壬申の乱~大津京へ迫る大海人軍・近江の戦い
天武天皇元年(672年)7月9日、壬申の乱で、村国男依率いる大海人軍主力部隊が、鳥籠山にて近江朝廷軍の将・秦友足を討ち取りました。
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第38代天智天皇の息子・大友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)と、弟の大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)の間で繰り広げられている後継者争い壬申の乱・・・
例のごとく、これまでの経緯はこちら↓で・・・
●大海人皇子が吉野に入る(10月19日>>)
●大海人皇子が吉野脱出(6月25日参照>>)
●大伴吹負・飛鳥を制圧!(6月29日参照>>)
●大海人皇子軍・野上を進発(7月2日参照>>)
●大和の戦い(7月4日参照>>)
・・・と7月2日の内紛で、少しつまずいてしまった近江朝廷軍・・・
一方の大海人軍本隊は、その同じ7月2日に、西に向かって進撃を開始します。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
両者の近江周辺での最初の戦いは、未だ大和での戦いが展開中の7月7日に、息長横河(おきながのよこかわ・滋賀県米原市梓河内付近が有力)で起こります。
ここは、山に囲まれた狭い谷間で、さぞかし戦い難かったのではないかと思われますが、大海人軍の将・村国男依(むらくにのおより)が、近江朝廷軍の将・境部薬(さかいべのくすり)を討ちとって、見事、勝利を奪いました。
本隊の最初の交戦であるはずの息長横河の戦いですが、『日本書紀』では、上記のような記述が書かれるのみの、いともあっさりとした内容・・・この雰囲気が、事実を表しているとすれば、おそらくは、2日の内紛によって、朝廷軍はかなりのダメージを受けており、未だ、大海人軍とまともに交戦できるような状況ではなかったという事かも知れません。
なんせ、この時の朝廷軍の生き残りは、ここから約70kmも先にある大津宮に向かって、散り々々に敗走し、それを追撃するかたちで、大海人軍は、兵を、さらに西へと進めたと言いますから、その通りだと、朝廷軍は主力部隊の後方支援すら講じていなかったって事ですからね。
かくして天武天皇元年(672年)7月9日、追撃態勢のまま、鳥籠山(とこやま・彦根市大堀町の大堀山が有力)まで到着した男依らは、ここで近江朝廷軍の将の1人=秦友足(はたのともたり)を討ち取り、さらに追撃を続けます。
ここで近江朝廷軍・・・さすがに、「このまま大海人軍を進ませるわけにはいかない!」とばかりに、安河(やすかわ=野洲川)のほとり(野洲市と守山市の境あたり)に本営を置き、大津からの援軍も合流させて、くい止め作戦を展開します。
やがて7月13日・・・この安河で、息長横河以来の2度目の主力決戦が行われますが、ここでも大海人軍の大勝利!
残念ながら朝廷軍は、さらに後退してしまう事になります。
4日後の17日には、栗太(くるもと・現在の栗東市周辺)にて、またまた大海人軍が勝利し、さらに進軍・・・大津宮まで、あと約10kmの地点にまで迫ります。
しかもその頃には、琵琶湖の北から北陸へと向かい、琵琶湖の西岸を南下していた別働隊が、途中の三尾城を落とし、まさに、北から迫りつつあったのです。
もちろん、倭京の制圧隊だった大伴吹負(おおとものふけい)も、南から迫ります。
もう、あとがありません!
こうなったら、最後の防衛線=瀬田川を死守・・・なんとしてでも、川を渡らせない事しかありません。
朝廷軍は、近江方面軍はもちろん、倭方面軍や伊賀方面軍の敗残兵を、この瀬田一ヵ所に結集させ、最後の戦いに挑みます。
『日本書紀』は、この時、瀬田川の西岸に布陣した大友皇子自らが率いる朝廷軍を、「こちらからは最後尾が見えないくらいの数!」なんて、少々オーバーな書きかたをしていますが、実は、どれだけの数の朝廷軍が、ここに結集しようと、その結果はすでに、この時に見えていたかも知れません。
それは、上記の「大友皇子自らが率いる・・・」という事・・・
実は、この時の大海人軍の総大将は、長男である高市皇子(たけちのおうじ)・・・ですが、最前線で指揮するのは、何度も登場している男依という人物です。
つまり、総大将の高市皇子は、ほとんど戦う事なく、かなり後方から、大まかな作戦を指示していただけと思われます。
大海人皇子に至っては、この時点でも、まだ、不破(ふわ)の関にほど近い、あの最初に本営を置いた野上(のがみ)を離れてはいなかったとされています。
つまり、そこまで力の差が歴然としていたという事になります。
もちろん、その事は、大友皇子も充分感じていたでしょう。
だからこそ、瀬田を最後の決戦の地と決め、自ら指揮をとったのです。
いよいよ決戦の時は近づきます・・・が、
そのお話は、すでに書かせていただいているその決戦の日=7月22日のページでどうぞ>>
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コメント
こんばんは。
旧坂田郡山東町は行ったことあります。
友人が住んでいます。
伊吹山のそばで、蛍の町
だったと思います。冬はスキーもできるとか。
古戦場だったなんて思えませんが。
投稿: やぶひび | 2010年7月13日 (火) 23時19分
やぶひびさん、こんばんは~
伊吹山は高山植物もキレイですよね~
確か、ヤマトタケルノミコトの伝説も、このあたりではなかったですか?
おそらくは、神代の昔から街道として交通の要所…合戦の場合は、攻防の要所だったのではないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2010年7月14日 (水) 02時12分