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2010年7月27日 (火)

いよいよ「龍馬伝」に登場する中岡慎太郎と陸援隊

 

慶応三年(1867年)7月27日、中岡慎太郎を隊長とする土佐藩の独立部隊・陸援隊が発足しました。

・・・・・・・・・・

大河ドラマ「龍馬伝」で、長い長い沈黙から開放され、やっとこさ、来週、登場する事になる中岡慎太郎・・・

ドラマでは、すでに今週の坂本龍馬が、ケンカの仲裁のような形で、薩摩(鹿児島県)西郷隆盛長州(山口県)高杉晋作に会い、なにやら薩長同盟とおぼしき話を持ちかけている一方で、来週の予告の中での慎太郎は「それなら協力しちゃる」的なセリフを発していたように思います。

先日いただいたコメントの返信としても書かせていただきましたが、この、完全に龍馬主動で行われる感じは、ドラマとは言え、さそかし中岡ファンは、はがゆい思いをしておられるものと思います。

未だ、近代史は勉強中の私ですが、そんな未熟な私でも、実際の薩長同盟は、この逆・・・慎太郎主動で、そこに協力するのが龍馬という印象です。

Nakaokasintarou140 土佐(高知県)東部の山奥の寒村で、庄屋の長男として生まれた慎太郎は、幼い頃から神童と噂される秀才で、通っていた隣村の塾では、わずか14歳で、師匠に代わって講義を行なっていたと言います。

やがて、尊攘思想家・間崎哲馬(まざきてつま・滄浪)の塾で学びはじめた頃、日本は、長い鎖国を解き放ち、いよいよ幕末と呼ばれる時代へ突入します。

さらに、17歳で出会った武市半平太(たけちはんぺいた・瑞山)(5月11日参照>>)に感銘し、高知城下に出て、半平太の道場へと通いながら、兵学や砲術も学びました。

慎太郎が龍馬と出会ったのも、この半平太の道場でした。

しかし、ここで、父が病に倒れたため、一旦、慎太郎は郷里に戻り、庄屋見習いとして政務に励む日々を送るのですが、「志は捨ててないよ」と、その篤い胸の内を友人に語っていたと言います。

やがて、起こった桜田門外の変(3月3日参照>>)・・・井伊直弼(いいなおすけ)尊攘派の志士たちによって暗殺されたこの事件が、再び、慎太郎の篤い心を蘇らせたのです。

翌・文久元年(1861年)に半平太が結成した土佐勤皇党へ、早速、入党・・・半平太に負けず劣らずの「目的のためには手段を選ばず」姿勢で頭角を現します。

この同じ年、先代藩主・山内容堂(やまうちようどう)(6月21日参照>>)を警護するために自主的に結成された五十人組伍長として、江戸にて、容堂公への謁見も許されていのですから、その頭角の現しぶりもハンパじゃありません。

しかも、その後、「あの知識人を土佐に連れて来い」という容堂の密命を受けて、佐久間象山(さくましょうざん)(7月11日参照>>)会いにも行っています。

そして、この一件が、慎太郎を大きく変えます。

この時、長州藩の久坂玄瑞(くさかげんずい)とともに象山宅を訪問した慎太郎に対し、象山は、手元に集めた最新兵器を見せながら、西洋の軍事力について語り、開国の必要性をまくしたて、とてもじゃないが、慎太郎や玄瑞がたちうちできるような雰囲気ではない博学ぶりを見せつけます。

結局、象山を土佐へ呼ぶ事ができなかった慎太郎でしたが、この帰り道、玄瑞と二人で「今日は参ったね」「完全にヤラれちゃったね」意気投合・・・この後、最後まで離れない長州とのきずなが生まれたのです。

しかも、この象山の話は、慎太郎に強烈なインパクトを与えてもいました。

これまでの、ただ外国を排除すれば良いという単純な攘夷ではなく、開国して富国強兵してはじめて、外国の影響を受けずに独立するという真の攘夷・・・開国攘夷に目覚めたのです。

その後、しばらくは、郷里で再び仕事に励む慎太郎でしたが、そこに飛び込んで来たのが、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)のニュースです。

御所からはじき出された尊攘派の公卿・7名が、玄瑞らに伴われて三田尻(みたじり・山口県防府市)まで落ち延びたと・・・

くわしい事が知りたくてたまらない慎太郎は、「ちょっと城下へ行ってくる」とウソをついて郷里を脱出・・・一路、長州へと向かい、無事に長州の保護を受けている三条実美(さんじょうさねとみ)らと面会するとともに、高杉晋作ら、長州藩士とも大いに語り合いますが、なんせウソついて出てきてるので、長居はできず、わずか3日で帰宅・・・

ところが、その間に土佐ではトンデモない事が!

