貧乏公家から政界の中心へ~岩倉具視の功績
明治十六年(1883年)7月20日、王政復古の大号令というクーデターを決行して明治維新に尽力し、新政府では政治家として活躍した公家・岩倉具視が59歳で亡くなりました。
・・・・・・・・・・・
文政八年(1825年)に、貧乏公家・堀河(ほりかわ)家の堀河康親の次男として生まれた岩倉具視(いわくらともみ)・・・
幼い頃から、その公家らしくない態度をからかわれ、貧乏すぎて、公家の誰からも相手にされなかった具視少年は、そのおかげで、並々ならぬハングリー精神を身につける事となります。
江戸時代の初めに、徳川家康が発布した禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)によって、その行動を制限されていた事で、250年間の長きに渡って、ほとんど政治に関わる事のなかった天皇や公家たち・・・ひょっとして、このハングリー精神旺盛な具視がいなかったら、その長い眠りから覚めなかったかも知れません。
そんな具視少年の大器を最初に見抜いたのは、朝廷儒学者の伏原宣明(ふせはらのぶはる)でした。
そして、その大器を、思う存分に活かしてあげるべく、伏原のもとへ学びに着ていた具視少年を、少し上級の岩倉家に紹介しました。
こうして、天保九年(1838年)、14歳で岩倉具慶(ともやす)の養子となって、その名も岩倉具視となり、まもなく元服して、やっと昇殿を許される身分となりました。
しかし、まだまだ、具視のハングリーは止まりません。
29歳となった具視は、五摂家の関白・鷹司政通(たかつかさまさみち)を歌道の師匠とあおぎ、その門弟となる事に成功し、そこで、歌ではなく、朝廷改革に関する意見を述べたのです。
未だ、その家柄によって将来の出世も決まっていた公家社会・・・下級の公家は、朝議に出る事さえ難しかった時代でしたが、これが、彼の転換期となりました。
以後、その才能をかった鷹司の推薦によって、孝明天皇の主従となり、天皇の側に仕える事になったのです。
安政五年(1858年)・・・開国を求めるペリーとの、日米修好通商条約の調印への勅許(ちょっきょ・天皇の許し)を求めて、老中の堀田正睦(ほったまさよし)が上洛した時には、中山忠能(ただやす)らと結託して勅許に反対し、堀田を追い返してしまいます。
それでいて、そのすぐ後、朝廷との融和をはかりたい幕府が申し出てきた孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)と、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)との結婚話には全面協力の体制をとるのです(8月26日参照>>)。
勅許がなければ調印できないという強みを逆手にとって、強い姿勢に出て、その後、下手に出てきたところを、やさしくフォロー・・・具視は、今を、朝廷の復権の最大のチャンスと見て、狙いを定めたのです。
彼の先読みが確信に変わるのは、万延元年(1860年)3月に起こった大老・井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺=桜田門外の変(3月3日参照>>)でした。
この一件で、幕府の衰退を確信した具視は、より強く和宮と家茂の結婚=公武合体(こうぶがったい・朝廷と幕府が協力)を推し進め、朝廷主導による攘夷(じょうい・外国を排除)を進めようとしたのです。
おかげで、結婚は実現し、幕府は、朝廷に対して攘夷の決行を約束する事になるのですが、この公武合体を推し勧めた行為で親幕派とみられてしまった具視は、蟄居(ちっきょ・謹慎)を命じられ、洛外追放の処分を受けてしまうのです。
しかし、幼い頃から苦渋をなめ続けてきた男・具視=38歳・・・そんな事ではめげません。
蟄居中も、天皇による国内統一の原案を書いては、朝廷や薩摩藩などに送っておりました。
おかげで、慶応元年(1865年)頃からは、自宅にいながらにして、志を同じくする朝廷の仲間や、討幕を夢見る薩摩藩士らと交流を持つ事になります。
幕府が、将軍・家茂の死を受け、一橋(徳川)慶喜(よしのぶ)を15代将軍に就任させる時などは、それを阻止して王政復古を画策するも、残念ながら、これは未遂に終りますが、長州の桂小五郎や薩摩の大久保利通、土佐の中岡慎太郎や坂本龍馬といった面々との交流は、いっそう活発な物となります。
やがて、慶応三年(1867年)、前年の暮に崩御した孝明天皇に代わって、若き明治天皇が即位しますが、この時点では、具視は、未だ蟄居の身・・・
そんなこんなの同年10月・・・彼のもとを訪ねて来た大久保や品川弥二郎と、討幕への道筋や、皇室再興のダンドリなどを話し合い、すでに、この時点で、その時にシンボル的存在になるであろう錦の御旗の制作も指示しています。
秘密裏に、武力での討幕の命令書を求めてきた薩摩藩と、同じく討幕を念頭におく長州藩に、中山忠能らの連名で、「討幕OK」の密勅(みっちょく・天皇による秘密の命令)が出されたのは、その直後の事でした(10月13日参照>>)。
さぁ、いよいよ、武力による討幕だ!
