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2010年7月 4日 (日)

伊賀で当麻で箸墓で…壬申の乱・大和の戦い

 

天武天皇元年(672年)7月4日、先月に勃発した壬申の乱で、飛鳥古京を制圧した大伴吹負が、朝廷軍に、乃楽山で敗北しました。

・・・・・・・・・・・

連日の壬申の乱で恐縮ですが、ここは、続いて起こった出来事は、続いていっちゃいましょう!

天智天皇の後継者争いとして大友皇子(おおとものみこ・天智天皇の息子の弘文天皇)と、大海人皇子(おおあまのみこ・天智天皇の弟で後の天武天皇)の間に勃発した壬申の乱・・・

これまでの経緯は・・・
●大海人皇子が吉野に入る
(10月19日>>)
●大海人皇子が吉野脱出(6月25日参照>>)
●大伴吹負・飛鳥を制圧!(6月29日参照>>)
●大海人皇子軍・野上を進発(7月2日参照>>)
でご覧下さい

6月29日に、倭京(やまとのみやこ=飛鳥古京)を制圧した大伴吹負(おおとものふけい)は、乃楽山(ならやま・現在の奈良市の北側)駐屯しておりました。

大友皇子配下の近江朝廷軍は、大津京から攻め込んでくるのですから、当然、北を守らねばなりませんから・・・

しかし、7月3日、河内(大阪府)方面から、朝廷軍の来襲あり」との報告を受けた吹負は、かねてより、「倭京の守りを固めておかねば・・・」と進言する荒田尾赤麻呂(あらたおのあかまろ)に、わずかの兵を与えて倭京へと向かわせる一方で、坂本財(さかもとのたから)河内方面の最前線を守らせました。

その日のうちに倭京に到着した赤麻呂は、橋の板を外して大津京へと通じる道に、楯のように並べ、まさかの時の偽装工作をほどこします。

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↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして天武天皇元年(672年)7月4日、大津宮より南下してきた大野果安(おおのはたやす)が、乃楽山に駐屯していた大伴吹負隊を襲撃しました。

結果は、大野果安隊の完全勝利・・・敗北した吹負は、わずか数騎で、命からがら伊賀方面へ落ちのびるというほどの完敗ぶりでした。

しかし、その先へ進んだ果安・・・近くの山上に登って倭京を眺めてみると、多くの楯が並んでいるのが見えます。

偽装とは気づかず、それを伏兵と見た果安は、倭京へ攻め入る事なく、兵を退いてしまいます。

もちろん、この間に態勢を立て直す吹負・・・

一方、河内方面へ向かった財は、途中、高安城に敵軍がいる」との知らせを受け、山へと攻め上ります。

この高安城(たかやすのき)とは、現在の奈良県生駒郡と八尾市との境にある高安山に、天智天皇が構築した朝鮮式の山城です。

例の白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い(8月27日参照>>)に敗退し、大陸からの脅威が頂点となった時に、対馬(つしま)壱岐(いき)などに連絡のための烽火台を設置したり(4月23日参照>>)筑紫(つくし・北九州)水城(みずき)を構築したりしたと同時期に、瀬戸内海や近畿にも、多くの朝鮮式山城を建築したのです。

この高安城もその一つ・・・つまり、(中国)新羅(しらぎ)との戦いを想定して造られた城なわけで、難波(なにわ・大阪府)の海から上陸して向かってくる西の敵に対する備えは万全であったものの、大和(奈良県)から攻めてくる東側の守りは想定の範囲内に入ってはいなかったわけです。

その事は、朝廷側も充分承知していますから、確かに、寸前まで、ここに敵兵はいましたが、はなから、ここで戦う気はなく、財らが山上についた頃には、さっさと税倉に火をつけて逃げ去ってしまっていたのです。

・・・と、ここで、ふと、財らが眼下に広がる河内平野に目をやると、河内方面から倭京を奪回すべく7月1日に大津を進発した壱岐韓国(いきのからくに)率いる軍が、こちらに向かって進軍しているのが確認できました。

慌てて城を下って衛我河(えがかわ・現在の石川)を渡り、川の西岸にて韓国隊と交戦に挑む財でしたが、残念ながら敗退・・・

ところが、坂本財隊を破った韓国は、なぜか追撃をせず、その日は、その場に留まってしまいます。

実は、7月2日に起こった琵琶湖北上中の朝廷軍での内紛・・・どうやら、この話が韓国らにも伝わり、隊に動揺が走った事があったようなのですが、それが原因か?はたまた別の何かがあったのか?・・・その真意のほどはわかりません。

とにかく、これも、吹負に態勢立て直しのチャンスを与えてしまったようです。

・・・と、その吹負・・・このチャンスを逃すまいとばかりにに、7月5日・・・現在の奈良県宇陀郡榛原の墨坂付近で、置始莵(おきそめのうさぎ)率いる1000ほどの軍勢と合流します。

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桜井から墨坂神社へ向かう現在の伊勢街道・西峠付近…墨坂神社は文安六年(1449年)まで、この西峠付近に鎮座し、吹負はここでで莵と合流したという

この莵という人物は、大海人皇子が倭方面へと進軍させた紀阿閉麻呂(きのあへまろ)の配下の人・・・力強い味方を得た吹負は、倭方面へと進軍し、二上山のふもと=当麻(たぎま・奈良県当麻町)葦池の畔(あしいけのほとり)で、かの韓国隊を破ります。

さらに阿閉麻呂本隊と合流した吹負は、ここで、近江から倭京へと向かう3つの道=上ツ道中ツ道下ツ道の警備を強化し、朝廷軍シャットアウト作戦に出ます。

当時から、奈良盆地を南北に抜ける道はいくつかあったようですがその中でも重要だったのが、上記の3つの道で、一番西側を行くのが下ツ道、続いて中ツ道→上ツ道となって、その上ツ道のさらに東の山づたいに行く道が、日本最古と言われる山の辺の道です。

7月7日(もしくは8日)、中ツ道を警護する少数の吹負隊に向かって、犬養五十君(いぬかいのいきみ)廬井鯨(いおいのくじら)らが率いる朝廷の倭方面軍が攻めかかります。

(ちなみに、ここまで倭方面軍を率いていた果安の名前は、なぜか、この後、出てきません)

さらに、上ツ道の箸陵(はしはか・桜井市箸中の箸墓古墳付近)でも戦闘が開始されたために、警備隊もどきの吹負軍は、大軍に攻め込まれて大ピンチ・・・ところが、ここに地元豪族の三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)が駆けつけ、鯨隊を背後から奇襲します。

おかげで戦況は大逆転・・・吹負ら大海人軍の大勝利に終わり、これを機に朝廷軍は、倭方面から全面撤退する事になります。

すでに、7月6日には、伊賀を経由して攻めて来る近江朝廷軍を迎え撃つべく配置されていた多品治(おおのほむち)らが率いる約3000ほどが、莿萩野(たらの・伊賀市佐那具町)にて朝廷軍を破っていた事もあって、こちらからも朝廷軍は全面撤退します。

なんせ、この朝廷軍・・・あの本隊が、あそこで内紛しちゃってますから、もはや、多方面で戦闘を繰り返す余力はなく、この先、大津宮を攻めにやってくる大海人軍を迎え撃つべく、近江路一本にしぼるしかなかったのです。

かくして、この後、壬申の乱の舞台は、近江周辺へと移る事になりますが、そのお話は、また関連する7月9日のページへどうぞ>>
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