まさに最初の加賀一向一揆~文明一揆
文明六年(1474年)7月26日、加賀に最初の一向一揆=文明一揆が勃発しました。
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ご存知のように、最終的に長享二年(1488年)に約20万人の本願寺門徒が集結し、加賀(石川県南部)の守護・富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込み、その後、織田信長配下の柴田勝家に攻め込まれるまで、約100年の長きに渡って本願寺の王国となった加賀一向一揆・・・(6月9日参照>>)
政親の高尾城を攻めたその一揆の事を、年号から長享一揆(ちょうきょういっき)、もしくは高尾城の戦いと呼びますが、本日は、その十四年前に勃発した文明一揆・・・
百姓一揆、あるいは、本願寺門徒による宗教一揆の印象がある加賀一向一揆ですが、実は、それは門徒だけではなく、武士団や地元国人衆が絡み合う複雑な人間関係が形成されての勃発だったのです。
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そもそもは、応仁元年(1467年)に勃発した天下分け目の応仁の乱・・・(5月28日参照>>)
加賀の守護であった富樫政親は、この乱に東軍として参戦します。
かたや、弟の富樫幸千代(とがしこうちよ)は、西軍として参戦します。
そう、実は、すでに富樫氏では、兄と弟による内紛が勃発していたのです。
しかし、その途中で、同じ東軍に参加している播磨(兵庫県南西部)の赤松政則(あかまつまさのり)の援助を受けた政親は、加賀の北半分に勢力を持っていた幸千代一派を追い出してしまいます。
こうして、一時期の加賀は、北半分を赤松氏が、南半分を政親が制圧していたわけですが、政則が本拠地に帰還しているすきに、幸千代一派が盛り返し、再び、北加賀を手中に治めます。
・・・というのも、この加賀に近い位置にある能登(石川県北部)の守護・畠山義統(はたけやまよしむね)や、越前(福井県)の守護・斯波義廉(しばよしかど)と、その配下の甲斐氏や朝倉氏など、近くの有力武将が皆、西軍についていたため、この時期は、西軍にくみする幸千代一派が、かなり優勢だったのです。
ところが、文明三年(1471年)、その有力武将の中の1人=朝倉孝景(たかかげ・敏景)が東軍に寝返ったのです。
これをチャンス!とみた政親は、京都の戦場をほっぽり出して加賀へと戻り、幸千代の勢力圏内へと攻撃を仕掛けます。
一方、お隣の越前では、その寝返った孝景と、もともと西軍の甲斐八郎が交戦中・・・勢いのある朝倉に敗れた甲斐氏の逃亡者が大量に加賀へと逃げ込み、幸千代一派へと合流します。
思わぬ援軍を得た形になった幸千代派は、一気に形勢逆転し、南加賀まで制圧・・・政親のほうが加賀を追い出され、朝倉の越前へと逃げ込む事になってしまいました。
・・・と、北陸一帯で武将たちがゴタゴタやってる文明三年(1471年)7月、比叡山延暦寺から攻撃を受けて京都を追われた本願寺第8代・蓮如(れんにょ)が、越前の吉崎に坊舎を建立しました(7月27日参照>>)。
吉崎御坊(ごぼう)と呼ばれたここは、カリスマ教祖がおわすおかげで、一躍、宗徒たちの聖地となり、続々と信者が集まってくるようになったのです。
その膨大な人数に目をつけたのが地元の侍たち・・・
新参者として、彼らを敵視するのではなく、自らも信者になって、彼らを味方につけようと考えたのです。
現に、参拝者用の宿坊を営む多屋(たや)と呼ばれる人々や、一部の過激な信者は、他の宗派を悪とみなし、近隣の神社などに対して、過激な行動に出る事も少なくなかったので、武装兵力としては、かなり期待できます。
地侍たちは、そんな彼らの力を借りて、守護や領主らに反発し、年貢などの諸税を逃れようと、度々の反対行動に出るようになります。
