« 貧乏公家から政界の中心へ~岩倉具視の功績 | トップページ | 大海人皇子と大友皇子…どっちが正統? »

2010年7月22日 (木)

京都丹波の中世山城~猪崎城・登城記

 

昨日は、私用で京都府福知山へ行っておりまして・・・

・・・で、せっかくなので、近くの城址へ・・・

Izakuzyousiroyamatizu 福知山と言えば、やはり、明智光秀縄張りの福知山城が有名ですが、すでに何度か訪れていて、ブログや本家HP京都歴史散歩:福知山へ>>)でもご紹介していますので、本日は、その福知山城から、徒歩で30分ほどのところにある、ちょっぴりマイナーな城址をご紹介します(もちろん、ここも後ほどHPにupしますが…(゚ー゚;)

それは、福知山城から由良川を挟んだ向かい側にある猪崎(いざき)城跡・・・

ここは、かつて丹波を治めていた塩見利勝が、天文元年(1532年)に、烏ヶ岳鬼ヶ城などの山々から、由良川土師川の合流地点近くまで、長くのびた裾野の先端に当たる小高い丘の部分に構築した山城です。

・‥…━━━☆

行き方は・・・
とりあえず、三段池公園を目指してください。

この三段池公園は、後の福知山藩主・松平忠房が手掛けたとされる三段池を中心にした公園で、周囲には体育館や児童科学館などがあり、市民の憩いの場で、一般的な地図にも必ず載ってますので・・・

Otonasebasikaranonagame 音無瀬橋の向こうに見える山々の一番手前の丘が、猪崎城跡…城山と呼ばれています。

・・・で、三段池公園を目指して由良川に架かる音無瀬橋を渡ると「三段池公園←」と、左に曲がれの看板があるので、指示に従って三段池の方向へ・・・三段池公園の駐車場から、そのまま行くと、途中から右側に公園が見えてきますが、さらに進んでいくと、お墓のある交差点に「猪崎城址←」の看板・・・ここを曲がって、さらに行くと駐車場とおぼしき広場のところに「猪崎城址→」の看板とともに、案内板と登り口となる徒歩の道が見えます。

Inozakisiroatohenomiti 赤い↑の道を登っていきます

あとは、道なりに登っていくと、一番上の主郭の跡まで行けます。

・‥…━━━☆

以前、明智光秀と細川幽斎(ゆうさい・藤孝)の関係についてのページで書かせていただいたように、もともとは、朝倉義景(よしかげ)から足利義昭(よしあき)の家臣だった光秀は、織田信長と義昭の関係が、あまりよろしくなくなった時点で、義昭を見限り、織田の傘下へと入ります(6月9日参照>>)

天正三年(1575年)、長篠の戦い武田勝頼を破り、天下に手が届く位置に来た信長は、一番のお気に入りで出世頭の光秀に、丹波(たんば・京都府北部)の平定を任せます。

翌年から、本格的に攻略を開始した光秀は、その後の数年をかけて獅子奮迅の活躍で、見事平定するわけですが(12月24日参照>>)、その中には、本能寺の変のきっかけの一つではないか?と噂される八上城の波多野氏なんかが有名ですね(1月15日参照>>)

この猪崎城は、その中の一つです。

もともと、この地方の中心的な豪族であった塩見氏でしたが、戦国の乱世で力をつけた波多野氏や赤井氏に属するようになり、一連の光秀の丹波攻略のさなかに落城し、勝利した光秀が天正七年(1579年)に、塩見氏の横山城の跡地に福知山城を築城した事から、この城は、過去の城となったわけです。(5月19日参照>>)

ちなみに、光秀に攻められた塩見利勝(としかつ)ですが、その三男か四男の長利(ながとし)だけは、(血筋を残すためか?)すんなりと降伏した事で生き残り、自身の居城であった和久城(福知山市=別名:茶臼山城)にちなんで和久左衛門佐(わくさえもんのすけ=長利?義国?)と名を改めて光秀の傘下となりますが、後に、その和久城と支城の山家城(綾部市)の破却命令に従わなかったとして光秀から攻められ、落城後に一家もろとも行方不明となったとも言われます(今のところ史料が少なく謎が多いんですが…)(6月20日参照>>)

Ca3e0049a800 主郭部分は、いわゆる本丸跡といった雰囲気

Ca3e0057a800 ・・・で、小高い丘のほぼ全域を城郭とする猪崎城は、頂上部分に東西約45m・南北約50m主郭=近世城郭で言うところの本丸があり、その北西部分には矢倉台があったとされています(確かに矢倉台らしきものが…→)

