垂仁天皇が~佐保の中心で「愛」を叫ぶ
垂仁天皇九十九年(70年頃)7月14日、第11代垂仁天皇が153歳(もしくは140歳)で崩御されました。
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『古事記』『日本書紀』に登場する初代神武天皇から、しばらく続く天皇様は神話の世界の住人・・・そんな記紀神話の中で、おそらく実在した最初の天皇ではないかとされるのが、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称される第10代の崇神(すじん)天皇です(12月5日参照>>)。
今回の垂仁(すいにん)天皇は、その崇神天皇の息子で、天皇の後を継いで第11代天皇になられたおかた・・・ただし、冒頭でも書かせていただいたように、亡くなられた年齢が、古事記では153歳、日本書紀では140歳というあり得ない年齢なので、細かい事に関しては伝説の域を超えないもの・・・
この皇位継承も夢占いで決められたり、嫁に来た女性のうちブサイクだけを実家に返したり、息子の本牟智和気御子(誉津別命・ほむつわけのみこ)の問題も含め、かなりのエピソードをお持ちのうえ、高貴な人への殉死を廃止して土偶を並べたり(埴輪の始まりとも)(3月22日参照>>)、七夕の夜に日本初の相撲観戦(7月7日参照>>)など、何かと「初」の出来事の多いおかたでもありますので、いろいろとご紹介したいエピソードがたくさんある天皇ではありますが・・・
今回は、その「初づくし」の中でも、注目すべき「初」・・・「愛」という言葉の使用にまつわる奥様とのお話をご紹介させていただきます。
以前、昨年の大河ドラマ「天地人」について書かせていただいたページ(3月23日参照>>)で、主人公の直江兼続が、兜の前立てに掲げた「愛」という文字が、今で言うところの「愛」・・・つまり、「人を愛する」という意味で使用されていたかどうか微妙だという話をさせていただきました。
そこでも出てきたように、明治の初めの頃でも、人に好意を持つ事を「愛」という文字で現す事が少なかったわけですが、なんと、古事記の中で、この垂仁天皇は、奥さん=沙本毘売(狭穂姫・さほびめ)に対して、この「愛」という単語を使います。
それは、垂仁天皇が即位して4年目・・・すでに沙本毘売を皇后とし、奈良の纏向(まきむく・巻向)に都を置き、珠城宮(たまきのみや)としていた頃・・・
沙本毘売の兄・沙本毘古王(狭穂彦王・さほびこのみこ)が謀反をくわだてたのです。
兄・沙本毘古王は、妹・沙本毘売に聞きます。
『孰愛夫與兄歟』
「お前は、夫と兄と、どっちが好きか?」
すると、沙本毘売は・・・
『愛兄』
「ワタシ・・・お兄ちゃんが好き!」
と、アニメ好きにとっては萌え度100%のうれしい返答・・・
「ならば、天皇が寝ているすきに、この刀でヤッちゃいな」
と、沙本毘売に小刀を手渡しました。
・・・と、そんな事とはつゆ知らず、その日も天皇は、沙本毘売の膝枕でうたた寝を・・・とは言え、沙本毘売も迷います。
一旦、小刀を出して、「いざ刺そう!」と振り上げますが、やはり、様々な思いがこみ上げてきて、どうしてもできない・・・
やがて、目には涙がいっぱい溢れてきて、一粒・・・また一粒と、天皇の顔の上にしたたり落ちていきます。
ドラマのワンシーンのようなその涙に、ふと目覚めた天皇は、
「今、沙本(さほ)の方から降って来た雨に濡れて、錦の色した小さい蛇に首を絞められる夢を見てしもた・・・コレって、どんな意味あんねんやろ?」
と、沙本毘売に尋ねます。
この時の狭本というのは、現在の東大寺から西に向かってのびている佐保路一帯の地名の事ですが、ここは、沙本毘古王&沙本毘売の出身地でもあり、当然の事ながら、二人の事を指しています。
つまり、天皇は、少なからず、この謀反に気づいていたわけで、見透かされていると観念した沙本毘売が、すべてをうち明けると、天皇は、早速、沙本毘古王の討伐へと向かいます。
しかし、やはり、兄の事が大好きな沙本毘売は、こっそり宮殿を抜け出して、兄の軍勢のもとへと走るのです。
この時、沙本毘売は天皇の子供を妊娠中・・・愛する妻がそこにいると知った天皇は、その大軍で沙本毘古王を囲みながらも、なかなか攻める事ができずにいたところ、やがて、その陣営で、彼女は男の子を出産します。
現在の状況に、すでに死を覚悟していた沙本毘売は、生まれたばかりの赤ん坊を使者に託して
「この子をやさしく迎え入れて、認知してやって!」
と、天皇のもとへと送ります。
この時です。
垂仁天皇の言葉・・・
「其の兄(せ)を怨むれども、楢(なお)其の后を愛(うつく)しぶるに忍(た)ふることを得ず」
「兄貴は怨んでるけど、お前を愛する気持ちは抑えられへんねや!」
こうして、なんとか、子供だけでなく沙本毘売も助けようとする天皇でしたが、戦場にて兄・沙本毘古王が討たれるのを目の当たりにした沙本毘売は、炎に包まれた砦に身を投じて自殺したのでした。
この時・・・古事記の中で、男女間の愛に使われた「愛」という言葉・・・夫と兄の愛に揺れ、悲しい最期を遂げた沙本毘売への古事記編さん者・太安万侶(おおのやすまろ)の「愛」なのでしょうか・・・
沙本毘売の故郷・奈良県狭岡神社にある鏡池(姿見池)…美しい沙本毘売が、ここに姿を写したという伝説が残ります。
狭岡神社のくわしい場所は、本家HP:奈良歴史散歩の「佐保・佐紀路」でどうぞ>>
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コメント
こんにちは。まるでドラマみたいなお話ですね。伝説の域に入っている天皇だけど、三人の関係性が見えて興味深いです。
投稿: 露草 | 2010年7月14日 (水) 13時13分
露草さん、こんにちは~
ホント…ドラマのような展開ですね。
この頃の天皇は、いきいきと描かれています。
投稿: 茶々 | 2010年7月14日 (水) 13時48分
茶々さんこんばんわ!
最近の若者は言葉の重みも知らず、愛してると誰にでも言ったりしますね。
このお話の本当の意味での【愛】を理解して欲しいです
しかし、140歳とは…
大往生ですね!
投稿: みか | 2010年7月14日 (水) 19時37分
みかさん、お早うございます。
古事記の中で、たった一度しかつかわれなかった…それだけ、重い言葉だったのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2010年7月15日 (木) 06時24分