物が含まれていた可能性はないでしょうか?

つまり、試験採用ではなく、世襲制をはじめとする旧豪族を優遇する法制度を看板に、彼らを味方につけたおかげで、反乱軍であるはずの大海人皇子軍は、思った以上の数に膨れ上がったのではないかと・・・だとすれば、なんとなく「公約を守ったのでエライ!!」とは言い難い公約だなぁ~(←個人の感想です)

・・・で、結局、平成の世になっても、政治家は自分たちの不利になるような法律は定めない( ̄○ ̄;)!・・・ってね。
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2010年7月22日 (木)

京都丹波の中世山城~猪崎城・登城記

 

昨日は、私用で京都府福知山へ行っておりまして・・・

・・・で、せっかくなので、近くの城址へ・・・

Izakuzyousiroyamatizu 福知山と言えば、やはり、明智光秀縄張りの福知山城が有名ですが、すでに何度か訪れていて、ブログや本家HP京都歴史散歩:福知山へ>>)でもご紹介していますので、本日は、その福知山城から、徒歩で30分ほどのところにある、ちょっぴりマイナーな城址をご紹介します(もちろん、ここも後ほどHPにupしますが…(゚ー゚;)

それは、福知山城から由良川を挟んだ向かい側にある猪崎(いざき)城跡・・・

ここは、かつて丹波を治めていた塩見利勝が、天文元年(1532年)に、烏ヶ岳鬼ヶ城などの山々から、由良川土師川の合流地点近くまで、長くのびた裾野の先端に当たる小高い丘の部分に構築した山城です。

・‥…━━━☆

行き方は・・・
とりあえず、三段池公園を目指してください。

この三段池公園は、後の福知山藩主・松平忠房が手掛けたとされる三段池を中心にした公園で、周囲には体育館や児童科学館などがあり、市民の憩いの場で、一般的な地図にも必ず載ってますので・・・

Otonasebasikaranonagame 音無瀬橋の向こうに見える山々の一番手前の丘が、猪崎城跡…城山と呼ばれています。

・・・で、三段池公園を目指して由良川に架かる音無瀬橋を渡ると「三段池公園←」と、左に曲がれの看板があるので、指示に従って三段池の方向へ・・・三段池公園の駐車場から、そのまま行くと、途中から右側に公園が見えてきますが、さらに進んでいくと、お墓のある交差点に「猪崎城址←」の看板・・・ここを曲がって、さらに行くと駐車場とおぼしき広場のところに「猪崎城址→」の看板とともに、案内板と登り口となる徒歩の道が見えます。

Inozakisiroatohenomiti 赤い↑の道を登っていきます

あとは、道なりに登っていくと、一番上の主郭の跡まで行けます。

・‥…━━━☆

以前、明智光秀と細川幽斎(ゆうさい・藤孝)の関係についてのページで書かせていただいたように、もともとは、朝倉義景(よしかげ)から足利義昭(よしあき)の家臣だった光秀は、織田信長と義昭の関係が、あまりよろしくなくなった時点で、義昭を見限り、織田の傘下へと入ります(6月9日参照>>)

天正三年(1575年)、長篠の戦い武田勝頼を破り、天下に手が届く位置に来た信長は、一番のお気に入りで出世頭の光秀に、丹波(たんば・京都府北部)の平定を任せます。

翌年から、本格的に攻略を開始した光秀は、その後の数年をかけて獅子奮迅の活躍で、見事平定するわけですが(12月24日参照>>)、その中には、本能寺の変のきっかけの一つではないか?と噂される八上城の波多野氏なんかが有名ですね(1月15日参照>>)

この猪崎城は、その中の一つです。

もともと、この地方の中心的な豪族であった塩見氏でしたが、戦国の乱世で力をつけた波多野氏や赤井氏に属するようになり、一連の光秀の丹波攻略のさなかに落城し、勝利した光秀が天正七年(1579年)に、塩見氏の横山城の跡地に福知山城を築城した事から、この城は、過去の城となったわけです。(5月19日参照>>)

ちなみに、光秀に攻められた塩見利勝(としかつ)ですが、その三男か四男の長利(ながとし)だけは、(血筋を残すためか?)すんなりと降伏した事で生き残り、自身の居城であった和久城(福知山市=別名:茶臼山城)にちなんで和久左衛門佐(わくさえもんのすけ=長利?義国?)と名を改めて光秀の傘下となりますが、後に、その和久城と支城の山家城(綾部市)の破却命令に従わなかったとして光秀から攻められ、落城後に一家もろとも行方不明となったとも言われます(今のところ史料が少なく謎が多いんですが…)(6月20日参照>>)

Ca3e0049a800 主郭部分は、いわゆる本丸跡といった雰囲気

Ca3e0057a800 ・・・で、小高い丘のほぼ全域を城郭とする猪崎城は、頂上部分に東西約45m・南北約50m主郭=近世城郭で言うところの本丸があり、その北西部分には矢倉台があったとされています(確かに矢倉台らしきものが…→)

Ca3e0047a800 主郭から一段下がった北・東・南の3方には土塁(←ここは、はっきり確認できます)を設け、さらに主郭との間には、幅15mほどの空堀がありますが、おそらく、いざという時の伏兵の隠し場所ともなるこの場所は、この地方では最大の規模を誇っています。

Izakizyouatozyoukakuzu 猪崎城・城郭図

さらに、その周囲には、10箇所以上の曲輪(くるわ・平坦な区画)を設け、それを階段状に配置するという世山城の流行の最先端の造りになってます。

Ca3e0055a800 主郭から南西を望む…由良川に架かる音無瀬橋と、その向こうに明智藪と、写真では見え難いですが福知山城が見えます。
手前右のベンチのある部分が真下の曲輪

ただ・・・
昨日は、夏の盛りで草ボーボー・・・

未だ、修行が足りない私には、かろうじて見分けがつく部分とつかない部分が・・・(。>0<。)

はっきりと城郭を確認するには、冬に行ったほうが良いかも知れませんが、それはそれで、豪雪地帯でもありますので、お出かけの際は、くれぐれも、現地の天候をご確認のうえでご出発くださいませ。
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2010年7月20日 (火)

貧乏公家から政界の中心へ~岩倉具視の功績

 

明治十六年(1883年)7月20日、王政復古の大号令というクーデターを決行して明治維新に尽力し、新政府では政治家として活躍した公家・岩倉具視が59歳で亡くなりました

・・・・・・・・・・・

文政八年(1825年)に、貧乏公家・堀河(ほりかわ)堀河康親の次男として生まれた岩倉具視(いわくらともみ)・・・

幼い頃から、その公家らしくない態度をからかわれ、貧乏すぎて、公家の誰からも相手にされなかった具視少年は、そのおかげで、並々ならぬハングリー精神を身につける事となります。

江戸時代の初めに、徳川家康が発布した禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)によって、その行動を制限されていた事で、250年間の長きに渡って、ほとんど政治に関わる事のなかった天皇や公家たち・・・ひょっとして、このハングリー精神旺盛な具視がいなかったら、その長い眠りから覚めなかったかも知れません。

そんな具視少年の大器を最初に見抜いたのは、朝廷儒学者の伏原宣明(ふせはらのぶはる)でした。

そして、その大器を、思う存分に活かしてあげるべく、伏原のもとへ学びに着ていた具視少年を、少し上級の岩倉家に紹介しました。

Iwakuratomomi400 こうして、天保九年(1838年)、14歳で岩倉具慶(ともやす)の養子となって、その名も岩倉具視となり、まもなく元服して、やっと昇殿を許される身分となりました。

しかし、まだまだ、具視のハングリーは止まりません。

29歳となった具視は、五摂家関白鷹司政通(たかつかさまさみち)を歌道の師匠とあおぎ、その門弟となる事に成功し、そこで、歌ではなく、朝廷改革に関する意見を述べたのです。

未だ、その家柄によって将来の出世も決まっていた公家社会・・・下級の公家は、朝議に出る事さえ難しかった時代でしたが、これが、彼の転換期となりました。

以後、その才能をかった鷹司の推薦によって、孝明天皇の主従となり、天皇の側に仕える事になったのです。

安政五年(1858年)・・・開国を求めるペリーとの、日米修好通商条約の調印への勅許(ちょっきょ・天皇の許し)を求めて、老中の堀田正睦(ほったまさよし)が上洛した時には、中山忠能(ただやす)らと結託して勅許に反対し、堀田を追い返してしまいます。

それでいて、そのすぐ後、朝廷との融和をはかりたい幕府が申し出てきた孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)と、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)との結婚話には全面協力の体制をとるのです(8月26日参照>>)

勅許がなければ調印できないという強みを逆手にとって、強い姿勢に出て、その後、下手に出てきたところを、やさしくフォロー・・・具視は、今を、朝廷の復権の最大のチャンスと見て、狙いを定めたのです。

彼の先読みが確信に変わるのは、万延元年(1860年)3月に起こった大老・井伊直弼(いいなおすけ)暗殺桜田門外の変(3月3日参照>>)でした。

この一件で、幕府の衰退を確信した具視は、より強く和宮と家茂の結婚=公武合体(こうぶがったい・朝廷と幕府が協力)を推し進め、朝廷主導による攘夷(じょうい・外国を排除)を進めようとしたのです。

おかげで、結婚は実現し、幕府は、朝廷に対して攘夷の決行を約束する事になるのですが、この公武合体を推し勧めた行為で親幕派とみられてしまった具視は、蟄居(ちっきょ・謹慎)を命じられ、洛外追放の処分を受けてしまうのです。

しかし、幼い頃から苦渋をなめ続けてきた男・具視=38歳・・・そんな事ではめげません。

蟄居中も、天皇による国内統一の原案を書いては、朝廷や薩摩藩などに送っておりました。

おかげで、慶応元年(1865年)頃からは、自宅にいながらにして、志を同じくする朝廷の仲間や、討幕を夢見る薩摩藩士らと交流を持つ事になります。

幕府が、将軍・家茂の死を受け、一橋(徳川)慶喜(よしのぶ)を15代将軍に就任させる時などは、それを阻止して王政復古を画策するも、残念ながら、これは未遂に終りますが、長州桂小五郎薩摩大久保利通土佐中岡慎太郎坂本龍馬といった面々との交流は、いっそう活発な物となります。

やがて、慶応三年(1867年)、前年の暮に崩御した孝明天皇に代わって、若き明治天皇が即位しますが、この時点では、具視は、未だ蟄居の身・・・

そんなこんなの同年10月・・・彼のもとを訪ねて来た大久保や品川弥二郎と、討幕への道筋や、皇室再興のダンドリなどを話し合い、すでに、この時点で、その時にシンボル的存在になるであろう錦の御旗の制作も指示しています。

秘密裏に、武力での討幕の命令書を求めてきた薩摩藩と、同じく討幕を念頭におく長州藩に、中山忠能らの連名で、「討幕OK」密勅(みっちょく・天皇による秘密の命令)が出されたのは、その直後の事でした(10月13日参照>>)

さぁ、いよいよ、武力による討幕だ!

・・・と、思った瞬間・・・あの大政奉還(たいせいほうかん)が行われます。

以前も書かせていただきましたが、この大政奉還は、徳川が新体制で生き残るための手段・・・なんせ、おとなしく「政権を返しますよ」と言ってる幕府を、武力で叩き潰す事はできませんから・・・(6月22日参照>>)

現に、この大政奉還を受けた朝廷内では、天皇を頂点に、その下に武士たちの議会を置く新体制を容認するような動きも出たりなんかします。

これはヤバイ!!!

