鎌倉版「プロジェクトX」…東大寺復興と運慶
建仁三年(1203年)7月24日、仏師・運慶が東大寺金剛力士像の造立を開始しました。
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奈良・東大寺と言えば、あの大仏様ですが、その大仏様に勝るとも劣らないほど有名なのは、南大門の両側におわす、あの金剛力士像・・・それは、仏師と言って真っ先に思いつく運慶(うんけい)の代表作でもありますね。
東大寺南大門の金剛力士像:
夜の「阿形=あぎょう」(左)と、昼の「吽形=うんぎょう」(右)
高さ8mを越えるこの像は、南大門とともに、鎌倉大復興時代の貴重な遺産です。
天平の東大寺・創建時代の造りに関しては、もはや謎ですが、現在の物は、檜(ひのき)でできた3000もの部位を集めて一つの像とする寄木造り・・・しかも、運慶とその仲間は、わずか30人ほどの人員にも関わらず、建仁三年(1203年)7月24日のこの日から、わずか69日=10月3日完成という短期間で仕上げています。
鎌倉版プロジェクトX・・・そんな仏師・運慶とは???
保元元年(1156年)頃に生まれたとされる運慶は、実は、お父さんも康慶(こうけい)という有名な奈良仏師・・・
ただし、当時の都は京都・・・都には院派(いんぱ)や円派(えんぱ)と呼ばれる平安京の宮廷内での仕事を請け負うエリート集団がいて、奈良仏師は、そこから外されたアウトローな仏師集団だったのです。
しかし、それが運慶には幸いしました。
父という立派な師匠のもとで腕を磨きつつ、近くの奈良や飛鳥には、デザインのお手本とも言える古の仏像がいつでも見られる状態・・・しかも、宮廷のおかかえというシバリがないぶん、自由な発想で新しい事にどんどん挑戦できます。
20代になった運慶は、初めて父の手を借りず、たった一人で11ヶ月という月日をかけて、円成寺(えんじょうじ・奈良市忍辱山町)の大日如来像を制作しました。
今も残る国宝の仏像・・・これが、運慶のデビュー作です。
そして、ここで運慶は、やはり、日本で初めての事をやってのけます。
それは、この完成した仏像にほどこした自らのサイン・・・未だ誰もやった事にないその行為は、見事に仕事を終えた職人の誇りであり、仏師として生きていく人生のスタートの証しでもあったのでしょう。
その後も、父のもとで仏師としての修行に励む運慶でしたが、やがて、治承四年(1180年)、あの平重衡(たいらのしげひら)の南都焼き討ち(12月28日参照>>)で、東大寺や興福寺など、奈良の寺院はことごとく消失してしまいます。
早速、翌年から開始された復興事業で、京仏師たちに混じって、父・康慶らをはじめとする奈良仏師たちにも、それぞれの仏像の制作が割り当てられる事になるのですが、そんな仏師たちの中から、康慶・運慶父子が一歩飛び出るきっかけとなるのが、あの源頼朝(みなもとのよりとも)です。
文治元年(1185年)3月の壇ノ浦の戦い(3月24日参照>>)にて、平家を滅亡させた頼朝は、本拠地・鎌倉にて、着々と新政権の樹立する一方で、天下を握った人物の鉄則とも言える、新しい寺院の建立に尽力するのです。・・・(ご存知の鎌倉の大仏も頼朝の発案です=3月23日参照>>)
とは言え、最初の頼朝のお気に入りは、奈良仏師の直系・成朝(せいちょう)でした。
わざわざ、彼を鎌倉へと呼び寄せ、亡き父・源義朝(みなもとのよしとも)の菩提を弔うために建立した勝長寿院(しょうちょうじゅいん・現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下)の本尊を造らせています。
ところが、いつのほどからか、そのお気に入りが康慶に入れ替わるのです。
そのへんところは、くわしい事がわからず、なんとなく成朝が、こつ然と姿を消した風にも見える不思議ななりゆきとなってますが、おそらくは、康慶が、奈良仏師直系のお家乗っ取りを謀ったか?、あるいは、商売人のような売込みのワザが冴えていたか?・・・
とにかく、その父のおかげで、頼朝のお気に入りとなった康慶一門・・・中でも運慶は、鎌倉の御家人たちの人気を得て、北条時政(頼朝の奥さん=北条政子の父)が建立した伊豆の願成就院(がんじょうじゅいん・静岡県伊豆の国市寺家)に納める複数の仏像を手始めに、頼朝の側近たちの注文を次々とこなしていきました。
そんな中、奈良では、僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が中心となって、引き続き、東大寺の復興事業が行われており、これのスポンサーとなったのが頼朝・・・
天下を握った権力者は、新しい寺院を建立するのも鉄則ですが、戦乱で失われた寺院を復興するのも鉄則・・・それこそ、その権力の見せどころでもあります。
・・・で、そうなると、当然の事ながら、そのプロジェクトには、お金を出すスポンサーの意向が反映されるわけで、この一大プロジェクトにも、お気に入りの康慶一門のご登場となるわけです。
現在の東大寺大仏殿内にある四天王像をはじめとする巨像軍団は、江戸時代に再建された時のものですが、この鎌倉時代での再建時には、あの巨像の制作を、康慶一派が独占して行っています。
この頃、父の康慶が亡くなってしまいますが、息子の運慶だって、もうすでに50代・・・父の後を継いで、立派に仕事をこなすのが、当たり前の年齢ですから、その後も、トップの位置は、守り続けます。
それどころか、娘・如意(にょい)を藤原雅長(まさなが)の娘・冷泉局(れいぜいのつぼね)の養子にするなど、貴族とのつながりまで・・・
そんなこんなの建仁三年(1203年)7月24日・・・運慶は、東大寺・南大門の仁王像を造るという一大プロジェクトに挑みます。
当時の仏師は、芸術家ではなく、僧侶としてみなされていましたが、運慶は、この仕事の成功とともに、法印(ほういん)という最高位にまで上りつめます。
京の都からはじかれ、苦渋をナメながら技術を磨いた少年が、名実ともに仏師界の頂点に立った瞬間でした。
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