中央ではじかれた攘夷派は、ここ土佐でも弾圧の対象に・・・そう、半平太をはじめ、勤皇党の同志たちが次々と投獄されていたのです。

さらに、自分にも捕縛命令が出ている事を知った慎太郎は、土佐での活動を断念し、脱藩を決意しました。

脱藩した慎太郎が身を寄せる場所は、ただ一つ・・・親愛なる長州です。

政変後に京都に潜伏する長州藩士らとの交流も持っていた慎太郎でしたが、池田屋事件(6月5日参照>>)の時は、たまたま三田尻に戻っていたので助かりました。

その後に起こった禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)では、故郷の父に遺書まで残して、自ら参戦・・・仲良しの玄瑞や、来島又兵衛(きじままたべえ)が戦死する中、彼も、足を鉄砲で撃ちぬかれる重傷・・・命からがら長州へと戻りますが、その翌月には四国艦隊の砲撃受けまくりの下関へと(8月8日参照>>)休むヒマなく動き回ります

その2ヵ月後の11月・・・慎太郎にターニングポイントが訪れようとしていました。

政界を追われた公卿たちに会いに、下関へとやってきた福岡藩士・早川勇(いさむ)が、あろう事か、「薩摩と手を組んだら?」と提案したのです。

あろう事か・・・というのは、あの禁門の変・・・はっきり言って、長州は薩摩にヤラれたようなもんです。

長州藩士の中には、下駄や草履に薩摩の名を書いて、踏みつけていた者がいたくらい憎む気持ちが強かった相手でした。

しかし、翌12月、「西郷に、長州に保護されている公卿を救う気がある」との噂を耳にした慎太郎・・・なんと、先の早川とともに小倉を訪れ、そこで、西郷と会見するのです。

もしもの場合は、西郷を殺す覚悟で会見にのぞんだ慎太郎でしたが、そこで聞いたのは「長州をサポートする気がある」という西郷の答えでした。

西郷の度量の大きさに、一発で「西郷さん!大好き」になった慎太郎・・・こうなったら、問題は、薩摩を憎む長州藩士の説得・・・

翌・元治二年(慶応元年・1865年)に入ってからは、その薩長の仲介のために、なおいっそう精力的に動き回る慎太郎(8月6日参照>>)・・・このあたりで、それに賛同した龍馬が加わり慶応二年(1866年)1月21日の薩長同盟成立(1月21日参照>>)とあいなるわけです。

薩摩と長州が手を結べば、怒涛のごとく盛り上がるのは倒幕への思い・・・

4月に龍馬が海援隊(かいえんたい)を組織した3ヵ月後の慶応三年(1867年)7月27日慎太郎を隊長に据えた土佐藩独立部隊・陸援隊(りくえんたい)が誕生したのです。

尊王攘夷の思想を持つ脱藩浪士らを中心に、70名以上の隊士がいたとされる陸援隊・・・

一方の龍馬が、意気投合した後藤象二郎(しょうじろう)とともに練り上げた「船中八策(せんちゅはっさく)(6月22日参照>>)を土台に、幕府生き残りの新時代を模索した感がある中、慎太郎の陸援隊は、完全に倒幕のための組織でした。

そのため、隊士たちは、様式軍学者の鈴木武五郎から、いつでも自由自在に動けるよう、軍事クーデターをを想定した実戦さながらの訓練を受けていたと言います。

もちろん、慎太郎も武力倒幕なしでの新時代は考えられないという人でした。

そこのところが、平和大好き=大河ドラマとしては、中岡慎太郎を主役にはできないというところなのでしょうが、こうして見ると、なにやら、龍馬より前の・・・最前線の位置に、いつも慎太郎が立っているような印象です。

残念ながら、ご存知のように、陸援隊が実戦にかりだされる前に、慎太郎は、龍馬とともにいるところを暗殺されてしまいますので、実際に、陸援隊の隊長として、彼が活動する事はありませんでした。
*暗殺については、本家HP【坂本龍馬暗殺犯を推理する】でどうぞ>>(別窓で開きます)

慎太郎亡き後の陸援隊は、土佐藩の谷干城(たにたてき)らの指導のもと、それぞれの隊に改編され、対幕府戦の一翼を荷う形となります。

・・・と、それぞれの出来事のくわしい経緯は、いずれ、その出来事に関連した日づけで、新たに書かせていただくつもりで、本日は、かなりはしょって駆け足で、ご紹介した感じになってしまいまいましたが、次回の「龍馬伝」から登場する中岡慎太郎への予備知識として、心の隅っこに置いていただければ幸いです。