・・・と、ここで、ナイスなタイミングで具視への処分が解かれ、12月8日、彼は朝廷へと復帰したのです。

そして、早くもその翌日・・・王政復古の大号令を成功させたのです。
【意外にアタフタ?王政復古前々夜の岩倉の手紙】参照>>
【王政復古の大号令】参照>>

これは、先の生き残り新体制を願う幕府の考えを一蹴するもの・・・幕府を排除した、まったく新しい体制で、天皇自らが政治をする体制を明言したもので、これにより、徳川の領地は返還、幕府は廃止となり、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王総裁にした新政府が発足するという、見事なクーデターとなったわけです。

やがて、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へと、武力による討幕の末、明治維新が成され、そこでの具視は、副総裁となったうえ、海陸軍務会計事務の副総督を兼務するという隆盛ぶりを誇りました。

ここまで、なんとなく身の振り方がウマイ具視さん・・・征韓論西郷隆盛とモメた時には、反対派の刺客に襲われますが、ここでも、見事な身のかわしようで、命を取りとめます(【赤坂喰違の変】参照>>)

また、幼い頃に身分で苦渋を飲んだわりには、華族統制政策(6月17日参照>>)を推し進め、立憲政体には反対していた彼でしたが、やはり、時代の波には勝てず、自由民権運動の高まりを感じた具視は、伊藤博文憲法の制定を任せる決意をするのでした。

やがて、明治十五年(1822年)、それを受けて、外国の憲法を調査するために、伊藤はヨーロッパに旅立つ事になるのですが、この頃には、すでに具視は病気がちになっておりました。

そして明治十六年(1883年)7月20日、残念ながら、大日本帝国憲法の発布を見る事なく、彼は、この世を去ったのです。

享年59歳・・・5日後の7月25日には、日本で初めての政府による国葬となりました。

朝廷と、薩摩・長州との太いパイプ役となった岩倉具視・・・未だブログに書き足りない部分は、いずれまた、一つ一つを掘り下げていきたいと思いますが、何となく、成功のためには手段を選ばず的な部分が見え隠れする人ではあります。

とは言え、何かを成し遂げるためには、時には鬼にならねばなら事もあり・・・やはり、その功績は大きいと言えるでしょうね。
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2010年7月19日 (月)

禁門の変~来島又兵衛・アラ50の挑戦

 

元治元年(1864年)7月19日、先の八月十八日の政変で下された処分の撤回を求めて、長州藩が御所へと押し寄せたため、入れまいとする薩摩藩や会津藩と交戦となりました・・・世に言う禁門の変です。

・・・・・・・・・・

ペリーの黒船来航の圧力に開国をした幕府と、あくまで攘夷(じょうい・外国人排除)を決行したい朝廷・・・尊王攘夷については10月2日のページで>>)

やがて高まる尊王攘夷論の急進力となったのが長州藩(山口県)・・・朝廷内の攘夷派の信頼を受け、御所でも幅をきかせていた長州藩でしたが、八月十八日の政変事態は一変します(8月18日参照>>)

この公武合体(こうぶがったい・朝廷と幕府が協力)の公卿によるクーデターによって、攘夷派の三条実美(さんじょうさねとみ)らとともに、長州藩は御所から追い出され、政界からも一掃されてしまったのです。

そんな状況を打開しようと、密かに公武合体派の中心人物の暗殺計画をねる長州でしたが、その秘密会議の席で新撰組に踏み込まれ、計画は潰されてしまいます・・・これが池田屋事件(6月5日参照>>)

・・・で、先の八月十八日の政変での処分に不満を持つ長州は、その処分の撤回を求めて、武装して大挙上洛したのです。

この上洛に最も積極的だったのが、来島又兵衛(きじままたべえ・政久)という人物・・・

文化十四年(1817年)に長州に生まれた又兵衛は、江戸で剣術を学んだ後、大検使役などを歴任する順調な出世の道を歩んでおりました。

なんせ、先の剣術は新陰流の免許皆伝で、馬術にも長ける武勇の人でありながら、江戸での事務的な務めもそつなくこなす・・・特に、金銭の出納などの緻密さに関しては、自らの江戸での生活で使った金額を、家計簿をつけて細部まで計算し、故郷で待つ奥さんに送っていたと言いますから、藩の公金についての正確さも、だいたい想像できます。

そんなこんなで、40過ぎまでマジメにやってきた又兵衛ですが、彼の奥底に流れる情熱は、年齢がいくつになっても消える事はありませんでした。

そう・・・
ここまで仕事をそつなくこなす事で出世してはいましたが、彼自身は、そんな出世を目標にする人間ではなく、その心には、むしろ血気盛んな若者のような篤い思いが溢れていたのです。

以前、高杉晋作さんのご命日のページ(6月7日参照>>)で、幕末に活躍した志士たちが、思ってる以上に若い事を書かせていただきましたが、この又兵衛さんは、ちと、違います。

この時期に、篤く意見を交わす、その晋作や久坂玄瑞(くさかげんずいらが、ともに20代なのに対して、先ほども書かせていただいたように、彼は、すでに40代後半・・・そんな若き志士たちからは「来翁」と呼ばれるほど、歳の差があったわけですが、晋作が奇兵隊を結成したら、自分も負けじと遊撃隊を結成し、その総督として、ともに連携作戦を展開すなど、その血気盛んぶりは、むしろ、彼ら以上に熱かったのです。

今回も、反対する晋作に捨てゼリフを残し、しぶる玄瑞を引きずりたおしての武装上洛でした。

京都についてからも、時の孝明天皇が武力による長州討伐を決意した事で、臆病風に吹かれた同志に向かって、「怖がってるヤツは、京都見物でもしとけ!」と、言い放ったのだとか・・・

Kinmonfuzinzucc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして元治元年(1864年)7月19日・・・京都の北西・天龍寺に陣を取る国司信濃(くにししなの・親相)、南西の天王山に陣取る益田右衛門介(うえもんのすけ・親施)、南は伏見の長州屋敷に陣取る福原越後(ふくはらえちご・元僴)・・・と長州は、この3方から、御所を目指します。

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又兵衛らが陣を置いた天龍寺の塔頭・弘源寺…本堂には、この時長州藩士がつけた刀傷が残ります(クリックして大きい写真で見てね)

又兵衛率いる遊撃隊は、国司隊とともに天龍寺から出撃!・・・市中に散らばる敵の中を駆け抜け、真っ先に御所へと迫ります。

冒頭に書かせていただいたように、この戦いが禁門の変と呼ばれるのは、そこが一番の激戦となったからなのですが、この禁門と呼ばれていたのが、普段は、ほとんど開かれる事がなかった御所の西側の門=蛤御門(はまぐりごもん)で、別名=蛤御門の変とも呼ばれます。

そう、又兵衛らが、会津・桑名などの藩兵と交戦したのが、この蛤御門周辺・・・一時は、一つ北側にある中立売御門(なかたちうりごもん)を破って、禁裏へと迫った長州兵でしたが、さらに北側の乾門(いぬいもん)を守っていた薩摩藩が救援に駆けつけ、多勢に無勢となってしまった長州は、一気に逆転されてしまいます。

形勢不利と見ながらも、葦毛の馬にまたがり、颯爽と指揮を取る又兵衛・・・しかし、その時です。

薩摩藩の川路利良(かわじかわじよしとし)の放った銃弾が、又兵衛の胸を貫きます。

落馬してよろける又兵衛・・・自分の傷の具合は、自分が一番よくわかります。

もはや、「身動きが取れない」と判断した又兵衛は、禁門から少し入ったとことに立つ(むく)の木陰にて自刃したのです。

享年49歳・・・自らの政治目標のためには、その命も惜しまない・・・20代の若者より若かったその心意気。

今も、京都御苑の一角に立つ樹齢300年の椋の木は、その時の又兵衛の最期を静かに見下ろしていたでしょう。

そして、その最期の言葉を聞いたのかも知れません。

Simizudaninomukunoki800
又兵衛が絶命した清水谷家の椋の木

★京都御苑への行き方は本家HP京都歴史散歩・京都御所周辺へどうぞ>>…それぞれの御門の位置や、禁門の変でついた弾丸の跡が確認できる写真もupしてます!

・‥…━━━☆

この日、南側の堺町御門で戦った益田隊の久坂玄瑞については2011年の7月19日のページへ>>殿(しんがり)を務めた真木和泉(まきいずみ)については10月21日のページへどうぞ>>

新撰組&見廻組に阻まれ、御所まで到達できなかった伏見の福原越後については11月12日のページへどうぞ>>
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2010年7月18日 (日)

旗本奴VS町奴…幡随院長兵衛・殺害

 

明暦三年(1657年)7月18日、侠客の元祖と言われ、歌舞伎やお芝居で有名な幡随院長兵衛が殺害されました。

・・・・・・・・・

「お若けぇの お待ちなせえやし」

この名ゼリフを聞いて、すぐに幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)の名前が浮かぶ人は、ある程度のお歳か、歌舞伎好き・・・

最近こそ、あまり聞かなくなりましたが、ちょっと前までの長兵衛さんは、弱きを助け、強きをくじき、仲間を決して裏切らない男の中の男として、超有名なヒーローでした。

Bamzuim お芝居やドラマでは、そのクライマックスとして、主人公・長兵衛の最期のシーンを描きます。

当時、街中で乱暴を繰り返していた旗本奴(はたもとやっこ)・・・その横暴ぶりを見るに見かねた町奴(まちやっこ)のリーダー=長兵衛は、その自慢の腕で、彼らをコテンパンに・・・

その話を耳にした旗本奴のリーダー=水野十郎左衛門は、明暦三年(1657年)7月18日、酒宴にかこつけて、長兵衛を自宅に呼び出し、風呂を勧めます。

・・・で、お湯に入るために丸腰になった所を襲われ、長兵衛は非業の死を遂げるわけですが、このシーンと前後して、お芝居では、長兵衛の自宅に、彼自身が注文していた棺おけが届くシーンが挟み込まれます。

つまり、長兵衛は、この酒宴が、水野の陰謀である事、行けば殺されるであろう事を予測しても、なお、逃げずに、単身で敵地に乗り込んでいったのだという事情を盛り込み、見る側のハートをがっちりとキャッチするわけです。

・・・とは言え、やはり、それはお芝居&ドラマでのお話・・・

ただ、水野十郎左衛門という人物は実在の人物で、その旗本奴と抗争を繰り返していたとある町奴が、水野か、または、その一派に殺害されたというのは実際にあった事件のようです。

そもそもは、唐津藩(佐賀県)の武士・塚本伊織の息子として生まれた長兵衛・・・本名を塚本常平、幼名を伊太郎とされています。

長兵衛が生まれた元和八年(1622年)という時代・・・江戸に幕府が開かれてから、はや20年の月日が流れ、遠く大坂で起こった大坂の陣でさえ、もう7年も前の出来事・・・

徳川の天下泰平が確立しつつあったこの時代は、かつて戦場を駆け抜けた足軽や人足たちの活躍の場を奪ってしまっていました。

それでも、事務的な才能のある人物なら、その道での出世も望めましょうが、もはや、槍一本で勝負する時代ではありません。

活躍の場がない=仕事がない=収入が減る=生活苦しい・・・

って事で、そんなこんなの不満のぶつけどころのない若者たちは、派手な女物の着物をマントのように羽織ったり、怒涛を組んで街中を闊歩したり・・・集団で突飛な服装して、何かと言えば、喧嘩や刃傷沙汰を起す・・・といった行動に出るようになるのです。

当初は、武家の奉公人に多かった、この集団は、「かぶき者」と呼ばれて、徐々に増えはじめ、やがては社会現象に・・・

さらに、それは、旗本の坊ちゃんや、町人の息子たちへと流行しはじめ、旗本奴町奴と呼ばれる無頼の集団が形勢されていったのです(暴走族かチーマーみたいなもの??)