Ca3e0047a800 主郭から一段下がった北・東・南の3方には土塁(←ここは、はっきり確認できます)を設け、さらに主郭との間には、幅15mほどの空堀がありますが、おそらく、いざという時の伏兵の隠し場所ともなるこの場所は、この地方では最大の規模を誇っています。

Izakizyouatozyoukakuzu 猪崎城・城郭図

さらに、その周囲には、10箇所以上の曲輪(くるわ・平坦な区画)を設け、それを階段状に配置するという世山城の流行の最先端の造りになってます。

Ca3e0055a800 主郭から南西を望む…由良川に架かる音無瀬橋と、その向こうに明智藪と、写真では見え難いですが福知山城が見えます。
手前右のベンチのある部分が真下の曲輪

ただ・・・
昨日は、夏の盛りで草ボーボー・・・

未だ、修行が足りない私には、かろうじて見分けがつく部分とつかない部分が・・・(。>0<。)

はっきりと城郭を確認するには、冬に行ったほうが良いかも知れませんが、それはそれで、豪雪地帯でもありますので、お出かけの際は、くれぐれも、現地の天候をご確認のうえでご出発くださいませ。
.

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


« 貧乏公家から政界の中心へ~岩倉具視の功績 | トップページ | 大海人皇子と大友皇子…どっちが正統? »

戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

京都・大阪・奈良史跡巡り」カテゴリの記事

コメント

>豪雪地帯でもありますので、~

雪で埋まっていて、登れないのでは?
冬山登山の仕度をしろと(笑)
おまけに、見るものは全て雪の下(爆)

雪の解けた春先がいいと思いますよ。

投稿: ことかね | 2010年7月22日 (木) 13時34分

茶々さん、こんばんは!

猪崎城ですか…全く知りませんでした。
塩見氏の居城…そーいえば、塩見って言ったら福知山に多い名字ですもんね。

昔、三段池公園を越えたホールに出張で行かされた時、駅から歩いてたどり着いた記憶が懐かしいです(笑)

光秀関連の居城では周山城とか、曽我部城(父の実家の真裏の山)はよく知っているのですが、猪崎城は知らんかったです!

投稿: 御堂 | 2010年7月22日 (木) 20時08分

ことかねさん、こんばんは~

>雪で埋まっていて、登れないのでは?

確かに…
福知山城は、雪景色も美しいですが、コチラは雪だと、何も見られませんね~

やはり、春先が良いかも知れません。

投稿: 茶々 | 2010年7月22日 (木) 22時55分

御堂さん、こんばんは~

>昔、三段池公園を越えたホールに出張で行かされた時、駅から歩いてたどり着いた記憶が…

おぉ…、三段池公園まで行かれた事があるんですか?
徒歩で…って事は、やはり音無瀬橋を渡って…同じ道を歩いたんですね~

本文に書いた体育館や科学館以外にも、植物園や動物園までありましたから、三段池公園は、かなり有名な場所のようです。

今度は、ぜひ、プライベートで…

投稿: 茶々 | 2010年7月22日 (木) 23時00分

こんにちは

主人の実家が福知山城のすぐ近く。
三段池公園は行ったことがありますが、猪崎城は知りませんでした。
主人も「あの辺は猪崎という地名だけど」と知らないようでした。
お盆に帰省したら行ってみようかと思います。
あ、夏草ボーボーでしたっけ(笑)
最近は雪の降る量も減りました。
雪で見えないということもあまりないと思いますから、お正月にしようかしら?

投稿: こくたから | 2010年7月24日 (土) 14時28分

こくたからさん、こんにちは~

そうですか…ご主人が福知山の方ですか~

福知山城のように、建物があったりお宝が展示されていたりはしないので、歴史に興味のない方にとっては、ただの草ボーボーな所かも知れませんが、城好きにとっては近世の平城より楽しめます。

迷路のような通路や土塁の位置など…あぁ、やっぱ草ボーボーだと見分けにくいので、冬ですね。

なるほど、お正月なら、まだ雪は降ってないですもんね…良い時期かも知れません。

投稿: 茶々 | 2010年7月24日 (土) 15時13分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 京都丹波の中世山城~猪崎城・登城記:

« 貧乏公家から政界の中心へ~岩倉具視の功績 | トップページ | 大海人皇子と大友皇子…どっちが正統? »