壬申の乱~大海人皇子・進発…その時朝廷軍は
天武天皇元年(672年)7月2日、関ヶ原付近に駐屯していた大海人皇子の軍勢が、3方面に分かれて進発・・・一方の朝廷軍では内紛が勃発しました。
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亡き天智天皇の後継者争いとして、その息子・大友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)の間で勃発した壬申の乱・・・
すでに、父に代わって朝廷内の中心人物となっていた大友皇子に対し、身の危険を感じて、一旦吉野へと身を引いていた大海人の皇子(10月19日参照>>)が、その吉野を脱出したのは、天武天皇元年(672年)6月24日の事でした(6月25日参照>>)。
その知らせを聞いた近江朝廷側は、各地に援軍を要請しますが、良い返答が得られず、やむなく畿内の兵を集めて、6月27日、すでに不破(ふわ)の関まで到着している大海人皇子へ向けて、大津京を進発します。
しかし、その間に、すでに大海人皇子側についていた大伴吹負(おおとものふけい)らが、留守役たちを抱き込んで、倭京(やまとのみやこ・古京=飛鳥の事)を制圧したのです(6月29日参照>>)。
・・・と、本日は、このお話の続きです~
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
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まずは6月27日に大津京を進発した朝廷軍・・・山部王(やまべのおう)を総大将に、蘇我秦安(そがのはたやす)と巨勢人(こせのひと)を副将にすえた数万の兵が、大海人皇子軍本隊を襲撃すべく、琵琶湖の東岸をひた走ります。
続いて7月1日、大野果安(はたやす)らが、先に吹負に奪われた倭京を奪回すべく、大津を進発・・・
同じく7月1日、河内(大阪府)から国境を越えて、倭京奪回をめざす壱岐韓国(いきのからくに)らが進発します。
一方、これを迎え撃つ大海人皇子軍・・・隊を3方面に分けます。
紀阿閉麻呂(きのあへまろ)が率いる数万の兵は、一旦、倭京へと向かい、そこで吹負らを援護して、制圧を固めてからともに、南から大津へと進撃するルート。
村国男依(むらくにのおより)率いる数万は、すでにコチラへ向かっている朝廷軍本隊を撃破し、その勢いのまま大津京へとなだれ込む作戦。
さらに、多品治(おおのほむち)らが率いる約3000ほどを、朝廷側が伊賀を経由して大海人皇子軍本隊を攻めた時のために、その前で迎撃すべく準備します。
実は、先の朝廷軍・・・6月27日に進発した本隊と、7月1日に進発した2つの軍に続いて、7月5日に田辺小隅(たなべのこすみ)率いる4番目の軍を進発させているのですが、この軍が、鈴鹿を越えて、野上の大海人皇子の本営を襲撃すべく進発した軍・・・その迎撃のためとは、大海人さん、キッチリ読んでましたね。
・・・と、話が前後しましたが・・・
かくして天武天皇元年(672年)7月2日、大海人皇子は、上記の3隊を、各方面に向けて進発させたのです。
この時、大海人皇子は、自らの身に赤い布をつけ、軍旗も真っ赤に統一・・・これは、もちろん、第一には、敵味方を区別するためですが、漢王朝を打ち立てた劉邦(りゅうほう)にならったのではないかと言われています。
当時の中国では五行説(1月10日参照>>)が盛んで、その中でも火を徳とした事から、劉邦は火をイメージする赤を自らのシンボルカラーにしていたと言われ、自らを正義、自らを帝王を称した劉邦のようにと、大海人皇子が自らをなぞらえたのだろうとされています。
まぁ、武田や井伊の赤備え(2月1日参照>>)と同様、何かワカランけど赤い軍団が突進してくるっていうのは、なんともズゴイ雰囲気って感じの効果もあるでしょうしね。
ところで、一方の大友皇子は、この時、金をシンボルカラーにしていたそうですが、これは、五行説でいうところの「火は金に克つ(火は金属を溶かすので)」という意味からの後付けでしょうね。
「火の大海人皇子が金の大友皇子に勝った」=「運命的な勝利」って事を言いたいのでしょうが、こんなくだりを付け加えてしまったために、大海人皇子の赤旗使用の話まで疑わしく聞こえてしまうのが、なんとも残念です。
・・・で、こうして、大海人皇子の軍が進発した7月2日・・・
この同じ日に、6月27日に大津を出た朝廷軍の本隊が、犬上川(滋賀県犬上郡から彦根へと流れる)のほとりに到着し、ここに駐屯しているのですが、その直後、とんでもない事が起こってしまいます。
この朝廷軍の総大将は山部王で、副将とが蘇我秦安と巨勢人・・・ところが、なんと、副将の二人によって、総大将の山部王が殺害されてしまったのです。
実は、この山部王・・・大海人皇子の息子である大津皇子が、父の挙兵に合流しようと大津京を脱出するのを、止めるどころか、やさしくお見送りしていた事が発覚したのです。
つまり、朝廷の総大将でありながら、すでに、心は大海人皇子に・・・ひょっとしたら、この先、どこかで寝返るつもりだったかも知れなかったのです。
ただ、この裏切りが本当だったかどうかは微妙です。
それは、殺害犯の1人である秦安が、そのまま陣を離脱し、大津へと戻って自殺してしまうからで、確かに、お見送りは事実だったとしても、実際に寝返った事実は、ないわけですし、お見送りは、単に仲が良かっただけという事もあります。
その日まで、都でいっしょに仕事してたわけですし・・・
なので、秦安の自殺を考えると、山部王の寝返りというよりは、総大将と副将の意見の食い違いによる内紛の可能性もあります。
ただ、理由は微妙でも、山部王と秦安が死んでしまった事は事実・・・これは、朝廷軍内部の大きな動揺となり、もはや、本隊は進撃もままならない状況となってしまうのですが、そうは言っていられない戦時下・・・
この後、ほぼ連日、倭京で、伊賀で、そして本隊・・・と、それぞれの戦いが繰りひろげられる事になるのですが、そのお話は、また、関連する7月4日のページに書かせていただきましたのでどうぞ>>。
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コメント
初めまして、こんばんは。いつも楽しみに拝読しています。壬申の乱ですが、学校ではサラッと流されたので、その後がすごく気になります。私の住んでいる地域には、大友皇子生存説がありまして(信仰に近いものがありますが)、なんだか他人事ではないのです。
サイト運営は大変だと思いますが、応援しています。
投稿: 露草 | 2010年7月 2日 (金) 20時16分
露草さん、こんばんは~
はじめまして…コメントありがとうございます。
大友皇子の最期の地は、日本書紀では「山前」と表記され、大津近くの山なのか、京都の大山崎=天王山なのか…という話を聞いた事がありますが、生存説があるというのは初めて聞きました。
とても興味深いです。
明治になるまで天皇として扱われなかった悲劇の人ですから、やはり、判官びいきのような感じで、生存説が生まれるのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2010年7月 3日 (土) 01時23分