長兵衛も十郎左衛門も、そんな若者たちのリーダーだったわけですが、十郎左衛門は、旗本奴なので、当然、旗本の坊ちゃん・・・一方の長兵衛は、先ほど書かせていただいたように佐賀藩の武士の子だったのですが、どうやら、若い時に喧嘩の末、相手を殺害してしまったようで・・・

その時、死罪になるはずだったのが、浅草にあった幡随院というお寺の和尚さんの助命嘆願によって、その命を救われ、その後、和尚さんのもとで再教育を受けた事で幡随院と名乗り花川戸口入業(奉公人の斡旋)を営みながら、その名を挙げていったのだとか・・・。

本日の殺害事件も、冒頭に書いた通りだとカッコイイいいんですが、どうやら、町で香具を売っていたアロマ美少年にうつつをぬかし、その少年の取り合いで殺されたとか、

あるいは、長兵衛が、たまたま十郎左衛門を遊郭に誘ったところ、それを断った十郎左衛門に
「お前、俺が怖いから、誘うてもけぇへんのんか?」
と、からかったところ、逆ギレした十郎左衛門に殺されたとか・・・

なんて、話もありますから、そうなると、なにやら、ただのチンピラ同士のイザコザのような雰囲気・・・この長兵衛殺害事件に十郎左衛門が関わっていたかどうかはともかく、何かしらの事件によって長兵衛が殺害されたのは事実のようで、一説には。この7年後に水野十郎左衛門が切腹させられる(3月27日参照>>)のも、事件に関係あるのでは?とも言われますが、真相はよくわかりません。

ただ、本来なら、旗本奴&町奴、両方ともが、一般市民から煙たがられる存在でありながら、それがお芝居や歌舞伎に変わっていく時点で、いつしか町奴側がヒーローになっているところが、時代を表しているようでニクイですね。

今となっては、どれが事実で、どれがフィクションなのかが、容易に判別できない状態なので、とりあえず、お芝居やドラマで描かれるぶんには、水野さんにはガマンしていただいて、冒頭のカッコイイお話でヨシとしましょう!
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2010年7月16日 (金)

家康の兄代わり~鬼作左・本多重次が一筆啓上

 

文禄五年(1596年)7月16日、徳川家康に三河時代から仕えた家臣・本多重次が、蟄居先の下総にて68歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

本多重次(ほんだしげつぐ)は、徳川家康がまだ松平元康と名乗っていた三河(愛知県東部)の戦国大名の時代から、高力清長(こうりききよなが)天野康景(あまのやすかげ)とともに奉行を務め、三河三奉行と称されました。

Hondasigetugu600s とにかく、真面目で厳格で法に厳しい・・・その性格を生かして、行政面で大いに活躍した人物ですが、その頃の三河では、こんなハヤリ歌があったとか・・・

♪ (ほとけ)高力 鬼作左(おにさくざ)
  どちへんなしの天野康景 ♪

重次の通称が作左衛門(さくざえもん)ですので、この2番目の「鬼作左」っていうのが重次の事・・・歌の意味は、
「清長は仏のように穏やかで優しく、重次は鬼のように厳しく、康景は偏りのない公平な見方をする」
てな感じ・・・やっぱり、重次さん、怖がられてますね~

・・・と言っても、ただやみくもに怒ってばかりするわけではなく、人の道に外れたり、ルールを守らなかったり、やらねばならない事をしなかったり・・・といった時に、厳しい厳罰を下すという事で、道理に叶ってはいるわけですが・・・

ただ、それが、主君・家康に対してもズケズケと物を言い、厳しい態度で接していた事で、少々煙たがられる面もあったようです。

しかし、重次から見れば、10歳年下の家康は、主君と言えど弟か息子に近い年齢・・・まして、家康は、父・広忠とは幼くして別れ、結局、そのまま死別してしまうのですから、彼が、「我こそは、兄代わり、父親代わり!」と、若かりし頃の家康を、張り切って教育しようとした事は、当然と言えば当然です。

家康の良きところは、そんな重次を煙たがらずに、ずっと側にいさせた事かも知れません。

家康がエラくなればなるほど、周囲にはイエスマンばかりとなって、判断ミスを指摘する者もいなけりゃ、組織の腐敗を正す者もいなくなるわけで、そんな中、重次のような補佐役がいるおかげで、そのような事態に陥らなくてすむ・・・なんだかんだと文句を言いながら、家康も、充分にわかっていたのかも知れませんね。

だからこそ、息子の養育も、彼に任せたのかも知れません。

その息子というのは、家康の次男・秀康(ひでやす)(11月21日参照>>)です。

一般的には、正室・築山殿(つきやまどの)の侍女だった於万(おまんの方に手をつけてデキちゃった子供なので、築山殿に遠慮して秀康に冷たくあたったとか・・・
ブサイクな秀康を嫌っていたので3年間も面会しなかったとか・・・

幼い頃の秀康が、家康から冷遇される事をアレコレ言われますが、なんだかんだで実の息子です。

あの関ヶ原の合戦で、最も重要な後方支援である宇都宮城を彼に任せるのも、実の息子だからこそ・・・

秘密裏にとは言え、そんな秀康が、たまたま重次の家で生まれ、たまたま重次に育てられたわけはないでしょうから、やはり、そこには、家康の絶大な信頼があったのでは?と想像します。

そんな期待に答えるかように、秀康は、一時は、「秀忠よりも後継者にふさわしいのでは?」と、家康が悩むくらいの人物に成長するのですから、幼い頃の重次の教育も、なかなかの物だったと言えるかも知れません。

もちろん、重次の活躍は、そんな事務的な事ばかりではありません。

三河一向一揆(9月5日参照>>)の鎮圧戦で武功を挙げたり、小田原攻めでも北条の水軍を撃ち破る大活躍を見せています。

とは言え、そんな、厳しく強い重次さんですが、家族思いのやさしい父親の一面も持ち合わせているのです。

有名な、あの手紙をご存知の方も多いでしょう。

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」

これは、重次が、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)の陣中から、家で待つ奥さんに宛てた手紙・・・

お仙(せん)というのは、後に丸岡城主となる嫡男・成重(なりしげ)の事・・・その幼名・仙千代(せんちよ)の仙です。

遠い戦場から、家族を思う気持ちが、簡潔に伝わってくる手紙ですよね~。

・・・と、ここまで、非のうちどころのない重次さん・・・しかし、残念ながら、晩年になってヤッちゃいます。

それは天正十四年(1586年)、先の小牧長久手の戦いで、初めて直接対決した秀吉と家康・・・

戦況は、おおむね家康の有利に進んだものの、家康と組んだ織田信雄が、秀吉と単独で講和しちゃった(11月16日参照>>)事で、天下の情勢は動かず、その後、秀吉は、家康を傘下に収めるべく、再三に渡って上洛を求めてきていたのですが、その条件として、生母・なかを三河へと送り込む・・・つまり、人質として差し出したわけです(10月17日参照>>)

その秀吉の生母の接待を担当したのが重次さん・・・

すぐさま、宿舎の周囲に(たきぎ)を山のように積上げ、いつでも火をつけられる状態に・・・これは、結局、秀吉の求めに応じて上洛する事になった家康にもしもの事があったら、「いつでも、ヤッったるで!」という姿勢を見せる・・・言わば、おどしだったわけですが・・・

この仕打ちに気分を悪くしたのが、なかさん・・・

京都に戻ってから、
「ウチ こんなんされたワ」
と秀吉に報告した事で、息子としては、当然の激怒!

「そんな家臣は処分したまえ!」
の言葉に従った家康によって蟄居(ちっきょ・閉門して自宅の一室で謹慎)させられてしまいました。

家康が関東に移った時は、上総(かずさ)古井戸(千葉県君津市)3000石に格下げ、その後、下総(しもうさ)井野(茨城県取手市)へと変更され、文禄五年(1596年)7月16日、その蟄居先にて、68年の人生を終えました。

最後に、ちょっとやりすぎちゃったとは言え、それも、主君の無事を思えばこそ・・・何もなかったから、怒られちゃいましたが、世は戦国なのですから、戦国武将としては、理解できる行為です。

いや、むしろ、主君・家康だけではなく、天下人・秀吉にだってビビる事のない自らのキャラクターを存分に見せつける事ができ、意外に、重次さん自身は、後悔していなかったのかも・・・ですね。

なんせ、鬼作左ですから・・・
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2010年7月15日 (木)

豊臣秀次ゆかりの京都・瑞泉寺

 

文禄四年(1595年)7月15日、豊臣秀吉の甥・秀次が、謀反の罪により高野山で切腹しました。

・・・・・・・

すでに、2007年のご命日の今日、【殺生関白・豊臣秀次の汚名を晴らしたい!】(2007年7月15日参照>>)と題して、殺生関白の名のもととなった悪行の数々が事実ではないであろうという事、彼が城下町を整備した近江八幡(4月4日参照>>)では名君の誉れ高い人物であった事など書かせていただきましたが、これらの事は、今となっては有名なお話で、最近のドラマなどで描かれる秀次さんは、暴君にはほど遠い悲劇の人として描かれる事が多いようです。

本日は、まさに秀次さんの死を悼んで建立された寺・・・京都瑞泉寺(ずいせんじ)をご紹介します。

・‥…━━━☆

Zuisenzitizu 京都は、三条大橋から西へ・・・一つ目の高瀬川沿いの木屋町通を南に折れたところにひっそりと建つのが瑞泉寺・・・

慈舟山(じしゅうざん)と号し、浄土宗西山禅林寺派に属するお寺です。

そもそもは・・・
どんなに優秀な重臣がいようとも、やはり、後継者は肉親に・・・というのが戦国時代の鉄則。

そのために、実子のいなかった豊臣秀吉は、縁の深い他家との養子縁組などで二代目を模索するわけですが、姉・ともの子供である秀次は、数少ない血縁者だったわけです。

しかし、側室の淀殿が秀吉の子供を産むと事情は変わります。

この数少ない血縁者は、秀吉の実子=秀頼にとって、
最も信頼のおける親族となるのか?
最も強力なライバルになるのか?

結局、秀吉に生じた疑心暗鬼を払拭する事ができずにいる中、かつて秀次が各地の諸将に送った「有事の際には秀次に忠誠を誓う」といった内容の書状が決定打となり、文禄四年(1595年)7月15日、28歳の若さで、高野山にて自害させられる事となったのです。

Hidetuguzizin この時、秀次の息子が4名娘が1名・・・そして、正室や側室・侍女などの女性が34名一族もろとも処刑された事で、その悲劇は、より悲惨さを増す事となります。

たまにドラマでは、秀次と一族が同時に死に行くシーンが描かれたりしますが、上記の通り、秀次は、この7月15日に高野山で自害し、一族が処刑されたのは、それから半月ほどたった8月2日で、その場所が、ここ瑞泉寺の建つ場所・・・当時は、三条河原の中洲となっていたこの場所なのです。

その日、一族の処刑の噂を聞いて、三条河原に集まって来た大勢の町衆が、固唾を飲んで見守る中、39名は、次々と処刑されていきました。

しかし、その遺体は縁者へと下げ渡される事はなく、刑場の横に掘った大穴の中に次々と投げ込まれ、最後には、その上に四角垂の形に土石を積上げて塚を築き、頂上に、高野山で自害した秀次の首を収めた「石びつ」を据えたのです。

この塚は、「せっしょうつか(摂政塚・殺生塚)と呼ばれ、江戸初期の洛中名所絵図などに描かれたりもしましたが、いつしか、鴨川の洪水などで一部が流され、荒廃の一途をたどっていたのです。

やがて、一族の処刑から十五年経った慶長十六年(1611年)、高瀬川を開削中だった角倉了以(すみのくらりょうい)という人物が、その工事中に埋もれていた墓石を発掘したのです。

なんと言う偶然でしょう!
実は、了以の弟は、医師として秀次に仕えていた人なのです。

早速、塚の横に「秀次公御一族の墓石」を建立する了以・・・これが、現在も残る墓石です。

Dscn8662800
瑞泉寺にある秀次一族の墓石
中央の秀次の墓石には、四角い「石びつ」があるような、ないような…

さらに、塚そのものの跡を寺院とし、これを永く保存する事としたのです。
これが、瑞泉寺・・・創建の日は、ちょうど、その弟の一周忌だったそうです。

Zuisenziezu
江戸時代の絵図に描かれた瑞泉寺

瑞泉寺の記録には、角倉了以の言葉として「くれぐれも、この地に民家を建てないでね!和尚と相談して堂を建て、瑞泉と名付け、永く保存しよう」
とあります。

和尚というのは、僧・桂叔(けいしゅく)の事・・・この桂叔を開基とし、秀次の法号・瑞泉寺殿をとって、その名は瑞泉寺と名付けられました。

縁を持ちながらも生き残った人々の篤い思いが、天に通じたのかも知れませんね。

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瑞泉寺・本堂…この場所に、もともとの塚があったとされています

現在のお堂は、天明の大火(1788年)で類焼した後に建てられたものだそうですが、秀次さんへの思いは、今も変わりなく受け継がれています。

秀次事件に連座した熊谷直之の逸話>>も合わせてどうぞm(_ _)m
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2010年7月14日 (水)

垂仁天皇が~佐保の中心で「愛」を叫ぶ

 

垂仁天皇九十九年(70年頃)7月14日、第11代垂仁天皇が153歳(もしくは140歳)で崩御されました。

・・・・・・・・

『古事記』『日本書紀』に登場する初代神武天皇から、しばらく続く天皇様は神話の世界の住人・・・そんな記紀神話の中で、おそらく実在した最初の天皇ではないかとされるのが、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称される第10代の崇神(すじん)天皇です(12月5日参照>>)

