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2010年7月18日 (日)

旗本奴VS町奴…幡随院長兵衛・殺害

 

明暦三年(1657年)7月18日、侠客の元祖と言われ、歌舞伎やお芝居で有名な幡随院長兵衛が殺害されました。

・・・・・・・・・

「お若けぇの お待ちなせえやし」

この名ゼリフを聞いて、すぐに幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)の名前が浮かぶ人は、ある程度のお歳か、歌舞伎好き・・・

最近こそ、あまり聞かなくなりましたが、ちょっと前までの長兵衛さんは、弱きを助け、強きをくじき、仲間を決して裏切らない男の中の男として、超有名なヒーローでした。

Bamzuim お芝居やドラマでは、そのクライマックスとして、主人公・長兵衛の最期のシーンを描きます。

当時、街中で乱暴を繰り返していた旗本奴(はたもとやっこ)・・・その横暴ぶりを見るに見かねた町奴(まちやっこ)のリーダー=長兵衛は、その自慢の腕で、彼らをコテンパンに・・・

その話を耳にした旗本奴のリーダー=水野十郎左衛門は、明暦三年(1657年)7月18日、酒宴にかこつけて、長兵衛を自宅に呼び出し、風呂を勧めます。

・・・で、お湯に入るために丸腰になった所を襲われ、長兵衛は非業の死を遂げるわけですが、このシーンと前後して、お芝居では、長兵衛の自宅に、彼自身が注文していた棺おけが届くシーンが挟み込まれます。

つまり、長兵衛は、この酒宴が、水野の陰謀である事、行けば殺されるであろう事を予測しても、なお、逃げずに、単身で敵地に乗り込んでいったのだという事情を盛り込み、見る側のハートをがっちりとキャッチするわけです。

・・・とは言え、やはり、それはお芝居&ドラマでのお話・・・

ただ、水野十郎左衛門という人物は実在の人物で、その旗本奴と抗争を繰り返していたとある町奴が、水野か、または、その一派に殺害されたというのは実際にあった事件のようです。

そもそもは、唐津藩(佐賀県)の武士・塚本伊織の息子として生まれた長兵衛・・・本名を塚本常平、幼名を伊太郎とされています。

長兵衛が生まれた元和八年(1622年)という時代・・・江戸に幕府が開かれてから、はや20年の月日が流れ、遠く大坂で起こった大坂の陣でさえ、もう7年も前の出来事・・・

徳川の天下泰平が確立しつつあったこの時代は、かつて戦場を駆け抜けた足軽や人足たちの活躍の場を奪ってしまっていました。

それでも、事務的な才能のある人物なら、その道での出世も望めましょうが、もはや、槍一本で勝負する時代ではありません。

活躍の場がない=仕事がない=収入が減る=生活苦しい・・・

って事で、そんなこんなの不満のぶつけどころのない若者たちは、派手な女物の着物をマントのように羽織ったり、怒涛を組んで街中を闊歩したり・・・集団で突飛な服装して、何かと言えば、喧嘩や刃傷沙汰を起す・・・といった行動に出るようになるのです。

当初は、武家の奉公人に多かった、この集団は、「かぶき者」と呼ばれて、徐々に増えはじめ、やがては社会現象に・・・

さらに、それは、旗本の坊ちゃんや、町人の息子たちへと流行しはじめ、旗本奴町奴と呼ばれる無頼の集団が形勢されていったのです(暴走族かチーマーみたいなもの??)

長兵衛も十郎左衛門も、そんな若者たちのリーダーだったわけですが、十郎左衛門は、旗本奴なので、当然、旗本の坊ちゃん・・・一方の長兵衛は、先ほど書かせていただいたように佐賀藩の武士の子だったのですが、どうやら、若い時に喧嘩の末、相手を殺害してしまったようで・・・

その時、死罪になるはずだったのが、浅草にあった幡随院というお寺の和尚さんの助命嘆願によって、その命を救われ、その後、和尚さんのもとで再教育を受けた事で幡随院と名乗り花川戸口入業(奉公人の斡旋)を営みながら、その名を挙げていったのだとか・・・。

本日の殺害事件も、冒頭に書いた通りだとカッコイイいいんですが、どうやら、町で香具を売っていたアロマ美少年にうつつをぬかし、その少年の取り合いで殺されたとか、

あるいは、長兵衛が、たまたま十郎左衛門を遊郭に誘ったところ、それを断った十郎左衛門に
「お前、俺が怖いから、誘うてもけぇへんのんか?」
と、からかったところ、逆ギレした十郎左衛門に殺されたとか・・・

なんて、話もありますから、そうなると、なにやら、ただのチンピラ同士のイザコザのような雰囲気・・・この長兵衛殺害事件に十郎左衛門が関わっていたかどうかはともかく、何かしらの事件によって長兵衛が殺害されたのは事実のようで、一説には。この7年後に水野十郎左衛門が切腹させられる(3月27日参照>>)のも、事件に関係あるのでは?とも言われますが、真相はよくわかりません。

ただ、本来なら、旗本奴&町奴、両方ともが、一般市民から煙たがられる存在でありながら、それがお芝居や歌舞伎に変わっていく時点で、いつしか町奴側がヒーローになっているところが、時代を表しているようでニクイですね。

今となっては、どれが事実で、どれがフィクションなのかが、容易に判別できない状態なので、とりあえず、お芝居やドラマで描かれるぶんには、水野さんにはガマンしていただいて、冒頭のカッコイイお話でヨシとしましょう!
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コメント

必ずしも真実が伝えられる訳ではないですね
歴史の中には沢山の尾鰭が付いたお話があるみたいで…
でも、それを色んな意味で解釈して想像するのも、今のあたし達、現代人には楽しい事です

投稿: みか | 2010年7月18日 (日) 19時42分

みかさん、こんばんは~

そうですね~
こういう類のお話は、それが真実かどうかという事よりも、伝説として語られ、一般庶民に受け入れられ、人気をはくしたという事が重要なのだと思います。

そこに当時の人の考えとか、生き方とかが垣間見えてくるものでしょうから…

投稿: 茶々 | 2010年7月18日 (日) 22時21分

塚本伊織は佐賀藩ではなく唐津藩の武士です。確認をお願いします。

投稿: | 2016年12月17日 (土) 22時37分

了解しました。
ありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2016年12月18日 (日) 18時46分

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