この過激な行動に対して、蓮如は、他宗教を誹謗中傷してはいけない事、守護や領主を尊重する事などを信者に説いてみますが、もはや、彼らの勢いを止める事は難しくなっていました。
そんなこんなの文明六年(1474年)6月・・・美濃(岐阜県)の有力武将・斉藤妙椿(みょうちん)が間に入ってくれた事で、朝倉孝景と甲斐八郎の間に和睦が成立・・・ここに、幸千代派は、甲斐氏という強い味方を失ってしまいます。
「よっしゃぁ~~キターーー」
と、チャンス到来を確信するのは、先ほど越前へと逃れていた政親・・・
早速、蓮如以下・本願寺門徒たちに
「君らの教団を支援するから、僕のほうも支援して~~」
と、持ちかけます。
ちょうど、その頃、同じ親鸞(しんらん)の流れを汲みながらも、本願寺とは一線を画す高田(たかだ)門徒と呼ばれる人々が、本願寺と敵対関係になりつつあり、アチラコチラで小競り合いを起していたのですが、この高田門徒とツルんでいたのが幸千代一派・・・そうなると、当然の事ながら、今回の政親の申し出には、本願寺も二つ返事のOKサインです。
かくして文明六年(1474年)7月26日、本願寺門徒を味方につけた政親が、弟・幸千代に攻撃を仕掛けたのです。
残念ながら、合戦の詳細についての記録は少なく、どのような戦いだったかはつかめないようなのですが、10月頃には、幸千代が本拠地としていた蓮台寺城(れんだいじじょう・石川県小松市)が落とされた事で、政親側の勝利が確定したようです。
・・・とは言え、本願寺門徒にも2000人以上の戦死者が出たという事なので、一揆というよりは合戦・・・それも、かなりの激戦であった事がうかがえます。
なんせ、先に書いたように、これまで「過激な事はするな」と、信者たちをセーブする立場だった蓮如さん・・・
やがては、
「守護方(幸千代の事)が仏法に敵対し、農民を罰しようとすので、やむなく謀反を起す!」
と、はっきりと、「俺正義」「あっち悪」というのを発表しちゃいましたから、結局は、教祖様も腹をくくって全面協力といった雰囲気でしょうか・・・
こうして、加賀一国を手中に治めた政親・・・
「んん???」
加賀一向一揆って、一揆に攻められて富樫政親が自刃するんじゃなかったでしたっけ???
そうなんです。
ここで、固いキズナで結ばれて、ともに戦った本願寺と政親・・・14年後の長享一揆までには、まだまだ波乱があるわけですが、そのお話は、蓮如が吉崎を退去する事になる8月21日のページでどうぞ>>
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コメント
何ですかコレ?!(驚)
加賀一向一揆って、こんなに面白い話だったのですか?
知りませんでした。
>残念ながら、合戦の詳細についての記録は少なく、~
ほんッとうに、残念です。
>まだまだ波乱があるわけですが、~
次回を楽しみにしております。
投稿: ことかね | 2010年7月26日 (月) 16時27分
ことかねさん、こんばんは~
そうですよね~
一揆というと、つい、百姓VS守護(権力)という単純な関係を想像しがちですが、そこには、権力に保護してもらおうとする教団側と、教団の兵力を味方につけようとする武士側のいろんな思惑がからんでるんですよね~
オモシロイです。
投稿: 茶々 | 2010年7月26日 (月) 23時09分
茶々様こんばんは!
多分石川県で起きた出来事のなかで一番面白いものだと思いますよ 次が手取川か俱利伽羅峠か
蓮如さんも正親さんも結局民衆の暴走を止められなかったり、謙信さん信長さんをもてこずらせたり、民衆というか宗教の力って恐ろしいですよね;
「進むは極楽、退けば無元地獄」
投稿: ryou | 2010年7月27日 (火) 20時07分
ryouさん、こんばんは~
そうですね。
北陸は今でも本願寺さんの方が多いです。
昨年は、魚津城と手取川で盛り上がっていましたが、今年からは「木曽義仲を大河の主役に…」で盛り上がっているようですね。
投稿: 茶々 | 2010年7月28日 (水) 01時35分