・・・と、思った瞬間・・・あの大政奉還(たいせいほうかん)が行われます。
以前も書かせていただきましたが、この大政奉還は、徳川が新体制で生き残るための手段・・・なんせ、おとなしく「政権を返しますよ」と言ってる幕府を、武力で叩き潰す事はできませんから・・・(6月22日参照>>)
現に、この大政奉還を受けた朝廷内では、天皇を頂点に、その下に武士たちの議会を置く新体制を容認するような動きも出たりなんかします。
これはヤバイ!!!
・・・と、ここで、ナイスなタイミングで具視への処分が解かれ、12月8日、彼は朝廷へと復帰したのです。
そして、早くもその翌日・・・王政復古の大号令を成功させたのです。
【意外にアタフタ?王政復古前々夜の岩倉の手紙】参照>>
【王政復古の大号令】参照>>
これは、先の生き残り新体制を願う幕府の考えを一蹴するもの・・・幕府を排除した、まったく新しい体制で、天皇自らが政治をする体制を明言したもので、これにより、徳川の領地は返還、幕府は廃止となり、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を総裁にした新政府が発足するという、見事なクーデターとなったわけです。
やがて、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争へと、武力による討幕の末、明治維新が成され、そこでの具視は、副総裁となったうえ、海陸軍務・会計事務の副総督を兼務するという隆盛ぶりを誇りました。
ここまで、なんとなく身の振り方がウマイ具視さん・・・征韓論で西郷隆盛とモメた時には、反対派の刺客に襲われますが、ここでも、見事な身のかわしようで、命を取りとめます(【赤坂喰違の変】参照>>)。
また、幼い頃に身分で苦渋を飲んだわりには、華族統制政策(6月17日参照>>)を推し進め、立憲政体には反対していた彼でしたが、やはり、時代の波には勝てず、自由民権運動の高まりを感じた具視は、伊藤博文に憲法の制定を任せる決意をするのでした。
やがて、明治十五年(1822年)、それを受けて、外国の憲法を調査するために、伊藤はヨーロッパに旅立つ事になるのですが、この頃には、すでに具視は病気がちになっておりました。
そして明治十六年(1883年)7月20日、残念ながら、大日本帝国憲法の発布を見る事なく、彼は、この世を去ったのです。
享年59歳・・・5日後の7月25日には、日本で初めての政府による国葬となりました。
朝廷と、薩摩・長州との太いパイプ役となった岩倉具視・・・未だブログに書き足りない部分は、いずれまた、一つ一つを掘り下げていきたいと思いますが、何となく、成功のためには手段を選ばず的な部分が見え隠れする人ではあります。
とは言え、何かを成し遂げるためには、時には鬼にならねばなら事もあり・・・やはり、その功績は大きいと言えるでしょうね。
.
「 明治・大正・昭和」カテゴリの記事
- 日露戦争の最後の戦い~樺太の戦い(2024.07.31)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
- 維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ(2022.12.22)
- 大阪の町の発展とともに~心斎橋の移り変わり(2022.11.23)
- 日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』(2020.11.11)
コメント
「龍馬伝」では影が薄いですね。三条と並ぶ公家のキーパーソンなのに。幕末にもなるとあの「五摂家」も、影響力がなくなったんでしょうか?
