禁門の変~来島又兵衛・アラ50の挑戦
元治元年(1864年)7月19日、先の八月十八日の政変で下された処分の撤回を求めて、長州藩が御所へと押し寄せたため、入れまいとする薩摩藩や会津藩と交戦となりました・・・世に言う禁門の変です。
・・・・・・・・・・
ペリーの黒船来航の圧力に開国をした幕府と、あくまで攘夷(じょうい・外国人排除)を決行したい朝廷・・・(尊王攘夷については10月2日のページで>>)
やがて高まる尊王攘夷論の急進力となったのが長州藩(山口県)・・・朝廷内の攘夷派の信頼を受け、御所でも幅をきかせていた長州藩でしたが、八月十八日の政変で事態は一変します(8月18日参照>>)。
この公武合体(こうぶがったい・朝廷と幕府が協力)派の公卿によるクーデターによって、攘夷派の三条実美(さんじょうさねとみ)らとともに、長州藩は御所から追い出され、政界からも一掃されてしまったのです。
そんな状況を打開しようと、密かに公武合体派の中心人物の暗殺計画をねる長州でしたが、その秘密会議の席で新撰組に踏み込まれ、計画は潰されてしまいます・・・これが池田屋事件(6月5日参照>>)。
・・・で、先の八月十八日の政変での処分に不満を持つ長州は、その処分の撤回を求めて、武装して大挙上洛したのです。
この上洛に最も積極的だったのが、来島又兵衛(きじままたべえ・政久)という人物・・・
文化十四年(1817年)に長州に生まれた又兵衛は、江戸で剣術を学んだ後、大検使役などを歴任する順調な出世の道を歩んでおりました。
なんせ、先の剣術は新陰流の免許皆伝で、馬術にも長ける武勇の人でありながら、江戸での事務的な務めもそつなくこなす・・・特に、金銭の出納などの緻密さに関しては、自らの江戸での生活で使った金額を、家計簿をつけて細部まで計算し、故郷で待つ奥さんに送っていたと言いますから、藩の公金についての正確さも、だいたい想像できます。
そんなこんなで、40過ぎまでマジメにやってきた又兵衛ですが、彼の奥底に流れる情熱は、年齢がいくつになっても消える事はありませんでした。
そう・・・
ここまで仕事をそつなくこなす事で出世してはいましたが、彼自身は、そんな出世を目標にする人間ではなく、その心には、むしろ血気盛んな若者のような篤い思いが溢れていたのです。
以前、高杉晋作さんのご命日のページ(6月7日参照>>)で、幕末に活躍した志士たちが、思ってる以上に若い事を書かせていただきましたが、この又兵衛さんは、ちと、違います。
この時期に、篤く意見を交わす、その晋作や久坂玄瑞(くさかげんずい)らが、ともに20代なのに対して、先ほども書かせていただいたように、彼は、すでに40代後半・・・そんな若き志士たちからは「来翁」と呼ばれるほど、歳の差があったわけですが、晋作が奇兵隊を結成したら、自分も負けじと遊撃隊を結成し、その総督として、ともに連携作戦を展開するなど、その血気盛んぶりは、むしろ、彼ら以上に熱かったのです。
今回も、反対する晋作に捨てゼリフを残し、しぶる玄瑞を引きずりたおしての武装上洛でした。
京都についてからも、時の孝明天皇が武力による長州討伐を決意した事で、臆病風に吹かれた同志に向かって、「怖がってるヤツは、京都見物でもしとけ!」と、言い放ったのだとか・・・
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
かくして元治元年(1864年)7月19日・・・京都の北西・天龍寺に陣を取る国司信濃(くにししなの・親相)隊、南西の天王山に陣取る益田右衛門介(うえもんのすけ・親施)隊、南は伏見の長州屋敷に陣取る福原越後(ふくはらえちご・元僴)隊・・・と長州は、この3方から、御所を目指します。
又兵衛らが陣を置いた天龍寺の塔頭・弘源寺…本堂には、この時長州藩士がつけた刀傷が残ります(クリックして大きい写真で見てね)
又兵衛率いる遊撃隊は、国司隊とともに天龍寺から出撃!・・・市中に散らばる敵の中を駆け抜け、真っ先に御所へと迫ります。
冒頭に書かせていただいたように、この戦いが禁門の変と呼ばれるのは、そこが一番の激戦となったからなのですが、この禁門と呼ばれていたのが、普段は、ほとんど開かれる事がなかった御所の西側の門=蛤御門(はまぐりごもん)で、別名=蛤御門の変とも呼ばれます。
そう、又兵衛らが、会津・桑名などの藩兵と交戦したのが、この蛤御門周辺・・・一時は、一つ北側にある中立売御門(なかたちうりごもん)を破って、禁裏へと迫った長州兵でしたが、さらに北側の乾門(いぬいもん)を守っていた薩摩藩が救援に駆けつけ、多勢に無勢となってしまった長州は、一気に逆転されてしまいます。
形勢不利と見ながらも、葦毛の馬にまたがり、颯爽と指揮を取る又兵衛・・・しかし、その時です。
薩摩藩の川路利良(かわじかわじよしとし)の放った銃弾が、又兵衛の胸を貫きます。
落馬してよろける又兵衛・・・自分の傷の具合は、自分が一番よくわかります。
もはや、「身動きが取れない」と判断した又兵衛は、禁門から少し入ったとことに立つ椋(むく)の木陰にて自刃したのです。
享年49歳・・・自らの政治目標のためには、その命も惜しまない・・・20代の若者より若かったその心意気。
今も、京都御苑の一角に立つ樹齢300年の椋の木は、その時の又兵衛の最期を静かに見下ろしていたでしょう。
そして、その最期の言葉を聞いたのかも知れません。
★京都御苑への行き方は本家HP京都歴史散歩・京都御所周辺へどうぞ>>…それぞれの御門の位置や、禁門の変でついた弾丸の跡が確認できる写真もupしてます!
・‥…━━━☆
この日、南側の堺町御門で戦った益田隊の久坂玄瑞については2011年の7月19日のページへ>>、殿(しんがり)を務めた真木和泉(まきいずみ)については10月21日のページへどうぞ>>
新撰組&見廻組に阻まれ、御所まで到達できなかった伏見の福原越後については11月12日のページへどうぞ>>
.
「 幕末・維新」カテゴリの記事
- 幕府の攘夷政策に反対~道半ばで散った高野長英(2024.10.30)
- 坂本龍馬とお龍が鹿児島へ~二人のハネムーン♥(2024.02.29)
- 榎本艦隊の蝦夷攻略~土方歳三の松前城攻撃(2023.11.05)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
コメント
茶々さん、こんばんは!
来島のじいさんの一生は、乗り遅れて来た戦国魂の彼にとって、一番華やかで輝かしい死に様だったのかもしれませんね。
来島のじいさんは、国許を出る時、奥さんに離別状を出してもいますし、今度の出兵がどのような状況なのかも承知している、でも武人としての血が騒いだ分、何としても陳情の隊列に参加したかった…制止しようとした晋作だって、来島のじいさんの熱情に促されて脱藩しちゃったほどだし…
でも、ここから長州の熱情は来島のじいさんの気概を受け継いで、諸隊主導の「防長士民」共和国が成立しちゃうわけです。
投稿: 御堂 | 2010年7月20日 (火) 03時29分
御堂さん、こんにちは~
確かに、戦国武将のような雰囲気ですね~
若者が目立つ中、光ってます…中年の星!
投稿: 茶々 | 2010年7月20日 (火) 13時08分