阿波踊りを踊っただけで…お取り潰しの蜂須賀一角
毎年8月12日~15日の4日間にかけて開催される徳島の阿波踊り・・・ちょうど真っ最中ですね。
四国三大祭り、日本三大盆踊りの一つにも数えられ、その熱狂さは、まるで地球の裏側のリオのカーニバルを彷彿とさせます。
日本人にも、こんなに熱い血潮が騒ぐ時があるのか!とびっくりするほどの興奮ぶりですよね。
その歴史も約400年と長い・・・
(※現在のような様式になったのは昭和に入ってから…)
実は、このあまりの熱狂ぶりは、代々、阿波(徳島)藩の悩みの種でもあったのです。
なんせ、今のように、ありとあらゆるお楽しみコンテンツがある時代ではありませんから、日頃の平静さを逸脱する祭りの高揚に、ここぞとばかりに狂喜乱舞する群衆が、いつ暴徒と化すかもわからない・・・なんせ、一揆なんて物もあった時代ですから・・・
なので、藩では、毎年のように、踊りに関する命令を出して、家中の武士たちがハメを外し過ぎないように規制していたのです。
その中には、「踊りが行なわれる3日間は外出禁止」なんてのもありました。
つまり・・・
「踊りたいなら踊っても良いけど、家の中で踊ってね」
・・・って、そんなもん、家ん中で、1人で踊って楽しいわきゃない(´Д⊂グスン
まぁ、武士って商売は、腰に刀という凶器を持ち歩いていますから、たとえ踊りには加わらず、見物しているだけでも、いつ何時、まわりとのトラブルの中、興奮のあまりに刀を抜いちゃうなんて事にもなりかねませんから、「それなら、屋敷の外に出るな!」と言いたくなる藩の気持ちもワカランではありませんが・・・
とは言え・・・やっぱり、行きたいものは行きたい!!!
まして、日頃、規則でがんじがらめなのは、むしろ武士のほうで、
「祭りだからこそはじけたい」
「年に3日くらい、許してヨ」
ってのも、わかります。
・・・で、天保十一年(1840年)、この禁を破った男がひとり・・・
もちろん、この時も、「祭りの開催中は、屋敷の外に出てはいけない」という命令が出ていたわけですが、「ちょっとだけなら、見つからんかも・・・」と、考えてしまうのも人の常・・・
藩で中老という重役クラスの要職を務めていた蜂須賀一角という人物・・・
まぁ、最初のうちは、人ごみにまぎれて、チョイチョイと、小ぶりに踊りを楽しんでいたものの、やはり、楽しくなって来ると徐々に踊り方も大胆に・・・
やがて、その姿を多くの人が目の当たりにし、その顔を見咎められてしまうのです。
いわゆる「顔がさす」ってヤツです。
実は・・・
その名前でもおわかりのように、この一角さん・・・
あの蜂須賀小六(正勝)ゆかりの家柄・・・小六に仕えた中山彦次郎の末裔で、彼で9代目になるという、その家系ともども、顔の知れた有名人だったのです。
藩の記録によれば・・・
- 御老中千石の蜂須賀一角様・・・
昨年七月盆踊りの砌(みぎり・おり)
兼て近年御家中は
踊の場所へ出候儀は堅く御停止の所
抜けて踊る所を見付けられ
乱心を申し立て座敷牢に入れ候ところ…
つまり、見つかっちゃって、しかたなく「ご乱心」という事にして、とりあえずは座敷牢にて謹慎したのですよ。
しかし、残念ながら、自ら謹慎しただけでは許されませんでした。
2ヵ月後の9月21日・・・
本人は追放、家族は家中預かりの処分
つまり、改易・・・お取り潰しになっちゃったんです~
その藩の記録にも
「誠におしきお家にて残念なる御事に候」
とあり、
「かわいそうだなぁ」って感じがうかがえます。
「ちょっと、踊っただけで、そこまでしなくても・・・」
と、思ってしまいますが・・・
そう、スルドイ方は、おわかりですね。
この天保十一年と言えば・・・その3年前には、大坂で、あの大塩平八郎の乱(2月19日参照>>)が起こっています。
この天保という時代は、あの大飢饉に的確な対策ができなかった幕府に、民衆は少なからず不満を持っていた時代・・・近畿地方では「御所千度参り」なんて現象も起きています(11月18日参照>>)。
しかも、大塩の人気は、彼が亡くなった後も衰えず、「清国(中国)に逃げて、今も生きている」なんて噂も、しばらくの間続いていて、そこから蜂起した別の乱もあったわけですから(3月27日参照>>)、
たかが踊りと言えど、藩の掲げている禁止事項を破ったのですから、それを許していては、他の罪も許す事になり、示しがつかなくなってしまうのですよ。
なんとも気の毒ですが、時代が時代だけにいたし方ありません。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
あぁ・・・自由に踊れる時代でよかった~
とは、思いますが、くれぐれも、ハメをはずしすぎないように・・・
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コメント
戦争中も一時行われなかったとか。明日は終戦記念日
投稿: やぶひび | 2010年8月14日 (土) 15時28分
やぶひびさん、こんばんは~
そうですね。
お祭りが無事に行なわれる事は、少なくとも、国内が平和だという事…
しみじみ感じますね~
投稿: 茶々 | 2010年8月15日 (日) 01時54分
阿波踊りはある意味、蜂須賀小六あってのお祭りかも。
ブログで「蜂須賀小六」の項目がない(小六の記念日の記事がない)のがちょっと意外に感じますが、平成になってからのNHK大河ドラマでは意外に出てないですね。この間気づきましたが、今年も出なかったです。
今年は憂さ晴らしに踊ったり、見たりする人が多いかも?
投稿: えびすこ | 2011年6月 2日 (木) 17時14分
えびすこさん、こんばんは~
小六さんは、まだ出てませんでしたね~
出来事が集中している日づけもけっこうあるので、それでですかね?
また、その日が来れば書かせていただきます。
投稿: 茶々 | 2011年6月 3日 (金) 01時47分
この方は一門なのです。上級藩士です。実はその時の当主の弟で藩士の蜂須賀家に養子に入っていますが、遊び人だったのでしょう。踊っていたそうです。それに対して兄は真面目な人で禁令を何回も出したのです。蜂須賀家は阿波踊りを目の敵にしていました。江戸初期に徳島南部の海部郡を違う藩にしようとした騒動がありましたし、祖谷では南朝系統の反乱、阿波公方もいたりと難題で、他にも淡路の稲田家が分藩運動と言いますか稲田家臣と蜂須賀直臣は仲が悪いという中で緊張がありましたので阿波踊りで一気に爆発しないかと気がかりでした。まあ百姓一揆などもこのころは盛んでしたから・・・
そういうのもあって禁令を敷いていましたが破ったのも多かったです。この人はご一門だったので謹慎だったのですが、その後逃げ出したのです。それで改易になりました。確か江戸に移り住んだようです。
侍が阿波踊りをしたときに髷を隠すために泥棒みたいなかぶり方をしました。それが評判になり男踊りでそういう人が増え、女の人もある連(連は阿波踊りのグループ)だとそういうかぶり方をしました。本来はハチマキみたいに巻くのが男踊りだったのですが、武士がやっているということが評判になって武家風阿波踊りと称する方が泥棒みたいなかぶり方、町人風がハチマキみたいに巻いています。まあそういう感じです。
徳島在住なのでこういうことに関しては一言を申しました。勝手なことを言いましてすみません。
投稿: non | 2017年11月28日 (火) 05時48分
nonさん、こんにちは~
色々あるのですね~
情報、ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2017年11月28日 (火) 17時59分