今回の垂仁(すいにん)天皇は、その崇神天皇の息子で、天皇の後を継いで第11代天皇になられたおかた・・・ただし、冒頭でも書かせていただいたように、亡くなられた年齢が、古事記では153歳、日本書紀では140歳というあり得ない年齢なので、細かい事に関しては伝説の域を超えないもの・・・

この皇位継承も夢占いで決められたり、嫁に来た女性のうちブサイクだけを実家に返したり、息子の本牟智和気御子誉津別命・ほむつわけのみこ)の問題も含め、かなりのエピソードをお持ちのうえ、高貴な人への殉死を廃止して土偶を並べたり(埴輪の始まりとも)(3月22日参照>>)七夕の夜に日本初の相撲観戦(7月7日参照>>)など、何かと「初」の出来事の多いおかたでもありますので、いろいろとご紹介したいエピソードがたくさんある天皇ではありますが・・・

今回は、その「初づくし」の中でも、注目すべき「初」・・・「愛」という言葉の使用にまつわる奥様とのお話をご紹介させていただきます。

以前、昨年の大河ドラマ「天地人」について書かせていただいたページ(3月23日参照>>)で、主人公の直江兼続が、兜の前立てに掲げた「愛」という文字が、今で言うところの「愛」・・・つまり、「人を愛する」という意味で使用されていたかどうか微妙だという話をさせていただきました。

そこでも出てきたように、明治の初めの頃でも、人に好意を持つ事を「愛」という文字で現す事が少なかったわけですが、なんと、古事記の中で、この垂仁天皇は、奥さん=沙本毘売(狭穂姫・さほびめ)に対して、この「愛」という単語を使います。

それは、垂仁天皇が即位して4年目・・・すでに沙本毘売を皇后とし、奈良の纏向(まきむく・巻向)に都を置き、珠城宮(たまきのみや)としていた頃・・・

沙本毘売の兄・沙本毘古王(狭穂彦王・さほびこのみこ)謀反をくわだてたのです。

兄・沙本毘古王は、妹・沙本毘売に聞きます。
『孰愛夫與兄歟』
「お前は、夫と兄と、どっちが好きか?」

すると、沙本毘売は・・・
『愛兄』
「ワタシ・・・お兄ちゃんが好き!」
と、アニメ好きにとっては萌え度100%のうれしい返答・・・

「ならば、天皇が寝ているすきに、この刀でヤッちゃいな」
と、沙本毘売に小刀を手渡しました

・・・と、そんな事とはつゆ知らず、その日も天皇は、沙本毘売の膝枕でうたた寝を・・・とは言え、沙本毘売も迷います。

一旦、小刀を出して、「いざ刺そう!」と振り上げますが、やはり、様々な思いがこみ上げてきて、どうしてもできない・・・

やがて、目には涙がいっぱい溢れてきて、一粒・・・また一粒と、天皇の顔の上にしたたり落ちていきます。

ドラマのワンシーンのようなその涙に、ふと目覚めた天皇は、
「今、沙本(さほ)の方から降って来た雨に濡れて、錦の色した小さい蛇に首を絞められる夢を見てしもた・・・コレって、どんな意味あんねんやろ?」
と、沙本毘売に尋ねます。

この時の狭本というのは、現在の東大寺から西に向かってのびている佐保路一帯の地名の事ですが、ここは、沙本毘古王&沙本毘売の出身地でもあり、当然の事ながら、二人の事を指しています。

つまり、天皇は、少なからず、この謀反に気づいていたわけで、見透かされていると観念した沙本毘売が、すべてをうち明けると、天皇は、早速、沙本毘古王の討伐へと向かいます。

しかし、やはり、兄の事が大好きな沙本毘売は、こっそり宮殿を抜け出して、兄の軍勢のもとへと走るのです。

この時、沙本毘売は天皇の子供を妊娠中・・・愛する妻がそこにいると知った天皇は、その大軍で沙本毘古王を囲みながらも、なかなか攻める事ができずにいたところ、やがて、その陣営で、彼女は男の子を出産します。

現在の状況に、すでに死を覚悟していた沙本毘売は、生まれたばかりの赤ん坊を使者に託して
「この子をやさしく迎え入れて、認知してやって!」
と、天皇のもとへと送ります。

この時です。

垂仁天皇の言葉・・・
「其の兄(せ)を怨むれども、楢(なお)其の后を愛(うつく)しぶるに忍(た)ふることを得ず」
「兄貴は怨んでるけど、お前を愛する気持ちは抑えられへんねや!」

こうして、なんとか、子供だけでなく沙本毘売も助けようとする天皇でしたが、戦場にて兄・沙本毘古王が討たれるのを目の当たりにした沙本毘売は、炎に包まれた砦に身を投じて自殺したのでした。

この時・・・古事記の中で、男女間の愛に使われた「愛」という言葉・・・夫と兄の愛に揺れ、悲しい最期を遂げた沙本毘売への古事記編さん者・太安万侶(おおのやすまろ)の「愛」なのでしょうか・・・

Dscn1051800
沙本毘売の故郷・奈良県狭岡神社にある鏡池(姿見池)…美しい沙本毘売が、ここに姿を写したという伝説が残ります。
狭岡神社のくわしい場所は、本家HP:奈良歴史散歩
「佐保・佐紀路」でどうぞ>>
 

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2010年7月13日 (火)

奥州藤原氏・100年の基礎を築いた藤原清衡

 

大治元年(1128年)7月13日、奥州藤原氏の基礎を築いた平安後期の武将・藤原清衡が73歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

すでに前九年の役後三年の役については、少し書かせていただいていますので、少々内容が重複する部分もあるかと思いますが・・・

藤原清衡(きよひら)は、亘理権大夫(わたりごんのだいぶ)藤原経清(つねきよ)安倍頼時(よりとき)の娘の息子として天喜四年(1056年)に生まれました。

父・経清は、あの平将門(たいらのまさかど)を討ち取った(2月14日参照>>)俵藤太こと藤原秀郷(ひでさと)を祖に持つ陸奥(むつ)豪族の末裔・・・母の父の頼時は、平安時代中期以降に陸奥六郡を支配していた有力豪族
(陸奥国=福島県・宮城県・岩手県・青森県+秋田県の一部)

本来なら、平穏で幸せな幼少期を送るはずたった清衡少年でしたが、その不穏な空気は、彼が生まれた、その年から漂いはじめます。

朝廷から陸奥守(むつのかみ)を任ぜられている源頼義(よりよし)安倍氏との関係に亀裂が入りはじめたのです。

簡単に言えば、この亀裂から発展した一連の戦いが、あの前九年の役(9月17日参照>>)なわけですが、最初はご先祖様の関係もあって頼義と争うつもりはなかった清衡の父・経清でしたが、自分と同じく安倍氏の娘を妻に迎えていた平永衡(たいらのながひら)が頼義に殺された事によって、身の危険を感じ、頼義派から離脱・・・安倍氏側につく事になります。

・・・で、結果は、ご存知のように、この前九年の役で安倍氏は滅・・・捕縛された経清は斬首されてしまいます。

Fuziwaranokiyohira500ast 清衡、7歳の時でした。

本来なら、ここで死ぬはずだったかも知れない清衡母子でしたが、その命は救われたものの、またまた運命に翻弄される事になります。

それは、この時、頼義に味方した出羽山北(でわせんぼく・秋田県雄物川上流から中流周辺)を支配する有力豪族・清原武則(たけのり)の息子・武貞(たけさだ)のもとに、清衡の母が嫁ぐ事になったからです。

母が、メッチャ美人だったから・・・という話もありますが、おそらくは、これまで安倍氏の領地だった場所の統治を円滑に進めるためという意味合いが強いと思われますが、どちらにせよ、敗者である安倍氏の母に、拒否権はありません。

こうして清衡は、母の連れ子として、敵将であった清原家の一員となるのですが、清原家には、すでに先妻の子である嫡男の真衡(さねひら)がいましたから、清原家の次代の当主は、その真衡で決まり・・・清原家と血縁関係のない清衡は、むしろ、安倍氏の血を引く者として、周囲からはべっ視される事もありました。

やがて武貞が亡くなり、息子たちの世代になると、ここに家督争いが生じるのです。

そう、清衡には弟が生まれていたのです。

家衡(いえひら)というこの弟は、当然、武貞の後妻となった清衡の母との間に生まれた弟ですので、血のつながらない兄と、同じ母を持つ弟との後継者争いとなった戦いでは、清衡は、弟・家衡の味方となって戦います。

しかし、真衡が亡くなると、今度は、家衡と清衡の間で争いが勃発・・・家衡は、清衡の館を襲撃し、彼の妻子や従者をことごとく殺害してしまったのです。

しかも、家衡は叔父・武衡(たけひら)をも味方につけています。

窮地におちいった清衡は、陸奥守兼鎮守府将軍として朝廷から派遣されていた源義家(みなもとのよしいえ・頼義の息子)に助けを求め、その助力を得て、からくも勝利します。

清衡=32歳・・・この清原家の家督争いが後三年の役(11月14日参照>>)と呼ばれる戦いです。

ところが、この奥州での内乱を治めたところで、かの義家は、朝廷から陸奥守を解任されてしまいます。

あくまで清原家という一家族の相続争いに、中央から派遣された陸奥守が、勝手に介入してしまったからなのか?
後三年の役での義家の名声が高まりすぎた事を、朝廷が脅威に感じたのか?
それとも・・・???

とにかく、これで清衡の1人勝ち・・・奥州の覇者となったのです。

清原姓から、実の父の姓=藤原に戻した清衡は、朝廷との関係も修復し、やがては陸奥押領使(むつおうりょうし・叛乱の鎮定にあたる役目)にも任命されました。

奥州を手に入れた後の清衡は、幼い頃から戦乱の渦の中で生き、敗者の子供として苦渋を味わった人生を拭い去るがごとく、73歳でその生涯を閉じる日までの約40年間、戦乱で世を去った人々の霊を、敵味方なく慰め、国家の平安を願う寺院の建設などに没頭する事になります。

長治二年(1105年)には平泉多宝寺(たほうじ・最初院)を建立して、鎮護国家(ちんごこっか・仏教の力を借りて国家を安定させる)の根本道場しました。

これが、中尊寺の始まりです。

清衡一代で、白河(福島県白河市)から津軽外ヶ浜(そとがはま・青森県津軽郡)までの陸奥のほぼ全域を、事実上手中に治めた背景には、陸奥特産とも言える黄金(砂金)がもたらす莫大な財力があっての事ではありますが、そこには、北方や大陸との交易を可能にし、奥州の中心として栄える平泉の町の造営に尽くした清衡の努力もあったでしょう。

この後、2代・基衡(もとひら)、3代・秀衡(ひでひら)と続く、奥州藤原氏約100年にわたる栄華の基礎を造った清衡は、大治元年(1128年)7月13日、金色に輝く中尊寺の落慶を見届けた後、あたかも、すべてをやり遂げたかのごとく、息をひきとったのでした。

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奥州藤原氏の滅亡を決定づけた阿津賀志の戦いについては8月10日のページへ>>
12年なのに「前九年の役」&5年なのに「後三年の役」?については9月17日のページへ>>
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2010年7月12日 (月)

日本のアトランティス~瓜生島・沈没伝説

 

文禄五年(1596年)閏7月12日、瓜生島が津波に襲われ、一夜にして姿を消しました。

・・・・・・・・・

時は、文禄年間の事・・・堺に住む柴山両賀(りょうが)勘兵衛という父子がいました。

親子は浪人者でありながら、船による地方との交易で財をなし、父の両賀が中年の年齢に達する頃には、なかなかのお金持ちになってはいましたが、やはり二人とも、心の底では、どこかの名将に仕官して、武士として名をなしてみたいという願いを捨てきれずにいました。

そんな中、なんとか岡城主中川秀成に仕官が叶い、親子は一族ともに豊後(大分県竹田へと移り住み、両賀は知行・1000石を与えられますが、その与えられた土地は、別府湾内に浮かぶ瓜生島(うりゅうじま・別名=沖ノ浜という島でした。

Umitosima100 それは、沖合い20町(約2180m)の距離にあり、東西約1里(約4km)、南北約20町で、1000戸余りの家屋があり、約5000人の人が住んでおりました。

両賀らは、文禄五年(1596年)正月に、この瓜生島に移り、早速、屋敷や土蔵を建て、すでに始まっていた豊臣秀吉朝鮮出兵のための船を10隻建造・・・翌月の2月には、父の両賀は、自らの船に乗って出撃しました。

万が一のため、息子の勘兵衛に知行のうちの300石を相続させ、一族のうちの3人にも、それぞれ100石ずつ分け与えての覚悟の出撃でした。

留守を預かる事になった勘兵衛・・・この年の閏7月5日には、愛する妻との間に赤ちゃんも誕生し、戦地の父が気になるとは言え、戦いのプロ=武士の一家としては幸せな日々でありました。

ところが、わが子誕生から、わずか1週間後の文禄五年(1596年)閏7月12日未曾有の災害が、この瓜生村を襲うのです。

その日の昼頃・・・いきなりの地震!

