寛政六年(1794年)7月6日、第119代・光格天皇の父・慶光天皇が、62歳で崩御されました。
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京都御所を中心に緑豊かな京都御苑・・・その京都御苑の東側にある梨木神社から寺町通を挟んでさらに東にあるのが、紫式部の邸宅跡として知られる廬山寺(ろざんじ)です。
門を入って正面奥・・・突き当たりの土塀の左側が本堂の入り口で、土塀の右側には、小さな石碑が立ち、その奥への細い通路がのびています。
石碑には「廬山寺陵(ろざんじのみささぎ) 参道」とあります。
そう、ここ廬山寺の境内墓地の一角には天皇陵があるのです。
その御陵は、慶光(きょうこう)天皇陵・・・しかし、この慶光天皇という天皇は、歴代天皇表にはみられない天皇・・・ゆえに、第○代というのもありません。
慶光天皇陵のある廬山寺への行き方は、本家HP:京都歴史散歩【安倍晴明と御所周辺】へどうぞ>>
その秘密は、慶光天皇の息子である第119代・光格(こうかく)天皇にあります。
この光格天皇は、先代の第118代・後桃園(ごももぞの)天皇が22歳の若さで亡くなり、その子供が前年に生まれた女の子しかいなかったため、急遽、3代前に枝分かれした閑院宮家から養子に入り皇位を継いだのです。
すでにブログにご登場いただいております光格天皇(11月18日参照>>)は、そのページにも書かせていただいたように、徳川家康が江戸幕府を開いた頃の天皇だった第108代後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)の抵抗空しく発布された「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」のおかげで、天皇は何事も幕府の許可を得なければ行動できなかった江戸時代において、少なからず復権を試みた骨のある天皇様であります。
そんな光格天皇ですから、父が天皇になれずにいた事、自分が、そんな父より高い地位にいる事が親不孝なのではないか?と常々悩んでいたのです。
本来なら、皇位は、親子か兄弟の間で継承されますから、次の天皇が即位した場合、その父または兄である先代天皇は、上皇という尊号をうけるわけですが、天皇になっていない光格天皇の父は、親王の位のまま・・・
そう、この頃は、光格天皇の父は、閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王という皇族の1人という身分だったのです。
そこで、光格天皇・・・即位3年後の天明二年(1782年)、ここは、ちゃんと禁中並公家諸法度にのっとって、朝廷から幕府へ、「天皇の希望」という形で、父の典仁親王に上皇の尊号を贈ってもよいか?というお伺いをたてたのです。
ところが、2年経って、やっと返って来た返答は・・・
「典仁親王御1代に限って、特別に1000石差し上げましょう」
というもの・・・
つまり・・・「領地をやるから尊号はあきらめろ」というのです。
いやいや、ここであきらめたら男がすたる!
光格天皇の希望は、天明七年にも、そして八年にも幕府に伝えられましたが、幕府からは、上記の回答以上の良い返事は得られませんでした。
しかし、なんだかんだでここまでは、内々に希望を出してしたのみで、事が表面化する事はありませんでしたが、やがて、元号が変わった寛政元年(1789年)・・・朝廷は正式に「典仁親王に尊号を進呈したい」と申し出たのです。
驚いたのは、時の老中・松平定信です。
彼が以前に謁見した関白・鷹司輔平(たかつかさすけひら)の話ぶりだと、朝廷はそれほど強硬姿勢を貫くようにも見えず、なんとなく、このままやり過ごせるものと考えていたのです。
しかし、正式な要望には正式な返答をしなければなりません。
ここで幕府は初めて、正式に「拒否!」の回答を伝えました。
ところが、強気の光格天皇・・・まだ、あきらめません!