投稿: えびすこ | 2010年7月20日 (火) 16時06分
次回が楽しみです。客観的事実に基づく新しい日本史を期待します。その人物が持つ思想や哲学、行動様式や主義主張や深層心理にまで考察した大胆な推理を期待します!
投稿: syunchan | 2010年7月20日 (火) 19時01分
こんにちは。
500円紙幣がなくなってから、岩倉具視の印象が薄くなったような気がします。
加山雄三は岩倉具視の子孫なんですね。
母の旧姓は「岩倉」です。
大河ドラマの「花神」では、スナフキンの
声優さんが演じていたけれど。
「龍馬伝」は長崎が、舞台になっていくみたいですね。割愛されてしまうかも。
投稿: やぶひび | 2010年7月21日 (水) 12時10分
えびすこさん、こんばんは~
「龍馬伝」では、どんな扱いになるんでしょうね…おっしゃる通り影うすいですが…
投稿: 茶々 | 2010年7月21日 (水) 22時02分
syunchanさん、こんばんは~
客観的事実に基づく新しい日本史を期待…ですか…(゚ー゚;
がんばります(^-^;
投稿: 茶々 | 2010年7月21日 (水) 22時04分
やぶひびさん、こんばんは~
>500円紙幣が…
>加山雄三は…
そうでしたね~
どっちも、すっかり忘れてましたが…
王政復古の大号令の前に龍馬が死んでしまうので、ひょっとして「龍馬伝」では、ナレーションスルーなのでしょうか???
重要人物だけに、扱いが気になります。
投稿: 茶々 | 2010年7月21日 (水) 22時09分
今確認したんですが、「龍馬伝」ではまだ岩倉具視は出ていません。「篤姫」では中盤からよく出ていたんですが。終盤で出るのかも?あるいは佐久間象山の様に「無視」されるかも。
それにしても龍馬伝の視聴率が、いっそう下がっています。9月に最初のDVDが出るようですが、世間の関心が日々薄くなっています。
投稿: えびすこ | 2010年7月22日 (木) 09時01分
えびすこさん、こんにちは~
見逃してるのかな?と自信なかったんですが、やっぱり出てなかったんですね~
佐久間象山スルーには、私も驚きました。
岩倉さんもスルーなのでしょうか?
心配…
投稿: 茶々 | 2010年7月22日 (木) 13時12分
岩倉具視についてですが、実は、鉄道建設に心を砕いていたことが、「岩倉公実記」という書物に記載されているそうです。それによると、具視は、鉄道建設について、「日本鐵道會社創設ノ事」という段において、明治14年1月に、安場保和という人物ら5名の建白を受け、具視がその趣旨に大いに賛同した上で、鉄道建設に尽力したことが記述されてまして、具視が、具体的に建設する路線として、後の東北本線や信越本線や長崎本線となるルートを提示したことなどが書かれているそうです。そう考えますと、具視が、単なる陰険な策謀家ではなく、明治天皇を中心とした、本格的な近代国家作りに、人生の全てを捧げるために、非情に徹したのではないでしょうか。岩倉使節団の特命全権大使として、欧米を歴訪したからこそ、具視は、例え、誰かに憎まれようとも、強固な意志を持ち続けられたのだと思います。余談ですが、具視の玄孫で、若大将シリーズでお馴染みの俳優兼歌手の加山雄三さんは、鉄道模型が趣味だそうです。もしかしたら、加山さんの趣味がそれなのは、具視が鉄道建設に関わった上に、具視の遺伝子を持っているからかも知れませんね。
投稿: トト | 2015年10月 8日 (木) 10時25分
トトさん、こんにちは~
そうですね。
東京の岩倉高校には運転シュミレーターがあるらしいですヨ…
おけいはん乗り鉄の私としてはウラヤマシイ限りです。
投稿: 茶々 | 2015年10月 8日 (木) 15時17分