幸いな事に地震での被害は少なかったものの、その約2時間半後、瓜生島周辺の海水がみるみる引きはじめ、なんと、干潟によって陸とつながる・・・という異常な現象となります。

そう、これは、大津波の前ぶれです。

案の定、それから間もなく、激しい怒涛とともに、瓜生島は波に呑まれてしまいます。

地震から4時間ほどの時間があったため、津波の襲来を予測していた島民の多くは、小高い丘などへ非難していましたが、予想以上の大津波であったため、溺死した人は708人に達したと言います。

もちろん、柴山家も大津波に襲われました。

この時、まだ出産から7日後だった妻は、未だ出血する体でわが子を抱え、勘兵衛は家系図などの重要書類が入った木箱と槍を手に、何とか天井裏へと上りますが、水が、またたく間に上昇してきたため、さらに屋根の上へと上りました。

すると、どこからともなく、建造中の船の一部とみられる7尋(約12.7m)ほどの船板が流れて来たので、何とか、これに乗り移ります。

・・・とは言え、単なる板ですから、激しい波に激しく揺られ、沖へ沖へと流される一方・・・「もうダメか・・・」と、何度も思いながらも、やがて、少しずつ、波が穏やかになって来ていたところへ、1人の男が、小舟で近づいてきました。

「ほら!助けるよって、乗りなはれ」

お言葉に甘えて、乗らせていただく勘兵衛たち・・・

どこもかしこも大波に呑まれて家の場所もわからないまま、とにかく小舟は陸の方へと漕ぎ進み、やがて、小さな神社のある場所へとたどりつきました。

その神社が天神社であった事から、
「助けてくれた人は、天神様の化身かも知れん・・・」
と、とりあえずは、精一杯の感謝の気持ちを込めてお参りした後、近くで休息をとる事に・・・

すると、徐々に、その近くに、何とか助かった村人たちが集まってきます。

その中には、勘兵衛の家来であった吉右衛門与右衛門九郎兵衛の3人がおり、うれしい再会を果たす事ができました。

「おお、お前ら、どないして助かったんや?」
と勘兵衛が聞くと
「崩れた家に必死でしがみついていたところ、運良く、それが、大波で南の山際に打ち寄せられまして、タイミングを計って、山へと飛び移りました」

「そうか、そうか・・・けど、武具や、倉はどないなってしもたんやろ?」
「倉は、皆、崩れましたけど、大事な武具や金銀その他道具類は、ちゃんと持ち出しましたよって・・・」

彼ら3人は、持てる限りの物を確保していたようです。

ただ、家来3人は助かったものの、召使いのうち男性2人と、女性4人が行方不明・・・さらに、残念ながら、生まれたばかりの赤ん坊も、まもなく亡くなってしまったのです。

そして、この瓜生島自身も・・・

地元の方はもちろん、ご存知の方も多いでしょうが、現在の別府湾に、この島はありません。

この時、一夜にして沈んで、2度と海上に姿を見せる事はなかったのです。

今では、伝説や昔話として語られるのみで、実際に、存在した島なのかどうかは、未だ調査中の段階だそうです。

ただ、近年の研究により、この時代に、この場所で大きな地震があった事は事実であるとされているので、ひょっとして、瓜生島は、本当に存在したのかも知れません。

ところで、この瓜生島の伝説が事実だったとすると、勘兵衛らは、その知行を丸々失った事になりますが、古文書では、勘兵衛は、瓜生島の替わりとして、今津留村(いまづるむら・大分県今津留)を与えられ、中川家配下の港として運営する船奉行に任命されたとの事だそうです。

翌・慶長二年(1597年)には、父・両賀も無事帰還し、大きな災害に見舞われ、子供は失ったものの、柴山家は何とか立ち直ったという事です。

まぁ、地質学的にはイロイロあり、島ではなく半島の一部だったの説もあり、の伝説の域を超えないお話ではありますが、なんだか、あのムー大陸やアトランティスを思わせるお話ではありました。
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2010年7月11日 (日)

北条政子~尼将軍・誕生への道

 

嘉禄元年(1225年)7月11日、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻で、尼将軍と称される北条政子が69歳で、この世を去りました。

・・・・・・・・・・

夫の源頼朝(みなもとのよりとも)がいた頃は、愛人宅を燃やしてしまうほどにヤキモチを焼き、夫の死後は、まさに尼将軍として実権を握り、果ては、意にそぐわない息子を死に追いやる・・・確かに、実力はあるものの、そのぶん気が強く、鬼嫁のイメージが拭えない北条政子(ほうじょうまさこ)さん・・・

かなりの有名人なので、すでに度々このブログにはご登場いただいておりますが、やはり、あまり印象のよくない登場の仕方・・・とは言え、さすがに本日は、ご命日という事で、少し、政子さんの側から見た感じのご紹介にしてみましょう。

・‥…━━━☆

北条政子は、保元元年(1157年)、北条時政の長女として、伊豆北条(静岡県伊豆の国市)で生まれます。

ご存知のように、平治元年(1159年)に勃発した平治の乱(12月9日参照>>)で、父・源義朝(みなもとのよしとも)とともに平清盛と戦って敗北した源頼朝が、伊豆の蛭ヶ小島に流罪となり(2月9日参照>>)、その監視役となっていたのが、清盛と同じ平氏の流れを汲む北条家の時政だったのです。

やがて、年頃になった頼朝は恋をします。

その相手は、時政と同じく、頼朝の監視役となっていた平家に属する伊豆の豪族・伊藤祐親(すけちか)の娘・八重姫・・・

祐親が京都番役として、長期に渡って都に滞在している留守中に、屋敷に転がり込んで、祐親が帰ってきた時には、なんと、二人の間に男の子まで生まれていました。

平家全盛の時代です。

自分が監視している敵の子供を、自分の娘が産んだなんて事がわかったら、どんな事になるかわかりません。

激怒した祐親は、孫にあたる、その男の子を殺し、娘を別の男と結婚させてしまいました。

しかし、めげない頼朝さん・・・今度は、時政が京都番役を命じられた長期不在の間に、娘の政子をコマして・・・もとい、政子と恋に落ちたのです。

もちろん、祐親と同様、自宅に戻ってきた時政は激怒・・・早速、二人を別れさせ、政子を別の男と結婚させる事にします。

噂によれば、その相手は伊豆の目代(代官)山本兼隆だったそうですが、いよいよ、明日が婚礼の日という前の夜、降りしきる豪雨の中を、政子は家出を決行したのです。

その時、頼朝は、伊豆権現で彼女を待っていたと言われます。

家を捨て、親を捨て、まさに着の身着のまま、嫁入り道具の一つすら持たずに、政子は頼朝のもとに走ったのです。

まぁ、結局、時政は二人を許してしまうわけですが・・・

それには、時政の直系のご先祖様の平直方(なおつね)の娘の嫁ぎ先が源頼義(よりよし)で、この二人の間に生まれたのがあの八幡太郎義家・・・つまり、時政は、平家であると同時に、源氏の遠い親戚でもあったのです。

さらに、頼朝に人生を賭けてみようって野望も少なからずあったでしょう。

なんたって、頼朝は源氏の御曹子・・・自分は、このまま平氏の中にいたって、伊豆の豪族以上に出世する事は望めませんからね~。

しかし、そんな風に揺れ動く時政の心を決断させたのは、やはり、娘・政子の一途な愛だった事は確かでしょう。

この時の政子がいかに真剣だったかは、有名な、静御前鶴岡八幡宮での舞いのシーンの逸話でご存知の方も多いでしょう。

鎌倉幕府の一大イベントで、逃亡者となった恋人=源義経を慕う歌を舞い歌い、激怒した頼朝に、
「流人のアンタに恋をした…昔の私もこんなんだったワ」
と、静御前の味方となって、頼朝を諌めるシーンです(4月8日参照>>)

嵐の夜の家出と言い、この時の静御前への態度と言い、彼女は、やはり、頼朝を好きで好きでたまらなかったのでしょう。

亀の前への襲撃事件(11月10日参照>>)が有名ですが、そんなヤキモチ焼きも、恋しい気持ちの反動という物かも知れません。

…と、こんな風に、将軍=頼朝の奥さんとして、天下のおカミさんに徹していた彼女の人生が一変するのが、夫の急死です(12月27日参照>>)

amasyougunzyoukyuuc この頃の武家の奥さんというのは、夫が亡くなると髪をおろして尼となり、生涯、亡き夫の菩提を弔うというのが定番なわけですが、彼女は、確かに、尼となるものの、ご存知のように、政治の表舞台にも登場する事になります。

それには、やはり、頼朝があまりにも急に亡くなってしまった事・・・

この時、二人の間には頼家(よりいえ)と、実朝(さねとも)という二人の息子がいましたが、実朝が、未だ8歳という幼さであったので、将軍の後継者は、兄の頼家・・・ここは、すんなりと決まったのですが、この頼家だって、未だ18歳ですから、母・政子から見れば、なんとも頼りない息子だったわけです。

もちろん、これは、あくまで、政子から見た頼家で、実際に愚将だったかどうかは、簡単に判断はできないでしょう。

しかし、一つの事件が、彼女と、そして、頼朝と苦労をともにした御家人たちから見た頼家の印象を悪くしてしまったようなのです。

それは、まだ、頼朝が亡くなってから7ヶ月しか経っていない頃・・・

頼家は、頼朝が伊豆での挙兵以前から頼りにしていた重臣・安達盛長の息子・景盛奥さんを好きになってしまったのです。

そして、なんと、その景盛が公用で三河(愛知県)へと出張中のところを見計らって、その奥さんを寝取ってしまいます。

当然の事ながら、その事に猛抗議する景盛・・・それに対して、頼家は、懲罰を与えようとしたのです。

なんせ、将軍なんですから、家臣の誰もが「そりゃ、ないだろう」と思っても、注意する事なんてできません。

そこに立ちはだかったのが母・政子・・・「景盛を殺すなら、私を殺しなさい!」と一喝!

おそらく、この出来事があったで、御家人たちから見た政子の評価が上がり、逆に、頼家の評価が下がってしまったのではないでしょうか?

