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2010年7月13日 (火)

奥州藤原氏・100年の基礎を築いた藤原清衡

 

大治元年(1128年)7月13日、奥州藤原氏の基礎を築いた平安後期の武将・藤原清衡が73歳でこの世を去りました。

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すでに前九年の役後三年の役については、少し書かせていただいていますので、少々内容が重複する部分もあるかと思いますが・・・

藤原清衡(きよひら)は、亘理権大夫(わたりごんのだいぶ)藤原経清(つねきよ)安倍頼時(よりとき)の娘の息子として天喜四年(1056年)に生まれました。

父・経清は、あの平将門(たいらのまさかど)を討ち取った(2月14日参照>>)俵藤太こと藤原秀郷(ひでさと)を祖に持つ陸奥(むつ)豪族の末裔・・・母の父の頼時は、平安時代中期以降に陸奥六郡を支配していた有力豪族
(陸奥国=福島県・宮城県・岩手県・青森県+秋田県の一部)

本来なら、平穏で幸せな幼少期を送るはずたった清衡少年でしたが、その不穏な空気は、彼が生まれた、その年から漂いはじめます。

朝廷から陸奥守(むつのかみ)を任ぜられている源頼義(よりよし)安倍氏との関係に亀裂が入りはじめたのです。

簡単に言えば、この亀裂から発展した一連の戦いが、あの前九年の役(9月17日参照>>)なわけですが、最初はご先祖様の関係もあって頼義と争うつもりはなかった清衡の父・経清でしたが、自分と同じく安倍氏の娘を妻に迎えていた平永衡(たいらのながひら)が頼義に殺された事によって、身の危険を感じ、頼義派から離脱・・・安倍氏側につく事になります。

・・・で、結果は、ご存知のように、この前九年の役で安倍氏は滅・・・捕縛された経清は斬首されてしまいます。

Fuziwaranokiyohira500ast 清衡、7歳の時でした。

本来なら、ここで死ぬはずだったかも知れない清衡母子でしたが、その命は救われたものの、またまた運命に翻弄される事になります。

それは、この時、頼義に味方した出羽山北(でわせんぼく・秋田県雄物川上流から中流周辺)を支配する有力豪族・清原武則(たけのり)の息子・武貞(たけさだ)のもとに、清衡の母が嫁ぐ事になったからです。

母が、メッチャ美人だったから・・・という話もありますが、おそらくは、これまで安倍氏の領地だった場所の統治を円滑に進めるためという意味合いが強いと思われますが、どちらにせよ、敗者である安倍氏の母に、拒否権はありません。

こうして清衡は、母の連れ子として、敵将であった清原家の一員となるのですが、清原家には、すでに先妻の子である嫡男の真衡(さねひら)がいましたから、清原家の次代の当主は、その真衡で決まり・・・清原家と血縁関係のない清衡は、むしろ、安倍氏の血を引く者として、周囲からはべっ視される事もありました。

やがて武貞が亡くなり、息子たちの世代になると、ここに家督争いが生じるのです。

そう、清衡には弟が生まれていたのです。

家衡(いえひら)というこの弟は、当然、武貞の後妻となった清衡の母との間に生まれた弟ですので、血のつながらない兄と、同じ母を持つ弟との後継者争いとなった戦いでは、清衡は、弟・家衡の味方となって戦います。

しかし、真衡が亡くなると、今度は、家衡と清衡の間で争いが勃発・・・家衡は、清衡の館を襲撃し、彼の妻子や従者をことごとく殺害してしまったのです。

しかも、家衡は叔父・武衡(たけひら)をも味方につけています。

窮地におちいった清衡は、陸奥守兼鎮守府将軍として朝廷から派遣されていた源義家(みなもとのよしいえ・頼義の息子)に助けを求め、その助力を得て、からくも勝利します。

清衡=32歳・・・この清原家の家督争いが後三年の役(11月14日参照>>)と呼ばれる戦いです。

ところが、この奥州での内乱を治めたところで、かの義家は、朝廷から陸奥守を解任されてしまいます。

あくまで清原家という一家族の相続争いに、中央から派遣された陸奥守が、勝手に介入してしまったからなのか?
後三年の役での義家の名声が高まりすぎた事を、朝廷が脅威に感じたのか?
それとも・・・???

とにかく、これで清衡の1人勝ち・・・奥州の覇者となったのです。

清原姓から、実の父の姓=藤原に戻した清衡は、朝廷との関係も修復し、やがては陸奥押領使(むつおうりょうし・叛乱の鎮定にあたる役目)にも任命されました。

奥州を手に入れた後の清衡は、幼い頃から戦乱の渦の中で生き、敗者の子供として苦渋を味わった人生を拭い去るがごとく、73歳でその生涯を閉じる日までの約40年間、戦乱で世を去った人々の霊を、敵味方なく慰め、国家の平安を願う寺院の建設などに没頭する事になります。

長治二年(1105年)には平泉多宝寺(たほうじ・最初院)を建立して、鎮護国家(ちんごこっか・仏教の力を借りて国家を安定させる)の根本道場しました。

これが、中尊寺の始まりです。

清衡一代で、白河(福島県白河市)から津軽外ヶ浜(そとがはま・青森県津軽郡)までの陸奥のほぼ全域を、事実上手中に治めた背景には、陸奥特産とも言える黄金(砂金)がもたらす莫大な財力があっての事ではありますが、そこには、北方や大陸との交易を可能にし、奥州の中心として栄える平泉の町の造営に尽くした清衡の努力もあったでしょう。

この後、2代・基衡(もとひら)、3代・秀衡(ひでひら)と続く、奥州藤原氏約100年にわたる栄華の基礎を造った清衡は、大治元年(1128年)7月13日、金色に輝く中尊寺の落慶を見届けた後、あたかも、すべてをやり遂げたかのごとく、息をひきとったのでした。

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奥州藤原氏の滅亡を決定づけた阿津賀志の戦いについては8月10日のページへ>>
12年なのに「前九年の役」&5年なのに「後三年の役」?については9月17日のページへ>>
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コメント

こんばんは。
平泉の中尊寺の藤原三代の祖となった人ですね。
金堂を見ると、奥羽の金閣寺です。
芭蕉さんも訪れています。

投稿: やぶひび | 2010年7月13日 (火) 19時58分

こんばんは。
生まれてこの方、20余年をずーっと東北で過ごしている身としては、奥州藤原氏の存在はとても興味があります。
この国の歴史は、東北地方抜きには語れません。特に、奥州藤原氏とその祖・清衡抜きには・・・。

投稿: ふくたろ | 2010年7月14日 (水) 00時50分

やぶひびさん、こんばんは~

その華やかさは都にも劣らないほどだったと言いますから、さぞかしキレイだったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2010年7月14日 (水) 02時14分

ふくたろさん、こんばんは~

そうですね。
何かと言えば、朝廷から睨まれていた歴史の中で、独立国家としての東北が、最も繁栄したのが、藤原氏の時代だったのかも知れませんね。
やはり清衡さんの存在は大きいです。

投稿: 茶々 | 2010年7月14日 (水) 02時18分

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