果たしてどんな風に描かれるのか???
楽しみです。
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コメント

なるほど、「薩長同盟」の提案・実行が実際とは反対みたいですね。中岡慎太郎ファンの人から見れば、確かに「登場が遅い!」と言う理由以外にも、今までの経緯に若干の不満を持っているでしょうね。佐久間象山に面識があるので、坂本竜馬にも会って当然。「大河ドラマは平和主義」は主人公の心情ですね。番組全体のコンセプトから言うとどうなんでしょう?もしも、平和主義を前面に出すのならば、大河ドラマそのものの「放送意義」はなくなります。難しい問題ですね。

またも週刊誌ネタです。今日発売の「週刊朝日」の記事によると、坂本龍馬の今作の出番は「本編終了の1、2ヶ月前で終える予定だったが、本編終了まで登場する事になった」と言う内容。当初構想は主人公が途中で姿を消す?これって当初は、三菱に配慮した製作意図が丸見えですねよ。つまり最初から製作サイドにも一貫性がないとも言える内容。
「龍馬伝」ですが、今月は特に視聴率が低かったです。

投稿: えびすこ | 2010年7月27日 (火) 18時32分

えびすこさん、こんばんは~

>もしも、平和主義を前面に出すのならば、大河ドラマそのものの「放送意義」は…

そうですよね~
まぁ、昨年の…
「戦国時代に平和主義」よりは、龍馬のほうがまだマシですが…

>1、2ヶ月前で終える予定だったが、本編終了まで登場する事に…

って事は、やっぱり王政復古の大号令や鳥羽伏見の戦いはナレーションスルーって事なのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2010年7月28日 (水) 01時41分

土佐は岩崎弥太郎の育った安芸で生まれ、先祖は室戸で鯨を追いかけていたらしい小生は、室戸岬の慎太郎の銅像の下を通って学校に通った若い日々もあります。一昨年慎太郎や清岡道之助をテーマに長編歴史小説を書き上げ、朝日小説大賞に応募しましたが、はかなや、審査員には一瞥もいただけなかったようです。小生の資料では、薩長同盟を成立させた第一の人物は慎太郎です。龍馬たちの船中八策を考え出したたのも慎太郎です。四歳ほど年下だから遠慮したかもしれません。戦後暫くはそうでもなかったようですが、平成元年過ぎ、一年間、高知県内に勤務していたころはもう高知県では、龍馬、龍馬でその名前に食傷気味でした。確かに龍馬は明るく女性にもてたのでしょうね。慎太郎は故郷北川郷に、子供を流産した奥さんを置いてきっぱなしで、志士の奮起を促す論文を張っても、奥さんに無沙汰を詫びる手紙一つを書いたことがないようです。振り返る一八六三年(文久三年)九月に野根山岩佐を抜けもっぱら夜の阿波山中を難行して長州三田尻に辿り着いたのが慎太郎の脱藩で、彼をかっていた容堂も怒ったことでしょう。NHK[龍馬伝」が終わったら、小生もテーマを見直し書き直したいと思っていますが。茶々様のご考察を楽しく拝読させていただいています。お礼かたがた、コメントさせていただきました。

投稿: 植松樹美 | 2010年7月28日 (水) 10時31分

植松樹美さん、こんにちは~

コメントありがとうございます。

そうですか…
「船中八策」も慎太郎ですか…
確かに、薩土盟約の時にも、慎太郎は同席していますから、その可能性も充分ありますね~

新しい切り口のカッコイイ慎太郎を、ぜひとも書き上げてくださいね。
楽しみにしています。

投稿: 茶々 | 2010年7月28日 (水) 18時13分

1日から中岡慎太郎が登場しましたね。
「配役クレジット」では上川隆也さんが最後でしたが、一般的にここで最後に出る人は「実力派俳優」とみなされます。中岡ファンの人にとっては、8月1日が第1回のようなもんです。
予想どおりと言うべきか、見た目と行動で中岡慎太郎の方が坂本龍馬らしく見えます。一昨日途中から見た人は、「なぜ坂本龍馬が2人いる?」と感じた人も若干いるでしょうね。

投稿: えびすこ | 2010年8月 3日 (火) 09時05分

えびすこさん、こんにちは~

そうですね~
やはり、上川さんの演技、光ってましたね~

福山さんは、キライではありませんが、それほど演技がウマイとも思わない(ファンのかたゴメンナサイ…あくまで演技に対する私見です)ので、やはり、ドラマが生き返った感じになりました。
さすがです!

投稿: 茶々 | 2010年8月 3日 (火) 13時01分

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