もちろん、政子から見た頼家の評価も・・・

比企能員(ひきよしかず)との絡みもあり、結局、政子は、わが子・頼家を死に追いやってしまうわけですが(7月18日参照>>)、この事で、政子=悪女のイメージは決定的となります。

しかし、確かに、政子と頼家は、母と子ではありますが、その子は、この国を背負っていかねばならない将軍という地位にあるのですから、そこには、ただ単に、母と子という関係だけに重きを置く事ができなかったのかも知れません。

結局、その頼家の後を継いで将軍となった実朝も、若くして暗殺されてしまい(1月27日参照>>)、政子は、またまた政治の表舞台へと推しあげられ(5月14日参照>>)承久の乱にて「尼将軍」と呼ばれる事になるのです。

…と、本日は、政子さんの味方に立って書いてみました。

★承久の乱のアレコレについては・・・
 ●承久の乱勃発~北条義時追討の院宣>>
 ●北条泰時が京へ進発>>
 ●幕府軍の出撃を京方が知る>>
 ●美濃の戦いに幕府方が勝利>>
 ●瀬田・宇治の戦いに幕府方が勝利>>
 ●承久の乱終結~戦後処理と六波羅探題>>
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2010年7月 9日 (金)

壬申の乱~大津京へ迫る大海人軍・近江の戦い

 

天武天皇元年(672年)7月9日、壬申の乱で、村国男依率いる大海人軍主力部隊が、鳥籠山にて近江朝廷軍の将・秦友足を討ち取りました。

・・・・・・・・・

第38代天智天皇の息子・大友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)と、弟の大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)の間で繰り広げられている後継者争い壬申の乱・・・

例のごとく、これまでの経緯はこちら↓で・・・
●大海人皇子が吉野に入る(10月19日>>)
●大海人皇子が吉野脱出(6月25日参照>>)
●大伴吹負・飛鳥を制圧!(6月29日参照>>)
●大海人皇子軍・野上を進発(7月2日参照>>)
●大和の戦い(7月4日参照>>)
 

・・・と7月2日の内紛で、少しつまずいてしまった近江朝廷軍・・・

一方の大海人軍本隊は、その同じ7月2日に、西に向かって進撃を開始します。

Zinsinnoranrootcc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

両者の近江周辺での最初の戦いは、未だ大和での戦いが展開中の7月7日に、息長横河(おきながのよこかわ・滋賀県米原市梓河内付近が有力)で起こります。

ここは、山に囲まれた狭い谷間で、さぞかし戦い難かったのではないかと思われますが、大海人軍の将・村国男依(むらくにのおより)が、近江朝廷軍の将・境部薬(さかいべのくすり)を討ちとって、見事、勝利を奪いました。

本隊の最初の交戦であるはずの息長横河の戦いですが、『日本書紀』では、上記のような記述が書かれるのみの、いともあっさりとした内容・・・この雰囲気が、事実を表しているとすれば、おそらくは、2日の内紛によって、朝廷軍はかなりのダメージを受けており、未だ、大海人軍とまともに交戦できるような状況ではなかったという事かも知れません。

なんせ、この時の朝廷軍の生き残りは、ここから約70kmも先にある大津宮に向かって、散り々々に敗走し、それを追撃するかたちで、大海人軍は、兵を、さらに西へと進めたと言いますから、その通りだと、朝廷軍は主力部隊の後方支援すら講じていなかったって事ですからね。

かくして天武天皇元年(672年)7月9日、追撃態勢のまま、鳥籠山(とこやま・彦根市大堀町の大堀山が有力)まで到着した男依らは、ここで近江朝廷軍の将の1人=秦友足(はたのともたり)討ち取り、さらに追撃を続けます。

ここで近江朝廷軍・・・さすがに、「このまま大海人軍を進ませるわけにはいかない!」とばかりに、安河(やすかわ=野洲川)のほとり(野洲市と守山市の境あたり)に本営を置き、大津からの援軍も合流させて、くい止め作戦を展開します。

やがて7月13日・・・この安河で、息長横河以来の2度目の主力決戦が行われますが、ここでも大海人軍の大勝利!

残念ながら朝廷軍は、さらに後退してしまう事になります。

4日後の17日には、栗太(くるもと・現在の栗東市周辺)にて、またまた大海人軍が勝利し、さらに進軍・・・大津宮まで、あと約10kmの地点にまで迫ります

しかもその頃には、琵琶湖の北から北陸へと向かい、琵琶湖の西岸を南下していた別働隊が、途中の三尾城を落とし、まさに、北から迫りつつあったのです。

もちろん、倭京の制圧隊だった大伴吹負(おおとものふけい)も、南から迫ります。

もう、あとがありません!

こうなったら、最後の防衛線瀬田川を死守・・・なんとしてでも、川を渡らせない事しかありません。

朝廷軍は、近江方面軍はもちろん、倭方面軍や伊賀方面軍の敗残兵を、この瀬田一ヵ所に結集させ、最後の戦いに挑みます。

『日本書紀』は、この時、瀬田川の西岸に布陣した大友皇子自らが率いる朝廷軍を、「こちらからは最後尾が見えないくらいの数!」なんて、少々オーバーな書きかたをしていますが、実は、どれだけの数の朝廷軍が、ここに結集しようと、その結果はすでに、この時に見えていたかも知れません。

それは、上記の「大友皇子自らが率いる・・・」という事・・・

実は、この時の大海人軍の総大将は、長男である高市皇子(たけちのおうじ)・・・ですが、最前線で指揮するのは、何度も登場している男依という人物です。

つまり、総大将の高市皇子は、ほとんど戦う事なく、かなり後方から、大まかな作戦を指示していただけと思われます。

大海人皇子に至っては、この時点でも、まだ、不破(ふわ)の関にほど近い、あの最初に本営を置いた野上(のがみ)を離れてはいなかったとされています。

つまり、そこまで力の差が歴然としていたという事になります。

もちろん、その事は、大友皇子も充分感じていたでしょう。

だからこそ、瀬田を最後の決戦の地と決め、自ら指揮をとったのです。

いよいよ決戦の時は近づきます・・・が、
そのお話は、すでに書かせていただいているその決戦の日=7月22日のページでどうぞ>>
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2010年7月 7日 (水)

七夕に寄せて~星の昔話「毘沙門の本地」

 

7月7日は七夕・・・

今年もまたまたで恐縮ですが・・・

やはり、今日は星にまつわる昔話をご紹介しましょう。

・‥…━━━☆

むかしむかし、
天竺(てんじく)瞿婁(くる)に住む千載(せんざい)は、冨も名誉もその手にし、もはや何も望む事はないように思われましたが、唯一、子供がいない事が悩みの種でした。

ある時、梵王にお参りをして、熱心に祈願すると、なんと姫君を授かります

王は、その子を大天玉姫と名付けて可愛がり、やがて姫は美しい乙女に成長します。

そんな姫を「嫁に貰いたい」と言って来たのは、摩耶(まや)の大王・・・結婚話はトントン拍子に決まり、姫は、摩耶国へと向かうのですが、その途中に通過した維曼(ゆいまん)国で、たまたま出合った金色太子という若者と、いまさらながらのビビビ婚(←古い!)

ひと目会ったその日から、恋の花咲く事もある仲睦まじいカップルでありましたが・・・そう、本当なら、彼女は摩耶国へ行くはずだったわけで・・・

・・・で、話をつけるため、いや、はっきり言って相手を討ち負かすため、「3年経ったら帰って来るさかいに、待っとれや」
と言い残して太子は摩耶国へと向かうのですが、約束の時を過ぎても太子は帰らず、悲しみにうちひしがれた姫は、残念な事に、留守中に亡くなってしまったのでした。

姫の死を知って、悲しみに暮れる太子でしたが、ある夜、夢のお告げによって、姫が天上界(大梵宮)に転生して、大梵王(だいぼんおう)黄金の筒井のほとりで暮らしている事を知ります。

「これは、早速、会いに行かねば!」
と、金麗駒(きんれいく)という名馬にまたがり、天上界へと旅立ちました。

・・・とは言え、初めての天上界・・・いったい、どこに何があるやら、さっぱり?です。

そこが、どこともわからず、昼も夜なく、いつしか3年という月日をさ迷い歩き、ある高い山の頂上にたどり着きました。

すると、そこで、1人の僧が、仏像に灯明(とうみょう)をあげて礼拝している場面に出くわします。

早速、黄金の筒井とやらへの道を尋ねる金色太子・・・

「この先、西に向かって9ヶ月ほど進んで行きなはれ・・・ほんだら、犬を3~4匹、腰に結んでる人に出会うやろうから、その人に道を聞きなはれ。
ほんで、ここまで、誰に道を聞いてきたか?と尋ねられたら、長庚星
(ゆうづつ・よいの明星)に教えてもろた・・・って答えるんやで」
と教えてくれました。

言われたとおりに進んで行くと、アラ本当に・・・
犬を2~3匹腰につけた僧侶に出会いました。

もちろん、教えられたとおりに道を尋ねます。

すると、
「ここより西に、3年ほど行くと、大きな川がある。
川の広さは300由旬
(ゆじゅん)ほどあって、とてもやないけど、すぐに渡れるような川やない!
けど、その近くの木の下に、幼い男の子と女の子の二人を連れたオバハン・・・いや、マダムがおるさかいに、その先のの事は、その人に聞きなはれ。
ここまで、誰に聞いてきたか?と尋ねられたら、彦星が教えてくれた・・・って言うんやで~」

と教えてくれました。

ちなみに、1由旬=60インド里やそうですが、何のこっちゃわかりません。
でも、とりあえず行くと大きな川が・・・天の川やろな~っていうのは想像できます。

やがて、言われたとおりの大河のほとりにたどりつきました。
確かに、デカイ川です。

ところが、オッサンが、「ちょっとやそっとじゃ渡れん!」と言っていたその大河ですが、霞のムチを金麗駒に当てると、アッと言う間に、飛び越しちゃいました。

すると、向こう岸には、二人の子供を連れたかのマダムが・・・

「いやいや・・・私も、くわしい事は知らんねんけど、ここから、さらに3年ほど西に行くと、何人かの僧侶に出会うから、その人らに聞いてみて!
ここまでは織姫星が教えてくれた・・・って言うんやでぇ~~~」

そのとおりに行くと、今度は、立派な僧の雰囲気をかもし出した人物が、7~8人ぞろぞろと現われて、やはり、同じように道を教えてくれます。

「我々は、七曜の星(北斗七星)である」と名乗ります。
・・・って名乗るだけかい!

さらに進んで行くと、今度は須弥(しゅみ)のような大きな山で火が燃え盛る様子を横目に見ながら、その次は真っ暗な闇・・・そこを進んでいくと、竹林の中に、2千人ものお供を連れ、銀の輿に乗った明星ぼしに出会いますが、まだ、黄金の筒井には到着しません。

結局わからず、またまた尋ね歩き・・・
さらに歩き・・・

やがて苦労に苦労を重ねて、ようやく姫に出会う事ができました。

しかし、太子は現世の人で、姫は冥界の住人・・・このままでは、二人が結ばれる事ができないため、大梵王の粋なはからいで、新婚旅行よろしく福徳山へと飛行する二人・・・

そこで太子は毘沙門天王となり、姫は吉祥天女となり、二人は永遠の愛を誓うのでした。

めでたしめでたし

・‥…━━━☆

このお話は、室町時代から江戸時代にかけて成立したとされる挿絵つき短編物語集『御伽草子(おとぎぞうし)の中にある「毘沙門(びしゃもん)の本地(ほんじ)というお話です。

毘沙門だけでなく、八幡の本地貴船の本地など、「本地物(ほんじもの)と呼ばれる種類のお話の一つ・・・

本地物とは、主人公はもともと神仏の申し子として人間界に生まれ、様々な苦難を体験しながら自らを磨き、最後には神仏として転生するというストーリー展開をする物で、上記の御伽草子をはじめ、室町時代から江戸時代の説話集に多く登場するパターンの物語・・・

神仏社寺の縁起や由緒を、一般にもわかりやすく解いた物なのでしょう。

それにしても、天上界でウロウロするくだりは、一昨年の今日ご紹介した日本の七夕伝説「天稚彦(あめわかひこ)物語」(2008年7月7日参照>>)と、そっくりですね~。

まぁ、天稚彦物語も御伽草子なので、この頃のハヤリなのかしらん。

Tanabata110 ところで、この金色太子が出会う星たちですが、天の川を挟んで向かい合う彦星と織女星の間が3年かかる・・・

夜空を見上げた昔の人は、そこに輝く星と星の距離が、実際には何年もかかるほど遠い物だという事を知っていたのでしょうか?

ひょっとして、すでにガリレオ「それでも地球は回っている」の名ゼリフが伝わっていたのかしら?