結局、その姿勢に圧された幕府は・・・
「んじゃ、2000石にするから、どう?」
と、商売人もどきの交渉に・・・
定信にすれば、なんだかんだ言っても、あのヤンワリ姿勢の輔平さんが、イイところで妥協してくれるんじゃぁないの???なんて、もくろみもあったようですが、ここで、そのアテが外れます。
寛政三年(1791年)、その関白が、輔平から一条輝良(いちじょうてるよし)に選手交代・・・この輝良さんが、これまた尊号問題にかなり積極的!
ころあいを見計らって
「典仁親王は体調を崩してはりますよって、寛政四年の11月までに尊号宣下(せんげ)を実施したいと思いますんで・・・」
と、期限をつけての交渉に入ります。
これは、幕府にとって一大事です。
つまりは・・・
「親王は、かなりの高齢であるから、万が一の事があるかも知れない・・・ぐずぐずしてるとえらい事になっちゃうよん」
と・・・
脅しとも取れるこの言い回しに、ブチ切れたのは定信のほう・・・
断固として拒否する事に決めた定信は、
「実質的な責任者を追及するため、3人の公家を江戸に召喚する!」
と通告したのです。
3人の公家とは、ここまで、その中心となって交渉を続けて来た正親町公明(おおぎまちきんあき)と中山愛親(なるちか)と広橋伊光(これみつ)の3人・・・京都の公家を江戸へ呼びつけて処分しようなど前代未聞の強気です。
しかし、これには朝廷も逆ギレ・・・
「予定通り、11月には尊号宣下を決行しまっさかいに!」
と通告・・・
もはや一触即発の状態となりますが・・・
あぁ・・・悲しいかな、お公家さん・・・そのホンネは、やっぱり争い事が好きではないのですよ(ρ_;)
なんだかんだで、本気のドンパチは、どうしても避けたい!
結局、絶対に譲らない幕府の姿勢を見た朝廷は、
「尊号はあきらめるので、3人の公卿の召喚は撤回してチョーダイ」
と、柔軟な姿勢へと変化・・・
しかし、なんだかんだで幕府は武士・・・抜いた刀をただで納めるわけにもいきません。
交渉に交渉を重ねた末、3人のところを2人に減らして、なんとか全面解決にこぎつけました。
かくして寛政五年(1793年)2月・・・正親町公明と中山愛親の二人が江戸へ召喚され、審問を受けました。
その結果、愛親は閉門(門を閉ざして家に籠る=謹慎)、公明は逼塞(ひっそく・閉門よりちょっとだけゆるい謹慎)・・・他に、5人の公家が処分されました。
こうして、世に「尊号一件(そんごういっけん)」と呼ばれる一連の騒動は幕を閉じますが、結局、その翌年の寛政六年(1794年)7月6日、典仁親王は尊号を得られないまま、62歳でこの世を去りました。
その生涯を見る限り、なかなか勝気な光格天皇・・・さぞかし、くやしい思いをした事でしょう。
やがて、それから59年・・・嘉永五年(1852年)9月22日、あの閉門処分を受けた愛親の玄孫(やしゃご・子→孫→ひ孫→玄孫)にあたる中山慶子という女性が、その中山邸のうぶ屋にて、男の子を出産します。
彼女は、第121代・孝明天皇に仕えていた典侍(ないしのすけ・後宮の女官)・・・妊娠した事に気づいて、実家の中山家に戻り、ここで出産したのです。
祐宮(さちのみや)と名付けられた男の子は、5歳になるまで、その生家ですくすくと育てられ、やがて御所の内裏(だいり・天皇の住まい)へと移り、慶応三年(1867年)正月9日に、わずか16歳で天皇となります。
ご存知、明治天皇です。
光格天皇のくやしい思いは、徳川幕府を倒した、この直系のひ孫によって晴らされる事になったのです。
明治十七年(1884年)、明治天皇は、典仁親王に慶光天皇の号を追贈したのです。
ゆえに、廬山寺にある墓所は廬山寺陵と呼びますが、歴代天皇表には、慶光天皇のお名前はないのです。
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