なにやら、歴史のロマンと宇宙のロマンが重なった不思議な気持ちになるお話でした。

上記の天稚彦物語以外にも、七夕にまつわるお話を、以前にご紹介していますので、七夕の今宵、お楽しみくださいませ~

七夕の夜に日本最古のK-1ファイト!>>
南西諸島の七夕伝説・天降子と天人女房>>
大阪・池田の民話「星月夜の織姫」>>
七夕伝説発祥の地・交野ヶ原>>
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2010年7月 6日 (火)

歴代天皇表にない慶光天皇とは?~尊号一件

 

寛政六年(1794年)7月6日、第119代・光格天皇の父・慶光天皇が、62歳で崩御されました。

・・・・・・・・・・

京都御所を中心に緑豊かな京都御苑・・・その京都御苑の東側にある梨木神社から寺町通を挟んでさらに東にあるのが、紫式部の邸宅跡として知られる廬山寺(ろざんじ)です。

門を入って正面奥・・・突き当たりの土塀の左側が本堂の入り口で、土塀の右側には、小さな石碑が立ち、その奥への細い通路がのびています。

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石碑には「廬山寺陵(ろざんじのみささぎ) 参道」とあります。

そう、ここ廬山寺の境内墓地の一角には天皇陵があるのです。

その御陵は、慶光(きょうこう)天皇陵・・・しかし、この慶光天皇という天皇は、歴代天皇表にはみられない天皇・・・ゆえに、第○代というのもありません。

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慶光天皇陵のある廬山寺への行き方は、本家HP:京都歴史散歩【安倍晴明と御所周辺】へどうぞ>>

その秘密は、慶光天皇の息子である第119代・光格(こうかく)天皇にあります。

Tennoukeizu119koukaku この光格天皇は、先代の第118代・後桃園(ごももぞの)天皇が22歳の若さで亡くなり、その子供が前年に生まれた女の子しかいなかったため、急遽、3代前に枝分かれした閑院宮家から養子に入り皇位を継いだのです。

すでにブログにご登場いただいております光格天皇(11月18日参照>>)は、そのページにも書かせていただいたように、徳川家康江戸幕府を開いた頃の天皇だった第108代後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)の抵抗空しく発布された「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)のおかげで、天皇は何事も幕府の許可を得なければ行動できなかった江戸時代において、少なからず復権を試みた骨のある天皇様であります。

そんな光格天皇ですから、父が天皇になれずにいた事、自分が、そんな父より高い地位にいる事が親不孝なのではないか?と常々悩んでいたのです。

本来なら、皇位は、親子か兄弟の間で継承されますから、次の天皇が即位した場合、その父または兄である先代天皇は、上皇という尊号をうけるわけですが、天皇になっていない光格天皇の父は、親王の位のまま・・・

そう、この頃は、光格天皇の父は、閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王という皇族の1人という身分だったのです。

そこで、光格天皇・・・即位3年後の天明二年(1782年)、ここは、ちゃんと禁中並公家諸法度にのっとって、朝廷から幕府へ、「天皇の希望」という形で、父の典仁親王に上皇の尊号を贈ってもよいか?というお伺いをたてたのです。

ところが、2年経って、やっと返って来た返答は・・・
「典仁親王御1代に限って、特別に1000石差し上げましょう」
というもの・・・

つまり・・・「領地をやるから尊号はあきらめろ」というのです。

いやいや、ここであきらめたら男がすたる!

光格天皇の希望は、天明七年にも、そして八年にも幕府に伝えられましたが、幕府からは、上記の回答以上の良い返事は得られませんでした。

しかし、なんだかんだでここまでは、内々に希望を出してしたのみで、事が表面化する事はありませんでしたが、やがて、元号が変わった寛政元年(1789年)・・・朝廷は正式に「典仁親王に尊号を進呈したい」と申し出たのです。

驚いたのは、時の老中・松平定信です。

彼が以前に謁見した関白・鷹司輔平(たかつかさすけひら)の話ぶりだと、朝廷はそれほど強硬姿勢を貫くようにも見えず、なんとなく、このままやり過ごせるものと考えていたのです。

しかし、正式な要望には正式な返答をしなければなりません。

ここで幕府は初めて、正式に「拒否!」の回答を伝えました。

ところが、強気の光格天皇・・・まだ、あきらめません!

結局、その姿勢に圧された幕府は・・・
「んじゃ、2000石にするから、どう?」
と、商売人もどきの交渉に・・・

定信にすれば、なんだかんだ言っても、あのヤンワリ姿勢の輔平さんが、イイところで妥協してくれるんじゃぁないの???なんて、もくろみもあったようですが、ここで、そのアテが外れます。

寛政三年(1791年)、その関白が、輔平から一条輝良(いちじょうてるよし)選手交代・・・この輝良さんが、これまた尊号問題にかなり積極的!

ころあいを見計らって
「典仁親王は体調を崩してはりますよって、寛政四年の11月までに尊号宣下(せんげ)実施したいと思いますんで・・・」
と、期限をつけての交渉に入ります。

これは、幕府にとって一大事です。

つまりは・・・
「親王は、かなりの高齢であるから、万が一の事があるかも知れない・・・ぐずぐずしてるとえらい事になっちゃうよん」
と・・・

脅しとも取れるこの言い回しに、ブチ切れたのは定信のほう・・・

断固として拒否する事に決めた定信は、
「実質的な責任者を追及するため、3人の公家を江戸に召喚する!」
と通告したのです。

3人の公家とは、ここまで、その中心となって交渉を続けて来た正親町公明(おおぎまちきんあき)中山愛親(なるちか)広橋伊光(これみつ)の3人・・・京都の公家を江戸へ呼びつけて処分しようなど前代未聞の強気です。

しかし、これには朝廷も逆ギレ・・・
「予定通り、11月には尊号宣下を決行しまっさかいに!」
と通告・・・

もはや一触即発の状態となりますが・・・

あぁ・・・悲しいかな、お公家さん・・・そのホンネは、やっぱり争い事が好きではないのですよ(ρ_;)

なんだかんだで、本気のドンパチは、どうしても避けたい!

結局、絶対に譲らない幕府の姿勢を見た朝廷は、
「尊号はあきらめるので、3人の公卿の召喚は撤回してチョーダイ」
と、柔軟な姿勢へと変化・・・

しかし、なんだかんだで幕府は武士・・・抜いた刀をただで納めるわけにもいきません。

交渉に交渉を重ねた末、3人のところを2人に減らして、なんとか全面解決にこぎつけました。

かくして寛政五年(1793年)2月・・・正親町公明と中山愛親の二人が江戸へ召喚され、審問を受けました。

その結果、愛親は閉門(門を閉ざして家に籠る=謹慎)公明は逼塞(ひっそく・閉門よりちょっとだけゆるい謹慎)・・・他に、5人の公家が処分されました。

こうして、世に「尊号一件(そんごういっけん)と呼ばれる一連の騒動は幕を閉じますが、結局、その翌年の寛政六年(1794年)7月6日典仁親王は尊号を得られないまま、62歳でこの世を去りました。

その生涯を見る限り、なかなか勝気な光格天皇・・・さぞかし、くやしい思いをした事でしょう。

やがて、それから59年・・・嘉永五年(1852年)9月22日、あの閉門処分を受けた愛親の玄孫(やしゃご・子→孫→ひ孫→玄孫)にあたる中山慶子という女性が、その中山邸のうぶ屋にて、男の子を出産します。

彼女は、第121代・孝明天皇に仕えていた典侍(ないしのすけ・後宮の女官)・・・妊娠した事に気づいて、実家の中山家に戻り、ここで出産したのです。

祐宮(さちのみや)と名付けられた男の子は、5歳になるまで、その生家ですくすくと育てられ、やがて御所の内裏(だいり・天皇の住まい)へと移り、慶応三年(1867年)正月9日に、わずか16歳で天皇となります。

ご存知、明治天皇です。

光格天皇のくやしい思いは、徳川幕府を倒した、この直系のひ孫によって晴らされる事になったのです。

明治十七年(1884年)、明治天皇は、典仁親王に慶光天皇の号を追贈したのです。

ゆえに、廬山寺にある墓所は廬山寺陵と呼びますが、歴代天皇表には、慶光天皇のお名前はないのです。
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2010年7月 5日 (月)

謎の下山事件

 

昭和二十四年(1949年)7月5日、当時、国鉄総裁を務めていた下山定則さんが、出勤途中に失踪しました。

・・・・・・・・・・

世に、下山事件と呼ばれる一件です。

昭和二十四年(1949年)7月5日朝、下山定則(しもやまさだのり)国鉄総裁は、公用車にて出勤途中、「買いたい物があるので・・・」と、日本橋三越デパートの前で車を降り、運転手を待たせたまま行方不明になったのです。

その日は、午前9時から重要な会議があり、普段遅れる事がなかった下山総裁から、連絡すらない事を心配した秘書が、自宅に電話して家人に確認したところ、「いつも通り公用車で出た」との回答・・・庁内は大騒ぎとなります。

やがて、同じ日の深夜・・・つまりは、日づけが変わった6日午前0時過ぎ、常磐線下りの綾瀬駅手前で、轢死体(れきしたい・列車にひかれた死体)となった下山総裁が発見されたのです。

下山総裁が、前日の7月4日に発表されたばかりの国鉄職員3万7千人の人員整理の最高責任者だった事から、この事件は、それに伴う心労からの自殺か?、あるいは、それを恨みに思った過激な国鉄関係者による他殺か?と、取りざたされる事件となったのです。

その後、ご遺体の鑑定を担当した東大教授と慶大教授の意見も対立し、その注目度は、さらに増していったのです。

最初、警察内部では、ご遺体の身元が下山総裁であるとわかった時点で、他殺とも考えられましたが、その後、死亡直前の足取りを調べていくうち、第3者の存在を疑わせるものがなかった事から、自殺との見方をしていたと言います。

遺体発見の前日、
現場近くの旅館で、下山総裁らしき人物が、1人で休憩をとっていた・・・・
とか、
現場付近でも、下山総裁らしき人物が目撃されているものの、その時も1人であった・・・
などと、1人で行動していたと思われる目撃証言ばかりだったのです。

ただし、この見解は、警察が公式に発表したものではなく、事件より半年経ってから、スクープとして雑誌が公表したものです。

もちろん、雑誌だけではなく、新聞各社もこぞって、自殺説・他殺説と、独自の取材による見解を展開していきます。

注目を浴びる事件なだけに、当時人気の作家や評論家などの様々な推理も展開されたわけですが、それらの多くは、遺体の損傷に比べて着衣が傷んでいない事、ライターなどの所持品がない事、着衣に不審な物質が染みこんでいた事、靴に歩いた形跡が見当たらない事、などから、他殺説に傾く事が多く、色々な犯人像が推理されました。

他殺となれば、最も多いのは、やはり国鉄関係者説ですが、当時の日本は、未だ占領下にあった事からか、アメリカの陰謀説なども登場しました。

アメリカ陰謀説の場合は、組合の活発な活動が、日本人の思想に変化をもたらすのではないか?と恐れたから・・・というものですが、もちろん、これも含めて、すべての見解は、あくまで推理にすぎません。

先に書かせていただいたように、警視庁の捜査一課は、自殺との見方をし、一方の検察は、あくまでも他殺の立場をとり続けたと言われる下山事件ですが、結局、昭和三十九年(1964年)7月6日時効成立となり、事件は迷宮入りとなりました。

・‥…━━━☆

歴史と呼んで良いのかどうかも悩む昭和の時代の、しかも迷宮入りの未解決事件ですから、丹念に調査された方々の書籍やサイトが世間に数ある中、近代史が苦手な私が、なんだかんだと論ずる事など、到底できませんし、ブログに書くかどうかさえ悩んだ、本日の下山事件ですが、せっかく「今日は何の日」というテーマのブログなので、7月5日という日にあった出来事の一つとして、世間一般に公表されている事件の経緯という形で、今回は、私見を挟まず書かせていただく事にしました。
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2010年7月 4日 (日)

伊賀で当麻で箸墓で…壬申の乱・大和の戦い

 

天武天皇元年(672年)7月4日、先月に勃発した壬申の乱で、飛鳥古京を制圧した大伴吹負が、朝廷軍に、乃楽山で敗北しました。

・・・・・・・・・・・

連日の壬申の乱で恐縮ですが、ここは、続いて起こった出来事は、続いていっちゃいましょう!

天智天皇の後継者争いとして大友皇子(おおとものみこ・天智天皇の息子の弘文天皇)と、大海人皇子(おおあまのみこ・天智天皇の弟で後の天武天皇)の間に勃発した壬申の乱・・・

これまでの経緯は・・・
●大海人皇子が吉野に入る
(10月19日>>)
●大海人皇子が吉野脱出(6月25日参照>>)
●大伴吹負・飛鳥を制圧!(6月29日参照>>)
●大海人皇子軍・野上を進発(7月2日参照>>)
でご覧下さい

6月29日に、倭京(やまとのみやこ=飛鳥古京)を制圧した大伴吹負(おおとものふけい)は、乃楽山(ならやま・現在の奈良市の北側)駐屯しておりました。

大友皇子配下の近江朝廷軍は、大津京から攻め込んでくるのですから、当然、北を守らねばなりませんから・・・

しかし、7月3日、河内(大阪府)方面から、朝廷軍の来襲あり」との報告を受けた吹負は、かねてより、「倭京の守りを固めておかねば・・・」と進言する荒田尾赤麻呂(あらたおのあかまろ)に、わずかの兵を与えて倭京へと向かわせる一方で、坂本財(さかもとのたから)河内方面の最前線を守らせました。

その日のうちに倭京に到着した赤麻呂は、橋の板を外して大津京へと通じる道に、楯のように並べ、まさかの時の偽装工作をほどこします。

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↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして天武天皇元年(672年)7月4日、大津宮より南下してきた大野果安(おおのはたやす)が、乃楽山に駐屯していた大伴吹負隊を襲撃しました。

結果は、大野果安隊の完全勝利・・・敗北した吹負は、わずか数騎で、命からがら伊賀方面へ落ちのびるというほどの完敗ぶりでした。

しかし、その先へ進んだ果安・・・近くの山上に登って倭京を眺めてみると、多くの楯が並んでいるのが見えます。

偽装とは気づかず、それを伏兵と見た果安は、倭京へ攻め入る事なく、兵を退いてしまいます。

もちろん、この間に態勢を立て直す吹負・・・

一方、河内方面へ向かった財は、途中、高安城に敵軍がいる」との知らせを受け、山へと攻め上ります。

この高安城(たかやすのき)とは、現在の奈良県生駒郡と八尾市との境にある高安山に、天智天皇が構築した朝鮮式の山城です。

例の白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い(8月27日参照>>)に敗退し、大陸からの脅威が頂点となった時に、対馬(つしま)壱岐(いき)などに連絡のための烽火台を設置したり(4月23日参照>>)筑紫(つくし・北九州)水城(みずき)を構築したりしたと同時期に、瀬戸内海や近畿にも、多くの朝鮮式山城を建築したのです。

この高安城もその一つ・・・つまり、(中国)新羅(しらぎ)との戦いを想定して造られた城なわけで、難波(なにわ・大阪府)の海から上陸して向かってくる西の敵に対する備えは万全であったものの、大和(奈良県)から攻めてくる東側の守りは想定の範囲内に入ってはいなかったわけです。

その事は、朝廷側も充分承知していますから、確かに、寸前まで、ここに敵兵はいましたが、はなから、ここで戦う気はなく、財らが山上についた頃には、さっさと税倉に火をつけて逃げ去ってしまっていたのです。

・・・と、ここで、ふと、財らが眼下に広がる河内平野に目をやると、河内方面から倭京を奪回すべく7月1日に大津を進発した壱岐韓国(いきのからくに)率いる軍が、こちらに向かって進軍しているのが確認できました。

慌てて城を下って衛我河(えがかわ・現在の石川)を渡り、川の西岸にて韓国隊と交戦に挑む財でしたが、残念ながら敗退・・・

ところが、坂本財隊を破った韓国は、なぜか追撃をせず、その日は、その場に留まってしまいます。

実は、7月2日に起こった琵琶湖北上中の朝廷軍での内紛・・・どうやら、この話が韓国らにも伝わり、隊に動揺が走った事があったようなのですが、それが原因か?はたまた別の何かがあったのか?・・・その真意のほどはわかりません。

とにかく、これも、吹負に態勢立て直しのチャンスを与えてしまったようです。

・・・と、その吹負・・・このチャンスを逃すまいとばかりにに、7月5日・・・現在の奈良県宇陀郡榛原の墨坂付近で、置始莵(おきそめのうさぎ)率いる1000ほどの軍勢と合流します。

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桜井から墨坂神社へ向かう現在の伊勢街道・西峠付近…墨坂神社は文安六年(1449年)まで、この西峠付近に鎮座し、吹負はここでで莵と合流したという

この莵という人物は、大海人皇子が倭方面へと進軍させた紀阿閉麻呂(きのあへまろ)の配下の人・・・力強い味方を得た吹負は、倭方面へと進軍し、二上山のふもと=当麻(たぎま・奈良県当麻町)葦池の畔(あしいけのほとり)で、かの韓国隊を破ります。

さらに阿閉麻呂本隊と合流した吹負は、ここで、近江から倭京へと向かう3つの道=上ツ道中ツ道下ツ道の警備を強化し、朝廷軍シャットアウト作戦に出ます。

当時から、奈良盆地を南北に抜ける道はいくつかあったようですがその中でも重要だったのが、上記の3つの道で、一番西側を行くのが下ツ道、続いて中ツ道→上ツ道となって、その上ツ道のさらに東の山づたいに行く道が、日本最古と言われる山の辺の道です。

7月7日(もしくは8日)、中ツ道を警護する少数の吹負隊に向かって、犬養五十君(いぬかいのいきみ)廬井鯨(いおいのくじら)らが率いる朝廷の倭方面軍が攻めかかります。

(ちなみに、ここまで倭方面軍を率いていた果安の名前は、なぜか、この後、出てきません)

さらに、上ツ道の箸陵(はしはか・桜井市箸中の箸墓古墳付近)でも戦闘が開始されたために、警備隊もどきの吹負軍は、大軍に攻め込まれて大ピンチ・・・ところが、ここに地元豪族の三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)が駆けつけ、鯨隊を背後から奇襲します。

おかげで戦況は大逆転・・・吹負ら大海人軍の大勝利に終わり、これを機に朝廷軍は、倭方面から全面撤退する事になります。

すでに、7月6日には、伊賀を経由して攻めて来る近江朝廷軍を迎え撃つべく配置されていた多品治(おおのほむち)らが率いる約3000ほどが、莿萩野(たらの・伊賀市佐那具町)にて朝廷軍を破っていた事もあって、こちらからも朝廷軍は全面撤退します。

なんせ、この朝廷軍・・・あの本隊が、あそこで内紛しちゃってますから、もはや、多方面で戦闘を繰り返す余力はなく、この先、大津宮を攻めにやってくる大海人軍を迎え撃つべく、近江路一本にしぼるしかなかったのです。

かくして、この後、壬申の乱の舞台は、近江周辺へと移る事になりますが、そのお話は、また関連する7月9日のページへどうぞ>>
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2010年7月 2日 (金)

壬申の乱~大海人皇子・進発…その時朝廷軍は

 

天武天皇元年(672年)7月2日、関ヶ原付近に駐屯していた大海人皇子の軍勢が、3方面に分かれて進発・・・一方の朝廷軍では内紛が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・

亡き天智天皇の後継者争いとして、その息子・大友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)の間で勃発した壬申の乱・・・

すでに、父に代わって朝廷内の中心人物となっていた大友皇子に対し、身の危険を感じて、一旦吉野へと身を引いていた大海人の皇子(10月19日参照>>)が、その吉野を脱出したのは、天武天皇元年(672年)6月24日の事でした(6月25日参照>>)

その知らせを聞いた近江朝廷側は、各地に援軍を要請しますが、良い返答が得られず、やむなく畿内の兵を集めて、6月27日、すでに不破(ふわ)の関まで到着している大海人皇子へ向けて、大津京を進発します。

しかし、その間に、すでに大海人皇子側についていた大伴吹負(おおとものふけい)らが、留守役たちを抱き込んで、倭京(やまとのみやこ・古京=飛鳥の事)を制圧したのです(6月29日参照>>)

・・・と、本日は、このお話の続きです~

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↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・‥…━━━☆

まずは6月27日に大津京を進発した朝廷軍・・・山部王(やまべのおう)を総大将に、蘇我秦安(そがのはたやす)巨勢人(こせのひと)を副将にすえた数万の兵が、大海人皇子軍本隊を襲撃すべく、琵琶湖の東岸をひた走ります。

続いて7月1日、大野果安(はたやす)らが、先に吹負に奪われた倭京を奪回すべく、大津を進発・・・

同じく7月1日、河内(大阪府)から国境を越えて、倭京奪回をめざす壱岐韓国(いきのからくに)らが進発します。

一方、これを迎え撃つ大海人皇子軍・・・隊を3方面に分けます

紀阿閉麻呂(きのあへまろ)が率いる数万の兵は、一旦、倭京へと向かい、そこで吹負らを援護して、制圧を固めてからともに、南から大津へと進撃するルート。

村国男依(むらくにのおより)率いる数万は、すでにコチラへ向かっている朝廷軍本隊を撃破し、その勢いのまま大津京へとなだれ込む作戦。

さらに、多品治(おおのほむち)らが率いる約3000ほどを、朝廷側が伊賀を経由して大海人皇子軍本隊を攻めた時のために、その前で迎撃すべく準備します。

実は、先の朝廷軍・・・6月27日に進発した本隊と、7月1日に進発した2つの軍に続いて、7月5日に田辺小隅(たなべのこすみ)率いる4番目の軍を進発させているのですが、この軍が、鈴鹿を越えて、野上の大海人皇子の本営を襲撃すべく進発した軍・・・その迎撃のためとは、大海人さん、キッチリ読んでましたね。

Tenmutennou400at ・・・と、話が前後しましたが・・・
かくして天武天皇元年(672年)7月2日大海人皇子は、上記の3隊を、各方面に向けて進発させたのです。

この時、大海人皇子は、自らの身に赤い布をつけ、軍旗も真っ赤に統一・・・これは、もちろん、第一には、敵味方を区別するためですが、漢王朝を打ち立てた劉邦(りゅうほう)にならったのではないかと言われています。

当時の中国では五行説(1月10日参照>>)が盛んで、その中でもとした事から、劉邦は火をイメージする赤を自らのシンボルカラーにしていたと言われ、自らを正義、自らを帝王を称した劉邦のようにと、大海人皇子が自らをなぞらえたのだろうとされています。

まぁ、武田や井伊の赤備え(2月1日参照>>)と同様、何かワカランけど赤い軍団が突進してくるっていうのは、なんともズゴイ雰囲気って感じの効果もあるでしょうしね。

ところで、一方の大友皇子は、この時、金をシンボルカラーにしていたそうですが、これは、五行説でいうところの「火は金に克つ(火は金属を溶かすので)という意味からの後付けでしょうね。

「火の大海人皇子が金の大友皇子に勝った」「運命的な勝利」って事を言いたいのでしょうが、こんなくだりを付け加えてしまったために、大海人皇子の赤旗使用の話まで疑わしく聞こえてしまうのが、なんとも残念です。

・・・で、こうして、大海人皇子の軍が進発した7月2日・・・

この同じ日に、6月27日に大津を出た朝廷軍の本隊が、犬上川(滋賀県犬上郡から彦根へと流れる)のほとりに到着し、ここに駐屯しているのですが、その直後、とんでもない事が起こってしまいます。

この朝廷軍の総大将は山部王で、副将とが蘇我秦安と巨勢人・・・ところが、なんと、副将の二人によって、総大将の山部王が殺害されてしまったのです。

実は、この山部王・・・大海人皇子の息子である大津皇子が、父の挙兵に合流しようと大津京を脱出するのを、止めるどころか、やさしくお見送りしていた事が発覚したのです。

つまり、朝廷の総大将でありながら、すでに、心は大海人皇子に・・・ひょっとしたら、この先、どこかで寝返るつもりだったかも知れなかったのです。

ただ、この裏切りが本当だったかどうかは微妙です。

それは、殺害犯の1人である秦安が、そのまま陣を離脱し、大津へと戻って自殺してしまうからで、確かに、お見送りは事実だったとしても、実際に寝返った事実は、ないわけですし、お見送りは、単に仲が良かっただけという事もあります。

その日まで、都でいっしょに仕事してたわけですし・・・

なので、秦安の自殺を考えると、山部王の寝返りというよりは、総大将と副将の意見の食い違いによる内紛の可能性もあります。

ただ、理由は微妙でも、山部王と秦安が死んでしまった事は事実・・・これは、朝廷軍内部の大きな動揺となり、もはや、本隊は進撃もままならない状況となってしまうのですが、そうは言っていられない戦時下・・・

この後、ほぼ連日、倭京で、伊賀で、そして本隊・・・と、それぞれの戦いが繰りひろげられる事になるのですが、そのお話は、また、関連する7月4日のページに書かせていただきましたのでどうぞ>>
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